第7話 地図にない村とそこに咲く花
王国騎士団長代理。
その肩書が自分のものになったという実感を、アルトはまだ持てずにいた。
王城の一室。大きな卓の上に、一枚の地図が広げられている。
王立国土図。
王家のみが所有する、カルゼリア王国でもっとも古く、もっとも詳細な地図。主要な都市や街道だけではない。普通の地図なら省かれるような小さな村まで記されている。
しかし。
「……ない」
アルトはもう一度、地図へ顔を近づけた。
指先がレイフォードを辿る。そこから西へ。灰岩峡路。周辺の山地。小さな集落を示す文字がいくつもある。
だが。
シャルネという村が地図のどこにも記載されてない。
何度見ても、どこにも。
「別の地図を」
近くに控えていた騎士が一瞬ためらう。
「しかし、こちらが王立国土図です。」
「分かっている」
「何を探しているんですか?国内では、これ以上詳細な地図は――」
「いいから持ってこい」
「……はっ」
騎士が部屋を出ていく。
アルトは再び地図を見た。
聞き間違えたのか。
いや。
エレナは確かに言った。
シャルネ村。
負傷したアランを治療するため、そこへ向かうと。
あの時のエレナの顔まで覚えている。悲しそうに自分を見て、負傷した護衛兵とともに王都へ戻るよう命じた。
そして。
兄とは一緒に行った。
「……」
胸の奥に小さな熱が生まれる。
今はそれを考える時ではない。
騎士団長代理になった。騎士団を動かせる。王女捜索という名目もある。アランを発見した場合には身柄を確保し、王都へ連行する命令まで出ている。
あとはシャルネ村へ向かえばいい。
そう思っていた。
なのに、目的地そのものが地図にない。
扉が開いた。
「お持ちしました」
別の地図が卓へ置かれる。
カルゼリア王国全図。
アルトはすぐに広げた。
結果は同じだった。
「……ない」
「いったい何が?」
「黙れ!」
アルトは苛立ちを隠せなかった。
「調べろ」
「レイフォードから灰岩峡路周辺。小さな集落も含めてすべての村全部だ。街道沿いだけを見るな。山側もだ」
「承知しました」
「王女殿下とアラン・フォルディスを発見した場合、すぐに報告しろ」
「アラン殿については?」
「王命どおりだ。身柄を確保し、王都へ連行する」
「はっ」
騎士が去る。
アルトは王立国土図の上へ手を置いた。
地図にない村。
そんなものが、本当にあるのか。
しかも、王家の地図に。
「どうなってるんだ?」
場所さえ分かれば、すぐにでも行けるのに。
エレナはそこにいるはず。
そう思いながらあの時聞いたシャルネという村が思い出す。
しかし、辿り着くための手がかりもつかめない。
◇
同じ頃。
シャルネ村では、朝の光が静かに家々を照らしていた。
扉を叩く音がした。
「ラヴィナ!」
外から少女の声がする。
「あ」
「誰ですか?」
エレナが尋ねる。
「ミレイ」
「ミレイ?」
「友達」
ラヴィナは立ち上がり、扉を開けた。
「遅い」
「まだ時間あるだろ」
「あるけど、ラヴィナいつも準備遅いから」
「今日はもうできてる」
「珍しい」
「帰る?」
「なんでそうなるの」
二人のやり取りを、エレナは少し離れたところから見ていた。
ラヴィナが誰かとこんなふうに話しているところを見るのは初めてだった。
ミレイが家の中を見る。そしてエレナと目が合った。
「……あ」
「ラヴィナ、その人……」
「ああ。エレナ」
「それは見れば……」
「エレナ・セレディス」
ミレイが瞬きをする。
「……え?」
「だから、エレナ」
「セレディスって……王家の?」
「うん」
ミレイの顔から表情が消えた。
エレナは先に頭を下げた。
「初めまして。エレナ・セレディスです」
「えっ……お、王女様!?」
「はい」
「ちょっとラヴィナ!」
「何だよ」
「何だよじゃないでしょ!」
「紹介しただろ」
「そういう問題じゃない!」
