石の床が、鳴いた
翡翠の根洞の第二層、観測室へ続く石畳の広間は、足を乗せた瞬間から鳴いていた。
こん。こーん。どん。
一枚ごとに音が違う。チップの耳がぴくぴく動き、レクトの足の裏にも、床の下から違う響きが返ってくる。
チップが、この広間の先に強い地脈の気配を見つけた。進化の前に、そこで休ませたい。今日の日が落ちるまでに、広間を抜ける。
「チップ、見せてくれ」
きゅい、と短い返事で、同調が繋がった。足の裏の世界が、色になる。硬い石は青、柔らかい石は黄色、空洞は黒。広間全体が、色の地図になって目の前に広がった。
その地図の、おかしな場所に気づいた。
広間の左右に並ぶ六体の石像。台座の下だけ、黒い空洞が円に抜けている。
「ベルクさん。あの像、台座の下が空っぽです」
「飾りでは」
「動く飾りです」
言い終わる前に、六体の翼が、がり、と軋んだ。
〈石喰い像 Lv48 HP620/620 ×6〉
石の羽根が広がる。顔の中央に、赤い目が灯った。咆哮が天井から降ってきて、護衛の三人が一斉に剣を抜く。ダリオが「六体は聞いてない!」と叫んだ。
「ベルクさん、下がってください。今回は、俺たちがやります」
「しかし、坊ちゃん」
「大丈夫。床が、全部教えてくれます」
先頭の一体が、石の拳を振りかぶって跳んだ。
レクトは動かなかった。ガルフが半歩前に出て、その拳を肩で受ける。ごん、と鈍い音。土狼の足は、床に沈みもしない。
「ガルフ、そのまま。ミュウ、左の台座の裏。アンバー、右の関節」
黒い影が音もなく走り、像の関節の継ぎ目に、爪が一本ずつ正確に滑り込む。アンバーの炎が右の翼の付け根を舐めて、石がぴしりと白く割れた。
(青、青、黒、黄色。膝の裏が黄色だ)
色の地図は、像の身体の中まで透けて見せた。硬い層、脆い層、抜けた空洞。どこを叩けば崩れるのか、全部分かる。
「チップ、膝裏に一発!」
石響鼠が床を蹴って、膝の黄色い部分に頭から突っ込んだ。ひび割れの音が、広間中に反響する。
一体目が、膝から崩れた。
二体目が振り向いたときには、もう遅かった。ミュウの爪が首の継ぎ目を割り、リプルの水が割れ目に染みこんで、冷たい石が内側から弾けた。
像たちの赤い目が、一斉に揺れた。自分たちの弱い場所に、毎回、狙ったように攻撃が刺さる。理解が追いつかない。三体目が翼で身体を庇ったが、そこは一番脆い黄色だった。
最後の一体が、仲間に向かって何か叫んだ気がした。だが後ろに、床の音を読む鼠はいなかった。ガルフの前足が、最後の一体の足元の床を踏み抜いて、台座ごと傾ける。像は、自分の重みで、自分の穴に落ちた。
静寂が戻る。広間に立っていたのは、人間と五匹と一頭だけ。
「坊ちゃん。今のは、護衛の仕事を、全部奪われましたな」
「すみません」
「いや、気持ちよかったです」
ダリオが、にやにやしながら折れた石の翼を拾い上げた。
「これ、売れますかね」
「売る前に数えろよ。六体分」
「坊ちゃんが割ったのに」
「ミュウが割りました」
猫が、尻尾をゆらりと振って胸を張った。
〈レクト:Lv46→48〉
小さな勝ちだった。誰も怪我をせず、護衛が一度も剣を振らないで、広間が抜けた。
*
「俺が飽きたんです!」
ダリオの叫びが、広間の先の野営地に、すごくよく響いた。
結節点のすぐ上に毛布を敷いて、チップは三日目の夕方から、ずっと床に耳を押し当てている。地脈の流れを聞いているのだ。邪魔をするのは憚られて、一行は焚き火を囲み、ハロルド秘伝の焼き飯を三日続けて食べていた。
「うまいんですよ、うまいんですが」
「分かる。三日目に突入すると、味が濃くなるんだよな」
