影足猫への進化
遠征最後の夜。進化は、朝までに終わらせる。
明日の朝には洞窟を出る。それまでに、ミュウが進化できるかどうかが決まる。
光ではなかった。
その夜、洞窟の奥の、ほとんど真っ暗な小部屋で、ミュウの身体から湧き出したのは、闇だった。
松明を消し、翡翠の根の光からも離れた場所で、ミュウは丸い寝床に座っていた。尻尾を足に巻きつけて、じっと目を閉じている。魔核の安定は、昨夜のうちに百に届いていた。
「始まる」
レクトが小声で言うと、護衛の三人が息を止めた。
ミュウの輪郭が、ほどけていく。
灰色の毛並みが闇に溶けた。溶けた闇が膨らみ、渦を巻く。光を吸い込む黒い霧が、小さな猫の身体を包んでいく。足先の影が、地面から離れて、ゆらゆらと揺れた。
(影が、足を持ち上げてる)
闇の中で、金色の目だけが光っていた。
やがて、霧がほどけた。
〈灰猫 → 影足猫〉
〈進化条件、達成〉
そこに立っていたのは、ひと回り大きくなった猫だった。毛並みは青みを帯びた黒に近い色へ。足先は、墨を落としたように黒い。耳が長くなり、尻尾が少し細くなった。
そして、足音が、まったくしなかった。
ミュウが一歩、歩く。濡れた石の上を。何の音もしない。影そのものが動いているみたいに。
〈進化刻印:暗所視・反射〉
胸の奥に、冷たい火が灯った。息を吸った瞬間、世界が変わった。
闇が、見える。
完全な暗闇だったはずの壁が、薄い灰色の線で浮かび上がる。岩の凹凸、水の筋、天井から垂れる根の一本一本。色のない、けれど鮮明な景色。
「見える」
声が震えた。
護衛たちが松明を灯し直すと、洞窟が黄色い光に染まった。その中でも、レクトの視界には闇の景色がうっすら重なって見える。どちらも、見える。
「坊ちゃん、目が。金色に光ってます」
トールが指さした。ミュウと同じ色の、細く尖った光が、瞳の奥で揺れているらしい。
「ミュウ」
呼ぶと、足元にすり寄ってきた。体温は、変わっていなかった。
「ありがとう。お前、すごいな」
にゃあ、と短い返事。その声だけが、進化前より低く、深く響いた。
*
出発は夜明け。だから、暗所視は今夜のうちに試す。
「全部、消してください」
護衛の三人は一瞬、顔を見合わせた。
「松明を、ですか」
「はい。ベルクさんたちは、俺の肩に手を置いて。ミュウが先頭で」
灯りが落ちる。完全な暗闇が、三人と一人と四匹を呑みこんだ。ベルク、ダリオ、トール。一本の縄のように連なって、手探りで進む。
「坊ちゃん、本当に見えてるんですか」
「はい。右に岩の出っ張り。足元に水たまり。そのまま真っ直ぐ」
声に従って、三人が歩く。見えない道が、レクトの言葉でひとつずつ形になる。
(これ、ちょっと楽しい)
そう思ったとき、ミュウが止まった。
金色の目が一点を睨んでいる。レクトの暗所視にも、はっきり映った。
壁の裂け目から這い出してくる、十数匹の細長い影。根喰らい鼠の群れだった。
〈根喰らい鼠 Lv11 HP30/30〉
〈暗所に慣れた鼠。群れで獲物を囲む〉
彼らは、暗闇が自分たちの縄張りだと信じていた。光のない場所で、侵入者はなす術もなく噛み砕かれる。そう戦ってきたのだ。
その縄張りに、闇を見渡せる目を持った人間が入りこんだことを、彼らはまだ知らなかった。
「ベルクさん、動かないで。前に五匹。左右に四匹ずつ」
「何も見えんが、了解です」
「ミュウ、いこう」
同調。世界が遅くなる。
一匹目が飛びかかる。顔の横をすり抜けて、短剣で首筋を薙ぐ。二匹目、三匹目。横から来る個体の足を踏み、肘で弾き、背中側へ回り込む。足音は、ミュウと同じ歩き方で、殺したままだ。
鼠たちの動きが乱れた。見えない敵に、仲間が次々と倒れていく。暗闇が、味方でなくなった。
逃げようとした最後の一匹の足に、リプルの膜が絡みつく。動きを止められた鼠が、チップに首筋を噛まれて崩れた。
十三匹。ほんの数十秒。
「坊ちゃん。今、何匹倒しました」
「十三匹です。全部」
「我々は、一歩も動いていませんが」
「はい。そういう戦い方でした」
トールが、ごくりと唾を飲んだ。
「暗いのが、怖くないんですか」
「怖いですよ」
暗闇の中で、レクトは笑った。
「でも、ミュウがいるから。怖いのと楽しいのが、半分ずつです」
*
翌朝の出口の手前、細長い通路の奥から、それは這い出してきた。
〈眼なし蜥蜴 Lv15 HP58/58〉
岩壁に溶け込む灰白色の大蜥蜴。体長は大人の背丈より少し長い。目がない。その代わり、口の周りに無数の髭が生えていて、空気の震えを拾っている。
「しっ」
レクトが唇に指を当てる。護衛の三人が息を止めた。
足音、息づかい、鎧の擦れる音。こいつは、音と振動で獲物を探す。
(暗所視は、効かない)
こちらがいくら見えても、向こうは「見ていない」。
(なら、音を使う)
「ピピ、天井へ。風で水の滴りを散らして。リプル、右の壁に弱い振動を」
ピピが音もなく舞い上がり、羽ばたきを抑えて風を細く絞る。天井の水滴が、通路の反対側にぱらぱらと落ちた。
蜥蜴の頭が、そちらを向いた。
(今だ)
レクトとミュウが反対側から距離を詰める。足を置く場所を選ぶ。呼吸を細くする。あと五歩。
蜥蜴が、ぴたりと止まった。髭がふるふると震えている。
(気づかれた?)
次の瞬間、頭がぐるりとレクトに向いた。牙が並ぶ口が開く。
「ミュウ!」
黒い影が、蜥蜴の目の前に飛び込んだ。牙が空を切る。反射が、噛みつきの軌道を紙一重でかわした。
蜥蜴の尻尾が岩を叩く。通路が揺れる。
「チップ!」
石響鼠の耳が、尻尾の振動を読んだ。次は右へ薙ぐ。
「右に屈んで!」
護衛たちが屈んだ頭上を、尻尾が通り過ぎた。壁が砕けて、岩の破片が飛ぶ。
その隙に、レクトは側面へ滑りこんだ。短剣を、首の付け根の関節の隙間に。
ずぶり。
蜥蜴は大きく痙攣して、動かなくなった。
静寂。
「…………勝った」
膝が少し震えていた。ベルクが、深く息を吐く。
「目が見えない敵と、目を使わずに戦う。恐れ入りました」
「いえ、みんなが全部やってくれたので」
「そう言い続けるところが、坊ちゃんらしい」
これで、苔も進化も済んだ。あとは帰るだけ。
そのはずだった。
帰り道、袋小路の前を通りかかったとき、肩のチップが、ぴたりと動かなくなった。
小さな前足が、あの壁のほうを指している。
「また、そこか」
きゅい。
闇の奥のその壁は、何も答えなかった。
あの向こうには、何があるのだろう。




