翡翠の根洞へ
「影を、食べる苔」
ハロルドの口から出た言葉に、レクトは思わず身を乗り出した。
「そんなものが、あるんですか」
「あるんでさあ。領の北東にある小さな洞窟で、昔から『翡翠の根洞』と呼ばれとります。木の根が壁に這い込んで、翡翠みたいな色に光るとか」
荷馬車を停めた木陰で、ハロルドが煙草をくゆらせながら話してくれた。
ミュウの進化条件で、いちばん手に入りにくいのは素材だ。
〈影足猫への進化条件〉
〈暗所での斥候技能:6/10〉
〈足音の抑制:7/10〉
〈影属性素材(微量):0/2〉
〈魔核の安定:未〉
「洞窟の浅いところに生える苔でしてな。日の光がほとんど届かない場所に出る。人間にはただの苔。ところが、影属性の魔物にとっては、いい餌になるって話で」
「場所は、近いんですか」
「街道から半日。護衛をつければ、子供でも行ける浅層でさあ」
レクトはメモを取りながら、頭の中で組み立てた。
(浅層なら、敵のレベルも低い。ミュウの暗所斥候の練習にもなる。苔と一緒にチップが地形を調べれば、地図も作れる)
「ハロルドさん、ありがとうございます!」
「……坊ちゃん、そんな顔をなさるときは、もう決めてますな」
「え?」
「ほれ、顔」
頬をこすった。にやけていた。
*
「遠征計画書、です」
夕食後の執務室で、レクトは分厚い紙の束を父の机に置いた。
「……何枚ある」
「十二枚です」
「長い」
「だって、行き先、目的、所要時間、持ち物、危険、撤退条件、護衛の人数、予備の水、全部書いたら……」
「読んだ」
父は紙の束に手を置いたまま、一度だけ目を閉じた。
「内容を言え」
「えっと。翡翠の根洞の浅層で、ミュウの進化素材の苔を採ります。ついでに地図を作ります。護衛はベルクさんたち三人。往復で三日。危ないと思ったらすぐ引き返します」
「ふむ」
「…………」
「許可する」
三秒だった。レクトは、あまりの速さに、口をぽかんと開けた。
「え。いいんですか。もう少し、こう、質問とか、反対とか」
「お前の計画は、前回の亀の件以降、すべて読んでいる。読んで足りないところは、聞く。足りないところがなかった」
父は机の引き出しから小さな革の袋を取り出した。
「手持ちの金だ。護衛への心づけと、予備の水に」
「ありがとうございます」
「……ところで、土産の件だが」
「覚えてますよ! 空の袋、持っていきます!」
「うむ」
廊下に出ると、扉の向こうで母とジークが聞き耳を立てていた。
「許可、出ましたか? 三秒でしょ」
「なんで知ってるの」
「あの人の許可の最短記録は、三秒なの。あなたの代で、更新されたわ」
その夜は、荷造りで徹夜になった。ミュウの寝床、リプルの水、チップの食料、ピピの保温布。点検に来たベルクが、リストの欄外に書かれた「宝箱は壊さず持ち帰る」を見て、むせた。
「坊ちゃん、宝箱は、出ないかと」
「出ると思って準備しておけば、出たときに困りません」
「前向きすぎる……」
*
洞窟の入口は、苔むした岩の割れ目だった。
のぞきこむと、闇が口を開いている。ひんやりした風が吹き出して、土と水と植物の根が混ざった匂いがした。
「ここが、翡翠の根洞です」
ベルクが松明を掲げる。
「暗所での事故は、一番多い。坊ちゃんは、必ず私の後ろに」
「はい。でも、先頭はミュウです。暗所なら、ミュウが一番強いので」
ベルクはしばし考えて、苦笑した。
「では、ミュウ殿の後ろに私、その後ろに坊ちゃんで」
洞窟に踏み込んだ瞬間、レクトは息を呑んだ。
壁一面に、緑の光が走っていた。天井から垂れ下がった木の根が、淡い翡翠色に光っている。根の表面を、青白い光の粒がゆっくり流れていた。巨大な生き物の血管の中に迷い込んだみたいだ。
「……きれい」
声が、洞窟の奥に吸い込まれていく。その光の中を、ミュウが音もなく進む。灰色の影が、翡翠の海に溶けるようだった。
肩のチップが耳を奥へ向けた。遠くで水の音がする。地下水路があるらしい。入口からの距離と方向を、地図に書きとめていく。
「坊ちゃんは、こんなときまで、地図ですか」とダリオが感心したように言う。
「地図が好きなんです。前の人生でも」
「前の……?」
「あ、いや、えっと」
誤魔化すように、先へ進んだ。
