ガルフに任せる場所
「通れるもんなら、通ってみろ」
ジークが、にやりと笑って木槍を回した。
朝練の鐘が鳴るまでの勝負。訓練場の中央に、白線で引いた細い通路。入口に、ガルフがどっしりと座っている。奥には旗が一本。ジークが旗に触れれば勝ち。ガルフを抜けなければ負け。
条件は、ジークは槍のみ。レクトは、手出し禁止。
「ガルフ、頼んだ」
返事は、鼻息一つ。
「行くぞ!」
ジークが踏み込んだ。雷槍士の、稲妻のような突き。ガルフの顔面を狙った一撃が、一瞬で距離を食い潰す。
ガルフは、動かなかった。
穂先が鼻先で止まった。いや、止められた。分厚い前足が、槍の柄を横から払ったのだ。軌道がそれて、ジークの身体が泳ぐ。
「おっ」
二撃目、三撃目。左右から揺さぶり、足を使って距離を変える。ガルフは足を一歩も動かさずに、すべて受け流した。踏ん張った地面が、岩のように沈む。
「どうなってんだ、こいつ!」
「ガルフは、動かないんです。動かないで、全部受けます」
「ずるいぞ!」
「ずるくないです。守りです」
ジークは槍を突く手を止めずに、息だけで笑った。
「守りって、こんなに腹が立つものだったか」
「腹が立つのは、攻めが通らないからです」
「うわ、言うようになったな三男」
ガルフの尻尾が、地面をぺしりと一度だけ叩いた。得意げな合図だった。
突き、払い、足払い、石突き。ジークの多彩な連撃が、速度を上げてガルフを襲う。けれど岩の壁は、びくともしない。
ふいに、ジークが踏み込みを緩めた。
「……はあ。参った。兄ちゃんの負けだ」
「え」
「雷槍士が番犬一匹抜けないとか、屋敷の騎士連中に知られたら恥だな」
小さな勝ちだった。けれど、ずっと「守られる側」だった末っ子が、兄に勝った。
長兄のレオニスが近づいてきて、ガルフの前にしゃがみ込み、首筋をそっと撫でた。
「いい守りだ。味方の動ける場所を、一歩も動かずに作っている」
ガルフが、ふう、と鼻息を吐く。長兄が、微かに笑った。
後ろで、父がじっと見ていた。何も言わなかったが、腕組みの角度が、さっきより少し緩んでいる。縁側の端では、母セリアが洗濯物を抱えたまま手を止め、ハンスが後ろで小さく拳を握っていた。
勝負が終わった瞬間、庭のあちこちから小さな拍手が起きた。若い女中が「ガルフ様、ご立派!」と叫んで、慌てて口を押さえる。
「俺が負けたのに、拍手はあいつ宛てかよ」
ジークのぼやきに、どっと笑いが起きた。
*
その手紙は、朝食のスープの湯気と一緒に、届いた。
「レクト様宛。王都リュミエール伯爵家より」
ハンスが銀の盆に載せて差し出した封筒は、厚かった。蝋の封が、星の形をしている。
「…………」
「坊ちゃま。顔が」
「うるさい」
「手紙の差出人は、どんなお嬢様で?」
「ハンス!」
「いえ、執事として、念のため」
「念のためって何だ!」
母が堪えきれずに吹き出した。ジークはパンを三つ平らげながら、にやにやが止まらない。父は書類の陰に完全に隠れた。その書類が、小刻みに震えている。
部屋に持ち帰って、鍵をかけて、封を切った。
一枚目。
〈レクト様。先日の栞、毎日読んでいます。ひとつ、気になることが出てきました。〉
一行目から、本題だった。
〈七つの星の中で一番暗い星の位置を計算し直してみたの。あなたが書いた距離が正しいとすると、観測室の天井の星は、本物の星よりも、少しずつ配置が圧縮されている。縮尺があるのよ。誰かが、遠い何かを、小さくして写したみたい。〉
(すごい。もう、そこまで計算してる)
二枚目は、細かい矢印と注釈の図だった。端のほうに、小さな丸い星の落書きが五つ。その下に、一行。
〈あなたの鼠は元気?〉
三枚目は白紙だった。裏返す。
〈今日は、四時間しか寝なかったけれど、元気です。〉
「寝ろよ」
つい、声に出た。
〈追伸。あなたが言っていた『足の裏が広がる』という言葉の意味が分からなくて、廊下で裸足になってみたけれど、何も分かりませんでした。今度、教えてください。〉
レクトは、手紙を持ったまま寝台にひっくり返った。
(廊下で、裸足……)
想像したら、顔が熱くなった。
そこへ、窓の外からミュウが音もなく入ってきた。黒い猫は、手紙の上にどっしり座り込み、金色の目でレクトを見上げた。
「ミュウ、それは俺のだ。どいて」
にゃあ。
「返事、書かなきゃいけないんだ」
にゃあ。
猫は動かなかった。ピピが窓際で「ピッ」と一言。ガルフが扉の外から、ふう、と鼻息。アンバーが頭の上で寝返りを打つ。
返事を書くのに、その日の夜までかかった。五回、書き直した。
最終稿は、こう始まる。
〈エレナ様。足の裏が広がる感覚は、手紙では説明できないので、会ったときに教えます。チップは元気です。あなたも、寝てください。〉
書き終えて、封をした。
会って教えるには、まず、あの洞窟の調査を進めなければならない。