ミレイは慌てて姿勢を正した。
「し、失礼いたしました。王女殿下」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「でも……」
ミレイはラヴィナを見る。
「ラヴィナ、普通に名前で呼んでるけど」
「エレナだから」
「王女様でしょ?」
「王女だけどエレナだろ」
エレナは思わず笑った。
「私も最初は驚きました」
「何にですか?」
「ラヴィナにです」
「おい」
ミレイも少しだけ笑った。
「初めまして。ミレイです」
今度は落ち着いて、丁寧に頭を下げた。
「ラヴィナとは、よく一緒に山へ行っています」
「そうなんですね」
エレナはラヴィナを見る。
「初めて聞きました」
「聞かれてないから」
「そういうところですよ」
「何が?」
エレナとミレイの声が重なる。
「何でもありません」
「何でもない」
「なんだよ二人とも」
エレナとミレイは顔を見合わせた。
◇
「それで、今日はどこへ?」
「山」
「山?」
「花を取りに行くんです」
ミレイが補った。
「毎朝?」
「だいたい」
「私は摘んだ花を売っていますから」
「ラヴィナも売るんですか?」
「俺は違う」
「では何を?」
「フィレナ」
エレナの目が止まった。
「フィレナ?」
「うん」
峡路でラヴィナが触れた水色の花。
――フィレナ。
そう唱えた直後、ラヴィナの動きは変わった。
戦いの後、その花は枯れていた。
「山にあるんですか?」
「あるよ」
エレナは少し考えた。
「私も行ってみたいです」
「駄目」
即答だった。
「まだ何も言っていません」
「行きたいって言っただろ」
「言いました」
「じゃあ駄目」
「どうしてです?」
「山道だから。長いし、結構きついぞ」
「歩けます」
「王都の道と一緒にするなよ」
「一緒にはしていません」
「途中で疲れたって言われても背負わないからな」
「言いません」
「転んでも知らない」
「気をつけます」
ラヴィナがエレナを見る。エレナも引かない。
ミレイが困ったように笑った。
「王女殿下、山道、本当に歩きにくいですよ」
「それでも行ってみたいです」
「……勝手にすれば」
エレナの表情が明るくなる。
「ありがとうございます」
「許可してないからな」
「では、勝手についていきます」
「なんか言い方がずるくないか?」
ミレイが口元を押さえた。
「二人、本当に会ったばかりなんですよね?」
「そうだけど」
「……そうは見えない」
ラヴィナは気にした様子もなく外へ出た。
「行くぞ。遅くなる」
◇
最初のうちは、エレナにも余裕があった。
村を離れ、山へ向かう。
ラヴィナとミレイは慣れた足取りで進んでいく。エレナも二人についていった。
だが、道が険しくなるにつれて歩く速度は少しずつ落ちた。
「大丈夫ですか?」
「はい」
少し前を歩いていたラヴィナも振り返る。
「まだ戻れるぞ」
「戻りません」
「そう」
「ラヴィナ、もう少しゆっくり」
「さっき大丈夫って言っただろ」
「私が言ったんじゃありません」
ミレイが呆れる。
「毎日歩いてる私たちと同じ速さじゃ無理だよ」
「じゃあ先行ってる」
「駄目。王女殿下を置いていく気?」
「本人が来たいって言った」
エレナは二人の後ろで小さく笑った。
「何?」
「いえ」
「また笑っただろ」
「笑っていません」
「絶対笑った」
「前にも同じことを言いましたね」
ミレイが二人を見る。
「本当に会ったばかり?」
三人は再び歩き始めた。
途中、エレナは何度も足を止めそうになった。
王城で暮らしていた頃、これほど長く険しい道を自分の足で歩くことなどなかった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
目に入るものが、どれも知らないものだった。
「毎日そこまで行くんですか?」
「うん」
