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取り決め

 古野見有紗このみありさから解放された俺は、さっさと学校を後にした。

 ずいぶん時間を無駄にした。おかげで夕食までの行動を修正しないとならないじゃないか。 

 現在、時刻は16時36分。全力で走っても40分の電車に乗ることは不可能と悟り、歩いて駅へ向かっているところだ。

 17時の電車に乗ると自宅に戻るのは17時30分。我が家の夕食が19時だから、90分間の自由時間か。


『ProfessorKAZU』の配信は必ずチェックする必要があるだろう。動画は毎回きちんと30分間。

『The Axiom』と『L'Ordre』の記事もチェックしたい。毎日、興味深いニュースを載せてくれるからな。閲覧にそれぞれ15分。

 JMO本選の過去問いけるか?

 いや、むしろ、ここは『ある数学者の弁明』を読み返す時間にするか。うん、ハーディはいい。


 駅に到着。

 下校時刻からズレたせいだろう。ホームにうちの学校の生徒は少なかった。一番端で電車を待っていると電車待ちの人間が増えてきた。そして、その中に古野見有紗もいた。

 他の女子2人と楽し気に話している。一瞬、目が合った。

 リアクションなし。


 どうも俺との交際を友人たちに話すつもりはないようだ。

 早期、終結を望む俺としては結構なことだ。むしろ、そういう取り決めをしておいた方がなにかと効率的だろう。

 頭の中で取り決める条文を作成していると、電車が来た。

 混んでいたのでドア付近に陣取り、考えた条文をスマホに入力する。

 今度、古野見有紗と接触したタイミングでこれを見せよう。


 その後、スマホで生成AIに問題を作らせて解いてみる。

 今回は実に丁度良い問題を出してくれた。

 解き終わった時には車両内も空いており、座席に座ることができた。

 さて、もう1問いくか。


 生成AIに次の問題を催促しようとプロンプトを打っていると、すっ、と俺の横に人が座った。走行中なのに珍しいな、と隣を見ると古野見有紗だった。


「なによ」


 文句あるか、という顔だ。


「丁度いい」


 俺は先ほど入力した条文を表示すると、古野見有紗にスマホを見せた。


「……なにこれ?」


「表題の通りだ」


「『交際の条文(案)』て書いてあるわ」


「そう入力したからな」


「だから、なんなのよ、これ」


「概要欄を読め」


「交際をするにあたっての規定を以下の通りに定める、としか書いてないわよ」


「そういうことだ」


 これ以上、なんの説明をすればいいんだ。


「取り決めをしようってこと?」


「そうだ」


「なんでそんなこと決めないといけないのよ」


「効率的だからだ」


「はっ?」


曖昧あいまいさとは真理のさまたげである」

 ラッセルの言葉だ。


「はあ?」


「まあ、いいから全部読めよ」


「……もっと簡単な書き方できないわけ?」


明瞭めいりょうかつ簡潔にまとめたという自負はある」


「いちいち、しゃべり方がキモいんだけど」


「今のは、相互のアイデンティテを尊重する、という部分に抵触しているな」


 短期間になるだろうとはいえ、ライフスタイルに口出しされるのはわずらわしいからな。


「この交際関係の秘匿ひとくって、隠すってことよね」


「そうだ。おおやけにしたくはないだろう?」


「……そう、ね」


 古野見有紗としては俺のようなボッチの陰キャと付き合っていると知られたくはないだろう。俺としても男子人気の高い古野見有紗と交際関係にあると知れると、トラブルの種になりかねない。


