挑戦者の記録
灰鎖グラドの顔を、俺はその日、初めて見た。領主に挑む者が出ると聞いて、戦い方を盗みに来たのだ。狙いは一つ、あの鎖の弱点を見つけること。
城の中庭を見下ろす外壁の影に、影渡りで三度に分けて潜り込んだ。足場は崩れた櫓の裏で、そこからなら石畳の円形闘技場が真下に見える。城の連中は皆、闘技場の周りに集まっていて、誰も上を見なかった。
挑戦のあいだだけ、挑戦者への服従の命令は止まる。ザグが若い頃に敗れたのも、たぶんこの石畳の上だ。
挑戦者が入場してきた。俺の倍はある大悪魔で、鉄の鎧に身を固め、両手に戦斧を提げている。後ろに仲間が七、八匹。観衆の空気が揺れた。強い。誰が見てもそう思った。
領主が現れたのは、その直後だ。高い階段の上の扉が開き、一人の悪魔が出てきた。
小さく見えた。挑戦者より頭ひとつ低く、痩せぎすで、灰色の長衣を着ている。角は片側が欠けて、もう片方が弧を描いていた。顔は静かで、眠そうだと言ってもいい。両手には何も持っていない。
「遠いところから、ご苦労」
声が胸に直接響いた。窪地で鐘を鳴らし続けた声と、同じだった。頭が勝手に痛んだ。
挑戦者が咆えて突進し、八匹の仲間が散開して領主の左右を囲む。グラドは足を止め、靴の先で石畳を一度だけ叩いた。
継ぎ目が一斉に割れ、灰色の太い鎖が、木の根のように噴き上がった。数百本が石畳を鎖の森に変え、まず取り巻きの八匹を絡め取る。悲鳴が上がる前に鎖が締まり、骨の砕ける音が一つの音になった。
挑戦者だけは止まらなかった。戦斧が鎖を一本、二本、三本と断ち切って進む。さすがに強い。だがグラドが右手の指を一本持ち上げると、足元から三本が同時に立ち上がり、足首と斧の柄と喉を捕らえた。挑戦者の身体が宙に吊られ、戦斧が石畳に突き刺さる。
「その程度の用意で、挑むのか」
指が軽く握られ、鎖が締まった。それで終わりだった。十数える間の出来事だった。
荷役が淡々と進み出て遺骸を運び、鎖は割れ目へ引き込まれ、石畳は元の平らな床に戻った。観衆は誰一人、声を上げなかった。
俺は櫓の影で動けなかった。
階段を戻りかけたグラドが、ふと足を止めて、上を見た。眠そうな灰色の目が、櫓の影をほんの一瞬、確かに通過する。心臓が止まった。膜を引っ込め、殻を縮め、息を殺す。領主は何も言わず階段を上がっていった。気づかれたのか、そうでないのかは、分からなかった。
*
夜になるまで、櫓の裏から降りられなかった。
手が震えていた。声を拒めるだけでは足りない。あの男は命令がなくても、指一本で人を殺す。窪地では、あの声の主は神様のようなものだと思っていた。今は形を持った敵だ。形があるなら殺し方もある。分かっていても、足が動かなかった。
震えの中で、頭だけは勝手に動いていた。挑戦者の斧は、鎖を三本断ち切った。四本目で捕まった。あの斧の刃は、鎖のどこを狙っていた?
夜半、石畳の片付けが終わったころ、闘技場の脇に降りた。挑戦者の遺品が、廃棄用の籠に積まれている。折れた戦斧、ひしゃげた鎧、鎖で締め上げられた腕輪。
腕輪の表面に、鎖の跡が刻まれていた。丸い輪の内側に、小さな突起がある。鎖同士を結ぶ留め具の跡だ。あの鎖は魔力だけでできているのではない。物理の輪と、留め具がある。
籠の底から、千切れた鎖の欠片を一本拾った。昼の挑戦者が断った一本だろう。人差し指ほどの太さの輪が、五つつながっている。
まず影裂爪を、輪の胴に当てた。弾かれた。もう二度、角度を変えて当てたが、浅い筋が入っただけだった。
次に、爪先を留め具の継ぎ目に差し入れ、軽く捻った。
ぱき、と乾いた音がして、輪がほどけた。
胴は三度でも歯が立たなかった。留め具は、一度で外れた。
小さな灯りのように思えた。鎖は、断てる。ただし、狙う場所さえ間違えなければ。
*
翌日、コルに会いに行った。
森の入口に戻ると、彼は岩の上で待っていた。顔を見るなり駆け寄って、袖を引く。
「アシュ。ぼく、やくそく、した。ちゃんと、まってた」
「ああ」
「でも、しごと、きた。にもつ、はこぶ。しろ、まで」
眉をひそめた。荷役の動員が、コルにも及んできたのだろう。だが悪い話ではない。城に入る口実になる。コルに荷役路の様子を見てもらい、見張りの交代を数えて、石を叩いて知らせてもらう。それだけなら、危険は小さい。
「危ないことは、しなくていい。見るだけだ」
「みる」
コルは胸を叩いた。
その夜、コルは荷役の隊列に混じって城へ入った。最初の晩は、うまくいった。城壁の向こうから、かつん、かつん、と合図が届く。
二晩目、音が途切れた。
夜が明けるころ、荷役の列に紛れてコルが戻ってきた。顔が真っ青で、腕に切り傷がある。
「ごめん、アシュ」
「どうした」
「めいれい、きた。むこう、ひとりで、いけって。ぐらど、のへや、ちかく。ぼく、そっち、むいた」
コルは両手で顔を覆った。
「ぐらど、のへや、いったら、ぼく、アシュのこと、しゃべる、きがした。からだ、かってに、いこうと」
全身が冷えた。命令の経路を通して、俺の気配がコルの胸の糸を伝い、領主に届くかもしれない。コルは声を殺して泣いていた。肩が震えている。
俺は、その肩を掴んだ。
「もういい。やめだ。お前を使うのは、やめる」
迷いはなかった。次に命令が来たら、コルの意志はまた負ける。そうなったら取り返しがつかない。俺が自分で行く。城の中へ、グラドの前へ。
コルの頭に手を置いた。
「森に帰れ。ここは俺の仕事だ。お前には、あの鎖の切り方を覚えてきて、いつか教える」
「でも、ぼく」
「約束だ」
コルは唇を噛み、小さく頷いて、石を二度叩いた。一拍置いて、一度。俺は同じ拍子で応えた。
帰っていく背中を見送った。留め具の欠片は、懐に入っている。次に会う時、これがグラドの鎖を断つ答えになる。




