第6話 ユリウスの罠
王都ローディスには、まだ答えがなかった。
エレナ王女はどこにいるのか。アラン・フォルディスは生きているのか。灰岩峡路で、いったい何が起きたのか。
西方へ出された捜索命令は広がっている。それでも王城へ戻る報告は同じだった。
――発見できず。
王女の遺体はない。騎士団長の遺体もない。あるのは死んだ護衛たちと、一人だけ王都へ帰還したアルトの証言。
情報を扱う者にとって、空白は何もないことを意味しない。そこに何が隠されているのかを考える入口だった。
◇
ユリウス・クロイツは机に並べられた報告書を見ていた。
レイフォード周辺で確認された護衛兵の死亡。王都へ帰還したアルト。エレナ王女――所在不明。アラン――所在不明。
「……妙だな」
山賊による襲撃だけなら珍しくない。だが今回襲われたのは王女で、護衛には騎士団長アランがいた。さらにアルトまで同行している。
それほどの一行が山賊相手に壊滅した。
たかが山賊、と切り捨てるつもりはない。地形と人数次第では騎士でも死ぬ。
しかし死者が多すぎる。そして帰ってきたのがアルト一人。
ユリウスはアルトの証言を読む。
エレナ王女は死亡。アランは行方不明。
遺体は確認されていない。それなのにアルトは死亡と報告した。
なぜ。
ユリウスは紙を閉じた。
疑念をすぐ国王へ持っていく必要はない。情報には出すべき時がある。真実を知ることと、その真実をどう使うかは別の問題だった。
◇
フォルディス公爵家へ向かう馬車の中で、ユリウスは窓の外を見ていた。
目的はヴァルターではない。当主へ正式に問いを持ち込めば家同士の話になる。
知りたいのはアルト個人が何を知り、何を欲しがっているか。
やがてユリウスは、ヴァルターを交えずアルトと向かい合った。
「事件についてなら、すでに陛下へすべてお話ししました」
「承知しております。少し確認したいことがありまして」
ユリウスは穏やかだった。アルトはその方が嫌だった。
「大変でしたね。王女殿下のことです」
アルトの表情がわずかに変わる。
「昔は三人で仲良く遊ばれたこともあるそうですね。エレナ王女殿下、アラン殿、そしてあなた」
「……昔の話です」
「王女殿下が本当に亡くなられたのであれば、あなたもお辛いでしょう」
アルトは黙る。
「ですが、もし生きておられるのであれば、話は別です」
「……何が言いたいのです」
「可能性のお話です」
ユリウスは指を組んだ。
「今回の襲撃には、理解できないことがあります。王女殿下の護衛にはアラン殿がいた。あなたもいた。護衛兵もいた。それが山賊に襲われ、多数が死亡した」
「不幸なことです」
「たかが山賊に、王国の騎士団がこれほど簡単にやられるものでしょうか」
アルトの喉が動く。
「もちろん条件次第では騎士も倒れる。ですが、それほどの相手だったのなら、それも問題です」
「何がです」
「フォルディス家は王国の軍事と騎士団を担う家です。山賊に王女護衛の騎士団が壊滅させられたと広まれば、フォルディス家が担う軍事そのものへの信用に関わる」
違う。騎士団が弱かったのではない。山賊だけが原因ではない。自分が――。
アルトはその先を飲み込んだ。
「何があったのです?」
「お話しした通りです」
「山賊に襲われた。護衛兵が死んだ。王女殿下も死亡した。アラン殿だけが消えた。そして、あなた一人が戻ってきた」
「私を疑っているのですか」
「いいえ。疑っているのであれば、私はここではなく陛下の前で話しております」
アルトが黙る。
「私はただ、あなたが何かを話していないと思っているだけです」
「何も隠していません」
「そうですか。なら、それで結構です」
追及しない。そのことが、かえってアルトを不安にさせた。
「それを聞くために来たわけではありません。あなたが、これからどうするつもりなのか。それを聞きに来ました」
◇
「王女殿下は現在、行方不明です。見つかれば、何も変わりません」
「何も?」
「エレナ王女殿下は王都へ戻る。アラン殿も戻れば二人の婚約もそのまま。騎士団長もアラン殿のまま。すべて元に戻る」