「大変では?」
「慣れてるから」
ミレイが振り返る。
「ラヴィナは雨の日でも行こうとするんですよ」
「行けるなら行くだろ」
「危ないでしょ」
「花は待ってくれないし」
「フィレナも?」
エレナが聞く。
ラヴィナが一瞬だけ見る。
「まあな」
「そんなに必要なんですか?」
「使うから」
それ以上は答えない。
エレナも追及しなかった。
以前と同じだ。
ラヴィナはフィレナについて必要以上に話そうとしない。
なら今は、自分の目で見ればいい。
◇
「着きました」
ミレイが言った。
エレナは顔を上げる。
「……わあ」
思わず声が漏れた。
長い山道を歩いた先。
そこには、さまざまな花が咲いていた。
王城の庭園のように、人の手で種類ごとに整然と並べられているわけではない。
大きさも、色も、形も違う。
それぞれが自分の場所を見つけたように咲いている。
「すごい……」
「珍しいですか?」
「はい。王城にも花はたくさんあります。でも、ここは全然違います」
「そりゃそうだろ。王城じゃないし」
「そういう意味ではありません」
「じゃあどういう意味?」
「うまく言えません」
「なんだそれ」
エレナは笑った。
ミレイは慣れた様子で花を選び始める。
ラヴィナは別の方向へ歩いていく。
エレナもゆっくり周囲を見た。
そして。
足が止まった。
淡い水色。
「……ラヴィナ」
「ん?」
「これ」
ラヴィナが振り返る。
エレナの足元に咲く花を見て、近づいてきた。
「フィレナ」
エレナはしゃがみ込んだ。
「これが……」
戦いの時は、ゆっくり見る余裕などなかった。
今、目の前にある花は静かだった。
剣を弾くことも。
人を速く走らせることも。
何も想像できないほど、ただの小さな花に見える。
「触っても?」
「別に」
エレナは指先でそっと花に触れた。
何も起きない。
当然なのかもしれない。
けれど、それすらエレナには分からない。
「これを使ったんですね」
「使った?」
「アルトと戦った時に」
ただ、ラヴィナはエレナにはそれ以上話さない。
「そして、あの花はすぐに枯れたんですね」
ラヴィナが一瞬黙った。
「そうだな」
「この花も、使えば枯れるんですか?」
「……」
ラヴィナは答えなかった。
代わりに、別のフィレナへ手を伸ばす。
「必要な分だけ取る」
「答えてくれないんですね」
「今度な」
「今度?」
「いつか」
エレナは少し驚いた。
以前は「今はいいだろ」で終わった。
今度は「いつか」。
ほんのわずかな違い。
「分かりました」
「素直だな」
「待てと言ったのはラヴィナですよ」
「そうだけど」
エレナはフィレナから手を離した。
その淡い水色だけを、もう一度目に焼き付けた。
◇
その頃。
シャルネ村には、一部の外からの品とともに新聞が持ち込まれていた。
レイフォードから来たものだった。
リゼアはレイフォードから来た新聞を毎朝買うのが日課だった。リゼアは、その場で紙面を開いた。
そして。
動きを止めた。
大きな見出し。
エレナ王女殿下、死亡。
「……」
リゼアの目が細くなる。
もう一つ。
王国騎士団長アラン・フォルディス卿、身柄確保を命令。
さらに。
アルト・フォルディス卿、騎士団長代理へ。
リゼアはどういう状況か理解できなかった。
新聞では死んでいる王女が、今朝ラヴィナたちと山へ出た。
家の中にはアランがいる。
いろいろと不思議に思いながらそのまま家へ戻った。
◇
アランは窓の近くにいた。
傷の痛みは最初の日より軽い。だが、剣を持って以前と同じように動ける状態にはまだ戻っていない。
「アラン様」
リゼアの声に振り返る。
「どうしました?」
「これを」
差し出された新聞を見る。
「レイフォードから?」
「ええ」
受け取る。
最初の見出しが目に入った。
――エレナ王女殿下、死亡。
「……何だ、これは」
もう一度読む。
