閑話4 ルシファー様の学園生活2
七月二十二日 午前八時三十分。
始業ベルまであと十五分。
地獄においては、佐久間裕翔がアスファルトに向かって落下を始めた頃のことである。
地球の慈極高校校長室。
わずか八畳ほどの部屋は冷房が利いていて、気温と湿度だけなら快適な環境に保たれていた。少々古いエアコンが放つカビ臭さに加えて、長年にわたって染みついた部屋の主が発する加齢臭と、若い女特有の匂いが混じりあった空気は、けして爽快とはいえない代物だった。
床面積は部屋の奥に設置されたマホガニーの机とスプリングが利いた肘掛椅子、およびそこに腰かけて難しい表情を作っている太めの男性、さらに机を囲む滅多に閲覧するものがない三つの資料棚のおかげで四畳程度に減少していた。
混沌とした空気が満ちる校長室をさらに狭くしているのは、リノリウムの床に立っている二人の人間と一体の悪魔である。
一人は、出口に最も近い位置――すなわち最後に校長室へと入った男性、教頭である。彼は冷気によって急激に冷えた額と頭頂部の汗をハンカチで拭っていた。
もう一人は見事な金髪をツインテールに結い、日本人離れした肢体を慈極高校の制服でどうにか覆った少女であった。
彼女こそ裕翔が暮らす市に存在する会社のほとんどを傘下に収めるゴールドマングループ代表の娘、ナターシャ・ゴールドマン。彼女は高校生にはあるまじき胸の膨らみの下で腕を組み、太めの眉を潜めて裕翔を睨んでいた。彼女のご機嫌一つで学園生活の行く末が大きく変化してしまう慈極高校の生徒たちの中で、その剣呑な視線を受けてまともに立っていられるものが何人いるだろうか。
なるほど、人間にしてはよい目つきをしている。
教頭より先に立って入室した悪魔は、教師たちですら黙して逸らすしかない彼女の青く燃える視線を正面から受け止めた。
ナターシャの視線が、意外なものを見るような驚きが混じったものに変わった。
それもそのはず。冷えた床に堂々と立ち、ナターシャの視線を受けてそれを平然と見返してせせら笑ったのは、神に敵対する最強最悪の悪魔、ルシファーである。彼が日ごろ相対してきたのは、姿かたちがナターシャと同一の悪魔、地獄の公爵アスタロトだ。彼女は剣呑な視線をルシファーに向けることなどないが、これはこれでそそるものがあるなどと、少々悪魔らしい考えが彼の頭をよぎった。
おっと、今はそんな場合ではない。
ルシファーは持ち上がりかけた口角を戻し、視線を正面に固定した。
よく磨かれた机を挟んで肘掛椅子に座る初老の男性――白髪が多く混じる髪を短く刈り込み、皺が目立ち始めた顔、笑っていれば柔和に見えるだろう細い目。服装は用務員の様な作業着だった。
「佐久間君……」
作業着姿の校長は、顎の下で組み合わせた手の中でしきりに指を動かしながら、ルシファーが成り代わりを目論む男子生徒の名を呼んだ。
「…………」
男子生徒は答えなかった。
校長とて長く現場で教鞭をとり、地域の教育委員会に職を得てからは、事なかれ主義の官僚たちを相手に真の教育とは何かを追及し続けた古強者だ。五十五歳で再び教職に就いてからこれまで出会った生徒やその親たちの中には、本物の悪意をもって挑んでくるものもあった。
「その……」
校長はしかし、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
何が起きても必ずやねじ伏せ、人間生活の安寧を脅かさんとするものを排除すると決めたルシファーの迫力は、不良生徒や怪物両親などとは比べ物になるものではない。
「用があるなら、手短に済ませてもらおう。……授業があるのでな」
地の底の底、神の国への恨みと渇望に満ちた地獄の悪魔が一歩、マホガニーの机に近づいた。
「い、いや、その……」