アルトの手が握られた。
「あなたにとっても、それが最も望ましい結末でしょうか」
「……何が言いたい」
「あなたは王女殿下を愛しているのではありませんか」
沈黙。
「否定されますか?」
アルトは答えられなかった。
「人の心まで法で縛ることはできません。ですが、アラン殿が戻らなければ、王女殿下の婚約はどうなるのでしょうね」
「兄上が戻らなければ?」
「空席は、いつまでも空席ではありません。騎士団長の席も」
ユリウスは続ける。
「アラン殿が不在の今、騎士団は指揮官を必要としています。私はあなたを推薦できます」
「私を?」
「フォルディス家の人間です。何も不自然ではありません」
「私は兄上ほどの実績は――」
「実績はこれから作ればよい。それに、騎士団長の役目を担えば騎士団を動かせる」
アルトの目が止まる。
「王女殿下を捜せばいい」
「……エレナ様を」
「ええ。王女捜索です。何の問題があります?」
ない。
しかし、アルトはエレナが生きていることを知っている。ただ、自分が騎士団を動かせる力があれば。
ただ、アルトはその先に兄のことを思い浮かべた。
「しかし、エレナ様は死亡したと報告しています」
「ええ、存じております。あなたがそう報告したことは」
「……はい」
「公的な事実と、我々が何を信じているかは別です。王国には王国の都合があります。そして、あなたにはあなたの都合がある」
「死亡したことにして、裏で捜すと?」
「私はそのようなことは申し上げておりません。王女殿下が生きている可能性を捨てる必要はない、と申し上げているだけです」
何も約束していない。何も命令していない。それなのに、自分が欲しかった道だけが目の前にできている。
「……なぜ、そこまで私に?」
「クロイツ家は情報と王都行政を担う家。フォルディス家は軍事を担う。王家が揺れている今、互いに協力しておいて損はないでしょう」
「父上ではなく、私と?」
「あなたが騎士団長の役目を担うのであれば。フォルディス家にも全面的に協力いたします」
ユリウスが立ち上がる。
「一つだけ確認しましょう。王女殿下を見つけたいですか?」
「……はい」
アルトはエレナが生きていること知っているため、当然否定はできない。
「たとえ、アラン殿より先に?」
アルトは黙った。
エレナの隣に立つ兄の姿が浮かぶ。
「……はい」
ユリウスの口元が、ほんのわずかに上がった。
「では、騎士団長の役目を手に入れなさい」
それだけを残し、ユリウスは部屋を出た。
アルトは一人になった。
山賊のことは話していない。
それでも、すべてを見透かされたような感覚だけが残った。
そして同時に。
兄が持っていたものへ手を伸ばす道が、初めて現実の形を持っていた。
◇
フォルディス家を出た後、ユリウスはすぐ王城へは戻らなかった。
馬車の中で目を閉じ、先ほどの会話を最初からなぞる。
エレナの名を出した時。
アランの名を出した時。
山賊に騎士団が敗れたことを指摘した時。
そして「何かを話していない」と告げた時。
アルトは最後まで認めなかった。
それでよかった。
自白など、今はいらない。
もしアルトがあの場で山賊を雇ったと口にしていたなら、ユリウスはその情報を抱えた瞬間から、より直接的な責任を負うことになる。
知らない。
証明できない。
だが、疑っている。
今はその距離が最も使いやすい。
アルトはエレナを欲している。
アランを意識している。
そして、兄が持つ地位にも反応した。
ならば、押す必要はない。
道を開けてやれば、自分で歩く。
ユリウスは窓の外へ視線を向けた。
王都の通りを、人々が行き交っている。
彼らの多くは、まだ王女の正式な生死を知らない。
だが噂はもう動いている。
血まみれのアルトを見た者。
王城へ緊急の使者が出入りするのを見た者。
騎士団が慌ただしく西へ向かったのを見た者。
情報とは、命令を待って動くものではない。
だからこそ、先に形を与えた者が強い。
ユリウスは馬車の揺れに身を任せながら、次に必要な言葉を考えた。
王女の死を証明する必要はない。
