地獄というものがどういうものか、毒娘にはよくわからない
何が起こったのか、カンタレラはしばらく理解することができなかった。
熱い。
煙の臭いがする。
酷く嫌な、嫌なものが焦げる臭いが、鼻からも口からも肺の中に入ってくる。
痛い。
身体中全てが痛い。
煙と炎が見える。
燃えているのだ。
何が……?
歪んでいた視界が、混乱していた思考が、だんだんとハッキリし始める。
たしか、自分たちは中庭にいたはずだ。
リンドンとイトの様子がおかしくて、そして、イトが「ごめんなさい」と――
リンドンが頭を抱えて伏せるのを見たような気がする。スラフィスが何か叫びながら胸元の鎖をつかんだのを見たような気がする。
それから――
顔を上げて、カンタレラは我が目を疑った。
咲き乱れていた花は、楽しげだった貴族たちは、噴水は、ガラスの木々はいったいどこに行ってしまったのだろう。
目の前には焼け焦げた木が転がっていた。
茂みは燻り、地面には粉々になった無数のガラス片が突き刺さっている。
それから、赤黒く、生臭い何かが、地面や焦げた木々を染めている。
……あれはなんだろう。
何かが散らばっている。破れた布が揺れている。
あれは……?
酷くゆっくりと、カンタレラの脳はそれが人間の破片だということを理解した。
楽しげだった貴族たちは、可愛らしい少女たちは、それから、アレスは――
ついさっきまで王が立っていたはずの地面が深く抉れているのがわかった。
噴水があったはずの場所からちょろちょろと申し訳程度の水が流れ、焦げた何かを濡らしている。
その傍らには、砕けた噴水の欠片が転がっていた。
……爆発?
カタカタと耳元で微かな骨の音かして、振り返ると、いつかのように白い骨がカンタレラの背中に覆いかぶさっていた。
あの時とは違い、モルモはカンタレラを守るかのようにすっぽりと包み、その骨には以前はなかった無数の傷がついていた。
「モルモ……もしかして、貴方、私を助けてくれたの?」
骨はカカカと歯を鳴らした。
『カンタレラの命はモルモがもらうと約束したのだから、モルモがカンタレラを守るのは当然のこと』
そういえば爆発の瞬間、何か大きな手のようなものに無理やり地面に押さえつけられたような記憶がある。
「カンタレラ! 大丈夫か!?」
名を呼ばれ顔を振り返ると、スラフィス・ランペールが駆けてくるのが見えた。
その背にも一瞬白い骨が見えて消え、カンタレラはやはりモルモが自分たちふたりを守ってくれたのだと理解する。
「ええ、私は大丈……」
カンタレラの姿を見たスラフィスが、思わず息を飲む。
つられて視線を動かしたカンタレラは、自分の右足がどうなっているかに気がついた。
大きなガラス片が突き刺さり、血がドクドクと流れ出している。
自覚した途端に猛烈な痛みがし始めて、喉から呻き声が漏れた。
「待ってろ、今、止血してやるから」
「だめ! 」
悲鳴に近い声が出た。
一瞬痛みなど吹き飛び、カンタレラは懸命に拒絶した。
「私の血に触れることは絶対に駄目!」
「んなこと言ってる場合かよ!」
「場合に決まっているでしょう! 死にたくなければ離れて!」
大声を上げたことで、脳にかかっていた靄が消えた気がする。
カンタレラは痛みに顔を歪めながら荷物を探った。幸い吹き飛ばされてはいないようだ。
「大丈夫、血止めも、傷口の処理も、ちゃんと知っているから」
これ以上恥を晒すわけにはいかない。脂汗がダラダラと流れるのを感じながら止血を開始する。
毒液が広がるのを一刻も早く止めなければならない。そして、身体に傷跡が残ることも許せない。どちらもやらなければならないことだし、どちらも自分ならうまくやれるはずだった。
「心配はいらない……私はカンタレラ、最高傑作なのだから」
『母』からもらった毒の名を繰り返しながら、歯を食いしばり処置を続ける。
傷の状態、必要な薬。大丈夫だ、覚えている。
