第8話 エレナの決断
新聞には三つの記事が並んでいた。
エレナ王女、死亡。
王国騎士団長アラン・フォルディス卿、身柄確保を命令。
アルト・フォルディス、騎士団長代理に就任。
エレナは自分の死亡記事を見つめた。
「……間違っています。私は生きています。アランも私を危険にさらしたわけではありません。山賊に襲われて、アランは私を守ってくれました。怪我をしたから、治療のためにシャルネへ来ただけです」
間違った情報なら訂正すればいい。王都には父がいる。
「私が戻ります。お父様に直接お話しします。私が生きていることを見せれば、死亡したという話は間違いだと分かります。アランが私を守ってくれたことも、私から説明します。そうすれば――」
「待てよ」
ラヴィナが新聞を引き寄せた。
「なんで、生きてるか死んでるかも確認してないのに、王女が死んだことになってるんだ?」
「私たちが戻っていないから、何か行き違いがあったのかもしれません」
「だったら、行方不明でいいだろ。死体を見つけたわけでもない。死んだところを見た奴もいない。なのに、なんで死亡なんだ?」
エレナは答えられなかった。
「お父様が、こんなことを簡単に決めるとは思えません」
「じゃあ、余計おかしいじゃん」
アランも頷く。
「陛下がエレナの死亡を確認もせず、すぐに公表するとは俺も思えない。だが、この記事は出ている」
事実と王都から届いた情報が一致していない。
ラヴィナは次の記事を指した。
「アランは捕まるのか?」
「身柄確保は有罪という意味ではありません。重大事件の関係者から事情を確認するためのものです」
「でも、俺がこれだけ読んだら、アランが何かやったように見えるぞ。王女は死んだ。その王女を守ってた騎士団長は身柄確保。何も知らない奴が見たらどう思う?」
エレナは初めて、事情を知らない国民の目で記事を見た。
「アランが……私を守れなかった責任を問われているように見える……」
「もっと悪くも見える。王女を危ない目に遭わせた。護衛に失敗した。王都へすぐ戻らなかった。そういう責任まで、エレナが戻っただけで全部なくなるのか?」
エレナは答えられない。
「俺、法律は詳しくないけどさ。最悪、死刑とかないのか?」
「ラヴィナ!」
エレナの顔から血の気が引いた。
「エレナ。まだ俺は罪人と決まったわけじゃない。身柄確保だ。判決じゃない」
「分かっています」
けれど、「死刑」という言葉を聞いた瞬間、アランを失う光景が頭をよぎった。それだけは嫌だった。
「……ごめんなさい。脅かしたかったわけじゃない」
「いえ。考えなければならないことです」
ラヴィナは三つ目の記事を指す。
「じゃあ、なんでアルトが団長代理なんだ?」
「アランが不在だからでしょう」
「騎士団って他に人いないのか?」
「もちろんいます」
「だったら、なんでアルト?」
アランが答えた。
「アルトは事件現場を知る生存者だ。それを理由に選ばれた可能性はある」
「それだけ?」
「分からない」
ラヴィナは灰岩峡路で剣を交えたアルトを思い出す。異様な速さ、反応、力。
「王都に一人で戻ったのがアルト。その後でエレナは死んだことになった。アランは身柄確保。それでアルトが団長代理。偶然かもしれない。アルトが全部やったなんて言うつもりもない。でも、なんか変だ」
「私は、お父様を信じています」
「王様が悪いって言ってるんじゃない。王様に会うまでが安全なのか?」
エレナが止まった。
「王都に入って、王城へ行って、王様のところまで行く。その間、誰にも止められないのか? 王宮って王様一人しかいない場所じゃないだろ?」
六貴族家、官吏、騎士。王宮は父の家であると同時に国家の中心だ。
そして、自分の知らないところで自分は死者となり、アランには身柄確保命令が出され、アルトは騎士団長代理になった。
「エレナが戻って、本当に今の王宮はおまえにとって安全な場所なのか?」
父を疑っているわけではない。
だが、父のところまで無事に辿り着けると断言することもできなかった。
「……少し、考えさせてください」
◇
誰も急かさなかった。
エレナは長い間考えた。
戻るという選択には、アランの身柄も含まれる。自分だけの問題ではない。
隣にいるアランを見る。
この人を失いたくない。
その思いだけは、考える必要すらなかった。
王家の歴史。王国法。王位継承。王都会議。
王女として教えられてきた知識を一つずつ思い返す。
やがて、エレナが顔を上げた。
「……十年」
「何?」
「十年、待ちます」
「十年?」
アランも驚いてエレナを見る。
