地脈鼠、目覚める
その夜、レクトは眠れなかった。
魔核の安定は、昨日から九十八パーセントで止まったまま。あと少しなのに、何をしても動かない。朝までに進めたいのに、打てる手がない。
結節点の上で、チップが丸くなっている。焚き火の残り火が、ぱち、と弾けた。
護衛たちの寝息の向こうで、ガルフが身じろぎした。レクトが起きていることに気づいたのだろう。身体を寄せてきて、毛布の脇に頭を載せる。
「眠れないんだ」
洞窟の天井から、水滴が一定の間隔で落ちている。ぽとん、ぽとん。不思議と、鼓動の拍子に似ていた。
隣の寝床で、ベルクが寝返りを打つ。トールの寝息は笛のように細く鳴り、ダリオが寝言で「もう食べられません」と呟いて、レクトは噴き出しかけた。
(こんな夜が、俺にもあるんだな)
前世の自分が知らなかった、静かで、騒がしくて、温かい夜だった。
「チップが進化するの、楽しみなんだけど、怖いんだよ。進化したら、チップじゃなくなるわけじゃないのに」
ガルフは何も言わず、鼻先をレクトの膝に押しつけてじっとしていた。その温かさが、胸の奥の硬いところに、ゆっくり染みていく。
(……ああ、そうか)
ガルフは、待てる奴だ。急かさない。結果を求めない。ただ、隣にいる。
「お前、ほんとに最後に食べるんだな」
ふん、と笑うみたいに、ガルフの鼻が鳴った。
洞窟の奥から、微かな風が吹いてくる。石と水の匂い。その風に乗って、ミュウの足音が聞こえた。音がしないはずなのに、はっきりと。
ミュウは毛布の端まで来て、ちょこんと座り、結節点の上のチップを見つめた。
「ミュウも気になるのか」
返事の代わりに、ミュウは前足を一本、そっと持ち上げた。チップの背中に触れるか触れないか、毛一本ぶんの距離で止める。触れてはいけないものを知っている動きだった。
魔核の光が、ほんの少し、脈を打った。九十八が、九十八と半分になった気がした。
(急いでも、動かなかった。待つ側にまわったら、動いた)
効率なら、今すぐ何かをするべきだ。でも、今夜できるのは、隣にいることだけらしい。
「……朝までには、間に合うかな」
ガルフの顎が、膝の上で小さく動いた。頷いたのだと、レクトは勝手に思うことにした。
眠気が、やっときた。
目を閉じる直前、チップの身体の下で、茶色い光が、とくん、と脈打った。
*
夜と朝の境目、洞窟の闇が一番濃くなる時間に、レクトは胸の重みで目を覚ました。
チップが、胸の上に載っていた。小さな黒い目が、いつもより深く、まっすぐこちらを見ている。
「…………チップ?」
きゅい。
その声が、ほんの少し低くなっていた。
次の瞬間、光が弾けた。
茶色と金色。結節点の床から細い光の糸が何本も立ち上り、チップの身体に絡みつく。渦を巻く。小さな鼠を包み込んで、ぎゅうっと凝縮する。
床が、鳴り始めた。
こーん。こーん。こーん。
洞窟全体の石が、共鳴している。レクトの足の裏が、びりびりと震えた。ガルフが起き上がり、ミュウが毛を逆立て、アンバーが襟元で身を縮める。護衛たちが飛び起きて剣を掴み、ダリオが「地震!?」と叫んだ。
「違います。チップです!」
〈石響鼠 → 地脈鼠〉
〈進化条件、達成〉
光が収まったとき、そこにいたのは、一回り大きくなった鼠だった。背中の縞が金色に変わり、耳がさらに大きく、複雑な形に広がっている。前足の爪は、地面を掴むための形に。
姿は鼠のままだ。だが、そこにいる気配が、洞窟の奥まで届くほど深い。
胸の奥に、新しい感覚が宿った。
〈進化刻印:地脈識別〉
足の裏が、さらに広がる。
床の下を流れる魔力が、色と音で見える。地脈の太い幹。水脈の細い枝。遠くで眠る魔物の寝息。岩盤の亀裂に染み込む雨水。洞窟全体が、ひとつの生き物のように呼吸しているのが分かる。
「すごい……全部、聞こえる」
声が震えた。
肩に登ってきたチップを胸元に抱き下ろす。小さな身体が、最初の夜とは違う重みになっていた。ずしり、というほどではない。それなのに、ひと回り、世界に根を張ったような手応え。
(ずっと、こうして抱いていたい)
そう思った自分に、少し驚いた。
「おめでとう、チップ。……これは、まだ先があるぞ」
その声が、洞窟の奥まで、反響していった。
ベルクが、剣を握ったまま立ち尽くしていた。目が潤んでいる。
「坊ちゃん……今のは」
「進化です」
「私は、長いこと護衛を務めてまいりましたが」
男は、言葉を探して、首を振った。
「こんな朝は、初めてです」
トールが無言で水筒を差し出し、ダリオが鼻を啜っていた。ガルフは、チップの隣で静かに座り直し、満足そうに目を閉じた。
洞窟の朝が、遅れてやってきた光で、薄く白んでいく。昨日までの洞窟が、ほんの少しだけ、別の場所に見えた。
そのとき、地脈の流れのさらに奥に、一つだけ妙に整った線があるのに気づいた。直線だ。自然の流れではない。何者かが、石を並べた道。
観測室の、さらに下。
「チップ。お前、あれ、見えるか」
きゅい、と鳴いたチップが、毛並みから深い土と石の匂いをさせて、胸の中で顔を上げた。
あの直線は、どこへ続いているのだろう。




