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滅亡図書館 分類ファイル:インド文学

「⋯⋯ょう、館長」

カラシが呼ぶ声がして、はっと目を覚ました。

「⋯⋯やばい、俺はどれくらい寝落ちてた?」

「いくらも、寝てません」

カラシに『俺が寝落ちていら起こしてくれ』と頼んでおいてよかった。⋯助手に起こして貰える身分の俺。

「コーヒー淹れましょうか」

「⋯⋯頼むわ」

せめてもの目覚ましに、遠い天窓を見上げる。頭を上げたからか、瞳が光を感知したからか知らんが少しだけ目が覚めた⋯気がする。エレベーターホールに向かうカラシの後ろ姿をぼんやり眺めている。⋯あぁ、逃げたい。今回ばかりはまじで逃げたい。

「館長。何処まで終わりましたか」

地の底を這うような、眠くなる声が背後で響く。ウンザリの余り頭を垂れてしまう。

「⋯⋯まだ2割も終わらねぇよ⋯⋯」

背後から低いため息が漏れた。

「いくらなんでも⋯」

「⋯⋯仕方ないだろうが」

背が高く浅黒い、頭にターバンを巻いた男が、呆れたような顔で背後から俺を見下ろしていた。

この男はパンダヴァ。専攻はインド文学だ。海外文学ではない、インド文学。⋯変態だ、ある意味。

パンダヴァは深くインド文化に傾倒していて、自分でクルタとかいうインドシャツを手作りして着ている。額にはいつも朱肉のような点をつけているが何だかは知らないし聞きたくもない。まだ俺が10代だった頃、彼のインドシャツについて「なにその服」と一言聞いた事があった。⋯彼はインドの文化やクルタの成り立ちについて小一時間語り続け、逃亡しようとしたら羽交い締めにされた。しかも後日、俺用のクルタが届いた。あの額の点で同じことをされては堪ったもんじゃない。

パンダヴァは心底理解出来ない、とばかりに呆れ果てた顔で首を振った。

「ふむ⋯百科事典でも数日で終わらせる館長ともあろうお方が」

「なんかダメなんだよ⋯眠くなるんだよ⋯この手合いは⋯」



俺にとっての鬼門。インド文学。



インドの先人達はどうも「バカ盛り精神」が旺盛だったようで、一つの物語に他の物語がバカ程入れ子にされている。主人公がじいさんと道々話しながら歩いているさ中、軽い気持ちで発した質問に対してじいさんが「昔、なんとか地方にファファファーファ王というとても偉大な王が存在しまして⋯」みたいな事を言い始めて壮大な物語が始まるのだ。おいおい、おーい戻ってこーい、俺は雑談振っただけだー、と主人公も思っていたことだろう。でその物語が終わったら大元の物語の続きが始まる。なんならその話の中に、もう一発入れ子されることすらある。⋯その先も、勿論ある。まるでマトリョシカ。「物量は正義」、こいつを文学に適用するとこういう殺人叙事詩が爆誕するのだ。


俺はこの、担当者以外誰一人やりたがらない仕事を渋々手伝わされている。


「物語ってのは普通、時系列としてはのっぺりと前に進むものなんだよ⋯なんだよこれ、俺は何層の入れ子に耐えればいいんだ⋯」

「カター・サリット・サーガラだと5層は、ございますね」

「うああぁああ⋯そっちは絶対手伝わないからな」

「かの有名な「屍鬼二十五話」は、この中に入っておりますよ」

「あれ入れ子の一部だったのかよぉ⋯」

堪らず机に突っ伏した。

どっかの王様が山頂の木に吊るされた死体を持ち帰る試練を受ける話だ。こいつが屍鬼が入っためんどくさい死体で、城に辿り着く道すがら質問をしてくる。答えなかったり間違えたりしたら頭を潰される。答えたら死体だけ山頂に戻りやがる。これを25回繰り返す。もうこの死体、山頂で燃してやったらいいんじゃねぇのかとイライラしながら読む逸品だ。入れ子構造がないだけマシとはいえるが⋯あのめんどい話すら莫大な物語の、入れ子の一部だったとは。

「カター・サリット・サーガラとは、シヴァ神が妻のパールヴァティーを喜ばせるために話した面白い逸話、と言われています。それをシヴァ神の家来が盗み聞き、人に転生し、その話を人間界に流布するという」「もうええもうええ!」

まじかシヴァ神⋯話し終わった頃にはパールヴァティー白目で爆睡してんぞ、こんなの。

「世界の中に入れこまれる世界⋯この曼荼羅のような構造こそがインド文学の魅力でしょうに⋯」

「インド文学にハマる奴ら、大抵それ言うよなぁ⋯」

パンダヴァはしげしげと書面を見つめ、深く息を吸い込み、ため息を吐き出した。

「美しい⋯それは無限に続く螺旋⋯」

「無限に続いてたまるかふざけんなよ」

弱音を吐いてもこの膨大な物語が終わるわけではない。渋々ブックスタンドに冗談のように分厚い本を立てかけて翻訳を再開した。⋯やばい、もう眠い。2、3度眠気に抵抗したが徐々に意識が遠のき⋯ほわ、とコーヒーの湯気が頬を撫でた。

「⋯⋯カラシか」

「まだ眠気がとれないんです?」

「⋯⋯君も手伝ってくれよ」

カラシはチラリと背後のパンダヴァと目を合わせ⋯ペコリと一礼した。

「お断りします」

「丁寧に断るじゃん⋯⋯」

仕方なくコーヒーを啜り、再度端末に向かった。パンダヴァはその間、何かをブツブツ呟きながらずっと書面を眺めているばかりだ。カラシが、俺の脇に回って小声で呟いた。

「⋯あの人の担当じゃないんです?」

「あー、あいつはああいう感じなの」

パンダヴァは、まずは作品を読み耽り、感嘆し、平伏し、拝謁してから作業に入る。なので作業自体はめちゃくちゃ遅い。指摘したいところだが『インド文学』を専攻しようという変わり者が少数なので強くは言えない。⋯それをいいことに納期は基本完全無視なので、俺が穴埋めをすることになるのだ。

