閑話3 ルシファー様の学園生活1
慈極高校を目指すルシファーの足取りは軽かった。
とはいえ、普通に移動すると人の目には映らないほどの速度を簡単に出してしまう。彼は可能限りゆっくりと、アスファルトを踏みしめるスニーカー越しの感触を味わうように進んでいた。それでも、傍目から見れば軽やかなステップを踏んでいるように見えるのだが。
地獄の王侯クラスの悪魔は瞬間移動に近い能力を有しているため、本来歩くという行動自体が無意味ではある。だが人間として暮らしていくと決意したルシファーは、よほどのことがない限り悪魔の能力のほとんどを封印しようと心に決めていた。
「お、佐久間!? 今日は早ぇーな!!」
「……うむ」
教室に到着したルシファーを出迎えたのは、ベルゼブブと瓜二つの人間――石森剛だった。ルシファーは、彼と佐久間の関係性については十分に観察したつもりだった。結果として、地球には悪魔とよく似た姿の人間が多数生息しており、見知った顔の人間が話しかけてきても、「ベルゼブブ……なぜここに」などと言わないくらいの免疫ができつつあった。さらに、石森に話しかけられた裕翔はまず笑顔でもってこれに応えていた。ルシファーが笑顔を作ろうと表情筋を動かし始めたとき、石森が動いた。
「佐久間、佐久間、ちょっと!」
日ごろから地獄の支配者に向かって鷹揚な態度を崩すことがなかったベルゼブブに口調まで似ている石森は、教室の入り口に現れたルシファーの傍へ駆け寄ると、彼の肩に腕を回してやや強引に引き寄せた。
「てめー、昨日何をやらかした?」
「……なんのことだ」
いきなりの詰問口調に少々面喰ったルシファーは、石森の心を読もうとしてやめた。塵芥のごとき人間が関わる諸問題など、地獄の王である自分にどうにかできないわけはないと高を括っていたのだ。
「やばいぞ。校長と教頭の両方が、てめーを探してた。おまけにナターシャまで一緒だ」
「俺を探していた、だと? ……人間に探される覚えなどないのだが」
「……なに?」
登校中、一人称が「私」だと気味悪がられると学習したルシファーは、それを「俺」に変更していた。だが言葉の端々に見られる人外の影響を拭えない表現のおかげで、彼にはすでに「遅れてきた中二病」という二つ名が付いていたが、心を読むことをやめたルシファーは気がついていない。気がついたところで、「俺は病にかかることなどない……お前たちとは違う」などと返してしまうだけだろう。
「とにかく、登校したら連れて来いと仰せつかったわけだ。行くぜ」
「む……待て」
「なんだよ。お前、なんか変だぞ?」
ルシファーの発言が、石森が良く知る佐久間のものとは異なることに、彼は違和感を抱いてはいた。その気持ちは、親友が右手の味を占めた頃に突然逆戻りしてしまったことに対する心配へと容易にシフトしたが、友人を気遣う言葉はルシファーを愕然とさせた。
「……俺が変、だと? 具体的に、どこがだ」
「い、いや……こうなんというか全体的に、だ」
目を皿のようにして石森の顔を覗き込むルシファー。石森の瞳には佐久間裕翔と寸分も違わない顔が映り込んでいた。
「馬鹿な……顔の造形は完璧なはずだ」
「わりい。昨日よほどのことがあったんだな……とにかく、校長室へ行こうぜ」
頬に手をやり、おののくルシファーの肩から腕を外した石森は、学校という組織において事実上の最高権力者である校長が待つ部屋へと彼を案内した。校長室のあと、保健室にも付き合おうかとは言わなかった。
◇ ◆ ◇ ◆
「二年B組石森です。佐久間を連れてきました」
「おお! 来たか!!」
二度のノックの後、石森が木製のドアに向かって告げると、ガチャガチャとノブが回って勢いよく開かれ、中から額と頭頂部の境界がわからなくなった男が飛び出してきた。グレーのスラックスを臍の上までしっかりと上げ、白いワイシャツの上には茶色のベストを合わせて四角いフレームの眼鏡をかけたその男性は、校長ではなく教頭だった。
