片角の監督官
見つからなかったのは、運が良かったからだ。
足跡の前で長いこと立ち止まっていた影は、結局しゃがみ込み、灰を指でなぞって、鼻で笑ったように見えた。それから死骸の山に何かの印を付け、荷袋を肩に掛け直して、巡回路の向こうへ消えていった。
俺は岩陰で息をしないまま、十まで数える間を二度繰り返した。
手が震えていた。恐怖だけではない。あの背中が、今の俺では勝てないとはっきり告げていた。歩き方に無駄がない。肩の揺れで、あの武器の重さが分かる。冒険者のころ、格上の剣士とすれ違ったときと同じ感覚だった。
あの男はまた来る。次までに、あの男の動きを知ること。それと、正面から向き合えるだけの力をつけること。狙いはその二つだ。
ひとまず谷に戻って、二日、身を潜めた。
*
三日目、谷の下層で、酸を吐く蟲の群れに出くわした。
丸い胴に袋を二つ背負った、あの蟲だ。それが五匹。以前なら全力で逃げた数だった。一匹を倒すのにも、高い岩場を選び、石で挑発し、袋が空になるのを待って、半日かけたのを覚えている。
今日は逃げなかった。谷の縁を、走った。
五匹が一斉に首を向け、管の先から薄緑の飛沫を吐く。肩に降りかかった。熱い。皮膚が焼ける痛みはある。それでも、脚が止まらなかった。以前なら立ちすくんでいた強さの飛沫を浴びて、まだ走れる。
いつの間にか、身体のほうが酸に慣れていた。熱いものは熱いままだ。それでも、一滴で動けなくなる弱さは、もう消えている。
縁を一周するあいだ、俺は数えていた。五匹分の袋がしぼむまで、およそ二十呼吸。吐いた酸のほとんどは、俺の背中の後ろの岩を溶かしただけだ。弾切れになった蟲は、ただの足の遅い丸い塊になる。
踏み込んで、爪を振るった。一匹、二匹。脚の付け根を断ち、袋の根元を避けて、首の節へ。三匹目が逃げようとしたので、跳脚で背中に着地し、そのまま爪を落とした。
残る二匹は、袋をしぼませたまま背を向けた。追うまでもない。逃げる側と追う側が、気づけば入れ替わっていた。
核を吸い、獲物を担いで谷を上ると、斜面の途中で巡回路が見えた。
道の上を、行列が進んでいた。灰魔が数十匹、首と腰を縄でつながれ、棒を持った大柄な悪魔たちに追い立てられている。後ろから荷車が続き、荷台の鉄の籠に、赤い目の灰魔がぎゅうぎゅうに詰められていた。
回収班だ、と分かった。
籠の中の連中は、どこかへ運ばれていく。何のために。俺は身を伏せて、列が谷を抜けるまで見送った。吐き気が、また込み上げてきた。
*
逃げ回る日が続いた。
その日、斜面を登る途中で、背後に足音を聞いた。振り向いた先に、あの影が立っていた。
近くで見ると、思ったよりも年老いた印象だった。背丈は俺の倍以上、灰色の肌は硬い鱗に覆われ、左の角は根元から折れて、傷痕だけが残っている。右手に鉤のついた長い棒を持ち、腰に命令板らしい石の板を下げていた。
目が、疲れていた。赤く光ってはいるが、生まれたてのやつらの空洞の赤ではなく、長いこと同じ道を歩いてきた者の、くすんだ赤だ。
「そこにいたか」
言葉が、意味として流れ込んできた。地獄語。声帯ではなく、胸に響く声だった。
「監督官のザグだ」
淡々とした名乗りだった。
「選別場で、命令に従わない個体が出ると、報告が上がる。三日前から、お前を追っていた。足跡が妙だった。群れから離れて、別の方向へ歩く。それなのに、生き残っている。獲物の核を取っている。明らかに、自分で考えて動いている」
ザグは棒の石突を、地面にとんと下ろした。
「戻れ。区画へ戻って、命令に従え。お前は、ここで生きていける素質がある。ただし、領主の手駒としてだ」
腰の石板が、淡く光った。
頭が、割れた。命令の鐘がこれまでにない強さで鳴り、頭蓋の内側で金属が擦れて、視界が白く弾ける。膝が折れそうになるのを、爪を地面に突き立ててこらえた。従え。従え。従え。
従わない。
歯を食いしばって顔を上げると、ザグの目が、少し驚いたように見えた。
「ほう。まだ立っているか」
棒が横に払われた。頭痛で反応が遅れ、かわしきれずに、鉤が肩の皮を裂く。血が飛ぶ。転がって距離を取ろうとしたが、後ろは崖で、すぐ背中が岩に当たった。
ザグは慌てなかった。一歩ずつ、狭い斜面を詰めてくる。逃げ道は左の細い岩場と、右の急斜面。どちらも棒の間合いの中だ。
「逃げるのか」
ザグが言った。