校長は肘掛椅子のキャスターを軋ませて後退した。しかし、背もたれがすぐに背後の壁と接触した。かれの突き出た腹と机の間は、わずか五センチほどしか開いていない。そんなことをしてもルシファーとの距離はまったく広がらないが、彼は今度こそ本気でダイエットをすると誓った。
「ヘイ、佐久間!」
ルシファーがさらに一歩踏み出そうとした時だった。ナターシャが寄りかかっていた本棚から背を離し、腕組みを解いてルシファーに詰め寄った。
「校長は、ワタシとユーが夜中に一緒にいたと言うネ! でも、ワタシは昨夜パパと一緒にパーリィだた! ユーと一緒、不可能!!」
英単語と日本語が入り混じったナターシャの言葉を耳にしたルシファーは、わずかに顔をしかめただけで返事をしなかった。彼の観察において、ナターシャは教頭と同じくほとんど裕翔とのセッションがなかったため、クラスメイト以上に存在価値がある人間とは認識していなかったのだ。
「ミズ・ゴールドマン、しかし彼は確かにコンビニ前で君と一緒だったと……」
「You’re lying!! ワタシはパパと一緒だた! これより確かな証拠はないデス!」
さらに、ルシファーが身に付けた一般常識において、あまり高圧的な態度かつ大声で話す女性は忌避すべき対象に位置づけられていた。今度は教頭に詰め寄ったナターシャの背中を振り返り、ルシファーは一言だけ声をかけた。
「黙れ」
「……!!」
その場にいた誰もが凍り付いた。
校長と教頭はもちろんナターシャ本人も、である。
「お前……少しうるさいぞ」
そんな空気はお構いなしに、裕翔の姿をした悪魔は彫像のように動かなくなったナターシャに追い打ちをかけると、正面すなわち校長に向き直った。
「それで、用件は何だ」
ルシファーは、校長の目を覗き込んだ。
「あ……ジンクス前で、少年三人が負傷した件で……君とミズ・ゴールドマンが現場にいたという証言が……」
「校長……俺は確かに、明け方のジンクスストアに行った。そこでこの女によく似た女を目撃はしたが、それだけだ。この意味が分かるな?」
ルシファーの目には、ルビーのような赤い光が宿っていた。人間の心の奥に入り込む悪魔の眼光だ。校長は、教育者としては一流を自負していても、悪魔の攻撃に対しては無防備な赤ん坊となんら変わりはない。
「君は、ミズ・ゴールドマンに、よく、似た女性を、見かけた」
校長の口がカクカクと動いて、切れ切れに言葉を発した。
「負傷した少年とやらは、その女が関わっているのだろう。俺と、そこの女子生徒は無関係だ」
「君と、そこの女子生徒は、ム、関係、だ」
「どうやら、誤解は解けたようだな」
満足そうに頷いて、ルシファーは踵を返した。
「どうした? 俺たちに対する嫌疑は晴れた。とっとと教室へ戻るぞ」
「ユーは……本当にサクマ?」
ナターシャの記憶にある佐久間裕翔はクラスで目立つ存在の石森と仲がいい、パッとしない誰か、くらいの存在だった。日本の高校生なんて、皆子供よと言って馬鹿にしてきたナターシャであったが、裕翔の形をした悪魔の言動に驚きとわずかな興奮が混じった自身の感情を持て余し、クラスへ戻ろうと促すルシファーの核心を突く問いを発してしまったことに気づけないでいた。
「……何を馬鹿なことを。俺は、佐久間裕翔だ」
ルシファーは、すぐに戻らないならどけと言わんばかりに、ナターシャと教頭が並んで立っているのもお構いなしに足を踏み出した。二人は慌てて道を譲ったが、教頭は、ナターシャが同級生に道を譲ったことに目を丸くした。
(……勘の鋭い人間というものには、気を付けなければいかんな)
さっさと校長室を辞したルシファーは、内心でナターシャを危険人物の一人に認定した。
その背を追うように校長室を飛び出したナターシャが、彼の背中に声をかけようとしてやめた。ルシファーはその気配には当然気づいていたが、振り返らずに教室へ急いだ。おかげで、彼女の頬がわずかに染まっていたことまでは気づけなかった。
……どっちが本編かわからなくなってきた。どうしようorz




