四人は選択する。結果はやがて訪れる
午前中は特に問題なく過ぎた。
賑わう街には見るものが多すぎて、カンタレラは考えごとをする暇さえなかった。
猿の芸を見、からくり人形の歌を聞き、珍しい東方の果実を買った。
昨日は何もなかった通りでさえ、いつの間にか露店で埋まり、喉自慢の客引きの声が耳に心地よい。
人だかりを覗けば必ず面白いものがあり、店には必ずほしくなるものがある。旅の途中でなければ荷物で動けなくなるほど買い込むところをなんとか抑え、イトと顔を見合わせ笑いあった。
朝食の後、イトとリンドンはすっかりいつも通りになっており、イトは昨日とまったく同じようにはしゃいでいた。
カンタレラも特に指摘はしなかった。
今は余計なことなど考えず、祭を楽しんでいたかった。
けれど、時間は過ぎる。
気付けは日は高くなり、広場の日時計は昼を指した。
予見の昼だ。四人そろって食事を取らなければならない。
「イト。昼に食べるもんは決まってたりするのか」
「いえ。そこまでは見ませんでした」
「じゃ、テキトーに買ってくるわ。場所とっといてくれ」
カンタレラたちはイトに確認しながら、予見通りの場所に布を敷いた。
三人並んでそこに腰掛ける。
とたんに疲労が吹き出して、カンタレラは大きく息を吐きだした。
「ああ……疲れた。今日はもう一歩も動きたくないのだわ」
嘘である。
「少しのんびりしましょう。まだ今日は長いんですから」
「そうね。落ち着く時間も必要だもの」
嘘である。
もうすぐ午後になる。王が姿を現す時間が来る。
カンタレラは無意識に自分の胸を押さえていた。一秒ごとに心臓の鼓動が早まり、呼吸が乱れていくのがわかる。
スラフィスが抱えてきた挟み焼きを受け取り、頬張ったが、味はまったくわからなかった。
ただモソモソと機械的に咀嚼し、飲み下す。胃はきっと食物を溶かさないだろう。
体のすべてが、一つのことしか考えていないようだった。
感情が伝染したのか、皆もだんだんと口数が少なくなり、四人はただ淡々と食事をすることになった。
「ねぇ、イト。もう食事の予見はクリアした?」
沈黙を破ったのはカンタレラだった。
「もう、ここを去っても大丈夫かしら」
上ずった声で尋ねると、イトはビクリと体を震わせた。
「は、はい。そうですね……もう、大丈夫です」
掠れた言葉が耳に入ると同時に、カンタレラは立ち上がっていた。これ以上座っていることはできそうにない。
「では、少し席を外すのだわ。夕刻までには宿に戻るから心配しないで」
三人の返事を待たぬうちに、カンタレラは荷物を手に大通りに向かっていた。
昨日の貴族の屋敷へと、はやる胸を抑えて道を急ぐ。
道を間違う心配はなかった。思った以上に大勢の人々が、同じ方向に向かっていく。
皆、きっとアレスの姿が見たいのだ。その声が聞きたいのだ。誇らしいような気持ちが胸を満たし、カンタレラは我知らず微笑んでいた。
彼は強い王。素晴らしい王。もうすぐ歓喜の声が周囲を満たし、王を称える声が響き渡るだろう。
それを思うと、歩みはさらに速くなった。
貴族の館が近づくにつれ、人はますます増えていく。体をぶつけずに歩けないほどだ。
カンタレラは万一にも怪我をすることがないよう、フードを深く被り、布で口元を覆った。手袋の端を引っ張り、服の裾を直して人ごみを縫う。
大きな門が近づいてくる。
もう少し、もう少し。
昨日は固く閉じられていた門が開放され、庭の中まで人で溢れているのがわかった。もう少し急いでくるべきだったかもしれない。
少しでも奥に進もうとしたカンタレラは、建物のかなり手前に警備の兵士が並んでいることに気付いて気落ちした。考えてみれば当然のことではあったが、思ったより近くに行くことはできないようだ。
腕章を付けた男が何か大声でがなり立てている。人々のざわめきでよく聞き取れない。
一刻ごとに周囲の熱気が上がり、息苦しさに口を覆う布を取り払いたくなる。
鐘の音が鳴り響き、太鼓と管楽器がそれに続く。
バルコニーの上から誰かの大声。ざわめきで内容は聞き取れない。
だが、何を言っているのかは群衆の反応が教えてくれた。
一瞬、これまでの煩さが嘘のように、水を打ったかのような沈黙が下りる。
そして、
それから、
世界が揺れた。
遠い、遠いバルコニーに人影。両側に兵士。周囲に貴族。
それが誰かはすぐにわかる。歓喜の声が周囲を包み、群衆が熱狂する。
王だ。
王が、王がそこにいる。