文字は変わらない。
今朝までこの家にいた。ラヴィナとミレイと山へ行った。笑っていた。
生きている。
それなのに。
「死亡……?」
リゼアは何も言わない。
アランは記事を追った。
王国が公的に死亡として扱う。
「陛下が……?」
信じられなかった。
レオルドがエレナの死を簡単に認めるとは思えない。遺体もない。確認もされていない。
「まだあります」
次の見出し。
――王国騎士団長アラン・フォルディス卿、身柄確保を命令。
「……」
自分の名前。
肩書。
そして、身柄確保。
記事には、エレナ王女の護衛責任者であったこと。襲撃事件後、王都へ帰還していないこと。事件の詳細を確認するため、発見した場合は身柄を確保し、王都へ連行する命令が出ていることが記されていた。
殺人犯とは書かれていない。
反逆者とも。
逃亡者とも。
だが。
「これは、もうただの捜索ではありませんね」
「ええ」
自分を助けるための捜索なら、身柄を確保する必要などない。
「……うまいな」
「何がです?」
「何も断定していない。私がエレナを殺したとは、どこにも書いていない。逃げているとも」
「ええ」
「でも、これを読んだ人間は疑う」
王女が死んだ。
護衛責任者が帰ってこない。
国が身柄確保を命じた。
それだけの事実が並べば十分だった。
さらに下へ目を移す。
――アルト・フォルディス卿、騎士団長代理へ。
「……アルト」
記事を読む。
騎士団長不在に伴う暫定措置。
事件現場を知る生存者。
王女とアランの捜索を継続するため。
理屈は通っている。
「弟君ですか?」
「はい、そして今、そのアルトが自分を探す騎士団を率いています」
アランは新聞を握る手に力を入れた。
アルトは知っている。
シャルネ村。
エレナがここへ向かったことを。
「まずい」
アランが立ち上がる。
「アラン様」
身体に痛みが走った。
「っ……」
「座ってください」
「でも、アルトはここを知っている」
「こんな小さな村、そう簡単に来ませんよ」
アランが止まる。
「……どういう意味です」
「まず座ってください」
アランは仕方なく腰を下ろす。
「アルト様は、シャルネ村へ来たことがありますか?」
「いえ」
「場所をご存じですか?」
「エレナから村の名前を聞いただけのはずです」
「なら、すぐには来られません」
「でも地図を調べれば」
リゼアはほんの一瞬だけ黙った。
「……この村は、小さいですから」
「王国の地図なら、小さな村も――」
「今は、傷を治すことを考えてください」
話を切られた。
アランはリゼアを見る。
何かを隠したように感じた。
だが追及するより先に、新聞へ視線が戻る。
三つの記事。
別々の出来事のはずなのに、一枚の紙の上に並ぶと、まるで最初から一つの物語だったかのように見える。
エレナが死んだ。
自分が消えた。
アルトが代わりに立った。
「エレナには?」
リゼアが尋ねた。
「……見せなければならないでしょう」
アランは新聞を見つめた。
「でも、帰ってくるまでは、知らないままでいさせてください」
リゼアは短く頷いた。
◇
山では。
エレナは自分の名が新聞の一面にあることなど知らなかった。
「王女殿下、これ綺麗ですよ」
ミレイが一輪の花を見せる。
「本当ですね」
「王女殿下って呼ぶの、まだ続けるの?」
ラヴィナが横から言う。
「続けるよ。王女殿下なんだから」
「エレナでいいって言ってるだろ」
「ラヴィナがおかしいの」
「私もエレナで構いませんよ」
エレナが言うと、ミレイは困った。
「でも……」
「では、二人きりの時だけでも」
「それ、余計緊張します」
ラヴィナが笑った。
「ミレイ、顔固いぞ」
「誰のせいだと思ってるの」
エレナはまた笑った。
その時だった。
「あっ」
ミレイが突然声を上げた。
エレナが振り返る。
「どうしました?」
「ちょっと待ってください」
