影の爪は外へ届く
ザグの核を握って、俺は影の枝を選んだ。毒で確実に止める道より、まだ行けない場所へ届く手が欲しかった。
隠し穴の底で目を覚ましたとき、傷は半分塞がっていた。どうやってここまで戻ったのか、はっきりとは覚えていない。手の中の核はまだ熱を持っていて、胸のなかで二つの枝が呼び合っている。影喰蝙蝠から得た影の膜と、ザグの核が蓄えていた魔力。重なると、枝が形をとって行き先を指した。
毒を濃くする枝もあった。堅実な道だ。けれど毒は、倒せなくなったときの手段で、影は、届かなかった場所へ行くための手段だ。迷ったのは短い間だった。
入口を骨で塞ぎ、暗闇で核を握り込んだ。
熱が身体中に広がる。骨が軋み、関節が伸びていく。牙魔になったときより長く、深く痛みが続いた。指が一本ずつ細く尖り、爪の根元が黒く染まる。背中の皮の下で、薄い膜が広がった。
*
目を開けると、天井に角がつかえていなかった。穴が広がったのではない。俺が大きくなって、岩を押しのけたのだ。
立つと、目線が牙魔のころよりひと回り高い。手足は長く、指は細く、先端に黒い爪が光っている。背中から尾の付け根にかけて、薄い膜が揺れていた。影を操るための身体だ、と胸の枝が告げていた。
背後の岩に、影が長く伸びていた。その影が、ぴくりと動いた。
俺は動いていない。手を離して、影のほうが勝手に動いている。意識を向けると、影の指が足元の石を持ち上げにかかった。
石は動かなかった。指が表面を滑っただけだ。
最初の三日は失敗しかなかった。膜を伸ばしても触れた感覚がなく、引っ張ってもすり抜ける。石を動かそうとして、自分の影を石にぶつけて痛い目を見た。
四日目に、コツを掴んだ。
引くのではなく、重さを乗せる。相手の足元に影を広げ、立っている地面の一点に張力をかけて、足が出る方向をほんの少しだけ変えてやる。
試した小型の魔獣は、逃げようと踏み出した足が思ったより短くなって、そのままつんのめった。そこへ爪を落とすと、あっさり倒れた。
笑いが出た。相手に触れずに、足元だけを崩す。ヴェル=グラートでこれがあれば、撤退支援はもっと楽だっただろう。
そう考えて胸が苦くなったので、考えるのは後にした。
影縫い。そう名付けた。届くのは八歩ほどで、光に当たれば薄くなり、裂かれれば痛む。万能ではない。それでも確実に武器になる。
*
次に気づいたのは、偶然だった。
影縫いの練習中、足場に張った膜へ爪が触れた。その瞬間、膜を伝って爪先に力が流れた。膜は俺の延長で、爪も俺の延長だ。ならば爪の力を、膜の先まで走らせることもできるはずだ。
岩壁に向けて、三歩ほど膜を伸ばして爪を振る。何も起きない。
もう一度。今度は爪先の魔力を、膜の端まで形ごと流し込むつもりで。
――ぞぶり。
三歩先の岩が裂けた。壁に爪の形の傷が刻まれている。俺の腕は動いていない。膜の先で、爪が斬ったのだ。
影裂爪。口に出して、壁をもう三度裂いた。
そこへ、乾いた音が近づいてきた。岩の陰から、灰牙蟲が這い出してくる。生まれて間もないころ、俺が岩に顎を噛ませて、爪を三度叩き込んでやっと倒した相手だ。あのときは剣のない自分を呪った。
蟲が顎を鳴らして走り出す。俺はその場を動かず、影の膜を三歩先へ滑らせた。頭と胴をつなぐ、柔らかい節の色が見える。
爪を振ると、膜の先で節が裂けた。
蟲は勢いのまま三歩進んで、頭だけ先に転がった。一手だ。体液が俺の足元に届く前に、全部が終わっていた。
あのときの俺なら、こんな数え方はしなかった。三度と一度。この差が、ここ数日で積んだもののすべてだった。
*
外の様子を見に出た。
ザグが死んでから、回収班の姿を見かけない。道端には、打ち捨てられた籠が錆びた鉄の塊になって転がっていた。
巡回路の境界を越えようとすると、頭がきしむように痛んだ。鐘の音が遠くから響いてくる。ここから先へ進むなというより、戻れという命令が、一段階強くなる。
領主は、まだ生きている。ザグを倒しただけでは足りない。命令の根はもっと上にある。
境界の手前で足を止めると、荷運びの悪魔が無言で列をなして通り過ぎていった。荷車に、城の紋のような印が描かれている。一人の荷役が俺の気配に気づいて、小さく呟いた。
「……ハイサ、ジョウ」
灰鎖城。短い言葉だったが、意味は流れ込んできた。この区画の領主が住む城。出口の手がかりがあるなら、そこだ。
荷車の向かう先に、高い崖があった。崖の上に、規則正しい赤い光が瞬いている。炎ではない。街の灯りだ、と気づいた。
*
それから百二十日ほど、俺は影爪の身体を使い込んだ。魔虫も猟獣も、もう敵ではない。空いた時間には地形を調べ、頭の中に地図を描いた。
その途中で、骨の多い岩場でコルと会った。
彼は一人で獲物を追っていた。背が伸びて、足を狙う動きが器用になっている。岩の上から手を振ると、目を輝かせて駆け上がってきた。
「ア、シュ」
声が、前よりはっきりしていた。
食料を分け合って並んで座る。ザグがいなくなって、回収班の動きが鈍くなり、コルも自由に動けるようになったらしい。それを短い言葉と身振りで教えてくれた。
話が一段落すると、コルが古い寝床を見に行こうと言い出した。最初に二人で夜を明かした、あの狭い洞だ。
入口は、小さな穴になっていた。屈んで入ろうとして、頭と肩が引っかかった。力を込めても抜けない。後ろでコルが腹を抱えている。
「ア、シュ。おお、きい」
「うるさい」
結局入れなかった。入口を指でなぞって、笑いながら引き返す。膝を抱えて震えていた夜が、遠い昔のようだった。
*
その日の夕方、一人で光る茸の森の最上段へ登った。
跳脚で傘を駆け上がり、影縫いで膜をつないで、一番高い場所へ。初めてこの森を見たとき、俺は傘の裏の青い光を見上げていた。今は、傘の上に立っている。
足元に青白い光の海が広がっていた。その向こうで、鎖に吊られた荷車が空中を渡っていく。行き着く先に、空から吊られた何層もの環のような街があり、灯りが無数に瞬いていた。地獄にも人の営みがある。
さらに先、青緑に透ける結晶の回廊が山の腹を貫き、浮かぶ庭園が赤黒い空に点々と漂う。そしてその奥、灰色の鎖が壁を這う巨大な城が、塔を空へ突き出していた。あそこが、俺の目指す場所だ。
窪地で震えていたころの俺には、想像もできない広さだった。ここで何度も死にかけたし、これからもそうなるだろう。それでも、この景色を見てみたいと思った。帰るためだけではない。冒険者だったころの好奇心が、地獄の底でもう一度目を覚ました。
風が傘の縁を揺らした。背後で尾が、ぱしんと音を立てる。
城の足元には、あの街がある。そこまでどう歩くかを考えながら、俺は傘の縁に爪を掛けた。
第一部「灰の底から」完。次回から第二部「光る魔界と、選ぶ影」です。




