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地獄の最下級悪魔に転生した元斥候、「殺せ」の命令を蹴って魔核を喰らい進化する ~地獄を束ねても、帰る場所は十年待たせた仲間の食卓です~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 灰の底から

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2/19

喰らった核が、熱い

繭が裂けきるより早く、俺は動いていた。


生まれたてのやつは動きが鈍い。それは窪地で何匹も見た。膜から出た直後は肩が引っかかって、まず片腕を出すのに手間取る。そこを待つほど優しい身分ではないので、裂け目の反対側へ回り込み、岩の隙間をすり抜けて出口のほうへ進んだ。


殺す気はなかった。かといって、あの赤い目を背にして居座る度胸もなかった。ならば、殺さずに止める。


そいつは膜を破り、全身を震わせて這い出し、赤い光を俺に向けた。命令の鐘が、向こうの胸でもう鳴っているのが分かった。灰色の小さな身体が、爪を立てて飛びかかってくる。


俺は壁に背をつけ、亀裂が一番狭くなっているところへ身体をねじ込んだ。


追ってきた相手は、狭いところへ勢いよく突っ込んだ。肩が岩にはまる。腕は前へ、足は後ろへ突っ張ったまま、がっちりと挟まって動けなくなった。


俺は、挟まった頭の横をそっと通り抜けた。こちらの身体の小ささを逆手に取った、人間のころなら絶対に使えなかった手だ。一匹、無傷で無力化した。この身体で二度目の勝ちだった。


噛みつかれるかと思ったが、顎は届かなかった。赤い目がぎらぎらと俺を追い、喉の奥から軋むような声が漏れる。怒っているようにも、必死なようにも見えた。命令を果たせない苦しみで暴れているのだと、なんとなく分かった。


悪いな、と言いかけて、口の中で止めた。言葉は通じない。それに、挟まったまま死ぬ相手を見捨てた、と言い換えることもできる。


でも、殺すよりはいい。そう決めて、亀裂の外へ出た。


*


外は、断崖の中腹に張り出した岩棚だった。


空は赤黒く、どこまでも低い。光源がどこにあるのか分からないのに、地面は薄赤く照らされている。眼下には窪地が広がり、さっきまで殺し合いをしていた灰色の影が、ぽつぽつとしか残っていなかった。


吐き気をこらえて、岩棚の奥へ進んだ。そこで、足元の灰が細かく震えているのに気づいた。


地面が、鳴いている。


冒険者の勘が先に働いた。足音のない魔物は、足音を殺しているのではなく、振動を使って獲物を探す。ヴェル=グラートの浅層にいた砂蟲がそうだった。動かなければ、見つからない。


しかし俺の身体は小さすぎて、じっとしていても足元の灰が揺れる。隠れる場所も見当たらない。


岩の影から、ぬるりと細長いものが出てきた。


平たい頭、節のある胴、無数の脚。人間の腕ほどの長さの蟲だった。顎は二本の鎌になっていて、閉じるたびにかちかちと乾いた音を立てる。後で知ったことだが、灰牙蟲という。この時の俺にとっては、ただ、自分と同じくらいの大きさの、顎の大きな何かだった。


正面からぶつかれば負ける。


剣があれば。いつもの片手剣があれば、顎をいなして関節を斬るのは難しくない。けれど手元にあるのは、三本の指と短い爪だけだ。人間の間合いで踏み込んでも、爪が届く前に顎が閉じる。


だったら、顎をどこかへ噛ませてやればいい。


蟲が突進してきた。俺は横へ跳んで岩の出っ張りの裏へ回る。蟲は勢いのまま顎を突き出し、岩角に噛みついた。


噛んだ。引き抜けない。顎の鎌は、ものを挟む形をしている。硬い岩に深く食い込んだぶん、抜くのに時間がかかる。


その隙に、俺は蟲の首の後ろへ回りこんだ。殻は厚い。ただ、頭と胴をつなぐ節だけが、柔らかい皮のような色をしていた。


爪を立てた。


硬い。入らない。蟲が暴れて、尾の先で脚を払われる。尻もちをついたまま、反射で爪をもう一度、同じ場所へ叩き込んだ。


ずぶ、と音がした。


爪の先が、節の皮を抜けた。蟲の背で、殻が割れる乾いた音が弾けた。そこへ身体ごと体重をかけて、押し込む。生ぬるい体液が手首を濡らした。蟲が震えて、顎が岩から外れそうになる。外れる前にもう一度、さらに深く、二度、三度。


動きが止まった。


長い時間だったように思う。実際には十数える間もなかっただろう。俺は荒い息のまま蟲の背から転がり落ち、灰の上に仰向けになった。


勝った。


自分の爪で、自分の力で、倒した。


笑いそうになった。いや、笑った。喉の奥から引きつった声が出て、慌てて口を押さえる。まだ外には他の連中がいるかもしれないのに。


蟲の死骸を見ると、殻の隙間から、硬い小さな塊が覗いていた。


魔核だ、と直感で分かった。鶏の卵ほどの赤黒い玉で、内側がかすかに脈を打っている。ヴェル=グラートで見た魔物の核とよく似ていた。あれは、売れば一晩の宿代になった。


持ち帰って売る場所が、今はない。


だったら、どうする。


手を伸ばして、触れた。


指先に熱が走った。


熱い、という以外の言葉が出ない。燃えているのとも違う。指から腕、肩、胸へ、血とは別の何かが流れ込んでくる。心臓が普段の倍の力で打ち、全身の傷口がちりちりと疼いて、肩の噛み痕から痛みが引いていく。