「アレス!」
遠すぎる人影にカンタレラは手を伸ばした。喉が枯れるほど名を呼ぶが、周囲の声の方が何倍も大きい。
アレス、アレス、王、我らが王。
王を称える声は怒号のよう。無数の獣が叫びを上げているかのよう。
周り中の誰もが、少しでも王に近づこうと動き、前に進もうとする。
四方から強い力で押しつぶされ、背に勢いよく何かがぶつかり、カンタレラの体は宙に浮いた。
押された肺から空気が逃げる。懸命に前に進もうとするが、足が地面を見つけられない。
荒波の中に放り込まれたかのように、カンタレラは、押され、引かれ、潰され捻られた。
「アレス! ……アレス!」
声が聞こえない。王が何か言っているのに。
姿が見えない。すぐそこにいるはずなのに。
誰かの肘が胸に当たって、カンタレラは大きくむせた。
嘔吐はできない。周囲の者を全て殺してしまうことになる。
いや、いっそ……
「なにやってんだ、お前は」
唐突に視界が開け、カンタレラは目をぱちくりさせた。
目線が高い。宙に浮いているのだ。
後ろを振り返って、カンタレラはやっと自分が吊り上げられていることに気が付いた。
襟の後ろに剣の鞘をひっかけて、てこの原理で器用に引っ張り出されたらしい。
「降ろしてほしいのだけれど。スラフィス・ランペール」
「いや、先に礼を言えよ」
「……助かったのだわ」
ゆっくりと地面に足がつき、カンタレラはもう一度大きくむせた。
いつの間にか浮かんでいた涙を拭い、振り返ったときには、バルコニーには既に人影はなかった。
「アレス……」
群衆も狂乱から醒めつつあった。
皆、満足そうに笑いながら、パラパラと街の方に戻っていく。
「もう、王が姿を見せることはないの?」
アレスは民に声を掛け、水竜の恵みに感謝の言葉を、祭の成功を祈ったはずだったが、カンタレラはその言葉をひとつも聞き取ることはできなかった。
「わかんねーけど、そうそう何度も出てこねーだろ。
王様が見たいなら、もっと離れたところにいるべきだったぞ思うぞ。
あんな中に突っ込むとかどんだけ勇者だよ」
「……反省しているわ」
「おう。次に生かせ」
カンタレラは自分の腕に手をやった。
ケガは……ない。
だが体中が痛い。まだ頭はフラフラとし、思考もまとまらなかった。
「私は……その、ええと、宿に戻って……」
ぼんやりとした視界の片隅に、イトとリンドンが映った。
スラフィスと一緒にカンタレラの後を追ってきていたらしい。
イトと、リンドン。
リンドン。
リンドンが、いる。
状況を把握した瞬間、カンタレラは駆け出していた。
千里眼の老婆に駆け寄り、食いつかんばかりの勢いで懇願する。
「リンドン、私をアレスのところに連れて行って!」
「はぁ?!」
頓狂な声を出したのは誰だったか、カンタレラにはわからない。
ただ懸命にリンドンに頼み込んだ。
「お願い! 貴女ならできるでしょう? 私はどうしてもアレスに会いたい、後生だから!」
リンドンは面食らった様子でカンタレラを見返している。
その冷たいとも思える視線が、ほんの少しカンタレラを冷静にさせた。
考えてみれば、こんな願いが通るはずもない。リンドンのことだ、心底呆れていることだろう。
しかし、予想に反して拒否の言葉は返ってこなかった。
不思議に思うカンタレラを、老婆は無言で見返している。
そして、リンドンはどこか諦めたように目を閉じた。
「そういうことかい。なるほどね」
「リンドン?」
「ついてきな」
返事も待たず、老婆は身をひるがえして歩き出した。スラフィスが慌ててその後を追う。
「ばぁさん、正気かよ!」
「静かにしな。怪しまれたらどうすんだい」
老婆はそっけなく言い捨てると、歩調を速くする。
スラフィスとイトが急いでその背を追いかける。
カンタレラは一瞬迷ったが、あくまで一瞬のこと。小さく拳を握り締めると三人の後に続いた。
屋敷は大きく、囲む塀は通りの先まで続いている。
リンドンは脇目もふらずに塀沿いを進むと、とある地点で足を止めた。
「ここで塀を登るよ」
「冗談じゃねぇぞ。中にどんだけ警備兵がいると思ってるんだよ」
「ここにはいないよ。アタシを誰だとお思いだい」
リンドンは周囲を見回すと、無人の露店から木箱をずるずると引きずり、踏み台にして塀を乗り越える。
三人は戸惑ったが、結局後に続いた。
塀の向こうには、ちょうど周囲から目隠しになるように大きな木と低木の塊があった。
