菌の空を歩く
光る森の上を歩くには、足場の作り方を一から考え直す必要があった。
今日の狙いは二つある。新しい影の力で、巨大茸の傘の上を渡る道を作ること。そして、ここを縄張りにしている獲物のうち、自分より大きな相手を一つ狩ること。
発光菌冠。巨大な茸の傘が折り重なるように空を覆っている。傘の上は広く平らで、歩くだけなら難しくない。ただ、傘と傘のあいだには深い谷が口を開けていて、落ちれば何十丈も下の胞子の沼まで一直線だ。跳脚で飛び越えられる幅は、せいぜい六歩。それ以上は、影を使う。
傘の縁に立ち、足元の影を前方へ伸ばした。膜が薄く広がって、向こう側の傘の縁に触れる。そこに張力をかけると、細い橋になった。足を乗せても、ぴんと張った膜は俺の体重をしっかり支えてくれる。一歩、二歩、三歩。空中を歩いていると思うと、勝手に口の端が上がった。
四歩目で、橋が消えた。
下から湧いた光の波が、膜を横切ったのだ。傘の裏の菌が遠くの物音に反応して、一斉に明るくなる。その明滅が影を途切れさせた。光は、影の天敵だ。足場が消えて身体が落ち、反射で爪を伸ばすと、傘の裏の分厚い襞に黒爪が刺さった。肩がぎしりと鳴る。眼下で、青白い胞子の霧が渦を巻いていた。
しばらく、そのまま動けなかった。
……影縫いを使うなら、明るくなる場所は選ぶな。自分に言い聞かせて、爪で襞をよじ登った。傘の上に戻って仰向けに寝転ぶと、頭の上には赤黒い空、背中の下には青い光の海がある。尻尾だけが、まだ落ちる途中のつもりでばたばたしていた。
*
転んでも、ただでは起きない。落ちかけて分かったことがある。傘の襞は、近くで物音がすると、離れた側へ光が走る。試しに石を遠くの傘へ放ると、ぱん、と鳴ったそちらが一斉に光り、反対側が暗くなった。
暗い側に、影を通せばいい。
光を誘導して橋の道筋を暗く保つと、膜は途切れなくなった。傘から傘へ、石を投げては渡る。半日で、森の上を一本の道に繋いだ。
その途中、傘の縁にいるあいだ、ずっと誰かに見られているような感覚があった。足を止めて音を拾うと、傘の下からぎちぎちと乾いた音がする。縁から身を乗り出して覗くと、襞の隙間に、黒く細長い影が潜んでいた。脚が八本、腹が膨らんでいる。蜘蛛に似ていたが、ヴェル=グラートの蜘蛛より、はるかに大きい。傘に逆さまに張りついて、獲物が通りかかるのを待つ捕食者だ。俺が傘の上を歩けば、真下から跳んで脚を取られる。
だったら、先に動かす。
石を拾い、反対側の傘へ放った。ぱん、と鳴って、そちらの襞が一斉に光る。蜘蛛の視線が、光の強くなった方へ反射的に向いた。その間に、俺は暗い側へ影を伸ばしていた。膜が傘の縁から下へ回りこみ、蜘蛛の背後の、光のない死角に出る。影裂爪の形を、膜の先に乗せた。
――ぞぶ。
蜘蛛の脚の付け根が、三本まとめて落ちた。蜘蛛が悲鳴を上げ、残る脚で必死にしがみつく。そこへ二撃目、胴体の節を影の爪が走り抜けた。蜘蛛は傘から落ちていった。核は下の沼まで落ちてしまったので、回収はあきらめたが、胸は熱かった。
光の色が、戦術になる。地獄の景色は、使いこなせば味方だ。
*
翌日、目標を決めた。黒角猪だ。
菌冠の下に広がる倒木地帯を、巨大な猪が縄張りにしている。黒い毛に白い牙、肩まで人間の背丈ほどもある。ヴェル=グラートの冒険者なら、中級魔獣、討伐隊を組んで挑む相手だ。小物ばかり狩ってきたが、そろそろ自分より大きなものに挑んでもいい頃だった。
猪の通り道は、地面のえぐれと割れた倒木で分かった。まず一度だけ、倒木の上から突進を見る。地鳴りと共に黒い塊が駆けてきて、枝を折り、岩を砕き、木々を薙いでいった。速い。重い。直線では止められない。
ただし、曲がるのが遅い。突進の途中で大きく弧を描いて進路を変えたとき、後ろ脚が地面を滑って、体勢が半拍だけ遅れた。そこが狙い目だった。
準備は一日で整えた。倒木と岩の位置を確かめ、猪が通る道の脇に、影の膜を三本、束ねて隠す。
翌朝、通り道に出て、わざと姿を現した。猪が地面を掻いて唸り、小さな目で俺を見据える。爪を出して、挑発するように振った。
猪が、突っ込んできた。
地が揺れ、黒い塊が迫る。俺はぎりぎりまで引きつけてから、横へ跳んだ。猪の肩が、残像をかすめる。その瞬間、足元の影を猪の前脚の下へ滑り込ませて、膜をぐいと引いた。前脚がわずかに内側へ向き、進路がほんの少し左へずれる。巨体は、自分で選んだつもりの方向へ、俺の望む方向へ走り出した。
向かう先は、倒木の壁だった。
猪が気づいたときには遅かった。全身の重さが一本の倒木にぶつかって、木が悲鳴を上げて裂け、猪の脚が滑る。顔が大きく横に流れた。俺は跳んで猪の背に降り、肩の筋をまたぎ、横腹へ黒爪を通した。
ずぶり、と深く入った。
巨体が地面を揺らして倒れ、猪が最後に息を吐く。仕込みは一日、決着は三手。討伐隊が要る相手を、俺は一人で、膝が笑うだけで仕留めた。
*
解体は、ご褒美の時間だった。
肉は赤く、脂が乗っていた。黒焔は使えないので焼けないが、新鮮な肉を生で齧ると、旨みが口いっぱいに広がる。尾が岩を叩いた。今日は誰が見ていても構わない。牙と角は取り分けて並べた。武器にも道具にもなる。核は大きく、猪の甲殻を強くする情報が流れ込んできたが、今は枠が足りない。保管しておくことにした。
肉を切り分けていると、背後で、かさりと草が揺れた。
岩陰から小柄な牙魔が顔を出していた。コルだった。鼻をひくひくさせて、肉の匂いに釣られてきたらしい。目が輝き、口の端から涎が垂れかけている。
笑って、肉の塊を一つ投げた。コルは両手で受け取り、嬉しそうに齧りつく。あっという間に、一つ目がなくなった。
コルは口の周りを舐めながら、岩の上に積んだ肉の山と、俺の顔を、順番にじっと見比べた。分け前を決めるときの目だった。この肉をどう分けるかで、彼は一歩も譲る気がないらしい。