王女が行方不明のままでいることが、国家にとって危険だと証明すればいい。
アランが罪人だと証明する必要もない。
アランから事情を聞かなければならない、と全員に認めさせればいい。
アルトが兄より優れていると証明する必要もない。
今、騎士団を動かす人間が必要だと認めさせればいい。
一つ一つなら、どれも無理な話ではない。
それらを並べれば、景色が変わる。
「……さて」
ユリウスは小さく呟いた。
「陛下には、何を守っていただくべきか」
娘ではない。
そう言えば、レオルドは決して聞かない。
娘も守る。
同時に国も守る。
その形にしなければならない。
そして、その二つが両立するように見える案を差し出す。
選ぶのはレオルド自身だ。
少なくとも、そう見えるように。
◇
次の王都会議は、前回より重い空気の中で始まった。
捜索継続。発見なし。そして王都から離れた地域へ、すでに「エレナ王女死亡」とする通達が流れ始めている。
「ユリウス」
レオルドの声は低かった。
「私は、エレナの死亡を公表せよとは命じていない」
「承知しております」
「ならば、なぜだ」
情報と記録を預かるクロイツ家。その管理下から、王都会議の決定と異なる情報が出た。責められるのは当然だった。
「前回の決定は、捜索継続。正式な死亡発表は保留だったはずだ」
「その通りです」
「ならば王命に反したのか」
ユリウスは逃げなかった。
「はい。私の判断です」
ざわめきが起きた。
「何の権限があって、そのようなことをした」
「陛下。私は、エレナ王女殿下の死を望んでいるわけではございません。むしろ、生きておられることを願っております」
「ならば、なぜ娘を死者にした!」
一瞬、誰も動かなかった。国王ではない。父親の声だった。
「陛下のお怒りは当然です」
「答えろ」
「父としての願いと、国王として備えなければならない事態を、分けてお考えいただくためです」
「……何だと」
「現在、カルゼリア王国が直面している問題は、王女殿下お一人の生死だけではございません」
ユリウスは会議の全員を見渡した。
「王家そのものが途絶える可能性です」
ざわめきが止まった。
「王女殿下が生還されれば何の問題もございません。ですが、明日お戻りになる保証はない」
「捜索は続けている」
「ええ。一日でも早い発見を願っております」
「なら待てばいい」
「いつまででしょうか」
レオルドが黙る。
「半年ですか。一年ですか。五年ですか。その間、我が国は『いつか王女が戻るかもしれない』という希望だけを根拠に、王家の存続を委ねるのでしょうか」
王家が途絶える。それは一人の父親が娘を失うこととは意味が違う。王位継承、貴族間の均衡、国内統治、周辺諸国との関係。すべてに影響する。
「私は殿下の捜索を止めろとは申し上げておりません。捜索は続けるべきです。可能性がある限り」
「なら、死亡を公表する必要はない」
「ございます」
即答だった。
「王国が態度を決めなければ、噂が代わりに国民の答えになります。王女殿下が襲撃されたことは、すでに王都の外へ広がり始めています。アルト殿が血まみれで帰還した姿を見た者も多い。情報を完全に止めることはできません」
騎馬急使、旅託便、警戒信号。人と馬と紙で動くこの国では、情報は必ず人の口にも乗る。
「王国が沈黙すれば、王女は生きている、死んでいる、誘拐された、他国へ連れ去られた――いずれ好き勝手な話が真実のように語られるでしょう」
「だから死んだと決めるのか」
「現時点における公的判断を一つにするのです」
「エレナは生きているかもしれない!」
「はい」
ユリウスは認めた。
「生きておられるかもしれません」
「ならば――」
「それなら、それでよろしいではありませんか」
会議室が静まり返った。
「……何?」
「王女殿下が生還される。それ以上に喜ばしいことがございましょうか」
「死亡を公表した後だぞ」
「訂正すればよいのです」
「国王が、自分の娘の生死を誤ったと?」
「いいえ。誤ったのはクロイツ家です」
何人かがユリウスを見る。
