尻尾だけが正直だ
朝になった。少なくとも、赤黒い空が少しだけ薄くなったので、そう呼ぶことにした。
今日の狙いは二つある。胸に並んだ二つの枝を、声の言うとおり「ひとつ」にせず、両方生かす道を探すこと。それと、まともな飯にありつくこと。順番は、腹の機嫌次第だ。
骨の隙間で目を覚ますと、隣の灰色はいなくなっていた。夜のうちに出ていったらしい。灰に足跡が点々と残って、谷の奥へ伸びている。追うつもりはなかった。命令に突き動かされている相手と同じ寝床にいて、朝まで無事だっただけで上出来だ。
水たまりを見つけたので、顔を洗おうとした。屈んでのぞき込むと、水面に灰色の小鬼が映った。小さな角、大きな赤い目、三本指。細い尾が、背の後ろでぴくぴく揺れている。
ひどい顔だった。灰まみれ、泥まみれで、目の周りに煤が貼りついている。ユアン・フェルドでいたころの鏡の中の俺は、もう少し冒険者らしかった。無精髭を剃り忘れたり、耳の後ろに寝癖を作ったりしていた。ここにいるのは、どこにも属さない灰の塊だ。
灰だ、と思って、舌の上で言ってみた。
「アシュ」
声は喉の奥で小さく鳴った。人間の言葉にはならなかったが、頭の中ではちゃんと響いた。灰。悪くない。名前を与えれば、少なくともこいつは、俺が面倒を見る生き物になる。
水をすくおうとして、両手を合わせ、いつもの調子で水面へ差し入れた。
短い腕が、肩の位置から水に届かなかった。
前に倒れた。顔から水たまりへ突っ込んだ。しばらく、そのまま水の中で固まっていた。誰も見ていないことを、心から願った。
*
二つの枝は、胸の内で並んで脈打っていた。牙と、殻。
命令の声は、日が昇っても静かにならない。ただ、昨日よりは遠かった。慣れたのか、向こうが諦めたのか。頭痛も軽い。
ひとつにしろ、と声は言う。ならば、ひとつにしてやらない。二つ並べたまま、片方を手の先まで流せないか。
目を閉じて、牙の枝をたどった。昨日の灰牙蟲の顎。ぎりぎりと噛み合う、黒く光る鎌。それを爪の先へ移す。吸った核の情報を、自分の身体で使える形に組み替えるつもりで、胸から腕へ熱を降ろしていく。
指先が、じんと痺れた。
目を開けると、右手の爪の先に黒いものが伸びていた。蟲の顎そのものではない。二本の、短く尖った黒い爪だった。灰色の指から生えた黒曜石の刃のように、薄く、光を吸い込んで立っている。
黒爪。そう呼ぶことにした。
「……おお」
人間の剣に比べれば、笑ってしまうほど短い。指の半分もない。けれど、握っているのとは違う。指の続きだ。ヴェル=グラートで何年も剣を振ったが、剣が手の代わりをしてくれたことは一度もなかった。この身体は、手そのものが刃になる。
試しに、寝床の入口に張り出した白い骨の薄板へ、爪を滑らせた。昨日から邪魔で、爪を立てても傷ひとつつかなかった突起だ。
ぱきん、と乾いた音がして、板がすとんと落ちた。断面は鏡のように滑らかだった。
そこで爪がすうっと薄くなった。黒い刃は数呼吸で元の短い爪に戻り、身体の中から熱が引いていく。長くは保てないらしい。今のところは。
十分だ。切れた骨の端を撫でて、声を出さずにもう一度笑った。
*
腹が減った。
核を取り込んだ代わりに、身体がやたらと何かを欲しがる。昨日まではそれどころではなかっただけだ。
