狩られる側は終わりだ
退けば死ぬ。だから、前へ出た。
ザグの棒が、斜め上から落ちてくる。鉤の重みと長い柄がつくる遠心力は、受ければ肩ごと砕かれる一撃だった。俺は跳脚で地面を蹴り、棒の内側へ潜り込んだ。柄の根元に近いほど、棒の速さは落ちる。そこが、一番安全な場所だ。
ザグの膝が、俺の腹にめり込んだ。
息が出た。目の前が白くなり、身体が宙を舞う。酸だまりの縁をかすめて落ち、骨の足場を二本折って、岩の上を転がった。
すぐに起き上がった。起き上がれたのが、不思議なくらいだった。
左脚に、薄緑の飛沫がかかっていた。肉が焼ける。皮膚がひりつく。だが、脚は動いた。谷で酸を浴びて身につけた耐性が働いている。持つのは二息ほど。それで十分だった。
ザグが、橋を踏んで近づいてくる。
あの橋だ。
傾くように細工した、骨の橋。最初の一本は見破られたが、これは、見た目は違う。俺が先に走って渡ったことで、体重を乗せても大丈夫だと思わせた。それでも、中ほどの継ぎ目は、すでに緩めてある。
ザグの右足が、継ぎ目を踏んだ。
ばきり、と乾いた音がした。
橋が、斜めに傾いた。ザグの身体が、半歩だけ右に流れる。その右足が、酸だまりに沈んだ。
じゅう、と音を立てて、脛当てから煙が上がった。
ザグが低く唸った。反射で足を抜こうと身体をひねる。その動きで、棒を持つ手が一瞬、緩んだ。
俺は、そこを突いた。
留め具だ。さっき塗り込んだ腐蝕黒血が、金具の内側までしみて、鉤の根元がもろくなっている。棒の先を、ザグが慌てて持ち直した瞬間、力の向きが変わった。
ぱきん、と金属が割れた。
鉤が、宙に飛んだ。
くるくる回りながら弧を描き、酸だまりに落ちて、泡の中に消える。ザグの手に残ったのは、ただの鉄の棒だった。
俺は、ほとんど反射で吠えていた。
喉の奥から、聞いたことのない音が出た。獣みたいな、短い叫びだった。
ザグが、俺を見た。折れた角の下の目が、初めて、驚きで見開かれた。
「やるな」
そう言った声は、まだ落ち着いていた。
彼は棒を捨て、腰の短刀を抜いた。さっきまでの長物とは違う、肉厚の刃だ。左手に石板を握り、右手に刃。命令の光が、また強くなる。
頭が割れた。
膝がついた。爪で地面を掴んで、必死に意識をつなぐ。従え。従え。従え。声が、骨の内側をがんがんと叩く。
従うか、馬鹿。
俺は、舌の裏を噛んだ。血の味が、ちょうどいい痛みになった。痛みは、頭の中の鐘をほんの少しだけ遠ざけてくれる。
ザグが、刃を振り上げて近づいてくる。
酸の飛沫が、さっき彼の足を濡らしたところから、手甲のほうへも飛んでいた。革の紐が、じわじわと溶けている。装備のあちこちで、俺が仕込んだ腐蝕の跡が働き始めていた。
脛当てが外れた。
手甲の留めが緩んだ。
胸当ての紐が、片方切れた。
ザグが、自分の身体の異変に気づいて動きを止めた。ほんの一瞬。ほんの、息を一つ吐く間。それだけで十分だった。
俺は、跳んだ。
ザグの頭上高くへ。跳脚の力をすべて込めて、岩壁を蹴り、斜めに身体をひねる。ザグが短刀を突き上げる。刃が、俺の脇腹を掠った。
痛みは、後で来た。今は要らない。
背後に回った。
胸当ての外れかけた隙間。紐が溶けて、肩の下に覗いた皮膚。そこが、鱗の薄い場所だった。
黒爪を、伸ばす。
数呼吸しか保たない、あの黒い刃。昨日までは足りなかった。でも今の俺の爪は、最初に出したときよりも長く、鋭い。牙魔の身体が、爪の先まで魔力を通してくれる。
一、二。
背中の皮を破る。
三。
肋骨の隙間に、爪が入る。
四。
奥に、硬いものがあった。大きな、脈打つ核。
五。
ザグの身体が、びくりと震えた。
彼の手から、短刀が落ちた。石板が地面で乾いた音を立てた。
振り向こうとして、膝が崩れた。俺は爪を抜かず、背中にしがみついたまま、一緒に倒れこんだ。岩の上で、ザグの身体が横向きに倒れる。胸の下から、黒い血が広がっていく。
戦いは、終わっていた。
*
息が荒かった。
呼吸のたびに、脇腹の傷が痛む。それでも、立ち上がれた。足の震えは止まらないが、なんとかなる。
ザグは、まだ息をしていた。
横たわったまま、折れた角の方向を、天井に向けている。暗い赤の目が、焦点を失って揺れていた。唇が、かすかに動く。
「……強いな」
声は、ひどく小さかった。
「俺の……負けか」
言葉の続きは、風に消えそうだった。俺は、身をかがめて、顔を近づけた。
「お前は……どこまで、走るつもりだ」
問いに答えるべきか、迷った。
地獄から出る。帰る。その言葉は、通じない。それに、通じたところで、彼には意味のないことかもしれない。でも、言わずにいられなかった。
俺は、自分の胸を指さして、それから、頭上を指さした。
上。
ザグは、それを見て、ふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「……長く、やれよ」
それが、最後の言葉だった。
赤い光が消えて、体から力が抜けた。
逃げるだけなら、俺より長くやってから言え。あれは嘲りではなく、助言だったのかもしれない。確かめる術は、もうない。
俺は、ザグの胸に爪を入れて、核を取り出した。
大きかった。拳より少し大きく、全体が深い赤に染まっている。内側で、渦のような光がゆっくり回っていた。その熱が、掌から腕へ伝わってくる。
勝ったのだ。
格上だった。経験も、体格も、武装も、上回れるものは一つもなかった。それでも、倒した。
生き延びて、準備して、狩られる側から、狩る側に回った。
急に、笑いがこみ上げてきた。
声を殺そうとして、逆に喉が震えた。腹の底から、押し殺せない笑いが溢れ出す。涙も出ていた。止められなかった。誰も聞いていない岩場の底で、俺は座り込んだまま、大声で笑い続けた。
ひとしきり笑ったあと、石板を拾った。
欠けた命令板だった。持ち主を失ったからか、光は消えている。頭に響く鐘も、少し遠ざかった気がした。胸の糸は、まだ繋がっている。それでも、一つの鎖は切れた。
辺りを見回すと、荷車の護衛たちが、窪地の影から様子を窺っていた。俺と目が合うと、全員が一斉に背を向けて逃げ出した。
追うつもりはなかった。
ザグが死んで、指示を出す者がいなくなったのだ。逃げるのは当然だった。
俺は、疲れた足を引きずって、手近な岩に腰を下ろした。
手の中の核が、脈打っている。
ザグの経験。戦い方。ほんの少しだけ、彼の魔力が混ざっている。そこへ、影喰蝙蝠から得た影の情報が、呼応するように光った。
新しい枝が、形をとり始めていた。
その行き先を見届けるより先に、まぶたが落ちた。
空に、赤黒い雲が流れていた。
初めて、静かだと思った。
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