「情報を収集し、整理し、王国へ提示する我が家の能力不足。それで結構です。王女殿下が生還された場合、国民へ謝罪するのは私です。誤報を流した責任を負うのもクロイツ家です」
「……」
「必要であれば、情報を預かる職責を返上いたしましょう。陛下にも、この会議にも責任は及びません」
「そこまでして、なぜ」
「王家を止めないためです」
その一言が落ちた。
「陛下。王女殿下の帰還を待つことと、王家の存続に備えることは両立できます」
「何をさせるつもりだ」
ユリウスは一拍置いた。
「王妃をお迎えください」
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
つい先ほどまで飛び交っていた反論さえ消える。
レオルドは怒り寸前で、ユリウスを見ていた。
「……もう一度言ってみろ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
それでも、会議室にいた誰もが息を詰めた。
ユリウスは視線を逸らさない。
「新たな王妃をお迎えください」
レオルドの手が、椅子の肘掛けを強く掴んだ。
「娘の生死も分からぬうちに」
一語ずつ押し殺すように言う。
「私に別の女を娶り、次の子を作れと言うのか」
「国王陛下であるからこそ、申し上げております」
「簡単に言うな!」
声が会議室を打った。
誰も口を挟まない。
ユリウスだけが動かなかった。
「簡単なことだとは思っておりません」
「ならば――」
「ですが、陛下」
ユリウスは静かに言葉を重ねた。
「エレナ王女殿下が行方不明のまま王妃を迎えることと、王女殿下の死を国が受け入れた後に、王家存続のため王妃を迎えること」
一度、言葉を切る。
「同じ再婚でも、国民から見える意味はまるで違います」
レオルドの目が鋭くなる。
「前者ならば――」
ユリウスは淡々と続けた。
「国民の目には、行方知れずの娘を見限り、次の世継ぎを求めた父王と映るでしょう」
「……」
「ですが後者ならば違う」
会議室にユリウスの声だけが響く。
「娘を失った悲しみを抱えながら、それでも王家を絶やさぬため、国王として次代を選ばざるを得なかった」
レオルドの表情が強張る。
「国民が目にするのは、同じものではありません」
ユリウスは静かに言った。
「王女殿下を死亡とすることは、陛下に新たな王妃を迎えていただくためにも必要なのです」
沈黙。
それはもはや、エレナ一人の生死についての議論ではなかった。
ユリウスは、王女の死そのものを。
王家を存続させるための政治へ変えようとしていた。
レオルドは答えなかった。
怒りは消えていない。しかし国王として完全に無視できないことも分かっている。
その沈黙を、ユリウスは勝利とは考えなかった。
しかし、ユリウスの目的はまだ一つ目だった。
◇
「もう一点ございます」
ユリウスが言った。
「アラン・フォルディス殿についてです」
ヴァルターの表情が変わった。
「息子が何だ」
「アラン殿は王女殿下の婚約者です。王国騎士団長でもある。そして今回の旅行では、王女殿下の護衛責任者でもあった」
「それがどうした」
「その人物が、事件後一度も王都へ報告を寄せていない」
「行方不明なのだ」
「その可能性はございます。死亡している可能性もある。負傷して動けない可能性もある」
ユリウスは一つずつ認めた。
「ですが、王女殿下に何が起きたのかを知っている可能性が最も高い人物であることも事実です」
会議の視線が変わる。
「私は、アラン殿が王女殿下へ危害を加えたなどとは申し上げておりません」
「では何を言いたい」
「捜索対象というだけでは足りない、と申し上げています。発見した場合、保護する。そして必ず王都へ連行し、事情を確認する」
「連行だと?」
「王女殿下の護衛責任者です。説明していただく義務がある」
「アランは逃亡者ではない」
「現時点では」
その一言に空気が変わった。
「ユリウス。言葉を選べ」
「失礼いたしました。ただし、発見後に王命による帰還を拒むのであれば、その時点で事情は変わります」