ミレイは摘んでいた花を置くと、少し離れた場所へ駆けていった。
そして草の間へしゃがみ込む。
「ラヴィナ、見て」
「ん?」
「これ」
ラヴィナも近づいた。
次の瞬間、その表情が少し変わる。
「お。珍しいな」
エレナも二人のそばへ歩いていった。
草の陰に、小さな花が一輪だけ咲いている。
淡い銀白色の花弁。
その中心だけが、わずかに薄紫色を帯びていた。
周囲に咲く鮮やかな花々と比べれば小さく、知らなければ見落としてしまいそうなほど目立たない。
「これも珍しい花なんですか?」
「ライゼルです」
ミレイが嬉しそうに答えた。
「ライゼル……」
エレナはその名を繰り返す。
ミレイは花を傷つけないよう注意しながら、根元近くへ指を添えた。
「この辺りでも、なかなか見つからないんです」
「そうなんですね」
「うん。今日は運がいいな」
ラヴィナがしゃがみ込む。
「それ、高く売れるぞ」
「分かってる」
ミレイの返事が少し弾んだ。
「いつもの花より?」
エレナが尋ねる。
「全然違う」
答えたのはラヴィナだった。
「ライゼルは滅多に咲いてないからな。欲しがるやつもいるし、見つけたら結構いい値段になる」
「そんなに希少なんですか?」
「だからミレイが急に走ったんだよ」
「ラヴィナだって見つけたら走るでしょ」
「俺は売らないし」
「でも教えてくれるでしょ?」
「見つけたらな」
ミレイは慎重にライゼルを摘み取った。
乱暴に引き抜くのではなく、花を傷めないよう、ゆっくりと。
摘み取った一輪を手のひらへ載せる。
「綺麗……」
エレナが覗き込む。
近くで見ると、銀白色の花弁は光の当たり方によってわずかに表情を変え、その中央の薄紫色だけが静かに浮かんで見えた。
「これを売るんですね」
「はい」
ミレイは嬉しそうに頷いた。
「今日、山に来てよかった」
「毎日来てるだろ」
「そういう意味じゃないの」
ミレイは大切そうにライゼルを他の花とは分けた。
エレナはその様子を眺めていた。
同じ山に咲く花でも。
売るために探すミレイ。
フィレナを求めて山へ来るラヴィナ。
そして、何も知らずにただ綺麗だと思って眺めている自分。
同じ花を見ても、三人にはそれぞれ違う意味がある。
それが、エレナには少し面白かった。
王都にいた頃、同じ年頃の少女と、こんなふうに山道を歩きながら他愛のない話をしたことが、どれほどあっただろう。
王女として接する者は多かった。
でもラヴィナは違う。
王女だと知っても、態度がほとんど変わらない。
ミレイは礼儀正しい。それでもラヴィナと言い合う時には普通の少女に戻る。
その二人の間にいると、自分まで少しだけ普通の十六歳になったような気がした。
「エレナ」
「はい?」
「帰るぞ」
ラヴィナが呼んだ。
その呼び方が、今はもう少しだけ心地よかった。
◇
帰り道は、来た時より遅かった。
「だから言っただろ」
「まだ歩けます」
「歩けてるけど遅い」
「ラヴィナ」
ミレイが睨む。
「王女殿下にそんな言い方しない」
「じゃあ、もっと速く歩いてください、王女殿下」
「丁寧に言えばいいわけじゃないでしょ」
エレナは息を整えながら笑った。
途中、エレナは一度だけ足を滑らせた。
「危ない」
ラヴィナが腕を掴む。
「……ありがとうございます」
「転んでも知らないって言ったのに」
「助けてくれましたね」
「目の前で転ばれたら面倒だから」
「そういうことにしておきます」
「何だよ、その言い方」
ミレイが後ろで笑う。
峡路では、この手が小太刀を握り、アランとアルトの間へ飛び込んだ。
今日は、ただ自分が転ばないように支えている。
同じ手なのに、ずいぶん違って見えた。
◇
村へ戻った頃には、エレナはさすがに疲れていた。
「ただいま」
「戻りました」
家の中は静かだった。
「ばあちゃん?」
「こちらですよ」
リゼアの声。
