吊られた環市
環市に着いたら、まず串焼きを食う。その前に、持ってきた猪の牙と角材を、なんとか金に換えなければならない。
搬送路の先は思ったより長かった。光る茸の踏み板を渡り、鎖橋をいくつも越える。眼下は底の見えない闇で、荷車の車輪が鳴るたびに橋全体が小さく揺れた。荷役に紛れて歩く俺を、誰も咎めなかった。背負子の荷を手伝うふりをすると、彼らは黙って場所を空けてくれた。
半日歩いて、街が見えた。
空から、巨大な環がぶら下がっていた。何本もの鉄の環が太い鎖に吊られて重なり、各層の窓から赤や青の灯りがこぼれている。環と環のあいだには綱が渡され、荷を載せた籠が滑車で行き来していた。魔晶の山。皮の束。肉を吊した大籠。休みなく荷が流れる。
煙とともに、匂いが降ってきた。焼けた脂。香辛料の刺激。甘く煮詰めた何か。
腹が、盛大に鳴った。
外縁に着くと、列が止まった。鉄の門の前で、槍を持った衛兵が通る者の胸の印を確かめている。荷役たちは皆、印を下げていた。俺は持っていない。
並んでいるあいだに、前の荷役の背負子へ下から手を添え、歩調を合わせた。衛兵が俺を見る。荷役の一人が早口で何か言った。「ツレ、テツダイ」。連れだ、手伝いだ、と聞こえた。衛兵は面倒そうに手を振って、俺たちを通した。
人の目を読んで、荷を持つ。窪地では何の役にも立たなかった冒険者の癖が、ここでは通行証になった。
*
荷下ろし場の先に、外周市があった。
回廊の両側に屋台と露店がぎっしり並んでいる。呼び声。笑い声。肉を叩く音。天井から吊るした魔晶灯が、通りを橙色に染めていた。往来する悪魔は、大きいのも小さいのも、角が二本のも翼のあるのもいて、誰も俺に特別な目を向けない。
しばらく立ち尽くした。地獄に市場がある。人のいる場所には、食べ物と、値切りと、噂話がある。それは人間だけの決まりではなかったらしい。
牙と角材を売る相手を探した。屋台の裏で積み荷を整理していた商人に差し出すと、商人は牙を爪で弾いて音を聞き、指を三本立てた。核の屑三つ。
安い、と直感した。が、相場が分からず、言葉も足りない。頷くと、商人は嬉しそうに笑った。その笑顔で、買い叩かれたと確信した。
悔しかった。悔しいままで帰る気もなかった。
隣の工房の前に座って、観察することにした。同じ種類の牙が、職人の手で削られ、磨かれ、穂先に仕上がっていく。完成した穂先には、俺の売値の十倍の値札が付いていた。
牙そのものに価値があるのではない。形が値をつけている。
それなら、形は俺が作ればいい。
手元に残していた、もう一本の牙を取り出した。黒爪の先で、削る向きと深さを工房の職人の手つきに合わせる。爪は細く、狂いがない。影の膜も使って、削り屑を一箇所に集めながら、日が傾くまで穂先の形に整えた。
職人の手並みには遠く及ばない。が、素人目には十分な穂先だった。
別の屋台に持っていくと、店主は目を丸くして穂先をひっくり返し、指を六本立てた。俺は黙って首を振り、削り面を爪でなぞって見せる。三度それを繰り返すと、店主は唸って、両手を一度開き、さらに指を二本足した。
屑にして十二。最初の売値の四倍だ。まだ職人の値には届かないが、牙一本で、俺はひとつ賢くなった。
次は角材の端材を、先ほどの職人に見せた。加工賃は払えない。だから、手入れ用の道具と交換できないかと、身振りで頼んだ。職人は端材を撫でて少し考え、小さな砥石と油の瓶を差し出した。
爪の手入れに使える。ありがたく受け取った。
*
串焼きの屋台に戻った。
鉄板の上で、赤く焼けた肉が脂を落としている。店主は目玉が三つある大柄な悪魔で、串を返すたびに刻んだ緑の香草を振りかけた。
一本、核の屑三つで受け取った。
熱い。持つ指が焼けそうなほど、中心まで熱が通っている。かぶりつくと、外はぱりぱり、中は柔らかく、脂が口の中で溶けた。香草の辛みが鼻に抜け、肉は獣の味ではなく、果実のような甘い香りがした。
声が出なかった。目の奥が熱くなった。
人の手が火を通し、香りをつけた肉だ。灰と骨の谷で、生のままかじるか黒焔で炭にするしかなかった俺には、これほど文明的な食べ物はなかった。ベルンの宿の厚切り肉を思い出す。バルトの笑い声。エドガーの皿。ティアナの切るパンの音。カチュアの「一口だけ」。
……旨い。
呟いたとき、背後でぱしんと音がした。尾が屋台の柱を叩いていた。店主がこちらを見て、にやりと笑う。三つの目が、全部笑っていた。
俺は黙って尾を押さえた。それでも、結局三本食べた。
*
外周市の奥に、古道具の棚が並ぶ一角があった。砥石の礼に、少し見て回るつもりだった。錆びた剣、欠けた器、歯車、ガラス玉。無造作に積まれた山の隅で、痩せた店主が居眠りをしている。
その棚の隅で、掌ほどの板を見つけた。
環の絵が彫られている。二重の輪と、中央に門のような形。城の紋章ではない。もっと古い、削れかけた意匠だった。
手に取った途端、店主が目を開けた。
「ソレ、カド、ノ、エ」
門の、絵。俺は板を指さし、それから頭上を指さした。外へ出る道か、と聞きたかった。
店主は首をかしげ、爪でテーブルを叩きながら言った。
「カド、アル。ムカシ。ウゴク、ワカラナイ。ダレガ、トオル、ワカラナイ」
門はある。昔のものだ。動くのか、誰が通れるのかは知らない。
それで十分だった。門が実在する。それだけで、噂は目標に変わった。
懐から、猪の甲殻の情報を持つ小さな核の欠片を出した。店主は目を細めて受け取り、奥の棚から巻物を一本引き出してきた。古い地図だった。紙の端が焦げ、線は途切れ、書き込みは汚い。
「フカンゼン」
不完全だ、と自分で言う。構わなかった。広げると、環市と搬送路、結晶の回廊、浮園が、遠くで見た景色のまま線になっている。北の端には、鎖を絡めた塔の印。灰鎖城だった。
門と、城。二つがつながって見えた。
地図を丁寧に巻いて懐に入れ、外周市の通りを戻った。呼び声に混じって、串焼きの匂いがまた流れてくる。地図は懐にあり、門は実在する。いい日だった。
四本目を買う屑は、まだ残っている。今夜の宿代が先だ、と言い聞かせているのに、尾だけが屋台の方角へ、ぱしんと向いた。