誰も反論しない。
王女護衛の責任者が国王からの帰還命令を拒否する。そうなれば、ただの行方不明者ではなくなる。
ユリウスは犯罪者という言葉を一度も使っていない。
それでも、そこへ至る道だけは会議の中央に置かれた。
「アランを見つけろ」
レオルドが言った。
「生きているなら、必ず王都へ連れてこい」
「陛下」
ヴァルターが見る。
「責めるためではない」
レオルドは苦しそうに言った。
「私はアランを信じている。だからこそ、本人の口から聞きたい」
ヴァルターはしばらく黙り、やがて頭を下げた。
「……承知しました」
ユリウスは何も言わなかった。
これでいい。
信頼は残っている。
だが、命令も出た。
戻らない時間が長くなるほど、その信頼には少しずつ疑念が混じっていく。
◇
「しかし、騎士団長不在のまま、この捜索をいつまで続ける?」
会議の席から声が上がった。
現在、アラン不在の穴を埋める形で、捜索の指揮にはフォルディス公爵家当主ヴァルターが当たっている。
軍事と騎士団を担う家の当主としては当然の対応だった。
だが、それをいつまでも続けられるわけではない。
王女と騎士団長の捜索だけが、フォルディス家の役目ではない。
王国全体の軍事と国防を預かる立場でもある。
「ヴァルター公が指揮している以上、捜索そのものに問題はないだろう」
別の者が言った。
「だが、公爵自らがいつまでも一つの捜索に掛かりきりというわけにもいくまい」
その言葉を、ユリウスは待っていた。
「その件について、一つ提案がございます」
視線が集まる。
「ヴァルター公には、本来の役目である王国全体の軍事と国防を見ていただくべきでしょう」
ヴァルターへ目を向ける。
「王女殿下とアラン殿の捜索については、別に実働の指揮を執る者を置くべきかと」
「誰を置く」
問いに、ユリウスは迷わなかった。
「アルト・フォルディス殿を」
会議室がわずかにざわめく。
「アルトを?」
「はい。当面の騎士団長代理として推薦いたします」
ユリウスは続けた。
「理由は単純です」
机上の報告書へ手を置く。
「今回の襲撃を実際に経験し、生きて王都へ戻った者の中で、最も現場を知っているのはアルト殿です」
誰も反論しない。
「襲撃が起きた場所を知っている。山賊の動きを見ている。王女殿下とアラン殿が消息を絶つ直前の状況も知っている」
一つずつ並べていく。
「その人物を王都に置いたまま、現場を知らぬ者へ捜索を指揮させる理由があるでしょうか」
「しかし、アルト自身も負傷して戻ったばかりだ」
「だからこそです」
ユリウスは即座に返した。
「彼は生還した」
短い言葉だった。
「王女殿下を守れなかったという思いも、兄であるアラン殿を見つけたいという思いも、他の騎士以上に強いはずです」
それは、聞く者にはもっともらしく響いた。
ユリウスだけが知っている。
アルトが本当に誰を探したがっているのかを。
「ヴァルター公には王国全体の軍事を」
そして。
「アルト殿には、騎士団長代理として王女殿下とアラン殿の捜索を」
役割を分けるだけ。
ユリウスはそう見える形に整えていた。
「少なくとも、アラン殿が戻り事情が明らかになるまでの暫定措置です」
――アランが戻れば。
その条件まで付ける。
だからこそ、反対しにくい。
永久の人事ではない。
兄の地位を弟へ奪わせるのでもない。
行方不明の騎士団長が戻るまで、その弟に代理を任せるだけ。
しかも、その弟は事件現場を知る数少ない生存者。
表面だけを見れば。
これほど合理的な人選もなかった。
さらに、ユリウスはレオルドにも配慮するように言った。
「そして王女殿下については、生存の可能性を捨てず、捜索を継続すべきでしょう」
レオルドの表情が揺れた。
エレナを捜す。
その一点は、今のレオルドにとって何より重い。
「……捜索は止めるな」
「もちろんです」
「死亡を公表してもだ」
「はい」
「エレナを捜し続けろ」
「承知いたしました」
ユリウスは頭を下げた。
死亡を公表する。それでも捜索は続ける。