ルシファーが裕翔の周辺を探っていた際、彼と教頭、および校長は遭遇していなかったため、極力人の心を読むことはやめようと思っているルシファーが、目の前の中年男性がどのような役職に就いているのかを推し量ることは困難だった。
「佐久間君、中に入る前に……二、三確認しておきたい」
「なんだ」
「へ?」
「っちゃー……それ、まだ続けるのかよ」
教頭は目を丸くし、石森は頭を抱えた。
教頭と裕翔はほとんど会話らしい会話をしたことがない。裕翔は優秀でも劣等でもない上に問題も起こさない。せいぜい遅刻が多いくらいで担任以外では生徒指導部の教員が、時折頭髪を問題視する程度の存在だったからだ。すなわち、特別親しい――生徒と教師の間に特別も何もないというのが本来目指すべき形だろうが――わけでもない裕翔の姿をしたルシファーの応答は、酷い違和感を与えるものだったのだ。
ルシファーにしても、ある程度の一般常識を身に付けてはいるものの、目上の人間に対する口のきき方という、様々な業界、教育界の大人たちを悩ませる課題をクリアーできていなかった。
「ゴホン。ん、まあとにかくだ。君は今日未明――三時ごろだと聞いているが、ジンクスの前で、その……」
「なんだというのだ。用があるなら、手短に済ませてもらいたい」
石森が目を剥いた。
ルシファーの身体から発せられた険悪な気配に反応して、思わず腰に手が伸び、そこに竹刀がないことに気づいた。
心を読もうとしないルシファーは、口ごもる教頭の態度にいら立ちを覚えていた。彼はできるだけ目立たないようにという命題を抱えてもいるため、さっさと呼び出された理由を聞き、必要であれば問題を解決して教室に戻りたいと思っていた。ついでに彼は、麻利亜が用意した「お弁当」を早く味わってみたいとも思っていた。
一方、地獄の王と対峙して、甚だ理不尽といってもその怒気――軽い苛立ち程度ではあっても、高校生が放つには強大に過ぎる――を浴びせられた教頭は、頭頂部と額に大量の汗を滲ませていた。
教師生活二十五年。ベテランのプライドが、「すみませんでした」とひれ伏したくなる衝動をどうにか押さえつけていた。
ちなみに彼が口にした「ジンクス」というのは、裕翔が暮らしていた街発祥のコンビニエンスストアの名称だ。
「そ、その時間、ジンクスで……ミズ・ゴールドマンと、一緒だったかね」
「……?」
ルシファーは首を捻って記憶を辿った。
ジンクスというコンビニエンスストアは、ルシファーを探しに地獄からやってきたアスタロトと裕翔が邂逅を果たした場所だ。
そしてミズ・ゴールドマンといえば、そのアスタロトを目にした裕翔がひたすらに敬遠していた少女の名であるというところまで、すぐに思い出した。そう、「ゴールドマンとは関わらない」これは裕一が定めた唯一の家訓でもあった。
トラブルだ。
ルシファーは瞬時にそう判断し、警戒した。同時に、ジンクス前でアスタロトが数人の少年を打ち倒したことと、その現場に警官らしき男性が現れたことも思い出し、地獄の公爵と自分の身替わりが消えた後の顛末を確認していなかったことを後悔した。
「確かにその時間、俺はコンビニに居た」
「そ、そうか、やはり……って佐久間君?」
ルシファーはドアノブに手をかけた。
「どうやら誤解があるようだ。話は中でしようではないか」
教頭の発言から、アスタロトが打ち倒した少年たちも絡んだ問題であると判断したルシファーは、早くも現れた自分の平穏な生活を脅かす存在を消去することを選択した。
「石森、俺はこの人間たちと話がある。先に戻っていてくれ」
我知らず、ルシファーの口角は上がっていた。その目に宿る妖しい光は、彼の魂が人外の悪魔であることを雄弁に物語っており、武道家としての才能が開花し始めている石森は、それを敏感に感じ取っていた。彼は親友の言葉に応えることができなかった。
「ちょちょ、待ちなさい、佐久間君――」
大人になると、色々鈍くなるのか。
ルシファーを追って校長室へ駆けこむ教頭の背中を見送った石森は、しばらくその場に立ち尽くしたあと、きっと気のせいだと首を横に振って教室へと戻った。背中にかいた大量の汗で張り付くワイシャツを気にしながら。




