青燐の結晶回廊
回廊の入口で、足音が三倍に増えて返ってきた。
リゼの言う「領主の網の外へ抜ける道」が本当にあるのか、この結晶回廊を奥まで歩いて確かめる。それが今日の狙いだった。ただし、いつもの手が通るかどうかは怪しい。
青緑の晶柱が、壁と天井から無数に生えている。どの柱も内側に薄い光を溜めていて、俺の歩く音が一歩ごとに跳ね返り、光の筋になって奥へ走った。ここでは足音が見える。隠れて歩くには最悪の場所だ。尻尾の先が晶に触れるたび、ちりんと澄んだ音まで立てて、おかげで尾を抱えて歩く羽目になった。
影も薄くなっていた。光源が多すぎて、足元に落ちる影が何方向にも引き伸ばされ、輪郭が溶けてしまう。影縫いの膜を伸ばすと、半分も進まないうちに千切れた。発光菌冠で味わった途切れ方とは違い、こちらは最初から影が育たない。
立ち止まって、晶柱の裏へ回った。柱の背面は光が届かず、短い影だまりができている。そこへ膜を溜めて、ようやく三歩。影裂爪は撃てるが、撃てる場所が決まる。結晶の中を進むなら、柱の裏から裏へ、影を渡り歩くことになりそうだった。
*
回廊の中ほどに、刻まれた壁があった。
巨大な晶壁に、地獄語がびっしりと刻まれている。行の終わりごとに印が付いていて、鎖を絡めた塔と、折れた剣の二種類あった。折れた剣の印は、必ず行の終わりで途切れる。領主が代わった記録だ、と見当がついた。塔が上に立ち、剣が下に落ちる。
グラドは、最初からこの区画の主だったわけではない。誰かを倒して座に就いたのだ。神ではなく、いつか誰かが倒した座。次に倒す者がいても、不思議はない。晶壁に爪を置き、その考えを忘れないように、刻みの一行をなぞった。
*
異変は、壁の先で起きた。
前方の晶柱が、一斉に赤みを帯びて光り出した。同時に、胸の糸が引き絞られる。頭が割れそうな痛みが走り、見ると、晶柱の根元に埋め込まれた石が、どれも胸の刻印と同じ光り方をしていた。
検問だ。ここは境界への道であると同時に、境界を守る装置でもあった。刻印を持つ者が進もうとすると、柱の石が呼応して命令の鐘を増幅する。足が前に出ない。壁際の隙間を探して迂回しようとしたが、そこにも石が埋まっていた。城を避けて通るつもりが、通せんぼの網の中にいたわけだ。
引き返した。これ以上進めば膝が折れるのが目に見えている。
戻る足音が、不意に数を増やした。返ってきた音ではなく、俺の後ろから別の足音が重なっている。振り向くと、回廊の入口に四つの影が並んでいた。
追手だった。灰色の肌に角の長い連中で、腰に命令板を下げ、手には骨を削った短槍を持っている。先頭の一匹が筒のようなものを口に当てると、低い唸りが回廊を走った。空気が震え、晶柱がぎちぎちと軋む。音に力を乗せて相手を竦ませる道具らしい。胸の糸が共鳴して、膝が一瞬、抜けそうになった。しかも筒の音は壁に跳ね返り、何倍にも膨らんで戻ってくる。
ここで戦えば、確実に不利だ。
……いや。跳ね返る、のか。
柱の裏に滑り込み、息を止めた。四匹の足音が近づいてくる。筒の唸りは、規則正しく三拍ごとに放たれていた。壁の晶柱は、音を受けて青く明滅する。その光り方に癖があった。柱の角度が少しずつ違っていて、音の反射が、ある一点に集まる場所がある。回廊の中央、床の窪んだ交差点だ。追手は俺を追い詰めるつもりで、その交差点へ一列で入ってこようとしている。
筒の唸りが次の拍を迎える寸前に、俺は柱の根元を狙った。影の膜を柱の背へ伸ばし、影裂爪の形を乗せる。狙いは柱の中ほどの、ひび割れた継ぎ目。
――ぞぶ。
