黒殻獣
重い生き物が足場を渡るとき、岩はそいつの味方をしない。
三日、黒殻獣を観察した。
獣は浮岩から浮岩へ、必ず同じ順路で渡る。大きな岩を踏み台にして、中くらいの岩で一度止まり、小さな岩で向きを変える。止まるたびに足元の鎖が軋み、岩が傾く。傾きの途中で、獣は爪を岩に食い込ませ、重さを足の裏全体に散らして立て直していた。
殻は、背と脇に分厚い。腹は違った。獣が岩の端で後ろ足を持ち上げた一瞬、脚の付け根の下に、赤黒い肌がのぞいた。殻はそこで途切れ、柔らかい皮が一枚張っているだけだ。
弱点は腹で、守っているのは爪と足場。
だったら、足場を取り上げる。
*
狩場に選んだのは、小さな浮岩だった。
大きさは俺の部屋の半分ほど。二本の太い鎖で隣の岩と繋がっていて、重みがかかると一方へ傾く。獣が必ず通る順路の、最後の踏み台だ。
準備に半日。岩の下側、光の届かない影だまりに膜を溜め、向こうの大岩の根元まで、四本の細い線を張った。命綱になる。一本でも切れたら、俺も落ちる。
夜硝浮園の風が、花の匂いを運んできた。
獣の足音が、岩を伝って届いた。
重い、規則正しい足取り。二つ先の岩に着いて、止まる。こちらを見ている。
俺は小岩の中央に立って、黒爪を出した。
来い。
獣が咆えた。
渡ってくる。大岩から中岩へ。中岩の鎖が悲鳴を上げて、岩全体が沈んだ。それでも獣の足は止まらない。次の一歩で、俺のいる小岩に前脚をかけた。
岩が傾いた。
鎖の片側が張り、俺は足を滑らせかけた。爪を立てて踏ん張る。獣は構わず、そのまま岩の上に乗り込んできた。
近い。
殻の艶が見える。眼窩の奥に、小さな赤い光。獣の吐息が顔に当たって、湿った鉄の匂いがした。
前脚が振り上げられた。爪が、岩の表面を削りながら迫る。
跳脚で後ろへ跳び、獣の脇をすり抜けた。爪が俺の残像を叩く。岩が砕けて、破片が飛んだ。獣は振り向こうとして、体重を移す。
そこだ。
影の膜を、岩の下の鎖へ走らせた。
影裂爪。
三歩先の鎖が、ぷつりと切れた。
小岩が、一方に大きく傾いた。
獣の足が、岩の表面を滑った。爪を立てるが、傾斜が急すぎて掴めない。重い体が、岩の端へずるずると流れていく。
俺は、傾いた岩を駆け上がった。
命綱が張る。影の線に支えられて、斜面を走る。獣の背中を飛び越え、尾を踏んで、さらに高いところへ。獣の頭がこちらを向く。
咆哮。
獣が、無理やり身体を捻った。殻の背で岩に体当たりをするようにして、力任せに体勢を立て直す。爪が岩を削り、岩の端がひび割れた。落ちかけながら、獣は後脚で跳ね上がった。
腹が、見えた。
殻に覆われていない赤い肌。
でも、遠い。跳んでも届かない。
獣の前脚が、横から薙ぎ払ってきた。反射で腕を交差させ、受ける。衝撃が身体を貫いた。息が止まる。足が地面から離れた。吹き飛ばされて、岩の縁から外へ放り出される。
落ちる。
影の線が、ぎゅん、と張った。
命綱が、俺の身体を空中で止めた。振り子のように揺れて、岩の裏側へ回りこむ。獣の腹の真下だった。
膜を巻き戻す。身体が引き上げられる。
獣が、俺を見失っていた。
腹の下は、影だまりになっていた。傾いた岩と獣の身体が、光を遮っている。ここなら膜が溶けない。
脚の付け根と腹の境目。赤い肌に、爪を向けた。
黒爪。
一、二、三、四。
ずぶり、と深く沈んだ。獣が身体を揺らして暴れる。体液が噴いて、肩を濡らす。爪が抜けそうになる。命綱を引き絞って体を固定し、手首を捻る。
五。
硬いものに当たった。
核だ。
爪の先で、それをえぐった。
獣が、全身を痙攣させた。傾いた岩の上で、力が抜ける。前脚が崩れ、殻の背が岩を打った。巨体が、滑るように横倒しになる。
岩全体が悲鳴を上げて傾き、鎖がひとつ、ぶつんと切れた。
俺は命綱を引いて、反対側の大岩へ跳んだ。背後で、小岩が獣を乗せたまま、ゆっくりと傾いていく。
獣の体が、岩と一緒に、夜の底へ滑り落ちていった。
*
核は、手の中にあった。
拳より少し大きな核が、手の中で黒い光を渦巻かせていた。
息を吐いた。
全身が痛かった。腕を交差させて受けた衝撃で、片腕の感覚がない。肩の傷から血が流れ、命綱の影はほとんど擦り切れていた。それでも、立っている。
勝った。
巨大な獣を、自分の足場の使い方で倒した。
笑おうとして、咳き込んだ。
手が、まだ震えていた。命綱の影を巻き取ろうとして、三度、取り落とした。尻尾だけが、岩の床を力なく一度叩く。勝ったらしい、と尾は言っている。
浮園の端の、岩の根元に、暗い洞があった。
花の根が絡み合って、天然の屋根を作っている。風が当たらず、光も届かない。ここなら、進化に必要な時間を、安全に過ごせそうだった。
洞に入り、根を押し広げて奥に身を横たえた。
黒殻獣の核が、手の中で熱を持った。厚い殻。爪で岩を掴む形。落ちない身体。結晶獣から得た稜線の情報が、その隣で光っている。重ねれば、受けた力の向きを変える殻になる。
欲しいのは、耐える殻ではない。動ける殻だ。
核を握りしめた。
意識が、暗いほうへ沈んでいく。




