石工の親方グラム
帰り道で、チップがまた立ち止まった。
洞窟の浅層、行き止まりの手前。影苔を採った、あの袋小路だ。日没までに外へ出る予定だったが、チップは壁の前から動かない。
「ここが気になるのか」
きゅい。
前足を岩に押しつけて、何度も壁を叩く。叩くたびに、違う場所を試している。何かを探しているみたいに。
レクトは壁に手を当てた。冷たくて、湿っている。苔の厚みも岩の質も、特に変わったところはない。
けれど、指の関節でそっと叩いてみた。
こん、こん。
別の場所で。
こーん。
「…………音が違う」
岩の分厚さが、場所によって違う。この壁の奥には、空洞がある。
「ベルクさん、ここを叩いてみてください」
護衛長が剣の柄頭で壁を叩く。こーん、と軽い音が響いた。ベルクの眉が上がる。
「空洞、ですな」
「奥行きは分かりません。でも、十歩以上はあります」
ダリオとトールが壁に耳を当てた。
「向こう側に、風が通ってる気がしますが」
「気のせいじゃないと思います」
洞窟の浅層の行き止まりが、本当は行き止まりじゃなかった。誰かが、昔、わざとここを塞いだのかもしれない。
そのとき、レクトの手が、勝手に短剣の柄に伸びた。
*
「壊したい」
声に出したら、護衛の三人が一斉にこっちを見た。
「いや、壊しません。壊したいだけです」
「坊ちゃん、それは何が違うんですか」
「気持ちが全然違います。壊してもいいなら、もうとっくに壊してます」
短剣を握る手が、ぷるぷる震えている。
「やめておきましょう」
ベルクが言った。
「理由は三つ。ひとつ、壁を壊す道具がない。ふたつ、衝撃で洞窟全体が崩れるかもしれない。みっつ」
護衛長は、にやりと笑った。
「宝箱は、道具を揃えてから開けるほうが、中身がきれいに残ります。坊ちゃんが言ったでしょう。出ると思って準備しておけば、出たときに困らない、と」
痛いところを突かれた。レクトは壁を睨んだまま、大きく息を吐く。
「分かりました。道具を揃えて、戻ってきます」
「えらい」
「えらくないです。悔しいです」
「悔しがれるのも、えらいです」
トールが、地図に目印をつけてくれた。チップは、まだ壁の前を動こうとしない。そっと抱き上げて、肩に乗せる。
「ごめんな。もう少しだけ待ってて。必ず戻ってくる」
小さな爪が、服にそっと食い込んだ。
*
道具を揃えるなら、専門家だ。
ヴァルディス領の北、石切り場のそばに、その工房はあった。低い屋根の下から、がんがんと金属を叩く音が響いている。看板には、一本の鑿の絵だけ。
「石工のグラム親方。偏屈で有名ですが、腕は領内随一です」
ベルクが扉を叩く前に、中から怒鳴り声が飛んできた。
「うるせえ! 後にしろ!」
ダリオが「ほらね」と肩をすくめる。
レクトは、勇気を出して扉を開けた。
薄暗い工房の奥で、大柄な老人が岩の塊に向かっていた。灰色の髭が胸まで垂れて、腕は丸太のように太い。
「後にしろと言った」
「あの。壁を、壊さずに開けたいんです」
老人の手が、ぴたりと止まった。
「…………なんだと?」
「洞窟の壁の向こうに空洞があります。傷つけずに、中を見たいんです」
グラムが、ゆっくり振り向いた。皺だらけの顔の奥で、青い瞳が鋭く光る。
「ヴァルディスの三男か。鼠と一緒にバカでかい亀を倒した小僧だな」
「バカでかい亀は、みんなで倒しました」
「…………」
グラムは、じろじろとレクトを眺めて、ふん、と鼻を鳴らした。
「地図を見せろ」
レクトは丸めた紙を広げた。洞窟の全体図、壁の位置、叩いた音の違いの分布。トールが書き足した目印も、そのまま載っている。
長い沈黙。
やがて、がらがらした声が聞こえた。
「……誰が書いた」
「俺です。仲間たちの観測も合わせて」
「測量はどうやった」
「縄と杭で。歩幅も数えて」
「こんな精度で、ガキが」
老人は地図から顔を上げて、レクトを真正面から見据えた。
「面白え。連れてけ」
「え」
「壁を壊さずに開ける方法はある。ただ、壁の質を見ないと分からねえ。道具も持っていく」
グラムが工房の隅から、人の頭ほどもある鉄の塊に短い柄をつけた槌を引っ張り出した。
「こいつは『ちびすけ』だ。名前は気にするな」
護衛三人が、同時に後ずさった。
*
石工の技は、力ではなかった。
袋小路の壁の前で、グラムは長い時間、何もせずに立っていた。掌を当て、指先で叩き、耳を近づけて音を聞く。それから、細い鉄の楔を岩の継ぎ目に当てる。
「この壁は、土砂の詰め物だ」
「土砂?」
「昔、誰かが空洞を塞いだんだ。大きな石を積んで、隙間に土を詰めた。年月が経って固まったがな」
楔の頭を軽く叩くと、継ぎ目に細い隙間が走った。
「ガキ、そのスライムを貸せ。水を含ませる。詰めた土が緩んで、石が外れやすくなる」
リプルが壁に張りついた。清流の膜が、継ぎ目にじわじわ染み込んでいく。
グラムが楔を一本、また一本と打ち込む。鑿で土を掻き出し、小さな石を一つずつ外していく。レクトたちは、外れた石を運び、並べ、順番に記録した。
半日かかった。
護衛の三人は汗だくだ。トールが「全部で百個近いですね」と呟いた。
夕刻。最後の大きな石が、外れた。
ごとり。
壁の向こうから、冷たい風が吹き出した。
「…………!」
石の隙間の向こうに、暗い通路が続いていた。天井は低く、壁は滑らかに磨かれている。自然の洞窟ではない。人の手で削られた、整った石の回廊だった。
足元から、緩やかな下り階段が始まっている。階段の先は闇に消え、その奥から、かすかに青白い光が漏れていた。
「…………星みたいだ」
グラムが、ふん、と鼻を鳴らした。
「誰かの隠し通路だな。ガキ、お前、とんでもねえもん見つけたぞ」
チップが肩の上で、きゅい、と鳴いた。ずっとここを、聞いていたのだ。
壁は、壊さずに開いた。
では、あの青白い光は、何だろう。




