届かなかった場所へ
脚が良くなりすぎるのも、考えものだった。
今日の狙いは、新しい脚を思いどおりに使いこなすことと、谷の向こうへ登る足がかりを見つけることだ。骨礫溝の上段で、膝を曲げ、尾で釣り合いを取って、斜面の岩棚へ向かって跳ぶ。三歩、四歩。伸ばした脚がちゃんと岩を捉えて、爪が縁に掛かる。気持ちがいい。気持ちがいいので、調子に乗った。
五歩先の岩へ、力いっぱい跳んだ。
行きすぎた。岩棚を飛び越えて、向こう側の斜面に腹から落ちた。灰の上を転がり、骨の山に頭から突っ込んで、積んであった肋骨がばらばらと崩れる。しばらく仰向けのまま空を見ていた。
人間だったころの歩幅で踏み込むと、足が勝手に先へ行く。身体はもう別物なのだと、体で教え込まれた。
起き上がって、尾の使い方を覚え直した。着地の瞬間に尾を後ろへ振ると、重心が引き戻されて、膝が衝撃を吸う。振りすぎると、逆に引っ張られる。何度も転んで、ようやく五回に四回は立っていられるようになった。
この動きに名前をつけた。名前がないと、頭の中で整理がつかない。
跳脚。そのままだが、分かりやすいのが一番だ。
*
昼過ぎ、斜面を登っていると、足元の灰が小さく震えた。
灰牙蟲だった。
数日前、俺の寝床を荒らしたやつと同じ型だ。あのときは殻に黒爪を弾かれ、尻尾を巻いて逃げた。骨のくさびを削り、振動で誘い込み、顎を噛ませて、黒爪が保つ数呼吸で首の節へ届かせるまで、丸一日の段取りがいった。
今日は岩陰から、その同じ顔つきが顎を鳴らして出てきた。
立ち止まって、見下ろした。見下ろしていた。そのことに自分で驚いた。以前は見上げるほどだった図体が、今は頭の位置がほとんど変わらない。
蟲が突っ込んできた。鎌が閃く。俺は動かなかった。ぎりぎりまで引きつけてから、右へ半歩。跳脚を使うまでもない。顎が空を噛んだ瞬間、脇へ踏み込んで、首の節へ黒爪を通した。
手応えは、あっさりしていた。蟲は数歩よろけて倒れ、爪を抜くと体液が灰の上に黒く広がった。くさびも罠も使っていない。かかったのは三呼吸だ。
腹の底から、何かが突き上げてきた。
勝った、という実感ではない。それはもう昨日までに味わった。今日のは別の種類の気持ちよさで、比べられる、ということだった。前は丸一日かかったことが、今は三呼吸で済む。その差が、ちゃんと身体の中に積み上がっている。
人間だったころは、強くなったと胸を張って言えた日がほとんどなかった。昇級試験に落ちたり、剣の腕が頭打ちになったりして、前進が見えない日が続いた。ここでは違う。倒せば、食えば、変わる。
核を口に入れた。熱が走る。尾が岩を叩いた。もう、隠さなかった。
*
その夜は、久しぶりにまともな食事をした。
といっても、蟲の腹の柔らかい部位を、骨の刃で切り分けただけだ。それでも、選べるようになったのが大きい。以前はとにかく何でも口に入れて飢えをしのぐだけだった。今日は、脂が乗った部分と筋の多い部分を見分けて、旨そうなほうを取った。
焼けていないのが悔しい。
肉を口に運びながら、谷の方角へ目をやった。斜面の下から熱い風が吹き上がってくる。硫黄のような、つんとする匂いが混じっていた。熱を吐く谷があるのだ。岩が焼けている場所なら、肉を載せるだけで焼けるかもしれない。
次の目的地が決まった。出口を探すことと、まともな飯を食うこと。優先順位は、今のところ半々だ。
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翌朝、斜面をもうひとつ上った。
岩棚の先に、黒い巨大な茸が林のように並んでいた。傘は俺の何十倍もあり、軸は樹の幹ほどに太い。足場を探して傘のひとつの端へ跳び乗り、そのまま裏側を覗き込んだ。
息を呑んだ。
傘の裏が、青白く光っていた。
無数の襞が内側から淡く灯って、夜空の星を逆さまに貼りつけたように瞬いている。風が吹くと波打ち、物音がすると、そちらへ向かってさざ波が走った。足元の胞子が俺の足音に合わせて揺れ、小さな光の輪を遠くへ広げていく。尾の先が光に触れるたび、その輪がぱっと増えた。
ここまで、灰と骨と血の色しか見てこなかった。それが急に、青になった。
しばらく、ただ立っていた。地獄にも、こんな景色があるのか。恐ろしい場所のはずなのに、ここだけは静かだった。光に誘われた小さな虫が群がって、それを追う捕食者もいる。どこにでも命は動いている。
すごいな、と思った。
*
傘の下の道に、灰魔の群れが見えた。
十数匹が隊列を組んで、同じ方向へ歩いている。足並みが揃い、目は赤い。獲物を探しに行くのでも、縄張りを守るのでもなく、ただ誰かの意志のとおりに動かされている。その横で、魔虫の群れが騒いでいたが、灰魔たちは目もくれずにまっすぐ進んでいった。
命令は、俺の頭にも響いていた。薄く、遠く、さっきの群れと同じ方向へ向かえと言っている。引っ張られる感覚がある。
俺は、その逆へ跳んだ。
傘の端で、小さな魔虫が二匹、俺に気づかず歩いていた。一匹目の背中に降りて爪を通し、そのまま二匹目の頭を尾で払う。倒れたところへ二撃目の爪。連続の動きは、三呼吸で終わった。
爪の出し方、脚の踏み込み、尾の振り方。以前は一つずつ考えなければならなかったものが、ひとつながりの流れになっている。自分で選び、自分で組み立てた動きだ。
選べるのだ、と気づいた。どんな悪魔になるかは、声が決めるのでも、命令が決めるのでもない。俺が決める。同じ牙魔でも、同じ戦い方をする必要はない。
傘の上に座って、遠くを見た。
青い光の海の向こう、闇の中に、等間隔の小さな灯りが並んでいた。茸の光ではない。誰かが、列を作って置いた光だ。さっきの隊列が歩いていった方角へ、まっすぐに。
目を細めた。
あの灯りの先に、あの隊列を動かしている何かがいる。