痛みに意識を失いそうになりながら全てを終了し、
そこでカンタレラは気を失った。
目を覚ました時には、カンタレラはベッドの上にいた。
「……夢」
ではないことは、全身の痛みが、特に右足の激痛が教えてくれていた。
煙を吸った喉が痛く、擦れた腕はヒリヒリする。
「ここは……」
痛みに耐えながら、身体を起こして辺りを見回した。
カンタレラの記憶違いでなければ、そこは昨日泊まった宿の一室だった。
「私は……」
ゆっくりと、時間をかけて頭が状況を把握していく。
あの中庭で、何があったのか。
音、砕けた噴水、木々、炎、
あの瞬間、大きな爆発が起こったのは間違いないだろう。
助かったことが奇跡と思うほどの――
「モルモ」
カタカタと骨の音がする。
その乾いた音に、今は安心感を覚えた。
「モルモ、助けてくれてありがとう」
『いずれ命を取られるのに、カンタレラがモルモに礼を言うのが、モルモは面白くて仕方がない』
カカカと笑う音を立て、いつの間にか骨は消えていた。
「おや、目が覚めたのか」
代わりに、戸口に誰かが立っていた。
宿の主人だ。顔に覚えがある。
ということは、やはりここはあの宿屋なのだろう。
「あの……」
「あんたの仲間の、銀色の髪の剣士がいるだろ。あの人が三人担いで運んできたんだよ」
「三人?! では、リンドンとイトも無事?」
「おばあさんと男の子だろ? 別の部屋で寝てるよ。宿代は全部あの子が出してくれた」
「そう……」
カンタレラはベッドから降りようとした。
ほんの少し体を動かしただけで、予想以上の痛みに顔が歪む。
「おいおい、じっとしておいた方がいいって」
「そういうわけにはいかないの。皆の部屋を教えてくれる?」
スラフィスはベッドにうつぶせに横になっていた。
その理由はすぐにわかった。赤く染まった包帯が肩に巻かれている。
「スラフィス」
返事はない。眠っているようだったが、顔色は青白く、呼吸はとても「穏やか」とは言えないものだった。
「さっきやっと寝たとこだよ。ひどい怪我だからね」
起こすわけにはいかないだろう。カンタレラはその部屋を出た。
隣の部屋のドアの前に立ち、僅かな逡巡ののちにノックした。
「イト、起きている?」
返事がくるには、しばらく時間がかかった。
「……はい」
戸には鍵が掛かっていなかった。カンタレラは黙ってノブを回し、うす暗い部屋に足を踏み入れた。
人は、短時間でこれほどやつれることができるのか。
予見者はベッドの上に体を起こしていた。
頬はこけ青ざめて、目は落ちくぼみ視線は定まらない。
カンタレラはゆっくり扉を閉めると、イトのベッドに歩み寄った。
「イト」
「カンタレラ……生きていたんですか」
その一言で、カンタレラは理解した。
「リンドンは無事?」
「生きては、います。隣の部屋で眠っているはずです」
「そう。貴方たちは私たちより伏せるのが早かったものね」
返事はなかった。
カンタレラは僅かに逡巡したのち、口を開いた。
その名を口にするのには、ひどく労力が必要だった。
「……では、アレスは?」
「……無事です」
心臓が信じがたい音を立て、カンタレラは息をのんだ。
思わずイトの顔を見返す。予見者の顔は真剣そのもだった。
「あの爆発の中心にいて、助かったと」
「はい。スラフィスが僕たちを連れて屋敷を出る時、アレス王が負傷者の救護をしていたのを見ました」
「アレスが、助かった……」
カンタレラは震える手で服の裾を掴んでいた。
カタカタと小さく足が震える。目が覚めた時からずっと冷えていた身体が、突然熱を取り戻し、生きていることを思いだしたかのようだった。
「ねぇ、イト。あの爆発は、王を狙ったものだと思う?」
「……はい。暗殺者が、計画したものだと」
アレスには敵が多い。