「今、私は十六歳です。十年後、私は二十六歳になります」
「それが?」
「セレディス王家の人間は、二十六歳になると正式な王位継承資格を得ます」
「王様になれるってことか?」
「正確には、王位を継承する資格です。それだけではありません」
エレナは続けた。
「正式な王位継承資格を得た王族は、王都会議で十票の議決権を持ちます」
「十票?」
「はい。一人で十票です」
今のエレナは王女であっても十六歳。議決権はない。
「重大な問題が王都会議の決議になれば、今の私は自分で票を投じることができません。でも二十六歳になれば違います」
アランが尋ねる。
「そのために十年待つのか」
「それだけではありません。お父様も十票を持っています」
「じゃあ、エレナが二十六歳になれば……」
「私の十票と、お父様の十票です」
「二十票」
「はい」
エレナの声に、少しずつ確信が戻ってくる。
「お父様から、王家の歴史を教わりました。セレディス王家は、王都会議で死刑に賛同したことが一度もありません」
「一度も?」
「はい。一度もです」
死刑という刑罰が存在しないわけではない。重大な罪について、王都会議で死刑が審議されることもある。
それでも歴代のセレディス王家は、一度も死刑へ賛成票を投じてこなかった。
「お父様から、そう教わりました」
幼い頃には歴史の一節として聞いていた言葉が、今はまったく違う意味を持っている。
「もしアランの処遇が王都会議で決められることになっても、お父様は死刑には賛成しないと思います」
「エレナ……」
「そして十年後なら、私にも十票があります。私も絶対に賛成しません」
エレナは静かに、しかしはっきりと言った。
「お父様の十票と、私の十票。二十票あれば、アランを死刑にはさせません」
十六歳の今は、父に頼るしかない。
だが二十六歳なら、自分自身が王都会議の一員として意思を示せる。
「だから十年なのか」
「はい」
ラヴィナはしばらく黙った。
「でもさ。十年も戻らなかったら、アランの立場、もっと悪くならないのか?」
今度はエレナもすぐには答えなかった。
「……悪くなると思います」
「だったら、俺だけでも戻る」
アランが言った。
「エレナがここに残るなら、俺が王都へ戻って事情を説明する」
「嫌です」
即答だった。
「エレナ」
「アランだけを戻すことはできません」
「だが、このままでは俺自身が――」
「分かっています」
エレナは自分の死亡記事へ手を置いた。
「だから、これを使います」
「これ?」
「王国は、私を死亡したと公に発表しました」
アランとラヴィナが新聞を見る。
「王国自身が、エレナ・セレディス王女は死亡したと判断したんです」
「それがどうした?」
ラヴィナが尋ねる。
エレナは一度目を伏せ、それから顔を上げた。
「死亡したと判断した以上、今の私は王女ではありません」
「エレナ?」
「少なくとも、王国が公に示した判断に従うなら、そういうことになります」
もちろん、それだけで過去のすべてが消えるわけではない。
アランが王女護衛の責任者だった事実も、山賊襲撃が起きた事実もなくならない。
ラヴィナもそこに気づいた。
「でも、アランが王女を守ってた時の責任までなくなるわけじゃないだろ?」
「はい。なくなりません。それをなかったことにするつもりはありません」
「じゃあ――」
「それでも、これからの十年まで『王女を連れて逃亡した』とは、私は言わせたくありません」
エレナは新聞を見つめた。
「王国が私を死者として扱うのなら、私はその公的な判断を受け入れます」
十年後に戻る。
そのために今は、国家自身が作った「死亡」という事実の陰へ身を置く。
「アランは、死んだ王女を連れて逃げるのではありません」
エレナはアランを見る。
「今ここにいる私と、一緒に生きていくだけです」
「……そんな言い方で、おまえまで全部背負う必要はない」
「あります」
「ない」
「あります」
珍しく、エレナは譲らなかった。
「アランは、ずっと私を守ってくれました。今回だけではありません」
幼い頃から。
怖い時も。迷った時も。王女として振る舞わなければならない時も。
アランはいつも近くにいた。
「アランは、王女だから私を守ってくれたわけではありません」
「……」
「私たちは、ずっと支え合ってきました」
アランの表情が揺れた。
「だから今度は」
エレナは微笑んだ。
「私が、アランを守ります」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
十年。
あまりにも長い時間だった。
その間に何が起こるかは分からない。
