第9話 港から王都まで歩く男
朝の光が、窓から静かに差し込んでいた。
つい昨日まで人の気配があった部屋は、妙に広く感じられた。
リゼアは壁際に残されたものを見つめていた。エレナが着ていたドレス。そして、アランが身につけていた鎧。
王女だと一目で分かる上質なドレスも、王国騎士団長の鎧も、これからの二人には目立ちすぎる。だから置いていった。
「……行ってしまったね」
「うん」
背後にラヴィナがいた。
いつも通りの格好をしているのに、いつもより口数が少ない。
「寂しいか?」
「別に」
即答だった。
「何だよ、その顔」
「何も言ってないよ」
「言ってるのと同じだろ」
ラヴィナはドレスへ目を向けた。
「……友達、できたと思ったんだけどな」
小さな声だった。
「エレナ様のことですか?」
「他に誰がいるんだよ」
「そうだね」
「でも、手紙出すって言ってたし。住むところが決まったら」
「また、会えるよ」
「だから別に、もう会えないわけじゃない」
誰に言い聞かせているのか。リゼアは指摘しなかった。
二人の視線の先には、王女のドレスと騎士団長の鎧。
それを置いていった二人が、これからどんな道を歩くのか。
リゼアには分からない。
ただ胸の奥には、小さな寂しさと、それより少し大きな不安が残っていた。
◇
「……似合っていますよ」
「笑いながら言うな」
「笑っていません」
「笑ってる」
街道を歩きながら、エレナは口元を押さえた。
アランは鎧を脱ぎ、飾り気のないシャツに簡素な上着、動きやすいズボンという姿だった。王国騎士団長の威厳を示すものは何もない。
「アラン、騎士団長には見えないですね」
「それなら成功だ」
「でも、やっぱり少しおかしくて」
「エレナも人のことは言えないぞ」
「私ですか?」
エレナもドレスではない。装飾のないブラウスに歩きやすいスカート。靴も長い道を歩くための丈夫なものへ替えている。
「王女には見えない」
エレナは少し考え、首を横へ振った。
「今は、その方がいいです」
二人は笑った。
エレナは死者として公表され、アランには身柄確保命令が出ている。その事実は何も変わっていない。
それでも今だけは、王女と騎士団長ではなく、婚約者同士の二人として歩いていた。
「あと、どれくらいですか?」
「ルベルまではもう少しだ」
「さっきも聞いたような気がします」
「さっきより近づいている」
「それはそうでしょうけど……」
エレナの歩幅が小さくなる。
「疲れたか?」
「少しだけ。アランの方こそ傷は?」
「問題ない」
「本当に?」
「ああ」
「無理をしたら、リゼアさんに怒られますよ」
「ここにはいないだろ」
「私が代わりに怒ります」
「それは困るな」
やがて街道の先に建物が増えた。
荷車が行き交い、商人や旅人の声が飛び交う。ヴァレスタへ向かう途中の街、ルベルだった。王都ほど華やかではないが、街道沿いには宿、食事処、商店が並び、旅人たちの往来で活気がある。
「賑やかですね」
エレナが目を輝かせた。
その直後、腹が小さく鳴った。
エレナが止まる。
「……聞こえました?」
「何が?」
「今の」
「何のことだ?」
「聞こえていたんですね」
「歩きっぱなしだからな。俺も腹が減ってる」
「では、何か食べましょう」
「ああ。ただし使いすぎるなよ」
「分かっています」
二人とも、手持ちのお金が多くないことは承知していた。
これから宿も食事も必要になる。どれほど長く今の金で暮らさなければならないかも分からない。それにこれから働いて生活をしていかなければならない現実が待っている。
「安いところにしましょう」
「エレナがそう言うとはな」
「私だって考えます」
二人が選んだのは、街の中心から少し外れた庶民的な酒場だった。古い看板。何度も補修された扉。
「ここなら安そうです」
「何を基準に判断した?」
「……雰囲気?」
「疑問形じゃないか」
扉を開けると、酒と焼いた肉の匂いが混ざった空気が流れてきた。
二人は空いた卓へ座り、メニューを見る。
「アラン、これは何?」
「俺に聞くな」
「知らないんですか?」
「騎士団長なら酒場の料理を全部知っていると思っていたのか?」
「少しくらいは」
「どういう教育を受けたらそうなるんだ」
エレナは楽しそうにメニューへ目を戻した。
「あ、これ安い!30セル!」
