#92 人には優しくすること
「っ……はぁ〜〜〜〜マジで痛い」
ドシュ、と右足に強い衝撃が走り、痺れていた感覚が徐々に戻る。
ルカの手に握られているのは、ほんの数センチ程度の自己注射薬。コンソールに仕込まれたそれは緊急時のもので、ルカも詳しい成分は知らないが……打って少し経つと痺れは鈍痛に変わる。
「すげー……コンソールってやっぱり優秀だな……あんだけ爆発したのに薬はちゃんと守られてたし、ちゃんと効くし」
よかった、と安堵するルカ。
包帯が解け、足や服も随分土で汚れてしまった。
そんな彼女は今、ヴァルモント邸にある林の中に逃げ込んでいた。
<#92 人には優しくすること>
「(なんか、勢いで出てきちゃったけど……あのままアシュフォード家にい続けるのもまずかったし、丁度いい機会かもしれない)」
雇用契約を結んだうえで婚約者の立場に就いていた数か月。
もちろん、契約を結んだばかりの時はアシュフォード家に身を置きながら、魔素異常の調査を進めればいいと思っていた。
しかし……明確にマリア・ロバーツという元管理官の存在を認識してしまった今、あのまま婚約者でいることは出来ないと判断した。
ローワンは王家との繋がりがある人物な上、王妃が自分を監視していた事実もある。多少それを甘んじて受け入れていた節もあったのだが……離れる理由としては十分すぎるほど、危険な環境に身を置いていたと思う。
ただそのおかげで、アシュフォード家の人間から得られた情報は多かった。クニクルスの待遇と国境、二人の大いなる存在の話に、魔の者についての調査結果。その上、この世界に元管理官がいるという情報まで入手できた。
とはいえ……
「(さっさと離れて、別のルートから情報を仕入れたって良かったんだけど)」
私は、絵にかいたような家族団欒を過ごした記憶がない。
あるのは、管理官であった母親の厳しい指導の記憶だけ。
泣くことも許されず、転移者を夢見ることも許されない……そんな教育の賜物が今の私。そんな女がどんな人生を歩むかなんて、火を見るより明らか。
「(……誰かが家にずっといるのって、変な感じだったな)」
使用人がいる感覚はもちろん、何より夕飯を誰かと食べるというのが不思議だった。残業中なんて基本的には各々で夕食を済ませるものだし、自分の家で落ち着いて夕食を食べたのは……まあさすがに10回ぐらいはあったと思う。ただその10回だって、結局そのあと職場に戻るからゆっくりなんて食べてられなかったし。定番のおにぎりを食べて終わり。たまにホットスナックを食べられれば贅沢な方だった。
「……何感傷に浸ってんだか」
気を引き締めろルカ。
ここから先、私はアシュフォード家に見つからないように任務を遂行しないといけないんだぞ。
私がアシュフォード家でやってきたことは、明らかに過干渉だった。
コンソールが壊れたからと、たかを括って自由に動き回ったのが良くなかった。その結果があのローワンやグラクからの告白。……なんでそうなった?というか、二人して何を考えてるんだ。もっとマシな女にしときゃいいのに。よりにもよって……
「(……キスするなんて、想像もしてなかった)」
不意打ちにされたローワンからのキス。
あれからやけに距離を意識してしまって困っていた。クソ……アラサー手前で何ときめいてんだよ、ちょっと顔がいい男にキスされて舞い上がるな。あれは多分……うん、若い男性特有の何かだ。将来思い出して後悔するやつ。きっとそうに違いない。エビデンスは不明。
「……でも、これでようやく」
人間関係に悩まなくて良くなる。これからは、仕事のことだけ考えていればいいんだ。
私のコンソールにコードを打ち込んだであろう元管理官がいるんだから、そいつをとっ捕まえて、コンソールに帰還コードを打たせればいい。そしたら色々処分は受けるだろうけど、この世界に新たな実働部隊を送れるし、作戦も立て直せる。山本の教育にもきっと良い案件に——
『あなたは一度、頭を冷やしてくれ』
「っ~~!」
ダンッ と地面を殴る。頬を叩かれたことは何度もある。なのに、どうしてか彼に叩かれた頬の痛みが引かない。
勢いで飛び出したのは、情けないけどそれが理由だ。そりゃあ私だって冷静じゃなかったって反省してるけど……だからって叩くことあるかっての。私、瓦礫から守ったんですけど?ちょっとの失言ぐらい大目に見てくれたっていいじゃん。
「……チッ」
あんな気弱そうな顔してるくせに。何でもかんでも相手に決定委ねてくるくせに、一丁前に手は出るのか。そう思ったらイライラしてきて、気づいたら窓から飛び出してた。
足も碌に動かせないくせに飛び降りたもんだから、そりゃまあ怪我は増えたけど……。
だけど、叩かれた頬なんかより痛くは無い。どうしてこんなに痛みが引かないのかは……私にはわからない。ただ異様にムカついた。それだけ。
さて、ここからどう逃げたものか……。痛む右足をさすりながら脱出口を目で探していると、何やらうごめく影を見つけた。その影はこちらに気付くとびくりと震えて、動きを止める。
「……?」
木漏れ日からさす光が、その影を照らす。ふわふわの髪の毛にそばかす、そしてまん丸く目を見開いたその子供は……
ワイナリーで見た、あの少女だった。




