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地獄の最下級悪魔に転生した元斥候、「殺せ」の命令を蹴って魔核を喰らい進化する ~地獄を束ねても、帰る場所は十年待たせた仲間の食卓です~  作者: 雅龍(がりゅう)
第二部 光る魔界と、選ぶ影

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街で抜く爪

宿を探して外周の渡り板を歩いていたら、三歩先で、荷を背負った悪魔が肩を掴まれていた。


掴んでいるのは痩せた盗賊で、短刀を逆手に持っている。周りの通行人は見事に目を逸らした。環市の外周で、足を止める者はいない。俺は止まった。腹に串焼き三本分の満足があったせいだ。


盗賊が振り向いた。目が合う。向こうの口が、嫌な形に曲がった。


刃が来た。


足場は幅二歩の板で、すぐ下は暗い虚空だ。ここで暴れれば板が割れる。だから爪は出さず、影だけを床板の継ぎ目に滑らせた。盗賊の踵が板の端へ流れ、短刀の軌道がずれて、刃が俺の耳の横の空を切る。


そのまま踏み込んで、影裂爪を一度だけ走らせた。膜の先で爪が鳴り、盗賊の手首の腱と、逃げようとした脚の裏が同時に開く。短刀が板の隙間へ落ちていった。盗賊は声を上げる間もなく座り込んだ。


窪地では、二匹に囲まれただけで穴に潜った。今は、板を一枚も傷めずに、一手で終わる。殺さなかったのは、目の前で首を落とすと面倒が増えるのが、どこの街でも同じだからだ。


板の裏へ回した影は、継ぎ目三つ分の長さだった。引っ掛けて、流して、一歩で終わらせる。窪地で覚えたのは逃げ方だったが、気づけば同じ手が、人を傷つけずに止める手に化けていた。


「……ツヨイ」


誰かが呟いた。屋台がようやくこちらを向き、爪を打ち鳴らす音がちらほら上がる。気分は悪くなかった。悪くなかったところへ、板の持ち主らしい小柄な悪魔が走ってきた。指さす先に、盗賊が踏み割った継ぎ目がある。


修理費の請求だった。


指を五本立て、掌を俺の鼻先に突き出してくる。手持ちの屑は三つしかない。指を三本に折ってみせると、相手は倍の速さで五本に戻した。尾が、俺の意思に反して、しゅんと垂れた。


俺は割れた継ぎ目にしゃがみ込んだ。


懐に、削りかけの角材の端材と、砥石がある。端材を黒爪で楔の形に整え、継ぎ目へ打ち込んで、影を薄く張って押さえた。ぎい、と鳴っていた板が、ぴたりと黙る。小柄な悪魔が、疑わしそうに板の上で足を踏み鳴らした。もう一度。三度目に、指が二本に減った。


屑二つ。串焼き半本の損失で済んだ。強さが評価されることと、金を払うことは別の話らしいが、手際は、少しだけ値引きになるらしい。


そのとき、屋台の屋根の上で何かが動いた気がした。影が、一つだけ濃い。見上げると、もう何もいなかった。


*


共同宿は、荷役と職人が雑魚寝をする長い部屋だった。


寝台と呼ぶには低すぎる台が並び、大きな悪魔向けの器が出てくる。スープの椀が俺の頭ほどあった。両手で抱えて飲んだ。熱くて、少し塩辛くて、芋のような根菜が溶けている。


隣の職人が、聞いてもいないのに喋った。半分も拾えなかったが、顔つきで分かる。家には子が三匹いるらしい。向かいの寝台の巨漢は、寝言でパンの数を数えていて、三つ目で必ず一つ足りなくなる。


生まれた日に殺し合いを命じられる世界の隣に、子を三匹持つ職人がいる。窪地の底が地獄の全部だと思っていた。


天井の梁に、誰かが爪で傷を刻んでいた。四本束ねて、横に一本。見張りの当直が暇つぶしにやる、数え線だ。こいつらも、日にちを数えている。だからといって居つく気にはならなかった。ここは領主の足元にある街だ。寝返りを打った拍子に、頭の角が梁にごつと当たった。笑いを殺して、目を閉じた。


*


翌朝、城へ向かう荷の便が出ると聞いて、荷に紛れて搬出路へ入った。


城門の手前に検問があった。石柱に刻印が並び、通る者の胸の印と共鳴して光る。印を持たない者は、柱の前で動けなくなるらしい。俺の胸にも従属の糸がある。近づくほど頭が痛んだ。正面から通れば、領主の一声で引きずり倒される。


別の道が要る。


荷役から聞いた言葉と、古道具屋の地図を照らした。環市から北へ延びる搬送路は、城の手前で二股に分かれる。右が城、左が結晶の回廊。地図の線が、そこだけ濃い。左なら、城を迂回して境界の外へ出られるかもしれない。


荷車の轍も数えた。右の轍は深く、左は浅い。重い荷は残らず城へ入り、左へ向かう荷は一台もない。行き先のない道は、見張りも薄いはずだ。


そう結論して振り向くと、荷の影から細い手が伸びていた。


殺気はなかった。袖を引くような軽さで、俺の腰の荷袋に触れている。反射で手首を掴んだ。思ったより細く、冷たい。


「見事な目ですね」


影の中で、声が笑った。耳で聞くというより、近くで囁かれたような柔らかさで、意味がはっきり届く。


手首を離すと、影の主は一歩下がって全身を見せた。黒い外套に、顔の半分を隠す布。長い尾の先が針のように尖り、目だけが青白く光っている。昨日、屋根の上にいた影と同じ気配だった。


「戦いは見せてもらいました。板を壊さずに、あの速さ。外周の用心棒でも、そうは行きません」


俺は黙っていた。言葉は半分しか分からない。分からないふりをしたほうが、都合がよかった。


影は、わざと同じ言葉を繰り返した。


「帰りたいのでしょう? 出口を探している顔をしている」


心臓が、一度だけ強く打った。顔に出したつもりはない。足の向きと視線の動きで、読まれたのだ。


影は目を細めた。笑ったのだと思う。


「道を売ります。帰り道にも、値段があるものですよ」


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