即位の際には兄王子たちを敵に回し、対立した多くの貴族を失脚させ、火種を抱える国も多数。王となる前から、彼は常に幾多の暗殺者を差し向けられ、その全て退けてきたのだ。
「あの王は不死身だ」と、口々に囁かれたのを知っている。その言葉を聞くたびに、カンタレラは使命感に震えたものだ。
「そう……」
そうか。
そうとも。
そうでなければ。
カンタレラは無意識のうちに、自分の唇をぺろりと舐めていた。
「ほかに、言うことはないのですか」
イトがぽつりと呟いた。
落ちくぼんだ眼が、カンタレラに向けられている。
予見者は彫像に代わってしまったかのように、そのまま動かず、重い空気が周囲に満ちた。
「そうね……確認はするべきかもしれない。
イト、貴方は今朝、未来のあの光景を見たのね」
焼け焦げる木と、炎と、血の光景。
「……はい」
「そして貴方は、いつものように自分の命を守るため、予見の未来を再現しようとした」
「……はい」
「リンドンは貴方の顔を見てそれを知った。だから、貴方はたぶん……取引を持ち掛けてあの人を味方につけた」
あのリンドンが、普段であれば絶対に断っていたはずのカンタレラの無茶な願いをあっさりと聞き、中庭に案内したこともそれで説明がつく。
ふたりは最初から、カンタレラたちをあの場所につれていくつもりだったのだ。
あの場所で、あの爆発に巻き込むために。
「はい。間違い、ありません」
「そう」
カンタレラはそのまま口を閉じた。
足の傷が、またじくじくと痛む。
「他には、僕に言うことはないのですか」
「そうね……」
右足は熱を持って疼く。処置に失敗していれば、カンタレラも、その周囲の人間も命はなかったことだろう。
「貴方はさっき、私が生きていたことに驚いたわね」
「……はい」
「そういうことね」
「……はい」
「イト」
イトの手は、離れたところからでもすぐそれとわかるほど震えていた。
ただその目だけが、カンタレラを見ている。
「……責めれば、いいじゃありませんか。『お前は人殺しだ』と」
その細い指が、千切れるほど強くシーツを掴んだ。
「出会ったときに言ったじゃありませんか。これが僕です。自分が助かるためなら、誰であっても見殺しにする。たとえ幼い子供であっても、複数の人でも、我が身の方が大切なんです。だから責めればいい。『お前が殺した』『助けられたはず人を見捨てた』『お前さえ犠牲になればみんな助かったのに』『お前が死ねば良かったのに』!!」
カンタレラは痛む足にそっと触れた。
「その言葉を口にする資格は、きっと私にはないのだわ」
「…………」
「けれど、貴方を許すほど人間ができているわけでもないの」
イトは返事をしなかった。
先ほどと同じように、重い沈黙が下りる。
「僕を、どうしますか」
「どう、とは?」
「貴女はいつでも僕を殺せるでしょう」
「私が無意味な殺しをすると言うの」
カンタレラがその顔を睨みすえると、イトは薄く笑った。
「よかった。僕は死ぬわけにはいかないんです」
カンタレラが何か言おうとした、その瞬間、大きな音が周囲に響いた。
玄関が乱暴に開かれた音だ。次いで大勢の人間が廊下を進む音が続く。
カチャカチャと響くのは金属音。鎧? いや、剣?
どんどんこちらに近づいてくる。嫌な予感に顔を上げると、イトは小さく首を横に振った。
「衛兵でしょう」
「どうして」
「僕たちは暗殺未遂の現場から逃げたのですから、探されるのは当然です。逃げる途中、大勢に目撃されていますし」
「私たちは暗殺者の疑いをかけられているということ!?」
「そうですね」
カンタレラは焦ってドアを振り返った。
足音はすぐ近くにまで迫っている。
「仕方のないことです。僕たちの事情を正直に話すしかありません」
「私にそれができると思うの!?」
声が上ずる。カンタレラは慌てて窓を見やったが、この足で逃げることなどできるはずもない。
考えを巡らす猶予さえなく、
弾かれるように扉が開いた。




