酸と、黒い血
強くなると、腹が減る。
当たり前のことなのに、気づくまで三日かかった。跳脚で斜面を駆け回り、黒爪で獲物を仕留め、核を吸って身体を作り変える。そのぶんだけ、食べなければ足りない。灰魔だったころの倍の量を食べても、夜には腹が鳴った。
そこで今日の狙いは二つに絞った。食料の備えを固めること。それと、谷の向こうに火を使える場所があるかを見に行くこと。焼いた茸の味が、あれから頭を離れない。
まず狩りの仕方を変えた。同じ虫ばかり追うのをやめて、魔茸を集め、小さな核は日持ちするものから先に確保する。浅い穴は一つに頼らず、骨礫溝の三か所に隠し穴を掘って、少しずつ備蓄を分けた。冒険者のころの癖だ。荷物は一か所にまとめず、帰り道ごとに置く。誰かに奪われても、全滅しなくて済む。
おかげで、二週間目の朝に隠し穴のひとつが荒らされているのを見たとき、慌てずに済んだ。減っていたのは、茸が数本と、干した肉の欠片がひとつだけ。灰の上に、小さな三本指の跡が残っていた。俺のよりも小ぶりで、歩幅が短く、尾を引きずった線がある。
あいつだ、と思った。骨礫溝の亀裂に挟まっていた、あの灰色だ。生き延びていたらしい。そして俺の穴を見つけて、盗んでいる。
足跡を追って骨の山の影へ回り込むと、小柄な灰色が茸をくわえて走っていくのが見えた。跳脚で距離を詰める。向こうは狭い隙間へ潜り込み、器用に身をよじって、あっという間に見えなくなった。細い穴の中までは追えない。
悔しかったが、無駄に追うのはやめた。食料の置き場所を変えただけだ。茸は岩の割れ目の奥へ、肉は高い棚の上へ。同じ手は二度は通じない。
翌日、棚の上の肉は無事だった。かわりに、隠し場所の一番手前の岩の上に、小さな硬い殻が一枚、ぽつんと置かれていた。灰牙蟲の脚の殻の欠片で、黒く光っていて、爪ほどの大きさだ。
返礼なのか、偶然なのか、判断がつかない。嫌がらせの可能性もある。ただ、盗むだけ盗んで何も置かずに去ることもできたはずだ。殻を拾って、穴の奥の棚に載せておいた。
*
骨礫溝から斜面を二つ越えて、硫黄の匂いが強くなったのは、半月後のことだ。
谷は、赤く燃えていた。岩肌のあちこちから噴気孔が白い煙を吐き、谷底の沢は黄色く濁って、ぼこぼこと泡を立てている。足元の地面が熱く、踏むと靴底が焦げるように感じる。靴などないが。
熱い風を肺いっぱいに吸い込んだ。火が使えるかもしれない。そう思って来たのに、見渡す限り、煙と熱と岩しかない。調理に向いた穏やかな火は、どこにもなさそうだ。
岩から岩へ跳んで進み、一歩目で足を踏み外した。地面に見えた灰が、噴気孔を覆っていただけだった。足首まで熱気に焼かれて飛び退き、冷たい岩に足の裏を押し当てる。ひどい水ぶくれができたが、動けないほどではない。
痛みをこらえて観察すると、間隔があった。噴気孔は一定の周期で煙を吹く。吹く直前に、地面の灰が膨らむ。その間隔と大きさを見れば、安全な足場は選べる。谷を渡るのに必要なのは、脚力ではなく、観察だった。足を引きずって岩陰まで退き、傷が癒えるのを待った。牙魔になってから、小さな傷なら半日もあれば塞がる。
谷の底に、動くものが見えた。
蟲だった。灰牙蟲とは別の種で、胴体が丸く膨らみ、背に二つの袋を抱えている。脚は短く、動作は遅い。しかし袋が震えるたびに、先端の管から薄緑の飛沫が噴いて、岩を黒く変えていく。
酸だ、と見当がついた。
*
灰魔のままなら、あの飛沫を一滴浴びただけで逃げ回っていただろう。今日は、先に考えることにした。
小石を投げて蟲の注意を引き、飛沫の落ちる位置に骨片で印をつけていく。思ったより遠くまで届く。安全だと思った場所にも跳ね返りが降った。そして、気づいた。蟲は二つの袋を交互に使っている。片方が吐くあいだに、もう片方が膨らむのだ。一つの袋が空になっても、その瞬間にはもう一つが満ちている。