「逃げるなら、好きにしろ。だがな、逃げるだけなら、俺より長くやってから言え」
折れた角が、薄い光の中で目立った。この男も、逃げてきたのだ、と分かった。かつて領主に挑み、角を折られ、生き延びるために看守の座を選んだ。逃げて逃げて、行き着いた先が、他の個体を狩る側だった。その経験が、俺の逃げ道を全部読んでいる。
命令板が、また光った。視界が揺れる。膝が笑う。
俺は後ろへ跳んだ。崖側ではなく、棒の届かない斜め上へ。跳脚で岩壁を蹴り、身体をひねって、岩の裂け目に押し込む。ザグの棒が、さっきまで俺のいた場所を薙いだ。
裂け目は狭く、ザグの体格では入れない。俺はそのまま裂け目を滑り降りた。
背後でザグの声がした。
「逃げ足は、悪くないな」
追ってこない声だった。俺がどこかで必ず引っかかると、分かっているのだろう。
*
裂け目の底は、湿った浅い洞だった。
肩の傷を押さえて、闇の中で息を整える。その奥に、先客がいた。灰色の小さな影に、赤い光が二つ。骨礫溝のやつだった。
向こうも俺を見て固まった。以前より少し大きくなっている。その身体にも、新しい傷が走っていた。追われていたのだ、と気づいた。
入口の外から、ザグの配下らしい足音が近づいてくる。二匹は同時に入口を睨み、それから顔を見合わせた。洞の出口はもうひとつ、奥の狭い隙間にある。俺がそちらを指さすと、相手は黙って頷いた。
入口側を俺が、奥側を相手が受け持ち、交代で目を閉じる。言葉は通じないのに、決めるのは簡単だった。
一匹で過ごす夜と、二匹で過ごす夜は違った。何も話さないのに、背中の向こうに誰かがいる。それだけで、肩の力が抜ける。
夜半、俺は目を閉じたまま、身体の底の枝を探った。酸の腺を休ませ、保存しておいた熱這いの情報を選び直す。皮膚の下がじんわり熱くなり、掌の奥が、ぽうと灯った。
*
朝、ザグの追手の足音は消えていた。洞を出て、岩場で獲物を狩った。猟虫という、細長い脚の肉食蟲だ。
灰色は少し離れた場所で、同じように狩りをしていた。俺は獲物を肉と核に分け、肉は半分、核は相手に渡した。相手は驚いたような目で俺を見て、それから核を受け取った。
そのとき、岩の陰から、別の猟虫が飛び出してきた。俺の背後だ。
振り向きざま、掌をかざした。
ぼっ、と音がして、黒い炎が噴いた。長さは腕一本分。猟虫の顔にぶつかって、殻を焦がした。虫は甲高い声を上げて転がり、そこへ爪を落として仕留めた。
掌から煙が出ている。人間の魔術師は長い詠唱をして、ようやく小さな火を灯す。この身体は、掌を向けるだけで燃えてくれる。カチュアに見せたら、きっと目の色を変えて質問責めにするだろう。「発動条件は?」「魔力の消費は?」「何度まで出せる?」と、早口で。
懐かしさで胸が痛んだ。気を取り直して、獲物を焼くことにした。
猟虫の脚を、黒い炎であぶる。いい匂いがした。脂が落ち、表面が香ばしく焼けていく。ようやく、焼いた肉にありつける。
……強すぎた。
火力の加減が分からなかった。脚は見る間に真っ黒に焦げ、炭の塊になった。慌てて別の脚を取ったが、それも焦げた。結局、一番大きな部位だけが、辛うじて食べられる状態で残った。
灰色の相手に、切り分けた肉を差し出した。受け取った相手は、焦げた肉を見て、それから俺を見た。赤い目が微妙に細くなる。「これは何だ」という意味だけは確実に伝わった。
俺は視線を逸らした。二匹で黙って炭の肉を齧った。苦い。それでも、焼いた肉の味がした。
*
その夕方のうちに、嫌なことに気づいた。
洞の外に、焦げた匂いが漂っている。煙が風に流されていた。足元の灰には、焼いた跡がくっきり残っている。誰かが見れば、すぐ分かる。
案の定、翌朝、遠くの斜面にザグの影が立っていた。焼け跡の前にしゃがみ込み、指で黒い灰をつまんでいる。顔を上げ、周囲を見回した。その視線を、俺は岩陰から見ていた。
ばれた。隠れ方を変えなければならない。
ここまでの俺は、逃げて隠れることしか考えてこなかった。それは、ザグにとって一番読みやすい動きだ。
だったら、追わせる。
巡回の経路。命令が出る時刻。回収班の動線。ザグは命令板を使う前に、必ず外縁を一周する。その間、道に空白ができる。戦う場所は、俺が決める。
灰色のいる方角を見た。あいつは、巻き込まない。
俺は反対側の道へ歩き出した。わざと、足跡を残しながら。