アランの法的な立場が悪くなるかもしれない。王都の政治も変わるかもしれない。父がどうするのかも分からない。
エレナ自身、十年後のすべてを見通しているわけではなかった。
それでも、今戻ればアランを守る力がない。
十年後なら、自分の十票がある。
そして父の十票がある。
セレディス王家が歴史上守ってきた、死刑に賛同しないという姿勢がある。
だから待つ。
ただ逃げるためではない。
戻るために。
守られるだけだった自分が、自分の意思で誰かを守れる立場になるために。
「決めました」
エレナは言った。
「私は、十年後に王都へ戻ります」
アランが目を閉じる。
「本当にいいのか」
「はい」
「王女としての十年を失うかもしれない」
エレナは新聞へ目を落とした。
「王国では、もう私は死んでいるのでしょう?」
少し寂しそうに笑う。
「なら、その十年を無駄にはしません」
ラヴィナがエレナをじっと見ていた。
初めて会った時とは違う。
柔らかく、穏やかな少女。
けれど、その柔らかさの奥に、決めたことを簡単には曲げない強さがある。
「十年後か」
「はい」
「長いぞ」
「分かっています」
「本当に?」
エレナは少し考えた。
「……今はまだ、十年がどれほど長いのか、本当の意味では分かっていないのかもしれません」
正直な言葉だった。
「でも、決めました」
ラヴィナはしばらく黙った後、小さく息を吐いた。
「そっか」
それ以上は言わなかった。
卓上には、エレナの死を告げる新聞が残されている。
その紙の前で。
死んだことにされた十六歳の王女は、自分の未来を自分で選んだ。
十年後。
二十六歳。
王位継承資格を持ち。
王都会議の十票を持つ時。
エレナ・セレディスは王都へ戻る。
今度は守られるためではない。
大切な人を守るために。
◇
「エレナ様……立派です」
不意に聞こえた声に、エレナが振り返った。
リゼアだった。
「十六歳で、自分のことだけではなく、大切な人を守るためにそこまで考えられる。本当に立派です」
「でも、正しいかどうかは……まだ分かりません」
「十年後のことなど、誰にも分かりません。それでも、自分で考えて、自分で選んだのでしょう?」
「……はい」
「それなら立派です。さすがは……セレディス王族です」
リゼアの頬を涙が伝った。
「ばあちゃん?」
ラヴィナが驚く。
「どうしたんだよ、ばあちゃん」
「歳を取ると、涙もろくなるんだよ」
「そんな理由?」
「そんな理由だ」
拭っても涙は止まらなかった。
エレナには、その涙のすべての意味は分からない。
ただ、リゼアにはエレナの決断を自分の中で大事にしたかった。
「ありがとうございます」
エレナは深く頭を下げた。
◇
「明日、ここを発とうと思います」
アランが告げた。
「もう?」
ラヴィナが顔を上げる。
「傷、まだ治ってないだろ」
「動けないほどじゃない。それに、これ以上ここへ留まれば、リゼアさんや村の人たちまで巻き込む可能性がある」
本来なら一週間ほど治療を続ける予定だった。
だが、状況が変わった。
新聞はシャルネまで届いた。アランには身柄確保命令が出ている。そしてアルトも、エレナとアランがシャルネへ向かったことを知っている。
「私も、そうした方がいいと思います」
エレナが言った。
「ここには十分すぎるほど助けていただきました。これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「迷惑だなんて思っていませんよ」
リゼアが言う。
「それでもです」
エレナはアランを見る。
アランも頷いた。
明日から。
二人で行き先を決め、互いを守りながら生きていく。
その人生が始まる。
◇
その夜。
部屋の灯りを落としてから、かなり時間が経っていた。
それでもエレナは眠れなかった。
「ラヴィナ」
「……何?」
「起きていたんですね」
「エレナもだろ」
「はい」
少し沈黙する。
「今日は、剣の練習に行かないんですか?」
「今日はいい」
「毎日していると言っていたのに」
「一日くらいやらなくても弱くならないだろ」
「そうなんですか?」
「たぶん」
「また疑問形ですね」
「うるさいな」
エレナは小さく笑った。
ラヴィナが今夜ここにいる理由を、エレナは聞かなかった。
また沈黙。
今度はラヴィナから声を出した。
「なあ」
「はい?」
「旅行って、どこ行くつもりだったんだ?」
エレナは少し驚いた。
ラヴィナから自分について尋ねられることは珍しい。
「海です」
「海?」
「はい。今回の旅行は、セレナ月五日の誕生日旅行だったんです」
「誕生日!」
「どうしました?」