国家が公に扱う事実と、国家が裏で備える可能性。
ユリウスにとっては、どちらも使える情報だった。
◇
しかし、ユリウスの提案に全員がすぐ賛同したわけではなかった。
「待っていただきたい」
法務・司法・王国法を担当する、ヴァルディア侯爵家のクラウスが言った。
死亡を確認できていない王族を、公的に死亡として扱う。
それは感情だけでなく、王国法と記録の問題でもあった。
「一度、王国の公式記録へ死亡と記せば、その影響は通達一枚では終わらない」
もっともな指摘だった。
王族の身分。
王位継承。
婚約。
王家に関係する文書。
すべてに波及する。
ユリウスは否定しなかった。
「ですから、私は事実を消せとは申し上げておりません」
「どういう意味だ」
「記録には、遺体未確認、捜索継続中であることも残します」
会議の何人かが眉を寄せる。
「公表と記録を分けるというのか」
「国民へ伝えるべき情報と、王国が保存すべき全記録は同じではありません」
ユリウスは机上の紙へ触れた。
「王国の記録には、判断に至った経緯を残す。後日、殿下が生還された場合にも、誰が何を根拠として判断したか追えるようにする」
「都合の悪い部分を隠すのではないと?」
「隠せば、後で我々自身が困ります」
情報を扱う家の当主らしい答えだった。
次に出たのは財政上の懸念だった。
財政を担うレグナート伯爵家のオズワルドが言った。
「王妃を迎えるとなれば、婚姻そのものだけでは済まない。王家の予算、警備、儀礼、今後の継承者に関する支出も増える」
「承知しています」
「国葬の準備まで進めている最中だ」
「だからこそ、正式な国葬を急ぐ必要はないでしょう」
ユリウスはそこで、前回の決定を利用した。
「準備は準備のまま置く。王女殿下の捜索も続ける。今すぐ大規模な儀礼へ国費を投じる必要はありません」
「死亡を公表しながら国葬をしない?」
「遺体がないのです。国民にも、その事情は説明できます」
すべてを一度に進める必要はない。
死亡という情報だけを先に固定し、他は段階的に動かす。
ユリウスのやり方が少しずつ見え始める。
内政を担う側からは、地方の反応が問題にされた。
「王女殿下はまだ十六歳だ。突然の死亡発表で地方が動揺する可能性がある」
「だから、情報を統一する必要があります」
「またそれか」
「地方ごとに違う噂が広がる方が危険です」
ユリウスは続ける。
「ある町では王女死亡。別の町では誘拐。さらに別の地方ではアラン殿と駆け落ちしたなどという噂が生まれれば、どれを否定するためにも人員が必要になる」
最後の例に、会議室の何人かが顔をしかめた。
「そんな馬鹿な噂が」
「人は、情報がなければ自分で空白を埋めます」
ユリウスの声は静かだった。
「内容が馬鹿げているかどうかは、広まるかどうかとは関係ありません」
その点については、誰も強く否定できなかった。
王都だけでも、すでにアルトが血まみれで帰還したという話が広がっている。
見た者が十人いれば、十通りの話になる。
それが地方へ届けば、さらに形を変える。
外交を担う側のセドリックからは、もっと現実的な懸念が出た。
「国内だけの問題ではない」
その言葉に、レオルドも顔を上げる。
「王位継承者の生死が不明。その状態が長引けば、周辺諸国は必ず探りを入れてくる」
「その通りです」
ユリウスは初めて即座に同意した。
「王家の先行きが不透明だと見られれば、外交交渉でも弱みになります」
「だから死亡を公表するのか? むしろ弱みを晒すことになる」
「一時的には」
ユリウスは認めた。
「しかし同時に、王家が次の手を打つ意思を示せます」
そこで再び、王妃という言葉が意味を持つ。
王女が消えた。
王家は終わる。
ではなく。
王女が死亡した可能性を受け入れた上で、王家は存続のために動く。
国外から見れば、その違いは大きい。
「王家に後継者を残す意思があると示すわけか」
「はい。行方不明の状態で王族が一人という状態は、陛下に何かあったときは国の危機であり国民の危機となります。」
「……なるほど」
小さな声が落ちた。