「はあ⋯で、パンダヴァ氏が今翻訳しているのは何です?」

⋯⋯俺は無言で、奴の机に積み上げられた10冊の分厚い英語圏の本を指差した。


「―――えぇ?」


茶色く変色した本には「the katha Sarit Sagara」とタイトルが銘打たれている。その上に4冊の文庫本が積んである。⋯こちらは日本語で「カター・サリット・サーガラ」と書いてある。日本に唯一存在する、岩波書店のカター・サリット・サーガラの翻訳版。ダイジェスト版らしいが、それでも文庫本4冊。1957年に刊行されて以来、同種の訳本は一切出ていない。需要がないのだ、なーんも。

「なんすかこれ、百科事典!?」

「百科事典ならよかったがな⋯これはインド古典だ。知ってるか?インドの物語」

「ラーマーヤナとかマハーバーラタとか、名前だけ」

「⋯ま、その類だよ」

「へぇ⋯これが全部ひとつの物語⋯?」

一つの⋯と言われると語弊があるが⋯などと考えていると、カラシが傍らの日本語版をパラ見し始めた。

「よせカラシ、それは呪いの書だ」

言い終わるか終わらないかのタイミングで、カラシの背中がぐらりと揺らいだ。

「危ない!」

思わず椅子を蹴って駆け寄り、崩れかけたカラシを受け止めた。

「⋯⋯は、今のは一体」

「⋯⋯君もインド文学の洗礼を受けたな」

活版印刷時代の、岩波文庫のインド古典。ぎっしりと鮨詰めにされた旧字体の活字と飲み込みにくい言い回し、執拗い前置きと似た文脈の繰り返し。足踏みばかりで進まないストーリー、興味が湧かない内容。睡魔襲来の数え役満だ。

「恐ろしい、一瞬で意識を持っていかれました」

「珍しいものを見れたよ、立ったまま寝落ちる君とか」

つい口の端が緩んでしまった。カラシにじっと凝視され、慌てて肩から手を離した。

「⋯まあ!そういうことだ⋯コーヒーありがとう。俺は地獄に舞い戻る」

「⋯ご武運を」

あー、手伝ってはくれないんだな、と静かに諦めながら席に戻る。当事者のパンダヴァは相変わらず読み耽ってはため息をついている。⋯なんて自由な職場だ。実は館長って損をしている。

「館長は、何を翻訳しているんですか」

「ラーマーヤナだ」

「有名どころじゃないです?まだ翻訳されてなかったとは⋯」

「いや翻訳は終わっている。こいつのねちっこい文体をさくっと整えて要らない繰り返し部分を削ぎ落として読むに耐える状態に持っていくんだ」

「失敬な。インド古典はそのままで美しい!」

「うるせぇわ⋯見てたろ、俺が寝落ち、カラシが崩れ落ちるのを。無限の螺旋やら美しきタントラやらに放り込まれた矮小な人間の末路がコレだよ」

「館長は優れた先人への崇拝の念が足りないと常々思っておりましたが」

「崇拝の念を持たせたいならサクサク翻訳すすめてインド古典の素晴らしさを啓蒙してはどうだ、俺に」

「それは出来ない。自身の崇拝の念を犠牲にしてまで貴方へこの素晴らしさを啓蒙する必要性を感じない」

「⋯インド人ってお前みたいな思考の連中だったんだろうな」

「ありがとうございます」

「褒めてないからな社会人として。⋯とにかくな、これを原典と同じボリュームで読みたいなんて変態はパンダヴァくらいなんだよ。その証拠にインド文学専攻してんの君だけじゃないか。啓蒙したくば、とっかかりが必要だとは思わないか?パンダヴァ」

「むぅう、致し方ない」

その時、パンダヴァの携帯端末が鳴った。彼はゆっくりと変な形のポケットをまさぐると、端末を取り出した。

「⋯どうした。仕事中⋯え、なんだと⋯それは大変だ!」

パンダヴァは素早く携帯端末をしまうと、俺に向き直った。

「館長、非常事態です。母が」

「⋯御母堂に、何かあったのか」



「今週、誕生日でした。これから1週間のお休みを頂きます」



顎が外れるかと思うほど、口が開いた。

「い、いやいやいや待てよ、もう締切がとっくに過ぎていて、地上部を拝み倒して待ってもらってる段階だぞ!?」

「誕生日では仕方がありません」

すん、と表情を消して、パンダヴァは帰り支度を始めた。

「ちょっと待て、カター・サリット・サーガラはどうする!?お前読んでただけで1ページもやってねぇだろ!?」

「館長、お願いします」

彼は一瞬、ニコリと俺に微笑みかけて踵を返して去っていった。残されたのは10冊の分厚いインド古典。



「⋯⋯これだからインド人は――――――!!」



気が遠くなり、ふらりと体が揺れたのまでは覚えている。やがて意識が飲み込まれ、俺は多分このまま、倒れる。

もしや、これが『死』か。あっけなかったな。カラシは泣いてくれるだろうか⋯⋯。


―――いや、まて。俺最期に何て言った?

『これだからインド人は』

これが俺の最期の言葉だと!?


いや待て、訳が分からん。かっこ悪い。

やり直しを要求する。ちょ、ほんとまて、やり直

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