アシュと、コル
結局、あいつは俺についてきた。
追手を引きつけるために一人で歩き出したのに、半日たって振り返ると、岩の陰を伝って灰色の小さな影が距離を保ってついてきていた。追い払おうと石を転がしたら、素早く避けて、また同じ距離まで戻ってくる。三度繰り返して、諦めた。連れができたのなら、ザグの巡回を探る前に、まず二匹で動く形を作るしかない。
黒茸林の倒木地に着いたころには、並んで歩いていた。倒れた巨大茸の軸が屋根のような空間を作っていて、風も遮れるし、見通しもいい。俺は腰を下ろして、自分の胸を指さした。
「アシュ」
灰色は首を傾げた。もう一度、胸を叩く。
「アシュ」
しばらく、赤い目がじっと俺を見ていた。それから、唇が動いた。
「あ……しゅ」
初めて、声が出た。少しかすれて、ひどく拙かったが、確かに音になっていた。それが俺の名前だと、彼は理解したのだ。胸が熱くなった。
今度は相手を指さした。灰色はきょとんとしている。名前はないのだろう。生まれたとき、命令だけを与えられて、名前など誰も付けてくれなかったのだ。
「……何て呼ぼうか」
口にして、自分で苦笑した。通じない。通じないが、考えるのは自由だ。
本人が、先に動いた。小さな爪で自分の胸を叩き、喉を絞るように短い音を出す。
「コ……ル」
コル。どこから出てきた音なのかは分からない。生まれたときから頭の隅にあった音かもしれないし、今この場で作ったのかもしれない。どちらでもよかった。
「コル」
呼ぶと、灰色の目が少しだけ丸くなった。口の端がぴくぴく動いて、尻尾が地面を打つ。彼もまた、隠せない質らしい。
*
狩りは、二匹でやるほうが速い。
そう気づいたのは、その日の午後だった。コルは身軽で、小さな隙間に潜り込むのが上手い。俺は力があって、爪が届く。役割を分ければ、獲物が逃げる前に挟み込める。ただ、合図が必要だった。
足元の岩を、二度叩く。一拍置いて、もう一度。
「三つ。……こう。意味は、『通れる』だ」
言葉は通じない。石の音と手の動きで教えた。この道は開いている。この拍子を聞いたら、そっちへ進め。コルは真剣な顔で石を握り、かつん、かつん、……かつん、と叩いてみせた。驚くほど飲み込みが早い。
早すぎたのだ。
最初の狩りで、俺が魔虫の背後へ回り込んで三拍を叩くと、コルは「通れる」ではなく「今だ、行け」と受け取ったらしい。獲物へ一直線に突っ込み、正面から顎にぶつかった。魔虫は驚いて飛びのき、岩の隙間に逃げ込んで、二度と出てこなかった。
俺とコルは、無言で岩の隙間を見つめた。コルがばつの悪そうな顔で振り向き、俺はため息をついた。それから、吹き出した。コルも釣られて、喉を鳴らすような高い声で笑った。
二度目は、拍子に指を足した。合図は同じでも、指で獲物の位置と、俺の動く方向を示す。コルは慎重に頷いて、俺の指す側から回り込んだ。
魔虫は逃げ場を失った。俺の爪が首の節を断ち、コルが脚を押さえ込む。かかったのは四十呼吸ほどだ。一匹で追えば、半日は逃げ回られる相手だった。
肉を分けるとき、コルは自分の分を多めに取ろうとした。俺は指で肉を二つに分け、同じ大きさになるよう並べた。コルが首を振って、片方を指さし、それから俺の腕を指さす。
「アシュ、ち、から」
力があるから、多く食べろ、という意味らしい。だが俺は譲らず、同じ大きさの肉をもう一度並べて、コルに先に選ばせた。悩んだ末に、コルは小さいほうを取った。
この先も、食べる順は俺が決めない。飼う気はないからだ。
*
その夜、コルが突然、胸を押さえた。
倒木地の隅で並んで寝ていたとき、短い呻き声を上げて背中を丸めた。暗視で見ると、赤い目の光がいつもより強い。
「コル?」
答えはなく、口から荒い息だけが漏れた。命令が来たのだ、と分かった。新しい指令。ザグが俺たちの居場所を割り出して、配下の胸の刻印を通して命じたのだろう。
――殺せ。
コルの目が、完全に赤く染まった。
*