「量が少ないんじゃないか?」
「では、これとこれを二人で分けますか?」
「それだけじゃ足りないだろ」
「でも、こちらは少し高いです」
「腹を減らして倒れる方が高くつく」
「なるほど」
二人は値段と料理を見比べながら、真剣に相談した。
王女だった頃なら、料理を値段で選ぶ必要などなかった。けれどエレナは、それすら楽しんでいた。
料理が届く。
「美味しい」
「そうか」
「アランもこちらを食べてください」
「食べてる」
「こっちも」
「分かったから、自分の分も食べろ」
逃亡生活。そう呼べば暗い。
けれど、一つの皿を分けながら笑う時間は確かに幸せだった。
しかし、世間は2人が思っている程平和ではない。
「なあ、姉ちゃん」
声がした。
近くの卓にいた複数の男がこちらを見ている。酒が入っていた。
かなり酔っぱらっていた。
「こんな店に似合わねえな」
男たちが笑う。
アランが静かに言った。
「食事中だ。放っておいてくれ」
「話くらいいいだろ」
「必要ない」
別の男が立ち上がる。
「すみません。私たちは二人で食事をしたいので」
エレナも丁寧に断った。
「固いなあ」
男の手がエレナへ伸びかける。
アランの目が変わった。
「触るな」
低い声。
「何だ? やる気か?」
周囲の空気が変わる。
アランは傷が完全に治っていない。それ以上に、今は目立つわけにはいかなかった。
「その辺にしておけ」
別の声がした。
男たちが振り返る。
少し離れた卓から、一人の大男が立ち上がった。
アランの目がわずかに細くなる。
大きい。
背が高いだけではない。非常に広い肩。厚い胸郭。太い首と腕。明らかに鍛えられた身体。
男はゆっくり近づいてきた。
「楽しく飲んでるところ悪いが、別のところでやってくれ」
「関係ねえだろ」
「そうだな」
あっさり認め、懐から金を取り出す。
「これで別の店で飲め」
男たちは金と大男を交互に見た。
「……最初からそう言えよ」
金を受け取り、悪態をつきながら去っていく。
エレナは呆気に取られていた。
「お金で……」
「一番早いだろ」
大男が答える。
アランは立ち上がった。
「助かった。礼を言う」
「気にするな。面倒事が嫌いなだけだ」
男が戻ろうとしたところで、エレナが呼び止めた。
「あの。よろしければ、ご一緒にどうですか?」
男は二人を見てから肩をすくめた。
「じゃあ、少しだけな」
◇
「ディルク・ハイゼンだ」
大男は名乗った。
「あなたたちは?」
エレナとアランは一瞬だけ視線を交わした。
「事情があって、今は名前を明かせない」
アランが答える。
「ふうん。訳ありか」
「すまない」
「謝ることでもないだろ」
ディルクはそれ以上追及しなかった。
エレナは先ほどのことが気になっていた。
「ディルクさん」
「何だ?」
「先ほど、ずいぶん簡単にお金を渡していましたけど……」
アランが横を見る。
「初対面の人にお金のことを聞くのは失礼でしょうか」
「普通は聞かないな」
「すみません」
ディルクが低く笑った。
「いい。金には困ってない。それだけだ」
「どんなお仕事をされているんですか?」
「港だ」
「港?」
「入ってくる商品の確認。不審な荷物がないかを見る。あとは怪しい奴が入り込まないように警備する。そんなところだ」
「それで……」
エレナは納得しかけた。
一方、アランはディルクの身体を見ていた。
港の警備。
確かに身体を使う仕事だろう。
だが、それだけでここまで鍛えられるものなのか。
立っていた時の重心も、男たちを前にした時の落ち着きも、ただ力が強いだけの人間には見えなかった。
ディルクが気づく。
「何だ?」
「いや」
アランはそれ以上聞かなかった。
今度はディルクが二人を見る。
「俺はてっきり、この辺の住民かと思ってた」
「違います」
エレナが答える。
「旅をしています」
「旅?」
ディルクが少し驚く。
「その格好で?」
二人は顔を見合わせた。
荷物は少ない。旅慣れているようにも見えない。
「事情がある」
アランが短く答えた。
「なるほどな」
ディルクは酒を口へ運ぶ。
その時だった。
視線がエレナの左腕で止まった。
月の紋章が刻まれたブレスレット。
ほんの一瞬。
エレナは気づかない。
アランも気づかない。
ディルクはすぐに視線を戻した。
