第十一話 悪魔なんかじゃない2
豹変したアスタロトを前にして、裕翔は目を白黒させていた。
つい先刻まで、やたらと献身的だった同級生によく似た別の何か――アスタロトと名乗った少女の視線は今、裕翔を囲むむき出しのコンクリートよりもはるかに冷え切ったものに変わっていた。
それは、裕翔が知るナターシャ・ゴールドマンが歯牙にもかけない男子生徒たちに、あるいは取り巻きを気取るプライドの低い女子生徒たちに向けるものによく似てはいたが、アスタロトの瞳の奥には人間の目にはけして宿ることはない、獣じみた気配が宿っていた。
「誰だ……って」
獲物に襲い掛かる寸前のヒョウを思わせる視線に耐えかねて、裕翔はすぐにそこから目を逸らして口を開いた。
夜が明ける前、自分は佐久間裕翔だと名乗ったはず。そう口に出そうとした瞬間、
「さっさと答えろ」
「――ひッ!?」
アスタロトが一歩近づいた。
裕翔は膝の上に突いていた両手を離し、左手を斜め後ろに置いた。それで逃げ出しそうになる身体をどうにか支え、右手を前に出して掌を大きく広げた。
「ままま、待ってくれ」
何を待ってほしいのか、それは裕翔にもわからなかった。ただ、これ以上距離を詰められると、恐怖で話もできないとは思っていた。
裕翔の心情など知る由もないアスタロトは構うことなく前進する。裕翔は少しでも悪魔から距離を保とうと、震える足を埃っぽい床の上で滑らせながらもじりじりと後退を開始した。
「もう一度だけ聞く……お前は何者だ? ルシファー様ではないのか?」
再び口を開いたアスタロト。彼女が発する尋常ならざる気配は、裕翔に事態を飲み込ませるのに一役も二役も買った。
「お、俺は佐久間裕翔だ。……君たちとは違う」
違うとは、もちろん悪魔ではないという意味だった。裕翔はもう、目の前に立っている少女がナターシャだとは思っていない。石森の姿をしたものも、背中に翼を生やした妹も。彼らが悪魔だか天使だか、とにかく人外の何かであるとはっきりと認識していた。そうするに足るだけの証拠は、これ以上必要ないくらい目にしてきたのだ。
「俺は、その君たちが思っている悪魔なんかじゃない。……人間なんだ」
「…………」
裕翔の答えを聞いたアスタロトは、大きく目を見開いたかと思ったら激しくそれをしばたたかせたあと、こめかみに手をやって顔をしかめた。噛み潰した苦虫の数は一匹や十匹ではなさそうだと裕翔は思った。
「私は、なんということを……」
なんということをしてしまったのだろう。彼女が何かをひどく後悔していることは裕翔にもわかった。アスタロトはゆっくりと首を横に振り、裕翔に背を向けた。
「あの、アスタロト……さん?」
「気安く名を呼ぶな。下賤なサルの分際で」
「へ?」
悲しげな背中に思わず声をかけた裕翔だったが、アスタロトは背を向けたままで辛辣な言葉を吐いた。おかげで立ち上がりかけていた裕翔の心はポッキリと折れた。
「…………はあ」
深いため息をついたアスタロトの背中を見つめながら、裕翔はため息をつきたいのはこっちだと思った。
真夏の太陽を浴びながら、爆発炎上する車の残骸の炎の上で聞かされた真実。
信じられるか。地球のコンビニ前から瞬間移動して、悪魔が住んでいる世界へと連れてこられたなんて。
灰色のコンクリートに座り込んだ裕翔は、わが身の不幸を嘆いて天井を仰ぎ見た。
でも信じるしかない。
裕翔は自身の目と耳で見聞きし、肌で感じたことを反芻した。
肩を落として項垂れているアスタロトは、日本のコンビニ前で旧友を含む男子三人をなぎ倒し、裕翔をここへ連れてきた。彼女はどう考えても自分より重い裕翔の身体を抱きかかえて飛んでみせ、自分は地獄の公爵だと名乗った。
アスタロト同様なぜか慈極高校の制服を着ている経済的に薄幸そうなパイモンは、三好庵での食事にいたく感動していた。突如出現した翼を生やした何者か――天使との戦いに嬉々として向かい、彼らを蹴り飛ばし、縛り上げて高らかに笑っていた。アスタロト曰く、彼女は序列がはるかに上位の悪魔だという。