「ちょっと、これ、どういうことよ。交際契約の破棄は相手の同意なくして成立する。契約破棄の意思の伝達をもって交際関係は終了となる」


「嫌になったら一方的に相手を捨てられるってことだ。ただ、キチンと意思表示はあるべきだ」


「なにそれ、最悪じゃない」

 間近で睨んでくる。


「そうか? お互い余計なエネルギーを使わなくていいと思うが」


 むしろ古野見有紗にとっては最高の条件だろ。


「相手が納得しないのに別れるとか」


「説得に要するコストが無駄だ。一方が別れたいのに続くものなのか?」


「それは……」


「納得いかないなら、今後、そこは見直せばいい」


「分かった」


「そうか」


 スマホを取り戻そうと手を伸ばすが古野見有紗がそれをブロックした。人のスマホを勝手に操作する。


「ねえ、レイン(有名SNSアプリ)は?」


「やってないな」


「じゃあ、ウィンシュタは?」


「やってないな」


「じゃあ、何使ってんのよ。Y?」


 SNSはやっていない」


「はあ?」


「特に困らないしな。メールか、ショートメッセージで用は足りる」


「足りないわよっ。今すぐ、レイン入れて」


「拒否する。アイデンティティの尊重に抵触しているからな」


 古野見有紗は俺を睨み続け。やがて聞えよがしのタメ息をついた。


「わかったわよ。じゃあ、電話番号」


 俺が番号を伝えると古野見有紗はさっそくそれを登録し、ショートメッセージを送ってきた。



ーーーーーーーーーーーー

そのうち入れてもらうからね!

ーーーーーーーーーーーー



 古野見有紗の電話番号を登録したところで自宅最寄り駅に到着した。

 そこで古野見有紗も降りる。同じ中学出身者だしな。

 

「じゃあな、俺はこっちだ」


「私もそっちだけど」


「どこに住んでるんだ?」


「……小野坂西町おのさかにしまち


「近いな。俺は小野坂北だ」


「知ってる」


「そうなのか?」


 驚いたな。確かに中学3年時は同級生だったが通学中にあった覚えはない。誰かに聞いたのか。


「ねえ、まさか、覚えてないの?」

 

「なんのことだ」


 古野見有紗が目を見開き、ついでなにかをこらえるような顔になった。

 そのまま一人駆け出し。彼女の背中は見る見る遠ざかっていった。






 夕食後、自室に戻り、今日の授業の復習をする。

 きっちり2時間。

 それから入浴30分。

 自室に戻れば21時。

 

 さて、ここから就寝の22時30分までは自由時間だ。

 JMOかIMOか。いや、夕方、読んでいたハーディの続きも捨てがたい。

 待て。『ProfessorKAZU』が今日紹介していた動画も観てみたいぞ。あの『ProfessorKAZU』が興味深い、と言っていたからな。

 どうする? やりたいことが多すぎるぞ。

 相好そうごうがだらしなく緩むのがおさえられない。


 数学の世界にどっぷりとひたれるこの時間。

 数学は真理だけでなく至高の美をも持っている。それは冷たく厳粛な美であり、彫刻のように壮麗で、人間の弱々しい装飾のいっさいを拒んでいる。

 バートランド・ラッセルの言葉だ。


 その時、スマホが鳴った。

 常にバイブモードにしているためにブルブルと机で振動しただけだが。

 誰だ。至高の幸福感に浸っていた俺を現実世界に呼び戻しやがった奴は。


 スマホを見るとショートメッセージが通知されていた。

 古野見有紗だ。



ーーーーーーーーーーーー

電話できる?

ーーーーーーーーーーーー

無理だ

ーーーーーーーーーーーー

なんで

ーーーーーーーーーーーー

忙しいからだ

ーーーーーーーーーーーー

なにしてるの?