レオルドはその会話を聞きながら、唇を強く結んでいた。
自分の娘の死が、財政の話になる。
地方統治の話になる。
外交の話になる。
耐え難かった。
だが、それが王族なのだということも、誰より理解している。
「陛下」
ユリウスが再びレオルドへ向いた。
「今、この場で新たな王妃を決めていただきたいとは申し上げておりません」
「……」
「ただ、その選択肢を閉ざさないでいただきたいのです」
「選択肢、か」
「はい」
「お前には簡単な言葉だな」
ユリウスは少しだけ目を伏せた。
「そう聞こえるのであれば、申し訳ございません」
それ以上は言わなかった。
ここで自分の家から王妃候補を出すなどと言えば、すべてが崩れる。
今必要なのは、誰を王妃にするかではない。
国王が再婚するという考えそのものを、会議の中へ置くこと。
それだけでよかった。
ユリウスは再婚の意思がわかった時点で、妃候補を自分の家から出せば王族と結びつき力を強めるチャンスがあると考えていた。
◇
アランについても、反論は続いた。
「アラン殿は長く騎士団長を務めている。王女殿下の婚約者でもある。何の証拠もなく疑うのは危険だ」
「同感です」
ユリウスの返答に、逆に相手が言葉を止めた。
「ならばなぜ連行などと」
「疑っているからではありません。本人を守るためでもあります」
「守る?」
「このままアラン殿が姿を見せなければ、噂は必ず生まれます」
ユリウスは一つずつ数えるように言った。
「王女を守れず逃げた。王女を見捨てた。王女と共に死んだ。あるいは――王女に何かした」
「言葉を慎め!」
ヴァルターの声が飛ぶ。
「ですから、その噂を止めるために本人の証言が必要なのです」
ユリウスはすぐ返した。
「アラン殿が王都へ戻り、陛下の前で何があったかを話す。それが最も早い」
ヴァルターは黙る。
「無実ならば、なおさら戻るべきです」
その言葉には罠があった。
戻れば説明できる。
戻らなければ、なぜ戻らないのかと疑われる。
どちらへ転んでも、アランの行動そのものが次の情報になる。
「発見した者には、アラン殿を傷つけず保護するよう命じればよい」
ユリウスが言う。
「そして王都へ同行を求める」
「拒否した場合だけ、王命への不服従として扱う」
法務を担う側から確認が入る。
「その理解でよろしいか」
「はい」
ユリウスは頷いた。
「現時点で罪を決める必要はありません」
現時点で。
その言葉に気づいた者がいたかは分からない。
だがユリウスには、それで十分だった。
今日、罪人にする必要はない。
今日必要なのは、罪人にできる道を作ることだけだった。
◇
会議が散会へ向かう中、ヴァルターだけはすぐ席を立たなかった。
ユリウスが書類をまとめていると、低い声が飛んだ。
「クロイツ卿」
ユリウスが顔を上げる。
「何でしょう、フォルディス公」
「アルトと話したそうだな」
ユリウスは一瞬も間を置かなかった。
「事件の確認を少々」
「なぜ私を通さなかった」
「確認したかったのは、フォルディス家の公式見解ではなく、現場から帰還した本人の記憶でしたので」
「それだけか?」
「それだけ、とは?」
ヴァルターの目が細くなる。
「今日のお前は、ずいぶんアルトを買っているように見えた」
「騎士団長代理への推薦のことでしょうか」
「他に何がある」
ユリウスは書類を揃えた。
「アラン殿が戻れば、席はお返しすればよいのです」
「簡単に言う」
「では、他家の人間を代理に据えますか?」
ヴァルターが黙る。
「軍事を担うフォルディス家として、それを望まれますか」
望むはずがない。
アラン不在を理由に騎士団の指揮権が他家へ流れれば、フォルディス家の影響力そのものが落ちる。
「……お前は、それを分かっていてアルトを出したのか」
「私は、皆様が受け入れやすい案を申し上げただけです」
「食えない男だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
ユリウスはわずかに頭を下げた。
ヴァルターは不快そうだったが、それ以上は追及しなかった。