リンドンは涼しい顔で、するりとその陰に滑り込む。
その肩をスラフィスがガシリと掴んだ。
「いい加減にしろ。これ以上はシャレになんねぇぞ。カンタレラも、もう退け」
「私は……」
リンドンが振り返る。いつにもまして感情のない目が、カンタレラに向けられた。
「カンタレラ。アンタはどうしたい?」
「私は、私は……どうしてもアレスに会いたい。愚かなことだとはわかっているけれど、それでも、あの人に会えずに、死ねない」
スラフィスの体がピクンと震えた。
青年は諦めたように老婆の肩から手を放し、カンタレラに向きなおった。
「わかったよ。なら、俺がなんとか会わせてやる。
これでも顔だけは広いんだ。伝手をたどればできないわけじゃない。だから今は……」
「それじゃあ、何日かかるかわからないだろう」
リンドンが淡々とその言葉を遮った。
「カンタレラ、どうするね。アレス王はあの屋敷の中にいる。今行けば、必ず会える」
「屋敷の中に……」
視線が動く。そこにアレスの姿が見えるわけでもないのに、カンタレラは屋敷の窓を見上げたまま動けなくなった。
「決まりだね」
リンドンが身をひるがえし、イトが無言で後に続く。
カンタレラはスラフィスに一度頭を下げると、その背を追った。
「スラフィス。アンタは……ここで戻るかい」
「ざけんな。この状況で放っておけるかよ」
結局、四人で屋敷の裏手に回った。
手入れをされた庭には身を隠す場所などほとんどないが、リンドンはときに立ち止まりときに曲がり、宣言通り、衛兵に見つかることなく屋敷の傍までたどり着いた。
「で、どーすんだよ。さすがにここから先は無理だろ」
屋敷の衛兵の数は、庭の比ではない。
入口はもちろん、壁際に等間隔に並び、槍を手に辺りを睥睨している。
いくら手薄なところを探そうと、見つからずに侵入するのは不可能に思われた。
「ふん」
リンドンは鼻を鳴らすと、涼しい顔をして木の陰から抜け出す。
ここから見える衛兵は一人。この距離でその目を誤魔化すことは到底不可能だが、リンドンはのんびりと彼に歩み寄った。
案の定見つかったらしく、鋭い穂先を突き付けられるが、リンドンはこれまで見たことがないほどにこやかな笑顔で彼に話しかける。
そのまましばらく何事か話していたかと思うと、老婆は薄く微笑んで三人を手招きした。
「入っていいそうだよ」
「はぁ?!」
「騒ぐでないよ。他の兵隊が来るじゃないか。ほら急いだ急いだ」
老婆に急かされて、三人は窓から廊下に侵入する。
件の衛兵はといえば、その間何事もなかったかのように周囲に視線を向けていた。
「どういうことだよ」
「なに、脅しただけさ」
リンドンは廊下の飾り棚の陰に体を滑り込ませ、三人もそれに続いた。
「あの兵隊はね、街を警備するとき、ちょいちょい犯罪者を見逃して金をもらってる。そこを突いてやったって訳さ」
「……敵に回したくねぇばぁさんだな」
「光栄だね。さ、ここから先はもっと警備が厳しくなる。アタシから離れるんじゃないよ」
「どこに向かうの?」
「中庭だ」
四人は身を潜めるようにして廊下を進んだ。
上質な絨毯は足音を消してくれ、侵入に気付かれた様子はない。
調度の陰、空き部屋の中に隠れながら、中庭を目指した。
廊下を進むうち、どこからか賑やかな声が聞こえ始めた。複数の人間が楽しそうに話している声。
どうやら、パーティのようなものが開かれているらしい。
先程から、衛兵だけでなく屋敷の使用人から身を隠すことが多くなっている。
皆、忙しそうに料理や酒を運んだり、身分の高そうな客を案内したり。
通りかかった窓から中庭をそっと覗くと、色とりどりの旗や花で飾り付けられているのが見えた。どういうわけか、庭木もキラキラと光り輝いており、その間を飾り立てた貴族の女たちが行き交うのが見える。庶民の祭とは別に、貴族はここで宴を開いているのだろう。
王も、そこにいるのだろうか。
「ぼーっとしているんじゃないよ。ここで見つかったら生涯王様には会えないかもしれないよ」
リンドンの言葉に気を引き締め、小走りで後に続く。
数人の衛兵をやり過ごし、四人は遂に中庭に出た。
ガラスだ。
カンタレラは木々が光り輝いていた理由を理解した。
中庭の木という木の枝全てに、煌めくガラスの欠片が結いつけてある。
それが太陽の光を受けて、虹のように輝いているのだ。
ガラスの欠片はただ光るだけでなく、風にシャラシャラと心地よい音を立てている。
「なんて美しい……」
