雨の夜の初武功
三日目の夜、雨が壁を殴りはじめた。
窓の外で雷が鳴り、屋敷の梁がびりびりと震える。
「坊ちゃま! 上流の岸壁が崩れました!」
扉を叩いたハンスは、蒼白で、髪から雫を滴らせていた。
「避難の途中で橋が落ち、洗濯係マーサの娘、ティナ嬢が点検足場に取り残されております。濁流は、半刻で足場の根元に届きます!」
一瞬で、血の気が引いた。
「場所は!?」
「水路沿いの高い足場です。足場そのものは、まだ無事ですが」
ティナ。五歳。廊下でミュウの尻尾を追いかけている子だ。昨日の朝も、パンくずを分けてくれた。
寝台の足元で、チップが床に前足を押しつけ、尻尾の毛を逆立てていた。冷たい板の下、深いところから、ずん、という響きが這い上がってくる。何か重いものが、濁流の中を這っている。
(格子は、昨日この目で確かめた。びくともしなかった。なら、この音はどこから)
でも、今は考えている時間がない。
「行く。ハンス、衛兵の指揮は!」
「ベルク隊長が、すでに現場へ」
「地図を持っていく。庭の下の水路の図だ」
「旦那様は別の防災地点におられ、すぐには戻れません。坊ちゃま、お一人で」
ハンスが何か言いかけて、飲み込んだ。
「一人じゃない」
机の引き出しから丸めた地図を引っ張り出す。肩にチップ。足元にミュウ。腕にリプル。
「三匹と、一人だ」
稲妻が走った。白い光の中、庭の端に、巨大な何かの影が一瞬だけ浮かんで消えた。
*
水路沿いの小道は、すでに川だった。横殴りの雨が顔を打つ。足首まで浸かって進むと、松明が揺れている。
「ベルク隊長!」
顎髭の大男が振り返った。
「坊ちゃん!? なぜここに、危ないですぞ!」
「図面を持ってきました。庭の下の水路の全体です!」
ベルクは地図を松明にかざした。眉間に深い皺が刻まれ、指が、ゆっくり線をなぞる。
「これは……測量図か。たった二週間で」
「入口の格子から、中央の合流点、下流の水門まで。ティナのいる足場は、ここ。橋が落ちたのは、ここ。上流側から縄を通せば届きます。水門を絞れば水勢も落ちます。従魔の観測と実測を重ねました」
ベルクは息を呑み、迷わず部下へ叫んだ。
「聞いたな、全員! 縄隊は上流の岸壁へ! 水門番は水門を絞れ! 坊ちゃんの図面の通りに動く!」
衛兵たちが一斉に動き出す。松明の列が、上流の岸壁へ流れていった。
大人たちが、自分の図面を信じて動いてくれた。地面に腹ばいになって描いた線が、人を動かした。それが何より心強かった。
「坊ちゃん。あんたは点検台から全体を見てくれ。水路には降りるな。あんたが危ないと、俺らが困る」
「はい! チップが道を見つけたら、その先を教えます。迷わず動いてください」
「おう!」
点検台から、濁流の向こうに、柱にしがみつくティナの影が見えた。
「ティナ! 聞こえる!? もうすぐ助けが来る! 絶対に動かないで! 柱を離さないで!」
雨音に紛れて、かすかな泣き声が返ってくる。
(間に合わせる。半刻のうちに、絶対に。ティナを、あの柱から下ろす)
「チップ、足場までの安全な道を探して。人が通れる細道だ」
*
チップは濁流の縁を、地面を這うように進んだ。
足裏に伝わる震えは、水の勢い、石の位置、泥の厚みを、一緒くたに運んでくる。普通なら混乱するところを、石響鼠の耳は、ひとつずつほどいて聞き分けていく。
(泥が薄い。左の壁際に、もう一本道がある)
「ミュウ、縄を。右の壁沿いに、柱まで」
灰色の猫が、救助索をくわえた。濡れた石の縁を、足音もなく進む。雨に打たれても、目だけが金色に光っていた。そして、跳んだ。壁を蹴り、石の突起を踏み、柱の根元に着地する。縄を一巻きして、ぐっと結んだ。
「結べた! 縄、結べました!」
縄の反対側は、上流側の衛兵たちが握っている。縄の張りを確かめたベルクが、頷いた。
「縄隊、引き上げろ! リプル、飛沫を逸らして!」
清流の膜が広がり、飛沫を細かい流れに分けて、衛兵たちの肩の上を滑らせる。
ティナの小さな身体が、衛兵の腕に抱え上げられた。
「いたよー! 無事だー!」
歓声が上がる。(よかった――)
安堵のあまり、膝が震えた。
そのとき、チップが突然、全身の毛を逆立てた。
「チップ?」
地面の震えが、変わっていた。
下流の濁流から、何か重いものが、せり上がってくる。
ざばあ、と水が割れた。
〈泥顎亀 Lv26 HP420/420〉
〈危険度帯:中位下 主な生息域:濁った深い水域〉
〈短い生態:泥に潜み、近づいた獲物を顎で噛み砕く〉
荷馬車の半分ほどもある甲羅。泥をまとった巨大な顎。小さな黒い目が、水面の上の人間たちを、順番に眺めている。
「おい、冗談だろ……」
怪物は、ゆっくり、救助路へ向かって泳ぎだした。
縄を握る衛兵たちの顔から、血の気が引いていく。
*
(まずい)