港で国に入ってくる荷物や人のチェックをするディルクにとっては王国法から得た知識でその紋章が持つ意味が分かっていた。
だが、口にはしなかった。
「そういや」
何事もなかったようにディルクが言う。
「二人はどういう関係なんだ?」
エレナとアランがまた顔を見合わせた。
「婚約者です」
エレナが答える。
「ほう」
ディルクがアランを見る。
「そういうことか」
「何がですか?」
「いや。さっき、あんたに男どもが近づいた時の顔がな」
エレナがアランを見る。
「どんな顔だったんですか?」
「聞くな」
「気になります」
「忘れろ」
ディルクが笑った。
少しずつ、卓の空気が柔らかくなる。
エレナの視線が、ディルクの足元へ移った。
大きな荷物が置かれている。
見た目からして重そうだった。
「それ、重くないんですか?」
「これか?」
ディルクは片手で少し持ち上げた。
「慣れてる」
エレナは目を丸くする。
アランの違和感が強くなった。
やはり普通ではない。
「ディルクさんは、どちらへ?」
エレナが尋ねる。
「ローディス」
二人の表情がわずかに固まった。
「王都へ?」
アランが聞く。
「ああ」
「どうやって?」
「歩いて」
「歩いて?」
今度はエレナとアランが同時に聞いた。
「何だ、その顔」
「遠いですよね?」
「遠いな」
「馬車は?」
「使わん」
「でも……」
エレナは先ほどの金払いを思い出す。
「お金はありますよね?」
「また金の話か」
「すみません」
ディルクが笑う。
「久しぶりに長い休みが取れたんだ。急ぐ理由もない。歩きたいから歩く。それだけだ」
「お金があるのに歩く……」
「金があったら歩いちゃいけないのか?」
「そういう意味ではありません」
エレナは困った顔をする。
アランも不思議に思っていた。
重い荷物を背負い、わざわざ王都まで徒歩。
金に困っている様子はない。
それでも歩く。
ディルクは変わった男だった。
会話の途中。
もう一度、ディルクの視線がエレナの左腕へ向かった。
月の紋章のブレスレット。
今度は先ほどより、ほんの少し長い。
ディルクは、エレナのブレスレットが王族の証で何を意味するのかも知っている。
そして、国中で報じられている記事も知っていた。
目の前にいる少女。
名を明かさない旅人。
月の紋章。
隣には鍛えられた男。
婚約者同士。
ディルクの中で、いくつかの情報が静かにつながった。
それでも、表情は変えなかった。
何も問いたださない。
何も確かめない。
代わりに荷物へ手を伸ばした。
「そういや、こんなのが出てたな」
一枚の新聞を取り出し、卓上へ置く。
エレナとアランの身体が、ほんのわずかに固くなった。
そこには二人がシャルネで見たものと同じ記事。
エレナ王女死亡。
王国騎士団長アラン・フォルディス卿、身柄確保を命令。
アルト・フォルディス、騎士団長代理就任。
「最近は物騒だな」
ディルクは世間話をするように言った。
「王女が死んだと思ったら、騎士団長には身柄確保命令。その弟が団長代理か」
エレナは新聞を見つめないようにした。
アランも平静を装う。
「こういう時は、ろくなことが起きない」
ディルクは新聞を畳む。
「王都へ行かれるんですよね」
エレナが慎重に聞く。
「ああ」
「怖くないんですか?」
「何が?」
「今のお話を聞くと……」
「何か起きると決まったわけじゃない」
ディルクはそう言った。
「ただ、妙な時は妙なことが重なる。それだけだ」
エレナは答えなかった。
アランも、ディルクの顔を見ていた。
この男は何のために、今この新聞を出したのか。
偶然なのか。
ただの世間話なのか。
それとも。
考えても答えは出ない。
ディルクも追及しなかった。
むしろ話題を変え、ルベルの酒はヴァレスタのものより薄いだの、港では魚ばかり見ているから休みの日くらい別のものが食べたいだの、取り留めのない話を始めた。
エレナも少しずつ緊張を解く。
「ヴァレスタは、どんなところですか?」
「港がある。人も荷も多い。朝からうるさい」
「海は?」
「あるから港なんだろ」
「それはそうですけど」
ディルクがエレナを見る。
「海を見るのは初めてか?」
「……はい」
「そうか」
それだけだった。
だが、エレナは少し嬉しそうに笑った。
「楽しみです」
「なら、晴れるといいな」
アランもその横顔を見て、わずかに表情を緩めた。