ここに来た目的がなければ、時が経つのも忘れるほど見入ったかもしれない光景。
だが、リンドンの言葉がカンタレラの頭から全ての景色を弾き飛ばした。
「ほら、あそこにいるのが王様だ」
中庭の中心、大きなガラスの噴水の前に人だかりが出来ていた。
飾り立てた女たち、誇らしげな貴族の男たち。広い中庭に数十人、いや人数は百を超えるだろうか。
何人いようと、カンタレラにはあまり関係がなかった。
目に映っていたのは一人だけだった。
近い。
バルコニーを見上げた時よりも、ずっと近い場所に、その人物がいる。
背が高い。知っている。
濃い茶色の髪。知っている。
鋭い視線も知っている。
緑の服に、この世でただ一人だけ身につけることを許された紋章が見える。
全ての特徴を知らずとも、それが誰だかわかったに違いない。
微笑みを浮かべ貴族達と語りながらも、刃物のような鋭さを失わぬ姿。
地方貴族などとは纏う空気が違う。目に見えぬ大きな力が、その体を覆っているかのように感じられた。
彼こそがアリシア王。アレス・アリシア。
身体が痺れる。
己の心臓の音が聞こえる。
カンタレラは動けなかった。
身体中が一つの大きな心臓に変わってしまったかのように、ドクドクと音を立てている。
アレス
アレス
アレス
今、そこにいるのだ。
太陽を直視したように視界が白い。
息が苦しい。
もっと、もっと近くに、会って、触れて、そして
殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺す殺す殺す殺す殺す殺す
快感が全身を支配する。今こそ自分が生まれてきた訳を理解する。
これがこの世に生を受けた理由だ。あの男を捕らえてその身にこの毒を注ぎ込む。その喜びに震えが止まらない。早く、今すぐ、この毒で――
「落ち着け阿呆」
後頭部に走った軽い痛みが、カンタレラを現実に引き戻した。
夢に片足を取られたような気持ちのまま振り返ると、呆れ顔のスラフィス・ランペールが、手を手刀の形にしたまま立っていた。
「……ごめんなさい」
「お、ちゃんと謝れたな」
気づけばカンタレラは隠れ場所から大分外に出てしまっていた。
人の多さが幸いしたか、誰もこちらに注意を払っていない。
スラフィスとふたり、何事もなかったような顔で木陰に戻った。
「何があったか知らないが、もう少し落ち着け。獲物の前の犬だって、さっきのお前よりは大分マシだ」
「……はい」
返す言葉もない。完全に我を失っていた。
『母』から教え込まれた心得の全てが、アレスの姿を見ただけで霧散してしまったのだ。
情けないどころの話ではない。
「王様が見られて気が済んだろ。帰るぞ」
手を引かれる。戻るべきだとはわかっていたが、カンタレラは後ろ髪をひかれる思いで振り返った。
こちらのことにはまるで気付かず、人々と語り合うアレスが見える。
できることならば声を聞きたいと思う。だがこれ以上の我儘は許されないだろう。
「わかりました。ごめんなさい。リンドンとイトも、私の我儘に付き合わせて……」
その時初めて、カンタレラは気がついた。
予見者と、千里眼の様子がおかしい。
イトとリンドンの顔色は蒼白だった。
まるで幽鬼を目にしたかのような、今朝、食事の席で見た、いや、それ以上に白い顔。
2人の顔は強張り、見開かれた目は共に何かを見ている。
アレスを……?
違う。王を見ているわけではない。
パーティの会場では何か余興が行われているようだった。
噴水の前で、可愛らしい幼い少女たちがダンスをしている。
手に花籠を持ち、髪にもドレスにも花があしらわれて、妖精のように可愛らしい。
イトとリンドンの視線は、その子供たちに向けられていた。
恐ろしさとは対極にあるかのような、可愛らしい少女たち。それを2人は強張った顔で見続ける。
カンタレラは背中を冷たいものが流れるのを感じた。
嫌な予感がする。
「イト……?」
イトの目が初めて動き、カンタレラの顔を見る。
震える唇が小さく開かれた。
「ごめんなさい」
「え……?」
嫌な予感が強くなる。
予見者の目はもうカンタレラを見ていない。
再び少女の方に向けられている。
その中の1人が、花籠を手に入れ王に近づく。
可愛らしい仕草でお辞儀をし、籠からバラの花を一輪、取り出し、差し出し――
「伏せろ!!」
誰かの叫び声と同時に、カンタレラは強い力で頭を押さえつけられ、
そして世界は暗転した。




