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第十話 悪魔なんかじゃない 1

ちょっと短くなってますが、キリが良かったもので。

「ルシファー……?」


 ベルゼブブの手を止めたのは、裕翔の悲鳴だった。

 彼が知るルシファーは、冷静沈着な悪魔だった。戦いの場においても、パイモンのように雄叫びを上げて天使に襲い掛かるようなことはなく、ただ冷静に、そして冷徹に爪を振るう。

 ルシファーが最後に叫んだのは、恐らく神の国を去る直前だった。土から創った人間などという、罪と欲望にまみれた脆弱な生き物に仕えよとする主の命には従わぬと決めたときだ。

 故に、戦いの場から離れた路上で発生した絶叫に近い悲鳴に驚いてそちらへ顔を向けたのは、ベルゼブブだけではなかった。パイモンも、力天使たちを痛めつける手を、いや足を止めて呆然とその光景に目をやり、彼に組み敷かれていたミカエルは、恥辱と怒りで真っ赤に燃える視線を驚きに満ちたものに変えて、悪魔の総大将の悲鳴が聞こえた方へ向けた。

 かつて天の国全てと地獄の隅々まで響き渡ったルシファーの慟哭とは、いささか以上に趣の異なる叫びを耳にして、ミカエルは目を点にしていた。

 堕ちてゆく。

 そこには、上空から複数の車両の残骸が燃える路上へ向かって、真っ逆さまに落下していく裕翔の姿があった。

 

「あおおうおわあああああ!!!!」


 筆舌に尽くしがたいという意味では同じかもしれないが、燃え盛る炎が地上を巨大な蛇のようにのたくるその中心へと落ちていく裕翔の恐怖に満ちた叫びは、ある種、悪魔のいじわる心をくすぐるものではあった。

 しかし、地獄の業火に焼かれて負傷する悪魔などいない。落ちてゆくものがルシファーであるならなおのことだ。

 アスタロトは数瞬だけ、頭を下にして落下していく裕翔の姿を見ていた。そして、甚だ不敬だとは知りながら、無様な様を晒して落下していく地獄の支配者の姿を見て首を傾げていた。

 ダンタリオンによれば、ルシファーは精神的苦痛から逃れるために、自身を全く別の存在と認識してしまったという。そんな、人間がかかるような病を悪魔である彼が、いやタダの悪魔ではない。ルシファーは地獄の支配者だ。そして、神に背いたとはいえその力を奪われたわけではない。彼が精神を病んで、記憶を失うことなどあり得ないし、あってはならないのだ。

 アスタロトの中で、「まさか」と「いやしかし」が交錯する。

 今、炎の渦の只中へ落ちていくものは何者か。

 見た目は似ているけど中身は違う。

アスタロトの頭の中で裕翔の呟きがリフレインした。

 彼は憎き宿敵ミカエルが、ベルゼブブの手に堕ちようとしている光景を目の当たりにしてこう叫んだ。「妹に触るな」と。

 ミカエルは今でこそ最高位の熾天使だが、ルシファーが天上に在った頃はもっと下位の天使だった。そういう意味では、神の子である天使たちは皆兄弟であることと併せて考えれば、彼がミカエルを妹と呼んでもおかしくはない。だがそれでは、「記憶の傷害を起こして地獄の悪魔たちを忘れている」という仮定が崩れてしまう。

 仮に、「天使であった頃のことは覚えている」としたならば、そもそも地獄でソバなど啜っている場合ではないだろう。

 否。

 アスタロトは首を横に振った。

 ダンタリオンは言っていたではないか。彼は今、まったく違う自分を頭の中に創っているのだと。

 ならばなぜ、三好庵やソバのことは覚えている?

 パイモンやエリゴス、ダンタリオンのことはまったく覚えておらず、アスタロトとベルゼブブの姿は記憶しているが違う名前で認識しているかのようだった。

 中身は違う。

 再び、裕翔の言葉が頭の中で響いた。

 裕翔の細い身体が炎に炙られる距離までごく僅か。


「まさか――」


 見た目はそっくり。神は地獄を地球そっくりに造り変えた。そこに、外見は自分たちにそっくりな人間たちが暮らしているという。

 アスタロトは戦慄を覚えた。

 自分が連れてきたのは、そこに暮らす毛のない猿のような、まったく別の生き物なのか――

 



◇ ◆ ◇ ◆




「――ひっ」


 裕翔は炎に炙られて尋常ならざる熱さを肌に受け、彼の皮下に無数に存在する神経細胞の末端は、中枢に向かって全力で警告を発した。それはすぐに痛みとなってフィードバックされる。裕翔は無駄なことと知りつつ、肌を刺す熱気を避けようと身を捩った。

息を吸い込めば、その熱気で喉が焼かれてしまうようだった。

 死ぬ――そう思った瞬間、彼の脳裏には何も浮かばなかった。ただただ、膨大な恐怖が心を埋め尽くし、その瞬間が少しでも遅れるようにと、彼は身体を丸めて防御の姿勢を取った。地面に激突した衝撃で死ぬのが先か、呼吸困難で死ぬのが先か、できれば楽な方で――そんなことを考え始めた瞬間、裕翔の身体はフワリと浮いた。


「――?」


 あっという間に熱さを感じなくなり、代わりに柔らかな肉の感触を覚えた。驚いたことで息を吸い込んでしまったが、それは熱気を帯びておらず、すでに嗅ぎ慣れつつある香水の香りが鼻腔を満たしたことで、再び彼女に助けられたのだと裕翔は認識した。


「ゴホッ、ゴホ!! ……あ、ありがとう」


 咳き込み、涙目のおかげで潤んだ視界の向こうには、金髪の美少女の顔が歪んで見えた。


「わわっ! ――痛ぇっ!?」


 次の瞬間、炎から助け出されたときとは別の浮遊感が裕翔を襲い、さらに一瞬後、彼は自信の体重を右肩の一点で支える羽目になって悲鳴を上げた。

 一連の出来事を解説すれば、次の通りになる。

 アスタロトは炎の中に飛び込み、裕翔を抱えて上空へ舞い上がった。ひとまず無事であることを確かめると、瞬間移動によってマンホール下の基地へ移動したのだ。そして、無遠慮に胸に顔を埋めて身を竦める裕翔を、コンクリートの床に放り投げた。


「……一つ、質問がある」


 肩を押さえて、辺りをキョロキョロと見渡す裕翔に対し、アスタロトはかつてない冷徹な視線を向けていた。


「は……なんでしょう」


 それを受けた裕翔は無意識のうちに正座をしていた。

 裕翔の姿を見て、アスタロトの心は決まった。彼女はゆっくりと深呼吸し、僅かに唇を震わせながら言葉を発した。


お前(・ ・)は……だれだ」


 それは、大いなる確信に満ちた言葉だった。




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