ディルクは二人を見た。
何も知らなければ、ただの若い婚約者同士に見える。
これから旅を続け、海を見る。
そんな二人に。
卓上の新聞だけが、その穏やかな光景とはまるで違う現実を伝えていた。
◇
どれくらい話していただろう。
最初は警戒していたアランも、いつの間にかディルクの話を普通に聞いていた。
エレナに至っては、港の仕事について次々と質問している。
「入ってきた荷物は、全部見るんですか?」
「全部を俺一人で見るわけじゃない」
「怪しい荷物って、どうやって分かるんです?」
「書類と中身が違うとか、妙に隠したがるとか。いろいろだ」
「大変そうですね」
「慣れればそうでもない」
「不審な人も見つけるんですよね?」
「まあな」
ディルクがそう答えた時、アランは少しだけ眉を動かした。
不審人物を見つけるというディルクが、目の前にいる二人の不自然さに気づいていないとは思えない。
アランは、心の中でさっきまでのやりとりを思い出す。
名を明かさない。
旅にしては荷物が少ない。
そして新聞。
アランは何かディルクにバレているかと思い始めた。
それでもディルクは何も言わない。
「どうした?」
また気づかれた。
「いや」
「さっきからよく俺を見るな」
「気になることが多いんだ」
「聞けばいい」
「聞いて答えるのか?」
「答えたくないことは答えない」
あまりにも簡単な返事に、アランはわずかに笑った。
「それなら同じだな」
「そういうことだ」
二人の間に、妙な納得が生まれた。
エレナはそれを見て笑う。
「少し仲良くなりましたね」
「どこを見てそう思った?」
アランが聞く。
「今です」
「分からんな」
「俺も分からん」
ディルクまで同意する。
「二人とも似ています」
「似てない」
二人の声が重なった。
今度はエレナが笑った。
酒場へ入った時には、これほど長くここにいるとは思っていなかった。
酔っ払いに絡まれた時には、なおさらだ。
けれど気づけば、三人の卓だけは穏やかな時間が流れていた。
ディルクが残っていた酒を飲み干す。
「さて」
「もう行くんですか?」
「ああ。今日は楽しかった」
エレナが少し驚いた。
「私もです」
「そうか」
ディルクは店員を呼んだ。
「ここは俺が払う」
「いえ」
アランがすぐに断る。
「助けてもらったうえに、食事まで払わせるわけにはいかない」
「私もそう思います」
「いいから」
「よくありません」
エレナが真面目に返す。
ディルクは少しだけ目を細めた。
「意外と頑固だな」
「そうでしょうか」
「そうだろ」
アランが言う。
「アランまで」
ディルクは足元の荷物へ手を伸ばした。
そこから布の袋を取り出す。
卓上へ置いた。
じゃらり。
重い音がした。
袋の口がわずかに開く。
中に見えたのは金貨だった。
一枚や二枚ではない。
金額にして5000セルは下らない。
エレナの目が大きくなる。
アランも黙って袋を見る。
「……ずいぶん持っているな」
「言っただろ。金には困ってない」
ディルクは必要な分を取り出し、店の代金として置いた。
それから、さらに金を卓上へ残した。
エレナが気づく。
「多くありませんか?」
「ああ」
「では、これは……」
「旅行なら宿も必要だろ?」
二人が止まる。
「これも足しにしてくれ」
「受け取れない」
アランが即座に言った。
「食事だけでも十分です」
エレナも続く。
「初めて会った方から、こんなにいただけません」
「そうか」
ディルクは金を戻そうとしなかった。
「なら、そこに置いていく」
「ディルク」
「拾うかどうかは好きにしろ」
「そういう問題じゃない」
アランが困った顔をする。
ディルクはアランを見た。
「女を守るのにも、金は必要だろ」
その一言に、アランが黙った。
「食わせる。泊まる。移動する。怪我をすれば薬もいる。何をするにも金はかかる」
「……分かっている」
「なら持っておけ」
「だが」
「意地で腹は膨れない」
アランは言い返せなかった。
今の二人にとって、それはあまりにも現実的な言葉だった。
王女と騎士団長だった頃とは違う。
王家の金も、フォルディス家の金も、当然のようには使えない。
今日だって、料理の値段を見ながら二人で相談したばかりだ。
エレナが卓上の金を見る。
「でも……どうして、そこまでしてくださるんですか?」