ベルクが深い溜息をついて、背嚢の奥から包みを取り出した。母セリアが「念のため」と詰めてくれたものだ。開くと、干し肉と、蜂蜜漬けの木の実と、小さな瓶に入った香草の塩。
「奥様は、こうなると知っておられた」
「母さん……」
香草の塩で焼いた干し肉は、洞窟の湿った空気の中で、驚くほど良い匂いを立てた。
先に動いたのはアンバーだった。襟元から這い出して、肉の方向に顔を向ける。続いてミュウ、ピピ、リプル。ガルフだけが、座ったまま動かない。
「ガルフ。食べていいぞ」
琥珀色の目が、ちらりとこっちを見た。仲間たちの順番を確認するように、全員の顔を見回す。みんなが肉に噛みついたのを見届けてから、一番小さな欠片を、ゆっくり口に入れた。
(ほんと、最後なんだよな)
その横で、ミュウが、自分の肉をひと切れ、ガルフの前にぽとりと落とした。猫は何事もなかったような顔で、顔を洗い始める。
ガルフが、その肉をじっと見つめて、それから食べた。
レクトは、見なかったふりをした。
「次から、焼き飯は禁止で」
「採決をとります」
「坊ちゃん!?」
挙手の結果は、全員一致で、焼き飯の一週間禁止だった。
*
その音は、広間の外れから、不意に響いた。
「たすけてくれぇ!」
悲鳴だった。護衛の三人がすぐに剣を抜く。
「チップ、どこ」
「きゅい」
色の地図が、広間の外れに赤い点を示した。人間が三人。崩れた岩の下で、動けなくなっている。
駆けつけた先で、天井が半分、落ちていた。
土煙の中に、冒険者風の男が三人。一人は肩を押さえて呻き、一人は片足を挟まれ、リーダーらしい大柄な男だけが無傷で立っていた。男は、レクトの姿を見るなり、鼻で嗤った。
「なんだ、ガキか。親はどこだ。さっさと帰って、大人を呼んでこい」
男の顔には、焦りが張り付いていた。だが口は、弱みを見せまいと動き続ける。
「大体、お前らみたいな貴族の坊ちゃんが、洞窟に入っていいわけがない。迷惑なんだよ」
(……この人、仲間が挟まれてるのに)
レクトは、返事をしなかった。代わりに、チップへ合図を送る。石響鼠が崩れた岩の山に前足を当てて、目を閉じた。
色の地図が、岩の下の仲間の位置を、鮮やかに浮かび上がらせた。
「ガルフ、あの岩。真ん中じゃなくて、右の下。そう、そこ」
土狼が、岩の端に肩をかけた。力任せではなく、重心を探るように、少しずつ押し込んでいく。ごり、ごり、と鈍い音。やがて岩が、半身分だけずれた。
「今です、引き出して!」
ベルクとダリオが、挟まれた男を引きずり出した。足は折れていない。息が荒いだけだ。もう一人の肩の傷には、リプルの膜が覆いかぶさった。
「…………は? お前、今、どうやって」
「岩の下に空洞があったんです。そこを、ガルフに押してもらいました」
レクトは、男の顔を見つめた。怒鳴らなかった。声も荒げなかった。
「仲間が下にいるのに、俺に帰れって言いましたよね。さっきの言葉、あの人たちに聞こえてましたよ」
男の顔から、血の気が引いた。
座り込んだ二人の仲間が、黙って、リーダーを見ていた。
「ありがとう」
挟まれていた男が、小さな声で言った。それから、リーダーに向かってはっきり言った。
「俺、もうお前の隊は抜ける。このガキが来なかったら、死んでたんだぞ」
リーダーは、何も言い返せなかった。
「行きましょう、坊ちゃん」
ベルクの声に頷いて、レクトは背を向けた。振り返らなかった。背後で、仲間のひとりが深々と頭を下げる気配だけが、いつまでも残った。
その夜、チップは結節点の上で丸くなった。魔核の安定は、九十八パーセント。
あと少し。何が、足りないのだろう。