骨礫溝の端に、黒く平たい茸が群生していた。傘は手のひらほど、軸は細く、断面が青白い。嗅ぐと、焦げた木の皮のような悪くない香りがした。毒かもしれない。迷ったが、昨日見た小さな悪魔が同じ茸をむしって齧っていたのを思い出した。同じ種族なら、胃袋も似ているはずだ。
かじった。苦い。苦いが、噛むうちに舌の奥から旨みが出てきた。食感は焼き茸に似ている。
――焼いたら、旨いだろうな。
そう考えた途端、記憶が溢れた。ベルンの宿の食堂。厚切り肉を炙る香り。バルトが「今日は俺のおごりだ」と笑い、エドガーが皿を並べ、ティアナがパンを切る。カチュアは「一口だけ」と言って半分持っていく人だった。俺が抗議すると、何食わぬ顔で鼻歌を歌い始める。
唾が出た。出たはいいが、目の前にあるのは生の茸だけだ。
そのとき、傘の裏で何かがかさりと動いた。
白い小さな骨虫が、茸の根元から三匹這い出してきた。昨夜、核を飲んだのと同じ種類だ。茸を狙う同業者らしい。三匹とも、こちらへ顎を向けている。
昨日の灰牙蟲は、首の節に爪を三度も叩き込んで、やっと倒した。あの小型版が三匹。昨日の爪なら、一匹ごとに突いて、突かれて、半日がかりだった。
黒爪を立てた。
一匹目の首の節へ、横に一振り。頭が灰の上に転がった。二匹目は跳びかかってきたのを半歩ずらしてかわし、すれ違いざまに一振り。三匹目は逃げ出したが、背後に踏み込んで、これも一振りで終わった。
三匹、三振り。かかった時間は、ほんの数呼吸だ。
爪が薄くなる前に、俺は骨虫の死骸から米粒ほどの核を三つ抜いた。一つを口に入れて、奥歯で噛み潰す。焦がした砂糖と鉄の味がした。妙な味だ。口を歪めて飲み込み、できるだけ不味そうな顔を作った。
そのとき、背後で、ぺし、と軽い音がした。
振り返ると、尾が岩を叩いていた。左右に、嬉しそうに。
俺の顔は渋面なのに、尾だけが正直だった。ぺし、ぺし、ぺし。核を飲み込むたびに、機嫌のいい犬のように揺れる。
……黙れ。
小声で言ったが、尾に聞こえた様子はない。むしろ速度が増した。誰も見ていないはずだ。そう思って周囲を見回すと、遠くの岩の上に、朝に消えたはずの灰色が座っていた。
こちらを、じっと見ている。
赤い目が、細くなった。笑ったのかどうかは分からない。俺は無言で尾を掴み、押さえつけた。尾は抗議するように指のあいだで暴れた。
*
夕方、浅い穴に戻った。
さっきの骨の薄板を入口に立てかけて半分を塞ぎ、その上に黒茸を広げて干した。核は二つ、明日の分として手元に残してある。
身体を丸めて、狭い穴で目を閉じた。
帰る方法は、まだ見えない。人間の世界がどこにあるのかも、地獄に出口があるのかどうかも知らない。見えているのは、この身体が昨日より強くなったことと、明日も強くなれそうだということだけだ。
それでいい、と思った。強くなれば、見える景色が変わる。今日は窪地の底しか知らなかった俺が、明日は谷を見る。その次は、もっと先を。そうして上へ登っていけば、いつか出口に手が届く。
そうしたら、今度こそ、あの食卓に。皿が四つ並んでいるところを思い浮かべた。五つ目の席は、たぶん空けておいてくれるだろう。
眠りの縁で、尾がぺしと一度だけ床を打った。
その音とは別に、足元の灰が、ごくかすかに震えていた。遠くで、何か大きなものが顎を鳴らしている。気のせいだと言い聞かせて、目を閉じた。
胸の奥では二つの枝が、まだ静かに脈打っていた。次に大きな核を喰えば、きっと選ばされる。そんな予感だけが、眠りの底まで付いてきた。