その夜、護衛が見つけた奥の小部屋で野営した。入口が一つで、風も通らない。ミュウは丸い寝床で、尻尾を足に巻きつけてぴくりとも動かず眠った。
朝、図鑑の欄を開く。
〈魔核の安定:達成〉
洞窟の静けさのなかで、一晩で百に届いていた。残るのは、素材と、技能の二つだけだ。
*
洞窟の二日目の朝は、地味な練習から始まった。
「ダリオさん、足、足。地面に擦ってます。二歩に一回」
目標は、ミュウに合わせて足音を殺すこと。同調で猫の感覚を借りられても、自分の足が音を立てれば意味がない。
猫は、爪を引っ込めて、肉球で岩を踏む。足を置く前に、一度だけ地面を確かめるように触れる。それから、体重を乗せる。
「踵から着地せず、つま先から。膝を曲げて、重心を低く」
試してみる。ぺたん。
「あ、音が出た」
ミュウがじっと見ていた。にゃあ、と短く鳴く。呆れているのか、励ましているのか分からない。
「もう一回」
つま先から踏む。膝を沈める。重心を、前へ。ミュウがその動きを真似するレクトを見て、ふん、と鼻を鳴らし、少しだけ歩幅を狭めてくれた。
(わざと遅く歩いてくれてる)
ありがたくて、ちょっと悔しい。何度も繰り返すうちに、岩の凹凸、水の滑り、苔の厚み、足音が出る場所と出ない場所が、足の裏で分かってきた。
昼前には、ダリオを除く全員が、ほとんど音を立てずに歩けるようになった。
「なんで俺だけ、ばたばた言うんでしょうな」
「ダリオさんは、靴が重いんです」
「靴のせいか!」
「あと、体重が」
「坊ちゃん、それは言っちゃいけないやつです」
トールが笑いをこらえて肩を震わせた。
そのとき、天井から降るように、蝙蝠が襲ってきた。
「上!」
チップの警告と、ピピの鳴き声が重なった。レクトは咄嗟に身体を丸める。頭の上を、黒い影がいくつも通り過ぎた。
〈洞窟蝙蝠 Lv10 HP25/25〉
〈群れで飛ぶ。音で位置を探る〉
十匹ばかり。護衛の三人が剣を抜くが、天井が低く、振る隙間がない。
「リプル、膜を天井に!」
清流の膜が天井の岩にぴたりと張りつき、蝙蝠の飛行経路を狭める。
「ピピ、風で押し戻して!」
ピピが洞窟の狭い空間で小さな竜巻を起こす。蝙蝠たちの陣形が乱れた。そこへ、ミュウが跳んだ。岩壁を蹴り、天井に近い突起を足場にして、空中で一匹ずつ叩き落としていく。灰色の影が、翡翠色の光の中を踊った。
(すごい、全然音がしない)
踏み込もうとして、湿った岩で足を取られかけた。そこへリプルが滑り込み、薄い膜が靴底を包む。滑りが止まった。
「ありがとう!」
飛んできた蝙蝠を、短剣で斜めに斬る。十匹が、一分足らずで片付いた。
護衛の三人は、剣を構えたまま、ぽかんと立っていた。
「俺たち、何もしてませんね」
「守る隙がなかったです」
腕の中で、ミュウが満足そうに喉を鳴らした。
*
苔は、洞窟の奥の、もっとも暗い壁に生えていた。
松明の光が届かない袋小路。翡翠色の根もここまでは届かず、ほとんど真っ暗な中で、壁一面に黒い苔がびっしり張りついていた。
〈影苔:影属性素材(微量)〉
〈採取:根こそぎ取らず、一部を残すこと〉
ミュウが一歩前に出て、鼻をひくつかせた。金色の目が、暗闇でぎらりと光る。ちょん、と前足でつついて、一口だけ舐めた。
そのまま、動かなくなった。
「ミュウ?」
しばらくして、尻尾がゆらゆらと揺れ始めた。目が細くなり、ごろごろ、と喉が鳴る。
「……気に入ったな」
苦笑して、短剣の背で苔を壁から薄く剥がす。根こそぎ取らず、一部は壁に残す。
そのとき、チップが地面に耳を押し当てた。ひげが、ぴくぴく動く。きゅい、と短く鳴いた。足元の岩の下に、何かがあるらしい。
「掘る?」
首を横に振った。掘るなという意味だろう。分からないものは、触らない。
「分かった。ここは通り過ぎよう」
苔を袋に詰めて、小部屋へ引き返す。道すがら、チップが何度も振り返った。
「気になるのか」
きゅい。
「俺も気になる。でも、準備なしで壊したくない」
小部屋で、ミュウに少量の苔を食べさせる。図鑑が更新された。
〈影属性素材(微量):2/2 達成〉
〈暗所での斥候技能:10/10 達成〉
〈足音の抑制:10/10 達成〉
〈魔核の安定:達成〉
「そろった」
つぶやくと、洞窟の奥に、その声が小さく反響した。
腕の中のミュウが、金色の目で、まっすぐこっちを見ていた。
今夜、何かが始まる。