翌日の昼、森の避難穴で、俺たちは追い詰められた。
ザグが、既知の逃げ道を先回りして塞いでいた。穴の入口に棒を持って立ち、隣に回収班が数匹。逃げ道は二方向あったが、どちらも配下が見張っている。俺とコルは、別々の方向へ誘導された。
追い立てられて、狭い洞に二匹だけで入ったとき、コルの様子がおかしいのに気づいた。立ち止まって、肩を震わせている。洞の奥には、壁の裂け目が一本、細く外へ抜けていた。そこへ目を走らせたまま、手を伸ばした。
「コル、行くぞ」
爪が、俺の腕を裂いた。
一撃は浅かった。避けきれなかったのは、まさかと思ったからだ。血が跳ねて、洞の壁を濡らした。コルの顔が、苦しげに歪んでいる。
「ア……シュ。に、げ……」
声が、命令に引きちぎられるように途切れた。
次の瞬間、コルが跳んだ。目に生気がなかった。赤い光だけが燃えている。昨日、肉を分けて笑った顔ではなく、窪地で最初に見た空洞の目に戻っていた。それでも、口の端から漏れた声は、確かに「逃げろ」と言っていた。
俺は避けた。コルの爪が壁を削る。続けて二撃、三撃。小さな身体のどこにそんな力があるのかと思うほどの勢いだった。
殺さない。それだけを、頭の中で繰り返した。
コルが俺の脚に噛みついた。牙が深く食い込み、痛みで膝が折れる。見下ろすと、コルの目から、赤い涙のようなものが一筋流れていた。
命令に動かされているのに、彼は泣いていた。
俺はコルの頭に手を置き、そのまま力任せに引き剥がした。傷ついた脚に黒い血が滲む。壁に押しつけて動きを止め、爪の背で首筋を軽く打った。気絶させたのだ。コルは一瞬だけ俺を見て、力が抜けたように床に崩れた。
洞の隅に横たえて、傷を確かめた。命に別状はない。ただ、胸にまだ黒い糸のようなものが絡んでいるのが、暗視でなんとなく分かった。
友でも、止まらない。
コルを責められない。俺の枷は、人間の自我が先にあったから外れかけているだけだ。彼のそれは、生まれた瞬間から骨の髄まで打ち込まれている。
だったら、元を断つ。刻印を作り、命令を送り出している誰かを。
洞の出口に立つと、外にザグの影があった。まだ、俺たちを見つけていない。コルが目を覚ます前に、離れなければならない。連れていけば、また命令がかかる。置いていけば、捕まって籠に入れられるかもしれない。
それでも。
俺はコルの側に、肉の包みを置いた。石を二度叩き、一拍置いて、もう一度叩く。
通れる。
次に目を覚ましたとき、この音が、少しでも彼の胸に残っていればいい。
振り返らずに、裂け目へ身体を押し込んだ。ザグの目の届かない側へ、細い岩の隙間を抜けて。
*
一匹に戻った俺は、森の奥で影喰蝙蝠の巣を見つけ、一匹を仕留めて核を取り込んだ。影を操る膜の構造が流れ込んでくる。今は枠が足りないので、記憶にだけ残した。
巣を離れた帰り道、岩場の下で、見覚えのある影を見た。
コルだった。
傷を負いながらも、一匹で獲物を追っている。灰色の肌がわずかに濃くなって、手足が伸びていた。牙も以前より鋭い。進化したのだ。牙魔に。俺と同じ形に、自分の力で。
コルは魔虫を追い詰め、爪で首を断った。核を吸い、身体を震わせて立ち上がり、周囲を見回す。
目が合った。
赤く光る目の奥に、さっきまでの空洞はなかった。命令はまだ胸の底にあるのだろう。けれど今のコルは、自分の意志でこちらを見ていた。
俺が肉の包みを少し持ち上げると、コルは警戒しながら近づいてきた。肉を差し出すと、代わりに、自分で仕留めた魔虫の足をひとつ、俺の手に載せた。
取引だった。奪い合いでも、施しでもない。互いの分を渡し合う。離れても、生きていける。それを確かめられたのが、何より大きな収穫だった。
コルが石を二度叩き、一拍置いて、もう一度叩いた。三つ。通れる。
俺は笑って頷いた。
だが、胸の糸はまだ繋がっている。次に命令が来るときまでに、ザグを止めなければならない。あの男の巡回は、決まった順で回っている。数えれば、穴が見えるはずだ。