晶柱が真っ二つに折れた。倒れた柱は隣の柱に当たり、連鎖して四本、五本と崩れていく。破片が降り注ぎ、反射の角度が一瞬で変わった。放たれた唸りが折れた柱の面で曲げられ、追手自身の足元へ戻る。
悲鳴が上がった。先頭の一匹が耳を塞いでよろめき、後ろの二匹は倒れる柱の下敷きになりかけて飛び退く。残る一匹が筒を捨てて短槍を構え、柱の裏へ突っ込んできた。槍の穂先が閃く。横に転がって避けると、槍は晶に刺さって抜けなくなった。その隙に爪を落とす。浅く、確実に。追手は声もなく崩れた。
残りは怯んで、うち二匹はすでに背を向けて逃げ始めている。最後の一匹は、命令板に手をかけて何か叫んでいた。応援を呼ぶつもりだ。影を伸ばして足を止め、ぐい、と引く。そいつが前のめりに倒れ、命令板が床を滑った。俺はそれを踏み割った。
回廊の入口に、立っている追手はもういなかった。筒の音で囲んで潰すはずの戦いを、四対一で、たった一本の柱で終わらせた。
*
息を整えているところへ、回廊の奥から重い足音が近づいてきた。人の足音ではない。
晶柱の影から現れたのは、四つ脚の獣だった。背中全体が青緑の結晶で覆われ、尾の先にまで鋭い稜線が走っている。歩くたびに晶が擦れて高い音を立て、低い頭の眼窩に灯った光が、獲物を見据えていた。後で聞いた名は、青燐結晶獣。この時はただ、でかい、と思った。
追手を片づけた直後で、脚に力が入らない。獣は低く唸り、頭を下げて突進してきた。速い。柱の裏へ飛び込むと、獣の肩が柱を砕き、晶の破片が頬を裂く。振り向く暇もなく次の突進が来る。背中の結晶は攻撃を稜線で受け流す形で、爪を立てても力が一点に集まらず、通らないだろう。
受けてはいけない。逸らされる。では、逸らさせる。
広い交差点へ誘導した。さっき追手を迎えた、あの窪んだ床だ。獣が突っ込んでくる直前に横へ跳ぶと、獣は止まれずに柱の壁へ頭から突っ込んだ。結晶の背が壁の晶柱に擦れて、光が爆ぜる。獣の稜線と壁の晶面が重なり、青緑の光が一方向へ強く反射した。眩しさで獣自身が一瞬ひるむ。その隙に、背の稜線と稜線のあいだ、尾の付け根の継ぎ目が、くっきりと浮かび上がった。
そこだ。
柱の裏から影の膜を滑らせた。光のない死角を縫って獣の足元へ、影裂爪を継ぎ目に向けて走らせる。
――ぞぶ。
尾の付け根が割れた。獣が吼えて身をよじり、割れ目が広がる。そこへ跳脚で飛び込み、黒爪を深く突き入れた。結晶の下の肉は柔らかく、爪が核の手前まで届く。数呼吸を数え、保たせ、押し込む。獣の脚がもつれて、巨体が横倒しになった。晶の背が床を砕き、光の破片が雨のように散る。
灰牙蟲に挑んだ日は、くさび一本と丸一日の仕込みが要った。今日は、柱と光と、自分の影だけで足りた。
獣の腹を割って核を取り出すと、結晶の稜線の構造が情報になって流れ込んできた。衝撃を偏らせる形。受けた力を横へ逃がす角度。今の身体には載せられないが、覚えておく価値は十分にあった。
*
回廊を引き返しながら考えた。刻印の網は、ここにも張られている。城を迂回する抜け道は、今の俺には用意されていない。領主は、設備と実力で支配している。壁の記録、柱の石、筒を持った追手。ならば、仕組みを崩せば、領主は裸になる。
晶柱の光が、折れた破片に映って揺れていた。黒い爪の跡が、壁のあちこちに残っている。出口まで、まだ遠い。が、道は一つに絞られた。
そのとき、回廊の入口のほうから、足音がもう一つ混じった。追手が倒れたはずの場所だ。晶の壁が三倍にして返してくるはずのその足音は、なぜか、一つぶんしか聞こえなかった。