吸っている。


核が、俺の掌に吸い込まれていく。拳ほどの塊が、溶けるように小さくなっていって、最後は指のあいだで砂のように崩れて消えた。


身体が、重くなった。


そう感じたのは、ほんの一瞬だけだった。すぐに、さっきまで折れかけていた爪の根元に、鈍い艶が戻ってくるのが分かった。傷そのものは消えない。肩にはまだ穴が開いているし、疲れも残っている。けれど、次の一歩を踏み出す足の中に、たしかな力が増えていた。


さっき、あれほど硬かった節の皮。今なら、もう少し簡単に抜けた気がする。


倒して、喰らえば、強くなる。


その単純で乱暴な仕組みを、俺は身体で理解した。


腹の底で、何かが形をとった。


黒い刃のような輪郭が、一瞬だけ脳裏を走る。倒した蟲の顎の、鎌のような硬さ。それが、爪の先に重なる像だった。


まだ、何もできない。ただ、そういう形が自分の中に生まれた、というだけだ。


*


戻ろうと亀裂に向き直ったとき、そこから灰色の影が飛び出してきた。


肩の挟まっていたやつだった。


どうやって抜けたのか、膜にまみれた全身に擦り傷をつくり、赤い目をぎらつかせている。命令の鐘が相変わらず胸を打っているのだろう。俺を見つけた瞬間、迷いなく跳びかかってきた。


二匹が絡み合って、岩棚を転がった。


こちらは蟲との戦いで消耗している。向こうは生まれたばかりで体力がある。爪と牙が頬をかすめ、尾で脚を叩かれた。勢いに押されて、岩棚から骨と礫の溝に転落する。


骨礫溝。後でそう呼ぶようになった場所だ。巨大な何かの肋骨の残骸のようなものが折り重なる谷で、白いものがいくらでも落ちている。


組み合ったまま、骨の山を転がり落ちる。上になり、下になり、爪を押さえて、牙を避けた。


殺せば終わる。それは分かっていた。ここで首を切れば、少なくとも今は、目の前の敵はいなくなる。さっきの蟲と同じことをすればいい。


でも、こいつは蟲とは違う。


近くで見て分かったことがある。目が赤く光ってはいるが、その奥で、誰かが必死に息をしている。さっき亀裂に挟まったときの唸り声には、悲鳴が混ざっていた。このまま命令に押されて他人を噛み続ければ、こいつは自分の意志とは関係のないところで、傷だらけになって死ぬ。


だから、尾の付け根を蹴って、距離を取った。


そのとき、頭の上が暗くなった。


骨の溝の上を、何かが通った。


巨大な脚だった。柱のように太く、爪が地面を砕いて通っていく。見上げた先に、胴体は見えなかった。見える高さに収まっていなかった。足音は地を震わせ、骨の山をがらがらと崩した。


二匹同時に、動きを止めた。


本能で分かった。あれには、勝てない。戦いどころか、見つかった時点で終わりだ。


俺は目の前の相手の腕を引っ張り、そばの骨の隙間へ押し込んだ。そして自分も、その隣に滑り込んだ。理屈ではなく、そうするしかなかった。


息を殺す。灰色の相手も、同じ隙間で息を殺していた。肩が触れ合うほどの距離で、赤い目が、俺ではなく上を見ている。


脚は、ゆっくりと遠ざかっていった。


完全に音が消えてから、しばらく動けなかった。


先に口を開いたのは、向こうのほうだ。といっても言葉にはならず、喉をひゅうと鳴らしただけ。もう襲いかかっては来なかった。赤い光は弱まって、赤茶けた色に落ち着いている。


命令は消えていない。それはまだ、目の奥に残っている。ただ今は、生き残ることのほうが、ずっと近い恐怖になっているらしかった。


*


骨の隙間で、日が暮れるのを待った。暮れる、というのもおかしな話で、赤黒い空が少しだけ暗くなっただけだが。


並んで座りながら、俺は周囲に落ちている小さな骨虫を一匹、爪で突き殺した。二人分の食い扶持にもならない小さなやつで、核も米粒ほどしかない。灰色の相手はそれを欲しがるような目で見たが、手を出してこなかった。


俺は、その核を口に運んで飲み込んだ。


熱が、また走る。さっきよりずっと小さい。けれど今度は、はっきりと分かった。


硬い。殻の形だ。骨虫の背にあった、身を守る硬い輪郭。それが蟲の顎の黒い刃の隣に、別の枝になって並んでいる。


一つは牙。もう一つは殻。


似たような枝だと思ったが、はっきり別のものだった。白い光のような残像がその根元に絡んでいた。どこかで見たことがある、とすぐ思い出した。ティアナが怪我人に手を当てるときの、あの小さな灯りの色だ。そして残光は、自分の掌の形に重なって見えた。


頭の中の鐘が、一段強く鳴った。


――ひとつに、しろ。


命令ではない。命令の延長にある、もっと生き物の底に近い声だった。進化の仕組みなのかもしれない。吸収した枝は、ひとつに固まって行き先を決める。本能が、そう告げている。


片方を、捨てろ。


俺は、岩の隙間の暗がりで、隣の灰色を見た。それから、自分の掌を見た。


捨てろと言われたものを、はいそうですかと捨てる気にはなれなかった。


どちらも、まだ選んでいない。


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