牙魔、誕生
寝床を取られた。
三日目の夕方、狩りから戻ると、浅い穴の入口を塞ぐ骨の板が外されていて、中に先客が居座っていた。灰牙蟲だ。ただし、昨日の蟲とは桁が違う。胴は俺の倍近く長く、背中の殻は節ごとに分厚く、顎の鎌は岩を噛み砕いた跡で濡れている。その顎が、干しておいた黒茸の束をがりがりと咀嚼していた。
俺の晩飯だった。
腹の底から怒りが湧いた。と同時に、冷静な部分が「あれは無理だ」と告げていた。試しに石を投げてみると、殻に弾かれて乾いた音を立てただけだった。それでも、黒爪を出した。胸の牙の枝から熱を送ると、指先に黒い刃が立つ。一歩踏み込み、振り向いた蟲の側面へ思い切り突き立てた。
――がん、と。
爪が弾かれた。火花のような黒い粉が飛び、指の根元に鈍い痺れが走る。刃は殻の表面を滑っただけで、傷一つつかない。蟲が顎を振るった。反射で転がると、鎌がさっきまで俺の頭があった岩に深い溝を刻んだ。背筋が冷えた。
逃げた。
骨礫溝の曲がり角を二つ曲がって、ようやく振り返ると、蟲は追ってこなかった。穴の前に陣取って、俺の茸を食べ続けている。縄張りを守るつもりなのか、ただ食い意地が張っているだけなのか。どちらにしても腹立たしい。尻尾までが、悔しがって地面をぺしぺし叩いていた。
骨の陰に伏せて、息を整えた。今日の狙いは決まった。寝床と晩飯を取り返す。ただし、あの殻を正面から破る手はない。
厚い殻に黒爪は通らない。では、殻のないところを探せばいい。昨日の蟲は首の節が柔らかかった。この大きさでも同じ作りのはずだ。問題は、そこへ爪を届かせる方法だった。
思い出す。蟲が最初に俺を見つけたとき、足元の灰が震えていた。あいつは目より先に、地面の揺れで獲物を探している。
だったら、揺らしてやればいい。
*
傷が癒え、小さな核をいくつか喰らって体力を戻すまで、丸一日かかった。その間に、必要なものを集めた。拳ほどの石を三つ。それと、折れた肋骨の太い欠片を一本。欠片は先を削って、くさびの形にした。昨日の蟲は、爪を三度叩き込んでやっと倒した相手だ。今日の相手は、爪が一度も通らなかった。力で勝てないなら、手順で勝つしかない。
翌日、俺はまた穴の前に立った。蟲はまだそこにいた。茸は食い尽くしたらしく、頭を低くして眠っている。
石を二度叩き、一拍置いて、もう一度叩いた。
かつん、かつん。……かつん。
無意識だった。昔の癖で、仲間への合図を叩いていた。叩いた瞬間に気づいて、自分に苦笑する。ここには誰もいない。この音は、誰にも届かない。
ただ、悪くない拍子だった。蟲が目を開け、顔をこちらへ向ける。同じ拍子でもう一度地面を叩くと、鎌を開いて近づいてきた。まっすぐに、俺の足元の揺れだけを見て。
俺はぎりぎりまで引きつけ、顎が開いた瞬間に、くさびにした骨を縦に噛ませた。
ばきり。
骨が鎌のあいだで突っ張った。蟲は顎を閉じられなくなって、首を左右に振り回す。固い殻が岩を叩き、尾がめちゃくちゃに地面を打つ。灰が舞い上がるなかで、持ち上がった首の下に、白い皮のような節がのぞいた。
今だ。
左の爪を殻に引っかけて身体を引き上げ、右手の黒爪を首の節へ突き立てる。昨日の蟲より、はるかに分厚い皮だった。それでも爪は確実に沈んでいく。肘まで入れる勢いで腕全体を押し込むと、体液が噴き出して顔を濡らした。
蟲が最後の力で暴れた。尾が脇腹を打ち、息が詰まる。振り落とされそうになる。爪を抜けば逃げられるが、それでは同じことの繰り返しだ。俺は爪に力を込めたまま、もう片方の手で殻の縁にしがみついた。
黒爪が保つのは数呼吸。
一、二、三。指先から刃が薄くなっていく気配がする。身体のなかの熱が引いていく。四。ここで消えれば、爪が抜けて終わりだ。五。