「セレナ月五日?」
「はい」
ラヴィナが黙った。
「ラヴィナ?」
「……同じじゃねーか」
「何がですか?」
「誕生日。セレナ月五日」
「え?」
エレナが身体を起こした。
「同じ日なんですか?」
「みたいだな」
「本当に?」
「誕生日で嘘ついてどうするんだよ」
「それはそうですけど……」
二人とも十六歳。
さらに誕生日まで同じ。
「すごい偶然ですね」
「そうだな」
今の二人にとっては、ただ少し不思議な偶然だった。
「それで、海へ行く予定だったんです。私、海を見たことがなくて」
「王女なのに?」
「王女でも見たことがないものはあります」
「ふうん」
「ラヴィナは、海を見たことがありますか?」
「ない」
エレナの声が少し弾んだ。
「同じですね」
「そんなことで喜ぶ?」
「だって、ラヴィナは何でも知っていそうなので」
「俺を何だと思ってるんだよ」
二人で笑った。
そこからは、不思議なくらい会話が途切れなかった。
山のこと。花のこと。王都のこと。剣のこと。旅のこと。そして、まだ二人とも見たことのない海のこと。
大きな秘密を打ち明けたわけではない。
ただ、眠れない十六歳の少女二人が、思いついたことを話した。
エレナはいつの間にか、自分が王女であることを忘れていた。
ラヴィナも、明日にはいなくなる相手と話していることを忘れていた。
「……明るい」
エレナが気づいた時、窓の外が白み始めていた。
「ほんとだ」
「ほとんど眠れませんでしたね」
「エレナのせいだからな」
「旅行の話を聞いたのはラヴィナですよ」
「途中からエレナの方が喋ってただろ」
「ラヴィナも同じくらい話していました」
「話してない」
「話していました」
最後の夜は、そんな言い合いで終わった。
◇
朝。
アランとエレナは旅立つ準備を終えた。
「本当にありがとうございました」
エレナはリゼアへ深く頭を下げた。
「私たちを助けてくださって。アランの治療までしていただいて」
「どうか、お身体を大切に」
リゼアはエレナの手を優しく握った。
「十年後、胸を張って王都へ戻れるように」
「はい」
アランも頭を下げる。
「この恩は忘れません」
「まずは傷を悪化させないことです」
「……気をつけます」
その横でラヴィナが二人を見ていた。
「で、どこ行くんだ?」
アランが答える。
「ヴァレスタへ向かう」
「ヴァレスタ?」
「ああ。海が見えるし、あそこは港町だ。仕事もたくさんある」
ラヴィナの表情が止まった。
昨夜の会話を知っているエレナが横から見る。
「海だそうですよ」
とエレナは嬉しそうに昨夜の会話を思い出しながらラヴィナを見る。
「聞こえてるよ!」
アランはラヴィナを見る。
「お前にも海を見たいのか?」
「……別に、見たいって言ってないけど」
「昨日、見たことがないと言っていましたよ」
「エレナ」
「何ですか?」
「余計なこと言うな」
エレナは楽しそうに笑った。
ラヴィナは思い出したように言う。
「そうだ。報酬」
「忘れていなかったんですね」
「忘れるわけないだろ。逃げられたら困る」
「逃げませんよ」
「十年逃げるって決めたばっかりだろ」
「ラヴィナから逃げるわけではありません」
エレナは少し考えた。
「住むところが決まったら、ラヴィナに書簡便を出します」
「俺に?」
「はい。居場所をお知らせします。報酬のこともありますから」
「絶対だぞ」
「約束します」
エレナは微笑んだ。
その書簡が、次に二人が会うきっかけになることを、この時の二人はまだ知らない。
「じゃあ」
アランが言った。
「行こう、エレナ」
「はい」
二人は歩き出した。
ラヴィナはついていかなかった。
リゼアと並び、シャルネ村から離れていく二人の背中を見送る。
エレナは途中で一度だけ振り返った。
短い時間しか過ごしていない場所。
それでもシャルネは、忘れられない場所になっていた。
王国から死んだことにされた場所。
そして、自分の未来を自分で選んだ場所。
エレナは小さく手を振った。
ラヴィナも少し遅れて手を上げる。
それからエレナは前を向いた。
隣にはアランがいる。
これから十年。
何が待っているのかは分からない。
アランは心の中で誓った。
何があっても、エレナを守る。
そしてエレナも、隣を歩くアランを見ながら誓った。
何があっても、アランを守る。
守る者と、守られる者ではない。
二人で支え合う。
その人生が、ここから始まる。
最初の目的地はヴァレスタ。
誕生日旅行で行く避暑地のセレヴィアではなかったが、ヴァレスタでもエレナが誕生日旅行で見るはずだった海が待っていた。