縄の道は、今が一番細い。亀が突っこめば、縄ごと全員が濁流に落ちる。しかも、あの顎なら縄など一噛みでちぎれる。
「ベルク隊長! 水門をもっと絞って、水位を下げてください! 亀は、点検台の前の石畳へ誘い込みます!」
「坊ちゃん!? 危険すぎる!」
「縄隊を下げて、後ろを守って! 俺たちがやります! 庭で、突進を読む訓練をしてきたんです!」
実際には、亀と戦ったことはない。でも、猪の突進や甲虫の殻なら見てきた。やることは同じだ。
遠くで重い歯車が回り、濁流の轟音が少しずつ低くなる。水位が下がり、点検台の前の石畳が、水の下から顔を出した。広くて平らで、足場がいい。ここなら戦える。
亀は止まらない。泥を巻き上げ、水を掻き分けて、こちらへ向かってくる。
「ミュウ、囮! 亀の目の前を横切って!」
灰色の影が走る。亀の首が、そちらを向いた。
「チップ、突進の予兆を!」
前足を押しつけたチップが、鋭く鳴く。
(右の前足を溜めてる。三、二、一――)
「突進、来る!」
巨体が水を跳ね飛ばして突っ込んできた。牙の並ぶ口が、真っ暗な穴のように開く。
「リプル!」
清流の膜が、真正面に展開した。薄く、斜めに。受け止めず、逸らす。
ばしゃあん、と水が弾け、突進の向きがずるりと横にずれた。亀は石畳の端に身体を叩きつけ、石が割れる。
膜が消えた。リプルが苦しそうに縮こまる。
「大丈夫、ありがとう! 下がって!」
亀が、体勢を立て直そうとしている。
(今のは一回きりだ。リプルの膜は、もう保たない)
レクトは、短剣を抜いた。
*
亀と、真正面から目が合った。
今ここにいるのは、七歳の少年と、肩の鼠と、足元の猫と、腕の中のスライムだけだ。
小さな黒い目。感情があるのかないのか分からない、冷たい目。濁った水底で何年も、近づくものを噛み砕いてきた亀は、この小さな獲物が牙を向けるとは思ってもいないはずだ。
足が震えている。喉がからからだ。
(怖い。でも、動ける)
自分の中に、チップの足音が響いている。庭で何度も練習した、あの動きが、身体の奥に積み重なっている。
猪の突進。ジークの槍。ガイゼルの木剣。
「ミュウ、頭の右へ! リプル、ほんの少しだけ、顎の下に!」
三つの指示を、同時に出した。
「チップ、右前足の溜めを数えて!」
ミュウが亀の視界を横切り、首がぐい、と右へ振られた。
(来る。左前足が滑る。顎が上がる。喉が開く)
図鑑の表示が光った。
〈泥顎亀:喉元に、甲殻の薄い開口あり〉
亀が顎を上げて噛みつく、その一瞬しか見えない弱点だ。しかも位置は頭の高さ。子供の背丈では、剣が届かない。
(届かせる)
リプルが顎の真下へ滑りこんだ。膜が亀の下顎を、ふわりと持ち上げる。
喉元が、露わになった。
「今だ!」
踏み込んだ。足の裏が石畳を蹴る。右肩を落とさず、腰から剣を出す。父に教わった通りの軌道で、短剣が一直線に走った。
泥色の喉に、切っ先が潜りこむ。ぐじゅ、という鈍い感触。全身の体重を乗せて、突き込んだ。
黒い瞳に、一瞬、驚きが浮かぶ。獲物だと思っていた生き物が、自分の喉に刃を突き立てている。巨体がぐらりと傾き、轟音とともに倒れた。水が飛び散り、それから――静寂。
誰も、何も言えなかった。濁流と雨の音だけが、世界に残っていた。
最初に動いたのは、チップだった。肩に飛び乗って、きゅい、と鳴く。続いてミュウがふん、と鼻を鳴らし、リプルが腕の中でぷるぷる震えた。
「……勝った、のか?」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
背後から、地鳴りのような歓声が爆発した。
「坊ちゃんが! あの亀を、一撃で!」
「ばか、お前らも縄を持ってただろうが!」
衛兵たちが肩を叩き合い、抱き合っている。ベルクが顔をくしゃくしゃにして、目の前に立った。
「あんた、本当にすごい」
「俺だけじゃないです。指揮と、縄隊と、水門番がいたから。誰か一人欠けても無理でした」
「……そう言える人間だから、すごいんだ」
ベルクは笑いながら、涙ぐんでいた。
ティナを抱いた衛兵が、ずぶ濡れの顔で親指を立てている。腕の中の小さな子は、泣きながら、こちらに手を振っていた。
〈チップ:経験値獲得〉
〈ミュウ:経験値獲得〉
〈リプル:経験値獲得〉
〈レクト:Lv17→18〉
胸の奥で、何かが静かに鳴った。
雨が弱まっていく。東の空が、白みはじめた。
遠くから、馬の蹄の音が近づいてくる。泥まみれの一騎が、門へ向かって駆けていた。
別の防災地点にいたはずの父が、休む間もなく、戻ってきたのだ。
死んだ亀の巨体。泥だらけの衛兵たち。濡れた短剣を握る自分。
この亀を、父は、何と言って見下ろすだろう。
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