水と根の地図
階段は、百二十段あった。
数えたのはトールで、「百二十段目で足元が平らになった」と報告したのはダリオだ。そこから先は、天井の高い広間が続いていた。
「うわ……」
広間の真ん中を、地下河川が貫いていた。幅は荷馬車三台ぶん。水は透き通って、底の石がひとつひとつ数えられる。天井からは翡翠の根が滝のように垂れ下がり、水面すれすれで青白く発光している。岩壁には、星屑みたいな光る苔。川面に映ったそれが、足元の暗闇に、もうひとつの星空をつくっていた。
「領の記録にある小迷宮の、さらに奥があったとは」
ベルクの声は、呆然としていた。
「誰かが、わざと塞いだんですよね。この景色を、隠しておくために」
石工のグラムは、階段の途中で足を止めた。
「俺は、ここまでだ。石を見に来ただけだ。野営地で待ってる。腹が減ったら飯を持ってきてやる」
ぶっきらぼうに言い捨てて、階段を上っていく。その背中が妙に楽しそうなのを、レクトは見逃さなかった。
さて、地図だ。
今日中に、この階層の全体図を作る。夜までに戻って、作戦を立てるために。
「チップ、水路の流れ。リプル、水深を測って」
チップが河岸の岩に耳を押し当て、リプルが川へ溶けこむように進んでいく。レクトは縄と杭と歩幅で距離を取りながら、羊皮紙に線を引いた。川の蛇行、根の天井、岩の足場。描くたびに、白かった紙に洞窟が立ち上がってくる。
「坊ちゃん、ここ、渡れそうですぜ」
ダリオが浅瀬へ足を踏み出した。その瞬間、石の下の苔で足が滑った。
「うおおおおおおっ!」
派手な水柱が上がった。ダリオは尻から川に落ちて、三秒後、びしょ濡れで立ち上がる。
「……冷たい」
「ベルク隊長、笑わないでください」
「笑ってない」
「肩が震えてます」
リプルが川底から、ぷるん、と浮上して、濡れた服の水をちゅうっと吸い取った。
「リプル殿、恩に着ます」
レクトは腹を抱えて笑いながらも、手は止めなかった。
〈浅瀬:右岸から三歩の位置は滑りやすい(ダリオ)〉
「記録に、名前を残すのは、やめてください!」
「すごく役に立つ情報です」
「やめて!!」
おかげで、安全な渡り道が一本、地図に載った。
*
最初に気づいたのは、ミュウだった。
川沿いの狭い通路を進んでいた先頭の猫が、ぴたりと足を止めた。背中の毛が逆立ち、尻尾が針金みたいに膨らむ。
通路の壁一面に、黒い欠片が散らばっていた。薄い、反った、半透明の板。ひとつが人の顔ほどもある。拾い上げると、軽くて固くて、金属みたいに冷たい。
「脱皮した殻、ですな」
ベルクの声が低くなる。
「これを残した生き物の大きさは」
「分かりません。でも、この一枚が胴体の一節の一部だとしたら」
その続きを、誰も口にしなかった。
床には、擦れた跡が続いていた。細い溝が、規則正しく数えきれないほど並んでいる。無数の脚が、同じ場所を何度も往復したみたいに。
「チップ、何が聞こえる」
石響鼠は、地面に前足を押しつけたまま、顔を引きつらせていた。鼠の顔が引きつるのを、初めて見た。
前足の指で地面を叩く。ざくざくざくざく。十、二十、三十、五十。数えきれない拍子。
「足音が、多すぎる」
声に出して、背筋が冷えた。
「本体はひとつです。でも、足が百本以上ある。歩くたびに、地面が細かく揺れてる」
「大百足、ですか」
「たぶん。それも、普通のサイズじゃない」
ベルクが、剣の柄に手をかけて一歩下がった。
「坊ちゃん。ここは撤退です。階層主は、浅層の護衛だけで相手にする敵ではない。隊長としての判断です」
闇の奥の、さらに奥。青白い光が、かすかに揺れていた。あそこに辿り着きたい。
(でも、行きたいだけで行ったら、全員を危険にさらす)
深く息を吸って、吐いた。
「戻りましょう。今夜は、野営地で作戦を立てます」
「えっ」
「撤退じゃないです。準備です」
ベルクが目を瞬いて、ふっと笑った。
「その言葉遊びは、乗せられますな」
背後で、闇がかすかに軋んだ。
ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。
遠くから、無数の脚が岩を這う音がした。
*
「まず食え」
グラムが、鍋ごと焼き飯を持ってきた。
野営地の火が、ぱちぱちと弾けている。洞窟の入口に近い安全な場所に、全員が輪になって座った。ハロルド秘伝の味付けを真似たという焼き飯は、塩気が強く、ほんのり焦げて、驚くほど美味かった。
「うまっ」
「当たり前だ。岩と飯は、喰う前に叩いて確かめる」
「岩と飯は一緒にしないでください」
腹が満ちてから、レクトは地面に炭で図を描き始めた。
「まず敵は、大百足。胴体は荷馬車三台分以上。足は百本以上。でも、通路の幅は最大でも馬車二台分。動ける範囲が限られています」
炭の線が、通路の形を描く。
「ミュウの反射で、一撃目は避けられます。でも、足が多いから、避けた先にも別の足がある。だから避けない。流します」
リプルを指差す。
「受け流しはリプルの仕事。斜めに逸らす。狭い通路なら、逸らした先は壁です。敵は自分の力で壁にぶつかる」
「なるほど」
「ピピは天井から風で気を逸らして、頭を上げさせます。獲物を食べるとき、頭を持ち上げるはず。そのとき首の下の節がむき出しになる」
「そこが急所ですか」
「脱皮した殻を見ました。頭の下の一枚だけが薄くて、色が違う。あそこが一番柔らかい」
炭の絵に、小さな丸を描き込む。
「護衛の皆さんは、周りの小さい個体をお願いします。殻のそばに小さい脱皮痕が大量にありました。たぶん群れです」
ダリオが「ひえ」と声を上げた。
「で、坊ちゃんは?」
「俺は、本体の頭の下に潜り込みます」
「…………」
薪が、ぱちんと割れた。
「それは、一番危険な位置です」
「はい。でも、剣が届くのは俺だけなので」
「条件があります。危なくなったら、私が合図します。そのときは必ず下がってください。私の合図は、絶対です」
「約束します」
指切りはしなかった。ただ、お互いの目を見て、頷き合った。
グラムが鍋のおかわりを配りながら、ぼそりと言った。
「ガキ、お前、親父そっくりだな。作戦の立て方が、ガイゼルの旦那の若い頃とそっくりだ」
「…………」
レクトは焼き飯を頬張ったまま、ぷっと笑った。
準備は整った。作戦は、本当に通じるのだろうか。
夜明けとともに、答えが出る。