その声を聞いた瞬間、エレナは何かを感じた。
朝とは違う。
部屋へ入る。
アランがいる。
リゼアも。
そして卓上に、一枚の新聞が置かれていた。
「アラン?」
アランが顔を上げる。
「おかえり、エレナ」
「はい」
いつもの声。
けれど表情が違う。
「何かあったんですか?」
アランはすぐ答えなかった。
エレナの視線が新聞へ落ちる。
「それは?」
「レイフォードから届いた新聞です」
リゼアが答えた。
エレナが近づく。
「エレナ」
「はい?」
「驚かないで聞いてほしい」
「何ですか?」
アランは新聞を差し出した。
エレナが受け取る。
最初に見えたのは、自分の名前だった。
大きな文字。
――エレナ王女殿下、死亡。
「……え?」
もう一度読む。
「……私?」
エレナは片手を胸元へ当てた。
心臓は動いている。
山を歩いてきた。
疲れている。
さっきまでラヴィナと話していた。
それなのに、新聞の中では自分は死んでいた。
「どういう……ことですか?」
「王国が公的にそう扱うことを決めたらしい」
「お父様が?」
「それは分からない」
「でも、こんな……」
エレナは記事を読む。
指先が震えた。
「私が帰れば」
小さく言う。
「王都へ帰れば、すぐに間違いだと分かります」
アランは黙った。
「お父様に会えば間違いだとわかります。私は生きている。こうしてここにいるんですから」
「まだ続きがある」
「続き?」
視線を下げる。
次の見出し。
――王国騎士団長アラン・フォルディス卿、身柄確保を命令。
「……アラン?」
エレナの声が変わった。
記事を読む。
「どうして?」
顔を上げる。
「アランは私を守ってくれました。山賊からも。アルトからも。傷まで負って」
「エレナ」
「それなのに、どうしてアランが?」
アランは答えられない。
「王都に帰ったら、私が説明します」
エレナの声には、普段より強い意志があった。
「私がお父様に話せば分かります。アランは何も悪くありません」
ラヴィナが少し離れたところで新聞を覗く。
「まだあるぞ」
「え?」
三つ目。
――アルト・フォルディス卿、騎士団長代理へ。
今度はエレナもアランも、すぐには言葉を出せなかった。
「アルトが……」
エレナの脳裏に峡路の光景が蘇る。
剣。
兄弟の争い。
変わったアルトの動き。
そして、自分たちを襲わせたという事実。
「どうして……アルトが?」
エレナの声は、先ほどよりも小さかった。
アランは答えなかった。
答えられなかった。
峡路で何があったのか。
ここにいる者たちは知っている。
山賊を雇ったのはアルトだった。
兄であるアランへ剣を向けた。
そして今。
そのアルトが、王国騎士団長代理。
アランが率いていた騎士団を動かす立場になっている。
「……」
エレナは三つの記事を、上からもう一度見た。
エレナ王女殿下、死亡。
王国騎士団長アラン・フォルディス卿、身柄確保を命令。
アルト・フォルディス卿、騎士団長代理へ。
朝。
自分はただ、ラヴィナとミレイについて山へ行った。
険しい道を歩いて。
見たことのない花を見て。
フィレナに触れた。
ラヴィナと言い合って。
ミレイと笑った。
ほんの少し前まで、それだけの楽しい一日だった。
だが、山を下りて戻ってきた時。
王国の中では。
自分はもう、生きている人間ではなくなっていた。
アランは身柄を求められ。
アルトは騎士団を率いる側になっていた。
エレナは新聞を握ったまま、しばらく動かなかった。
ラヴィナも何も言わない。
ミレイも。
リゼアも。
アランだけが、静かにエレナを見ていた。
窓の外には、いつもと変わらないシャルネ村の景色がある。
朝と同じ村。
同じ家。
同じ空。
なのに。
エレナには、もう同じ場所には見えなかった。
手の中の新聞へ視線を落とす。
そこには確かに。
生きている自分の死が、記されていた。