最後に手首を返した。節の奥にある硬いものに爪が当たる。そこを、えぐる。
蟲ががくんと痙攣して動きを止め、巨体が横倒しになった。俺はその背から転げ落ち、灰の上で何度か咳き込んだ。爪はちょうど、短い灰色の指に戻っていた。
……勝った。
呟いたつもりが、声は掠れていた。立ち上がると足が震えている。それでも、自分の力と手順で倒した。ただ逃げ回っていた三日前の俺には、できなかったことだ。
倒れた蟲の殻の隙間に、拳より大きな核が脈打っていた。
*
核を抱えて穴に戻り、入口の骨の板を元通りにして、中に座り込んだ。取り戻した寝床は、思った以上に小さく感じた。三日前は広く見えたのに、今は膝を抱えただけで壁に当たる。食い荒らされた茸は一本も残っていなかったから、晩飯は核だ。
核を握った。
熱が腕を駆け上がる。昨日の骨虫のときとは比べものにならない。身体の内側で何かが軋み、骨が鳴り、皮膚が内側から押され、全身の脈が耳元で打った。胸の中で、二つの枝が膨らんだ。
一つは、殻。厚く重く、守りに特化した形。灰魔の身体をそのまま固めて、全身を甲冑のようにする道だ。もう一つは、牙。脚が伸び、顎が強くなり、黒爪をもっと長く保てる身体。
どちらも魅力的だった。殻魔になれば、先日の蟲の顎を受けても平気になる。生き延びるだけなら、そのほうが堅い。命令で殺し合いをさせられる環境でも、硬ければ死なない。
でも、守って待つだけでは、帰れない。
俺が欲しいのは、出口だ。出口は、たぶん上にある。あの窪地の外、谷の向こう、もっと高い場所のどこかに。そこへ行くには、硬さより、動ける脚が要る。
「……牙だ」
唇の隙間から漏れた声が、小さく響いた。枝の片方がぱっと明るくなり、残る一方が静かに遠のいていく。完全に消えたわけではないと分かった。白い光が、うっすらとその根元を撫でている。それを確かめる暇もなく、意識が遠のいた。
*
目覚めたとき、天井が近かった。
比喩ではなく、本当に近い。穴の天井に頭の角が当たっている。身体を少し起こしただけでごつんとぶつかって、声にならない悲鳴が出た。涙が出た。痛みのせいだけではなく、あまりにも情けなかったからだ。
痛みが引いてから、自分の身体を点検した。手足が長い。細く、しかし筋が通っている。灰色の肌は少し濃くなって、皮の下に筋肉の線が浮かんでいた。顎が前に突き出し、指で触れると、牙が上下にぴたりと噛み合う。背丈は昨日の五割増しといったところで、尻尾も太くなってバランスを取りやすい。
立ち上がって、足の裏を地面に押しつけた。踏みしめた脚が、これまでと違う。バネのような弾力が、筋の奥に仕込まれている。
試したくなった。
骨板をどけて外へ出ると、穴の前には、毎日出入りしてきた高さ一丈ほどの岩の段があった。昨日までは、そこへ登るのに手がかりを探して、爪を引っかけて、丸一日かけた場所だ。見上げて、膝を曲げる。脚の裏に力が溜まる。
そして、跳んだ。
風が顔を打った。岩の段が足の下を流れて、縁の上に身体が浮く。指先が縁にかかり、反射で爪を立てると、黒爪が一瞬で伸びて薄い岩を欠いた。そこを足がかりに、身体を引き上げる。
ほんの一跳びで、昨日まで見上げていた場所に立っていた。
振り返ると、眼下に昔の寝床があった。小さな、小さな穴だった。あそこで三日、膝を抱えて震えていたのかと思うと、笑いが漏れる。
前を向いた。岩の段の向こうには、まだ誰も踏んでいない広い斜面が続いている。この脚なら、谷の向こうまで行けるかもしれない。明日はそれを確かめに行く。
俺は牙魔だ。小さくて、弱くて、命令に震えるだけの灰魔じゃない。まだ名前も付いていない新しい身体で、見たことのない景色へ踏み出す。
背中で尻尾が、ぱしんと岩を叩いた。喜びの音だった。今度は、隠さなかった。




