星空の観測室
大百足の死骸をまたいだ先に、扉があった。
階層主が守っていたものが、この向こうにある。夕方に護衛が出す撤退の合図までに、開けたい。
石の扉だった。表面に、丸と直線と、三つ並んだ点。厩舎の隅で苔の下から出てきた、あの刻みと同じ模様だ。レクトは無言のまま、紙を取り出した。あの日写した絵と、並べる。
寸分違わなかった。
「……庭の下と、ここが、つながってる?」
肩のチップが、きゅい、と短く鳴いた。足元でミュウが扉の前に座って、金色の目で見上げている。
押してみる。動かない。ダリオが体当たりをして、跳ね返されて尻もちをついた。トールとベルクが加勢しても、びくともしない。
「たぶん、押すんじゃないです」
扉の中央に、指二本ぶんの浅い窪みがあった。その周りを、丸い刻みが囲んでいる。紙の模様と見比べる。線の流れが、窪みの上で交わる。
(これ、水路の図だ)
刻みは、ここへ水を導くための印だった。リプルを呼ぶ。
「ここに、水を少しだけ」
ぷるん。
清流の膜が窪みに染み込んで、刻みの線をゆっくり満たしていく。丸、直線、三つの点。水が走った線が、淡い青に光りだした。
ごごご、と低い音。
石の扉が、内側へ、ほどけるように開いた。
「開いた……」
「力ずくでは、一生開きませんでしたな」
ダリオが尻をさすりながら言った。小さな勝ちだった。けれど、それだけでは済まなかった。
その向こうは、星空だった。
丸い部屋だ。壁も床も天井も、ひとつの巨大な黒い石から削り出されている。見上げた先に、無数の光が瞬いていた。埋め込まれた星鉱石が、ひとつずつ違う青に輝いて、本物の夜空のように見える。
床の中央に、丸い石の台座。その上に、使い古された真鍮の器具がいくつも並んでいる。壁際の石棚には、埃をかぶった巻物と、色褪せた木板。机の上には、乾いたインク壺と、折れた羽根ペン。
誰かが、ここで暮らしていた。ずっと昔に、誰かが、ここで星を見ていた。
「ここは、私のような凡人が、土足で入るべき場所ではない気がします」
「俺もそう思います。でも、見たいです」
「見ましょう。そっと」
星の下の床は、不思議に温かかった。
天井の中央に、ひときわ明るい七つの光があった。書庫で読んだ地上の星座のどれとも、一致しない。
(七つの星。地上の空には、存在しない)
胸が、ずっと高鳴っていた。
*
台座の上の木板に、絵が刻まれていた。
波打つ線と、細かい点。線の上に、小さな人影。点の一つひとつが、星鉱石の粉で光っている。海だ。ただし水の海ではなく、光の海。浜辺に打ち寄せているのは、水ではなく、星だった。
その下に、古い文字がびっしりと並んでいる。
〈天の底に、浜あり〉
〈砂は星屑、波は光〉
〈そこへ至る者は、七つの星を道標とせよ〉
読めたのは、そこまでだった。後半は文字が欠けて、虫食いのような穴が空いている。
「星の浜」
レクトは、声に出した。
「天の底の浜」
何度繰り返しても、鳥肌が引かなかった。書庫にもなかった言葉だ。父も、母も、ハンスも、きっと知らない。世界のどこかにある、誰にも知られていない景色。
(行きたい)
胸の奥で、何かがはっきり形になった。
今まで、強くなることは手段だった。亀を倒すため、狼に勝つため、階層主に勝つため。強くなる理由は、いつも目の前の障害だった。
けれど、いま初めて、強くなる理由が、遠い景色になった。
(あの浜へ行くために、強くなる)
足元で、ミュウが丸くなっている。ピピが肩の上で天井の星を見上げ、チップは木板に鼻を近づけて星屑の粉を嗅いでいる。リプルが石台の縁でゆらゆら揺れていた。
「お前たちも、行きたいか」
答えは、四つの鳴き声だった。
ベルクが言った。
「この発見は、領主様にご報告せねばなりません。ただ、それは私の仕事です。坊ちゃんは、できる限り、ここの絵と配置を写し取ってください。誰にも壊されないうちに」
トールが画板と紙を差し出してくれた。
夜明けまで、レクトは描いた。七つの星の位置、距離、色。床の刻み、棚の巻物、器具の形。ミュウが膝の上で眠り、ピピが頭の上で眠り、チップが机の下で眠った。
最後の一枚を書き上げたとき、護衛の三人は壁にもたれて、すっかり眠りこけていた。
*
「ここだ。静かにしろ」
父の声が、小さかった。珍しい。
領都の古書庫は、石造りの古い建物の地下にあった。高い天井まで本棚が伸びて、梯子と回廊が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。紙とインクと、遠い歴史の匂いがした。
発見の翌週、ガイゼルは領の記録を調べさせ、結論を出した。七つ星の配置を読み解ける者は、領内にいない。王都から研究者を呼ぶには時間がかかる。ただ、この古書庫には、古代天文の写本が眠っている、と。
「お前が自分で調べろ」
そう言われて、レクトは十一歳の誕生日を、書庫で迎えることになった。
「失礼。そこの本、私が先に取るつもり」
「え?」
声が、頭の上から降ってきた。
回廊の梯子の上に、女の子がいた。亜麻色の髪を肩の上で一つにくくっている。深い藍色の瞳。両手で分厚い本を抱えている。年は、同じくらい。
「その棚の、三段目の黒い背表紙。私の目当て」
「これか」
「見せて。……いえ、私が先に目をつけてた」
「証拠は?」
少女は本の山から一冊を引き抜いて、中の付箋を見せた。小さく、きっちりした字。
〈古代天文 第三巻 要確認〉
「ほらね」
「ごめん。先に取って」
レクトが一歩下がると、少女は満足げに本を抱えて、ぱっと顔を上げた。
「あなた、ここの人?」
「いや、領の北から来た。レクト」
「エレナ・リュミエール。父の用事で来てる。……何を調べてるの?」
「星の配置。七つの星」
「…………」
エレナの目が、一瞬で変わった。
「七つの?」
「地上の空にはない配置」
「どこで見たの」
「……洞窟の、地下で」
沈黙。
エレナは抱えていた本を床に置いて、レクトの目の前まで歩み寄った。距離が近い。藍色の瞳が、まっすぐ覗きこんでくる。
「見せて」
レクトの手元には、夜明けまでかけて描いた写しがある。
この子なら、読めるかもしれない。




