根喰らいの大百足
ベルクの合図が出る前に、決める。
昨夜、そう約束した。危なくなれば、隊長が合図を出す。出たら、レクトは必ず下がる。
だから、それより先に、この階層主を倒す。
闇が、動いた。
川沿いの通路の奥から、地鳴りのような振動が這い寄ってくる。ずず、ずず、ずず。壁に並んだ青白い苔が、ひと筋ずつ、順番に消えていく。
「来ます」
チップの警告と、レクトの声が重なった。
曲がり角に、漆黒の頭が現れた。
〈根喰らいの大百足 Lv34 HP420/420〉
頭だけで、小屋ほどの大きさだった。黒光りする甲殻。鋏のような牙が、岩を挟んで、飴細工みたいに砕いた。
(でかい)
想像の十倍だった。その後ろに、まだ胴体が続いている。通路いっぱいに、百本を超える脚がうねる。
「全員、散開!」
ベルクの怒号が、洞窟を揺らした。
壁の裂け目から、人の腕ほどの小さな百足が、わらわらと溢れ出す。
「出た、子分だ!」
「ダリオ、右! トール、左!」
昨夜の作戦どおり、護衛は子分の相手だ。本体は、こっちが引き受ける。
大百足の頭が、ぐるりとレクトのほうを向いた。目はない。触覚だけが、鞭のようにしなる。
「ミュウ、前へ!」
黒い影が、岩の上を滑るように駆けた。顎が噛みつく。紙一重で避ける。背後で、岩が粉々に砕けた。
「リプル、足元!」
清流の膜が床に広がる。滑った脚が壁にぶつかり、ごおん、と轟音。巨体が、ぐらりと傾いた。
「いけるぞ――」
そう思った矢先、尻尾が壁を跳ね返って、逆から薙ぎ払ってきた。
「うわっ!」
身を伏せる。頭上を、黒い塊が通過した。髪が数本、風圧で千切れた。
壁にぶつかっても、まったく堪えていない。殻が硬い。HPが多い。長引けば、こっちが先に削られる。
「ピピ、上から!」
青い翼が天井を駆け、小さな竜巻が頭の上に渦を巻く。大百足が、一瞬だけ首を持ち上げた。
(見えた)
首の下に、薄い節。昨日、脱皮殻で見た、色の違う一枚だ。
*
見えた、と思った瞬間に、隠れた。
大百足は天井を叩いた。洞窟全体が揺れ、根と岩が降り注ぐ。急所は、視界から消えた。
「くそっ!」
足元に、巨大な脚が叩きつけられる。破片が頬を切った。
(急所の場所は合ってた。でも、高い。二、三歩、短剣が届かない)
「坊ちゃん、後ろ!」
小百足の群れが、側壁を這い上がって背後を取りにきていた。
「リプル!」
薄い膜が背後に広がり、小百足たちがずるずると床に落ちる。
(足場が悪い。前にも後ろにも敵。どう動く?)
頭の中で、庭の水路の地図が閃いた。泥顎亀の夜。勝てる場所に、誘い込んだ。
「ミュウ、ピピ、リプル、チップ。作戦変更」
声を張る。
「勝てる場所を、作る」
視線を走らせる。通路の右手に、川の浅瀬が広がっていた。幅が広くて、浅い。あそこなら、脚が全部、水に入る。
「ベルクさん! 敵を、右の浅瀬へ!」
「承知!」
ベルクが鉄板を構え、わざと派手に音を立てて走る。
「こっちだ、化け物!」
ミュウが反対の壁を駆け上がり、ピピが天井で風を巻く。二方向に視線を割られた大百足は、身体を捻って右へ流れた。
ばしゃあああん。
百本を超える脚が、一斉に浅瀬へ踏み込んだ。
「リプル、今!」
膜が水の中で一気に広がる。脚が水の層を踏む。足元が、ぬるりと、すべて同時に滑った。
百本の脚が、同時に空を切る。
巨体が傾き、その頭が、水面すれすれに落ちてきた。
*
近い。
水面から三歩の高さ。目のない顔が、まっすぐこちらを向いている。首の下の節が、短剣の届く距離で揺れていた。
でも、ここで踏み込めば危ない。脚が滑っても、牙は動く。顎は岩を砕く速さで閉じる。
(読め。次の動きを)
息を止めた。
チップが拾う震えが、足の裏から流れ込んでくる。脚が水を叩くリズム。節が軋む順番。顎が弾ける直前の溜め。
(右の三番目の脚が、浮いた)
(顎が、上がる――)
「ミュウ!」
同調。世界が、ゆっくりになった。ミュウの反射が、噛みつきの軌道を線で見せてくれる。
頭が、左へ傾く。右から噛む気だ。
庭で、洞窟で、何度も練習してきた。足音の先を読む。反射で避ける。その二つを、ここで、一本の線にする。
(右の顎が閉じる、その瞬間に、左下へ潜る)
右の顎が、すぐ横で閉じた。岩が砕ける音が、耳元でする。風圧で前髪が舞う。
(今)
レクトは、潜った。薄い節へ、短剣がまっすぐ向かう。
*
ざくり、と刃が通った。
殻の下の肉に、短剣が根元まで沈む。紫の体液が吹き出して、顔にかかった。
大百足が、絶叫した。洞窟全体が震える。
(まだだ。一撃じゃ足りない)
刃を捻って、節の内側を横に裂く。
大百足が首を振り回した。レクトの身体が、短剣ごと宙に持ち上がる。天井が近づく。
「坊ちゃん!」
ベルクの声。合図の前触れだ。
(離すな。まだ、合図じゃない)
「ミュウ!」
黒い影が首に飛びつき、爪が傷口を裂く。
「ピピ!」
風が、傷口に吹き込む。
「リプル!」
清流の膜が、傷を押し広げる。
「チップ!」
鼠の合図で足元の岩が崩れ、巨体の体勢が水の中で崩壊した。
四匹の力が、一点に集まる。
レクトは全身の体重を乗せて、短剣を押し込んだ。
ずぶり。
節の奥、神経の束を、貫いた。
大百足の動きが、止まった。
百本の脚が、水の中でゆっくり力を失っていく。巨体が傾いて、傾いて、轟音とともに川へ崩れ落ちた。
水柱が天井まで届き、豪雨のように降り注ぐ。
静寂。
川の音だけが残った。
レクトは、水の中で膝をついていた。短剣を握った手が、離れない。指が固まって、開かない。
ぽん、と肩に手が置かれた。ベルクだった。
「坊ちゃん」
「はい」
「合図を出す暇もありませんでした」
「…………すみません」
「謝ることじゃない」
護衛長は、レクトの指を一本ずつ、短剣から外してくれた。その手が、微かに震えていた。
〈レクト:Lv32→36〉
〈チップ、ミュウ、リプル、ピピ:経験値獲得〉
四つ分の熱が、身体の底から噴き上がる。階層主の経験値は、桁違いだった。
「やった……んですか」
「ええ。やりました。作戦どおりに」
トールが泣いている。ダリオが膝から崩れて座り込んだ。
水面に、透明なものが、ぷかりと浮かんだ。リプルだ。その上にチップがちょこんと乗って、きゅい、と鳴く。ずぶ濡れで岸に上がったミュウが、盛大に身震いをした。水滴が、護衛三人の顔に降り注ぐ。
「うわっ!」
「ミュウ殿!」
「にゃあ」
ピピが頭の上に止まって、勝ち誇ったように胸を張った。
笑いが、洞窟に反響した。
その向こう、大百足の横たわる通路の奥で、青白い光が、ぼんやりと揺れている。
この主は、何を守っていたのだろう。