ディルクは少しだけ考えた。
「今日は楽しかった。それじゃ足りないか?」
「……」
「それに、若い婚約者が金もなく旅してるのを見たら、少しくらい助けてもいいだろ」
エレナはアランを見る。
アランも迷っている。
「返せる時が来たら返す」
アランが言った。
「名前も教えてないのに?」
「それでもだ」
ディルクが笑う。
「好きにしろ」
重い荷物を持ち上げる。
やはり、その重量をほとんど感じさせない。
「じゃあな」
「ディルクさん」
エレナが呼び止める。
ディルクが振り返った。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。
アランも続いた。
「助かった」
「ああ」
ディルクは軽く手を上げた。
その視線が、最後に一度だけエレナの左腕へ落ちる。
月の紋章のブレスレット。
ほんの一瞬。
今度も何も言わない。
そして酒場を出ていった。
◇
扉が閉じる。
しばらく、二人は何も言わなかった。
卓上にはディルクが残した金。
畳まれた新聞。
空になった器。
「……不思議な方でしたね」
エレナがぽつりと言った。
「ああ」
「港の警備をしている方って、あんなにお金を持っているものなのでしょうか」
「俺は金より身体の方が気になる」
「身体?」
「あの男、相当鍛えている」
「大きかったですね」
「大きいだけじゃない」
アランはディルクが出ていった扉を見る。
「立っている時の重心がぶれない。あれだけの荷物を片手で持ち上げても姿勢が変わらない。酔っ払いが何人いても、最初からまるで警戒していなかった」
「強い人なんですか?」
「分からない」
「アランより?」
「それも分からない」
エレナは少し意外そうな顔をした。
アランが人の強さについて、これほど判断を避けるのは珍しかった。
「それに」
「まだあるんですか?」
「王都まで歩くと言っていた」
「はい」
「金があるのに」
「それ、私も不思議です」
二人は顔を見合わせた。
「長い休みだから歩きたい、と」
「本当にそれだけでしょうか」
「さあな」
アランは卓上の新聞を見る。
「新聞を出したのも気になる」
エレナの表情が少し曇った。
「気づかれていたと思いますか?」
「分からない」
「私たちのこと」
「何も言わなかった」
「はい」
「だから今は考えても仕方がない」
アランはそう言いながらも、胸の奥に残る違和感を消せなかった。
一方。
エレナは卓上に残された金を見る。
「これ……どうしましょう」
「受け取らないと言ったんだがな」
「置いていってしまいました」
「追いかけるか?」
「重い荷物を持っているのに、たぶん私たちより速そうです」
「否定できないな」
エレナが小さく笑った。
そして金を見つめる。
「宿、必要ですね」
「ああ」
「食事も」
「ああ」
「これから、たくさん」
「ああ」
アランは少しだけ息を吐いた。
「借りておこう」
「借りる?」
「いつか返す」
エレナの表情が明るくなる。
「はい」
「だから使いすぎるなよ」
「分かっています」
「本当に?」
「アラン、私を信用していませんね」
「さっきまでメニューの値段を見て悩んでいたのは誰だ」
「ちゃんと節約していた証拠です」
「それならいい」
二人はまた笑った。
知らない街。
安い酒場。
庶民の服。
限られた金。
そして、偶然出会った不思議な男。
王宮にいた頃なら、どれも縁のなかったものばかりだった。
けれど、それがこれからの二人の日常になる。
「そろそろ宿を探しましょう」
エレナが言った。
「ああ」
「安いところを」
「そこは忘れてないんだな」
「もちろんです」
二人は立ち上がった。
卓上の新聞を一度だけ見る。
紙の上では、エレナは死んでいる。
アランは身柄を追われている。
だが今ここには、二人とも生きている。
笑い。
食事をし。
宿代を心配し。
明日の道を考えている。
アランは店を出る前に、もう一度だけディルクが去った方角を見た。
あの男は何者なのか。
答えは出ない。
そして二人はまだ知らなかった。
自分たちが不思議に思った以上に。
ディルクの方もまた、二人を見ていたことを。
ルベルの街の喧騒の中へ、エレナとアランは歩き出した。
目指す先はヴァレスタ。
その向こうには、海が待っている。