親友石森の姿をしたベルゼブブ――さすがにここまでくると裕翔でも名前くらいは聞いたことがある。映画や小説の題材にもなった超有名な悪魔だ。彼は目にも留まらぬ速さで空中を疾駆し、なにでできているのかわからない外観は竹刀に見えるものを振り回し、真っ黒な節足動物の足のようなものを背中から出現させていた。
そして、身内の姿をしたミカエル――これもまた有名すぎる熾天使――は、最終的に敗れはしたものの炎の剣を巧みに操ってベルゼブブと互角に戦っていた。
ここはあの世――地獄だろうか。周りが悪魔ばかりだからきっとそうなのだろう。悪魔と言えば三好庵の夫婦も、昨日出会った眼鏡君もマッチョマンも。きっと皆地球の誰かにそっくりな姿の悪魔なんだ。
冗談じゃない。
裕翔の折れた心が次に感じたのは、強烈な怒りだった。
地獄だか悪魔だか知らないが、人間様を妙な世界に連れて来やがって。詫びるどころかソバまで奢ってやったのに。
相手が人間の姿をしていたことと、これまで献身的に裕翔を保護していたアスタロトに対する甘えも手伝って、彼の中に眠っていた思春期特有のエネルギーに火がついたのだ。
「……?」
それこそ泣き出すのでは、そう思わせるほど狼狽し――ルシファーの姿でそうした態度を取ることで余計にアスタロトを苛立たせていた人間裕翔が立ち上がった。振り返って肩越しに裕翔を見たアスタロトの目が、訝しげに細められた。
「お、俺は悪魔なんかじゃない。家に帰してくれ。今ならまだ、間に合う」
「……貴様、下等生物の分際で私を脅すつもりか?」
「は?」
向き直って裕翔を見据えるアスタロトの目がさらに険しいものに変わった。脆弱極まりない人間である裕翔が、悪魔を脅す。裕翔の言をどう勘違いしたらそうなるのか。
彼の言う「間に合う」は一晩くらい外泊をして、帰宅せずに登校してしまっても大きな問題とはならない、という意味だ。ちなみに現在日本では、超然とした態度のルシファーがナターシャの心をときめかせているのだが、裕翔がそれを知る手立てはない。
実は、アスタロトは内心かなり焦っていたのだ。神の意志に背いた罪で地獄に囚われている身の悪魔が地球へ行くことは、彼らの魂に大きな損耗をもたらす。ルシファーほどの悪魔ともなれば話は別だが、人間の召喚に応じるレベルの悪魔にとって、地球への旅はまさに命がけの大冒険なのだ。
姿かたちのみを認めて、ただの人間を連れてきたからといって、「はいさようなら」と送り返せるほど、アスタロトの力は回復していない。故に先ほどは天使との戦いにも参加しなかった。よしんば裕翔を地球に送り返せたとしても、肝心のルシファーを発見できなければ無駄足となってしまう。そう、アスタロトは何より自身のミスの発覚を恐れていたのだ。特に、ルシファーが病気だからと彼にまとわりつくのを我慢しているパイモンにそれを知られれば、「あっそ。じゃあもう一回行ってきて」では済むまい。
(パイモン様が戻ってくる前に地球に帰さなければ真実をばらすぞ、ということか……。まったく、知恵と口だけは回る猿野郎だ)
拳を握りしめるアスタロト。彼女が何も言わずに下唇を噛むのを目にした裕翔は、
(脅すとか無理だろ。俺は家に帰りたいだけなのに)
などと考え、内心で首を傾げていた。
(くそ。なんか言わないと……)
「まずい!」
だが裕翔が口を開く前に、アスタロトが動いた。彼女は組んでいた腕を解き、右拳を中段に構えた。さらに膝を軽く曲げることで重心を落としたその動きが何を意味するのかを裕翔が悟る前に、アスタロトの右拳が彼の鳩尾にめり込んでいた。
「たっだいま~! あれ? ルシファー様どうしたの?」
「お帰りなさいませ、パイモン様。ルシファー様は少々お疲れだそうです」
「ふぅん。急に消えるから、ベルゼブブ様が怒ってたよ? あとで顔出せだって」
「……かしこまりましたわ」
崩れ落ちた裕翔の身体を素早く抱え、瞬時に膝枕の体勢に持ち込んだアスタロトと、乱暴に開かれた扉の向こうから元気よく部屋に飛び込んできたパイモンとの会話は、すでに気を失っている裕翔の耳には届かなかった。