ーーーーーーーーーーーー



 放っておくことにした。

 今のやり取りで至福の時間が10分減ってしまったじゃないか。

 よし、気を取り直して。

 やはり、『ProfessorKAZU』の紹介していた動画を見てみようか。ひかえていたアドレスをブラウザのアドレスバーに貼り付けて。


 ブブ。ブブブ。


 なにかメッセージが届いたようだが。無視しよう。

 ヘッドフォンを装着して。


 ブブ。ブブブ。


 一応、確認してみるか。



ーーーーーーーーーーーー

ねえ

なにしてるのよ

ーーーーーーーーーーーー

電話するから

ーーーーーーーーーーーー



 直後に電話がかかってきた。

 一瞬の躊躇ちゅちょのあと通話モードにする。

 無視した方が後で支払うコストが高くなりそうだしな。


「なによ。出られるじゃない」

 古野見有紗のキンキン声。


「なにか用か?」


「なによっ、その言い方。ムカツク。彼女が彼氏に電話しちゃ、いけないの?」


 臨戦態勢に入るのが早いな。

 いくらなんでも短気すぎないか。


「ルールにはなかったじゃない」

 たたみかけてくる。


「分かったから落ち着け」


「私が悪いの? ねえっ」


 完全に火がついたようだ。


「悪かった。確かにそっちはなにも間違っていない」


「テキトーに謝るの、ムカツク」


 どうしろというんだ。予想以上に面倒な奴だな。


「私、ちゃんと電話するって断ったんだから」


「そうだな」


 そして俺は断ったはずだが。


「だいたい、なにしてたのよ。すぐにでたクセにさ」


「手が離せなかったんだ」


 本当だ。数学の世界が俺を誘惑して両腕がつかまれていたからな。


「それで? 今は電話してていいわけ?」


「好ましくはないが、10分ほどなら時間をとれる」


 仕方ない数学の時間から10分間の割譲かつじょうをしよう。


「そう。じゃあ、いいけど」

 怒りは収まったようだ。

「明日は嫌な気分にさせないでよ」


 明日も電話してくるらしい。要するにこれは恋人同士の定期連絡というところか。

 だとするとねぎらいもせずに要件を聞いたのは早計そうけいだったか。


「ねえっ」


「なんだ?」


「いつ、デートする?」


「デート?」


「2人っきりで出かけることよ」


 そこから説明するの? みたいな風に言われたが。さすがにデートぐらい知っているぞ。

 しかし、交際の早期終結を望んでいるこちらとしては、週末の貴重な時間をつぶしたくはない。

 だが、断ると先ほどのように詰めてくることだろうし。それを毎回なだめるのはコストがかかりすぎる。


「来週の土曜日はどうだ?」


 夕食前に『ペトル後遺症』の『運命の赤い糸』についてネットで調べてみたが。やはり根拠がない、だの、デマだのという声が広がっている。

 来週中には古野見有紗の耳にも入るだろう。


「いいわよ。じゃあ、来週土曜日9時に丘ノ下南おかのしたみなみ駅前」


「分かった」


「行きたいところある?」


いて言うなら信戸進しんとしん駅前の『シントシ書店』だ」


 本屋が減った昨今、『シントシ書店』は3フロアに渡る広い売り場をもうけている。ネットでは内容を確認できなからな。数学関連の本は小さな本屋では見つからないのだ。


「シントシンね。いいじゃん。そうしよっか」


 別に首都が移転したわけではないが誰もがシントシンと呼ぶ信戸進駅。再開発されてできた地方の大都市だ。週末は誘蛾灯ゆうがとうに吸い寄せられる虫のように人が集まってくる。


「だったらさ」

 と、古野見有紗が次々とデートの行き先をあげていく。


 それはいいのだが、いちいち、話を広げてくるから、中々、切るタイミングがつかめない。

 時刻が21時40分をまわったところで、俺は強引に話を断ち切ることにした。


「それでさ。カナの言うには、そのチーズケーキがメチャクチャ、美味しいんだって。絶対、食べるべきっ、て。でも、彼は毎回、イチゴショートなんだって。それで……」


 ゴホン、と咳払いをする。

 古野見有紗が驚き、話を切る。


「悪い。もう時間がない。切ってもいいか」


「えっ、そうなの?」

 一気に沈んだ声色に変わる。


「ああ。予定より、20分ほどオーバーした」


「ご、ごめん。じゃあ、今日はここまでにしとこ」


「そうだな。じゃあな」

 通話を切る。


 直後に、ショートメッセージが入った。



ーーーーーーーーーーーー

信じらんない

なんでいきなり切るのよ

サイアク

ーーーーーーーーーーーー



 なぜか怒らせたようだ。

 ちゃんと合意はしたはずだが。



ーーーーーーーーーーーー

なにかまずかったのか?

ーーーーーーーーーーーー

おやすみ言ってないじゃん」

ーーーーーーーーーーーー



 なるほど。

 言われてみればそうだが。

 怒るほどのことか?



ーーーーーーーーーーーー

すまん

おやすみ

ーーーーーーーーーーーー

おやすみ

ーーーーーーーーーーーー



 妙に疲れたな。時間もだいぶロスしてしまった。

 やはり、早期終結が望ましいな。

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