両方を空にさせればいい。
傾いた岩場に陣取った。蟲を上の位置から見下ろせる場所だ。酸は下へ流れる。こちらは濡れない。石を投げると、蟲が体を起こして右の袋を膨らませた。吐く。岩が溶ける。間を置かず、もう一つ石を投げる。今度は左の袋だ。吐く。管が空になって、蟲の胴がしぼんだ。
どちらの袋も縮んでいる。その一瞬に、跳んだ。
黒爪が蟲の脚の付け根を断つ。次にもう一本。体勢を崩した蟲は、岩の傾斜を滑って谷底へ転がり落ちた。上から追いかけて、袋の根元を避けながら、首の節へ爪を突き入れた。足場探しと挑発に半日かかったが、仕掛けさえ噛み合えば、止めは数手で済んだ。
倒れた蟲から核を取り出し、吸収する。熱と一緒に、情報が流れ込んできた。酸を貯める袋の仕組み。分泌する管の構造。これを、牙の枝のように、自分の身体に使える形に変えられないか。
隠し穴に戻って、休みながら試した。熱を爪の先に集めると、今度は黒爪の代わりに先端がじわりと湿り、黒い液体が一滴、にじんだ。
薄い石片に垂らしてみる。
――じゅっ。
小さな音を立てて、石の表面が溶けた。煙はほとんど出ない。液のついた場所が黒く染まって、わずかに窪んだ。
腐蝕黒血。そう名付けることにした。
一滴出すだけで、全身がだるくなる。使い放題ではない。それでも、武器が増えた。黒爪で斬り、黒い液で溶かす。装甲に弾かれた爪も、液を先に塗っておけば、少しずつ通るはずだ。爪の跡が石の中に、もう少し深く沈んだ。
面白い、と素直に思った。
*
帰り道、噴気孔に巣を作る熱這いを一匹倒して、核を取り込んだ。熱を扱う仕組みも流れ込んできたが、今の身体には載せる余裕がない。この枝は保存しておく。
骨礫溝のほうへ戻る途中で、妙なものを見つけた。
石だった。ただの石ではない。表面がきれいに削られて四角く整えられ、同じ形の印が彫り込んである。道の脇に、一定の距離を置いて並んでいた。
道具で加工されたものだ。自然にできるはずがない。誰かがここに石を置いた。道しるべとして。印の意味は読めないが、等間隔に並ぶ印をたどれば、どこかへ繋がっているのは確かだった。
ついていくことにした。
骨礫溝のはずれから細い通路へ入ると、通路は巡回路のようにあちこちで枝分かれして、大きな輪を描いて続いていた。道の途中に焚き火の跡がある。誰かが、定期的に歩いている道だ。
その先で、見つけてしまった。
窪地のはずれの岩の裏側に、小さな悪魔の死骸が積まれていた。十、二十、それ以上。灰色の小さな身体が乱暴に折り重なり、どれも爪で裂かれたり、噛まれたりした跡がある。生まれてすぐの殺し合いで死んだ連中だ。
そのすべてから、胸のあたりだけがえぐり取られていた。核だけが持ち去られている。
ここは、自然の狩場ではないのだ。命令を出し、殺し合いをさせ、最後にその結果を回収する誰かがいる。生まれた個体は、そのための材料にすぎない。足の裏から冷たいものが這い上がってきて、背骨に沿って頭まで届いた。
そのとき、遠くで足音が鳴った。
重い、規則正しい足音。靴音のような、硬いものが石を叩く音。俺は岩陰に飛び込み、身を低くした。
道の向こうから、影が近づいてくる。背が高く、肩幅が広い。片手に長い棒のような武器を持ち、もう片方の腕に荷袋を下げている。顔は暗くて見えない。ただ、頭の左側の角が途中で折れているのが、シルエットで分かった。
巡回者だ。
その影は、死骸の山の前で足を止めた。何かを確かめるように周囲を見回し、それからゆっくりと視線を下へ落とした。
灰の上の、俺の足跡のところで。
そこで、止まった。




