追う影、選ぶ道
回廊の出口へ向かう途中で、先に声をかけられた。
「命令が来ました」
晶柱の裏から、リゼが歩み出た。外套の襟を上げ、顔の半分を布で隠している。尾の針が、地面に小さな音を立てて揺れていた。
「あなたを見つけて、足止めして、城へ連れ戻せ。そういう内容です。先に言っておくのは、取引相手への礼儀と思ってください」
俺は柱に背をつけたまま、動かなかった。
戦う気なら、声はかけない。
「受けるのか」
「受けないという選択肢が、私にはありません」
そう言うと、リゼの輪郭が、ふっと薄くなった。
影に溶けたのだ。
柱の影から柱の影へ、ほとんど足音を立てずに、彼女の気配が移動していく。追う者の動きだった。俺は跳んだ。
*
晶柱の森を、全力で駆けた。
影は薄い。膜は伸びない。リゼは光の少ない場所を選んで、確実に距離を詰めてくる。一度、足元に細い刃が閃いた。跳脚で飛び退くと、さっきまで足があった床に、針のような黒い線が刺さっている。
速い。それに、静かだ。
追いつかれる。
走りながら、地図を広げた。回廊の出口へ向かう道は三つ。真ん中が最短で、右は遠回り、左は行き止まり。全部リゼが売った道で、彼女もこの三つを知っている。
彼女が選ぶのは、最短の真ん中だ。
俺は、あえて左の道に入った。
行き止まり。……のはずだった。だが、地図の線の端に、小さな書き込みがあった。リゼが自分で引いた細い印。そこに、岩の割れ目があると読めた。
割れ目は、本当にあった。
身体を斜めにして滑り込む。狭い。が、通れる。
抜けた先は、真ん中の道の途中。追ってきたリゼの、真正面だった。
足音がした。影の気配が、こちらに突っ込んでくる。
俺は柱の根元に、晶の破片を三つ並べて置いた。足元を縫う、細い道に。
リゼは音もなく滑り込んできた。影を伝う足は、確かに静かだ。だが、床を踏まなければ、移動はできない。
破片が、ちりん、と鳴った。
小さな音でも、回廊の壁が何倍にも増幅する。リゼの動きが一瞬、止まった。
そこへ、俺の影が走った。
柱の背から伸ばした膜が、彼女の足首に絡む。ぐい、と引く。リゼは転びはしなかった。が、バランスが崩れた。
外套の裾を掴んだ。そのまま壁際へ押し込む。
リゼは壁に背中をつけて、俺を見上げた。青い目が、細くなった。
「……やってくれますね」
声に、悔しさは混じっていなかった。むしろ、少し笑っている。
爪を、彼女の喉元に当てた。
「帰れ。見つからなかったと、言え」
リゼは爪の先を見下ろして、静かに息を吐いた。
「それは、命令の範囲を超えます」
「なら、ここで止まったことにしろ」
一拍。
リゼは外套の襟を押さえた。首筋の刻印が、鈍く光っている。命令が、彼女の中で引き絞られているのが分かる。この距離だと、彼女の苦痛が肌で伝わるようだった。
俺は爪を、そっと引いた。
「……あなたは、敵を殺さないんですね」
「今は殺す気がない」
「甘い」
「かもな」
リゼは壁から離れ、数歩下がった。それから、肩をすくめた。
「私は、見つけて、足止めして、戻れなかったと報告します。あなたは、足止めを破って逃げた。どちらも、嘘は言っていません」
命令の隙間を縫った言い方だった。
彼女は踵を返し、柱の影へ半歩踏み出して、振り返った。
「精算の話ですが。今回のことは、貸しにしておきます。次にお会いしたとき、利子を請求します」
「勝手にしろ」
リゼは笑い、影に溶けた。
味方になったわけじゃない。敵のまま終わったわけでもない。よく分からない相手だ。それが、案外、悪くなかった。
*
回廊の出口が見えたのは、さらに半日歩いてからだった。
光の色が、青から紫へ変わった。晶柱の列が途切れ、岩の裂け目から風が吹き込んでくる。重い風だった。熱くも冷たくもなく、花の匂いがした。
外へ出ると、空が低かった。
黒いガラスのような岩の塊が、空中に浮かんでいる。大きいものは村ほどもあり、小さいものは俺の背丈ほどで、岩同士のあいだを透明な鎖が細く繋いでいた。岩の上には、逆さに咲く紫の花が群生している。茎は地面ではなく空へ向かって伸び、花弁は下を向いて風に揺れていた。
夜硝浮園。
荷役が使っていた古い呼び名が、頭に浮かんだ。
美しかった。黒い岩が星のない夜空を映し、紫の花が呼吸するように光る。見惚れたまま、一歩踏み出した。
足元の岩が、傾いた。
慌てて跳脚で隣の岩へ飛び移る。浮いているというのは、動くということだ。重みがかかれば、傾く。鎖が軋み、岩が揺れた。
しばらく、足場の癖を覚えるために歩き回った。
向こうの大きな岩の上に、黒いものが動いていた。
目を凝らすと、巨大な獣だった。
馬ほどの体躯に、全身を黒い殻が覆っている。背中は隆起した甲羅のようで、脚は太く、爪が岩の表面に深く食い込んでいる。獣が一歩進むたびに、岩が沈み、鎖が張る。それでも獣は倒れず、重さを足から足へ移して、軽々と次の岩へ渡っていった。
重いのに、落ちない。爪で足場を掴み、殻で身体を守り、重さを逃がしている。
あの身体なら、この浮園を歩ける。影と跳脚は、軽さに頼った戦い方だ。足場が崩れたら、俺は落ちる。高いところへ行くには、落ちない身体が要る。
俺は、黒い獣の背中を目で追った。
次の進化は、あれにしよう。
紫の花が、逆さの空で、揺れていた。




