目覚めたら、殺し合いだった
胸の真ん中に、鐘が落ちてきた。
――殺せ。
目を開けて、まだ三呼吸もたたないうちだった。耳で聞いたのではない。肋骨の裏を金属で叩かれたように、命令が身体の内側から響いた。知らない言葉のはずなのに、意味だけが先に流れ込んでくる。
――周囲の個体を殺せ。区画を制圧せよ。最後の一匹になれ。
断る。
そう決めるのに、理屈はいらなかった。ただ、手を動かしているのが俺ではないと分かった。だから従わない。俺の最初の戦いは、そこから始まった。
*
天井は、濡れた皮のような膜だった。身を起こすと、膜がぶつりと裂けて、ぬるい液体ごと下の地面へ転げ落ちた。
灰だった。膝まで沈む灰の底で、すり鉢状の窪地いっぱいに、同じ繭が並んでいる。いくつもが裂けて、灰色の小さなものが這い出してきた。身の丈は大人の膝にも届かない。角と細い尾と、赤く光る大きな目。薄暗い窪地でも、縁の岩や動くものの輪郭が灰色の線になって見えた。夜目だけは、ありがたい収穫だった。
自分の手を見る。灰色で、指は三本。尾を確かめようとひねったら、尾が先に動いて足がもつれ、転んだ。
……悪魔だ。
笑う暇はなかった。窪地じゅうの赤い目が、同時にこちらを向いたからだ。次の瞬間、生まれたての連中が隣のものに飛びかかった。爪が肉を裂く音。短い悲鳴。灰が血を吸って、黒く固まっていく。
俺の隣の一匹も、こちらを向いていた。赤い光の奥は空洞で、怯えも怒りもない。ただ命令だけが燃えている。
そいつが跳んだ。
踏み込みを外して半歩ずらす。人間だったころ、何千回と繰り返した動きだ。やった、と思った。
違った。足が短すぎて、半歩のつもりが一歩分も滑ってしまい、体勢を崩したところへ左肩を噛まれた。
熱い。痛みの上から、鐘が重なった。
――殺せ。殺せ。殺せ。
頭蓋の内側を金属が擦る。爪が勝手に持ち上がり、噛みついた相手の首筋へ狙いが定まっていく。
待て。
俺は「殺したい」とは思っていない。指を曲げているのは、胸に張られた何かだ。
歯を食いしばって、爪を相手の首ではなく足元の灰へ突き立てた。身体をひねって肩口を顎にぶつけ、牙を外す。喉から甲高い唸りが漏れた。それで十分だった。
相手がもう一度、膝を沈めた。
見えた。跳ぶ前、膝が沈んで、赤い目が俺の首の高さを測る。空中では向きを変えられない。ならば、首の高さにいなければいい。
俺は前のめりに、灰へ腹ばいになった。
頭の上を、灰色の身体が風を切って通り過ぎた。人間の半歩がこの足で一歩になるなら、初めから低く、小さく使えばいい。背後で、跳んだやつが別の二匹の組み合いへ頭から突っ込み、三匹まとめて団子になって転がった。爪と牙が、今度は味方同士を裂き始める。
一匹も殺していない。命令も蹴った。それでも、さっき俺を殺しにきたものは、もう俺を見ていなかった。
これが、この身体で最初の勝ちだった。
膝丈の身体では、剣も盾も踏み込みの幅も役に立たない。残っているのは、相手の動きを読む目と、段取りを組む癖だけだ。それで足りた。足りたことが、少しだけ可笑しかった。尾が、勝手に灰をぱしりと叩いた。
ただし、頭痛は消えない。むしろ強くなった。割れそうな頭を抱えたまま、俺は窪地の縁へ走った。
*
逃げ道は、岩の裂け目だった。
斜めに走る亀裂は、大人なら通れないが、今の身体なら這って入れる。肩を押さえて滑り込むと、中は冷たく乾いていて、灰の匂いが薄かった。二歩進んで岩に背を預ける。
外の悲鳴は、少しずつ数を減らしていた。誰かが勝ち、誰かが負けて、残った数だけが静かになっていく。
……ひどい場所だ。
声に出したら、あまりに細くて、笑いそうになった。生まれた瞬間から殺し合えと命じて、従わなければ頭の中で鐘を鳴らす。誰がやっているにせよ、悪趣味にもほどがある。
肩の傷は浅かった。身体が小さいぶん、傷口も小さい。
胸の底には、冷たい糸のようなものが張られていた。そこから、同族を引き裂きたい衝動が染み出してくる。腹が減る。顎が疼く。その全部を、俺は自分のものではないと数えた。数えられることが、この身体で最初に持った武器だった。
気づくと、指が床をそっと打っていた。
石を二度、間を置いて一度。
ヴェル=グラートの下層で、最後に鳴らした合図だ。道は開いている、先へ行け。仲間にだけ通じる音で、バルト、エドガー、ティアナ、カチュアの四人を狭い抜け道へ送り出した。背中に押し当てられたティアナの手が、いつもの手当てより長く温かかった。カチュアが何かを叫んでいた。たぶん、俺の名前だった。その直後、壁を割って現れた大物の下で、天井が落ちた。
四人は、間に合っただろうか。
確かめる方法は、ここにはない。ただ、もう一度あの声が聞きたいと思った。生きていてくれるなら、それで十分だ。
帰る。どうやってかは分からない。まずは今日を生き延びなければ、その先もない。
顔を上げた。
亀裂の奥は行き止まりだった。外へ戻るには、入ってきた細い隙間しかない。息を整えて次の手を考える時間はある。そう思った瞬間、すぐ横の岩の割れ目で、小さな音がした。
ぴしり。
膜の裂ける、ぬるい音だった。
岩肌の窪みに、いつの間にか繭がひとつ張りついている。暗視の輪郭の中で、それがゆっくり震え、小さな灰色の爪が突き出される。
逃げ込んだ先にも、まだ生まれてくるものがいる。
赤い光が、薄闇の中に二つ灯った。