フォルディス家にとっても、アルトの代理就任は利益になる。
だから拒めない。
それでいい。
ユリウスは会議室を出た。
廊下を歩きながら、背後の扉が閉まる音を聞く。
一つの提案に、全員が同じ理由で賛成する必要はない。
レオルドは王家を守るため。
フォルディス家は軍事の主導権を守るため。
法を担う者は、記録と手続きを残せるから。
財政を担う者は、国葬や新たな儀礼を急がずに済むから。
内政を担う者は、地方へ流す情報を統一できるから。
外交を担う者は、王家が後継問題へ対応する意思を国外へ示せるから。
理由は違っていい。
結論だけが同じ場所へ集まればいい。
それが会議だった。
◇
会議が終わり、人々が一人、また一人と席を立っていく。
ユリウスは最後まで席を立たなかった。
机の上には、会議で使われた報告書が残されている。
エレナ王女死亡。
アラン・フォルディスの身柄確保。
アルト・フォルディスの騎士団長代理への推薦。
数日前までなら、そのどれも決定事項ではなかった。
特にエレナの扱いについては違う。
王都会議が決めていたのは、遺体が確認されるまで死亡を公表せず、行方不明として捜索を続けることだった。
だが、その決定が各地へ届く前に。
ユリウスは情報を変えた。
――エレナ王女死亡。
すでに騎馬急使は王都を発っている。
今頃は街道を走り、町へ、村へ、その知らせを運んでいる頃だろう。
今日の会議は、その通達を出すためのものではなかった。
すでに出した通達を。
王国の決定へ変えるためのものだった。
「フッ」
ユリウスは表情は変えず、内心期待を膨らませながら、静かに立ち上がった。
国王は最後まで娘の生存を諦めなかった。
だから捜索は続く。
それでいい。
表では、エレナ王女は死んだ。
裏では、生きている可能性を追い続ける。
そして、その捜索を指揮する者としてアルトが立つ。
アランが戻れば事情を聞く。
戻らなければ。
戻らない時間そのものが、やがて疑念になる。
ユリウスは報告書を閉じた。
嘘を真実に変える必要などない。
人々がそれを事実として扱い始めれば、それで十分だった。
会議室を出る。
廊下の窓から、王都ローディスが見えた。
この街の人々も、やがて王女の死を知る。
悲しむ者もいるだろう。
疑う者もいるかもしれない。
だが、王国から正式な通達が出たとなれば、大多数は受け入れる。
その頃にはもう、
「エレナ王女は行方不明だ」
ではなく、
「エレナ王女は死んだ」
それが、人々の知る事実になる。
ユリウスは歩き出した。
情報とは、真実を伝えるためだけのものではない。
誰に。
いつ。
どの事実を。
どの順番で与えるか。
それだけで、人の判断は変わる。
そして今日。
王都会議そのものが、ユリウスが先に流した情報へ追いついた。
◇
会議が終わった後も、レオルドは席を立たなかった。
机の上にはエレナの捜索報告が残っている。
発見できず。
その言葉を何度見ても、娘が死んだとは思えなかった。
「エレナ……」
王妃を迎える。
そんなことを考えたことすらなかった。まして娘の死を前提として。
だが国王である以上、自分一人の感情だけで国を止めることもできない。
その現実が、何より苦しかった。
◇
その頃、アルトはフォルディス家で知らせを受けていた。
騎士団長代理への推薦。
エレナ王女の死亡情報の公的な扱い。
そして、アランが発見された場合には王都へ連行し、事情を確認すること。
ユリウスは、本当に動かした。
あの部屋で交わした言葉が、もう国家の決定へ形を変え始めている。
「……兄上」
アルトは窓の外を見る。
以前なら、騎士団長という言葉を聞けば、最初に兄の姿が浮かんだ。
今は違う。
エレナの姿が浮かぶ。
どこにいるのか。
アルトは知っている。
シャルネ村。
傷を負ったアランとともに、エレナはそこへ向かった。
今すぐ行こうと思えば、行ける。
だが、今までの自分には何もなかった。
王女を連れ戻す権限も。
騎士団を動かす権限も。
兄に命令する権限も。
けれど。
騎士団長代理になれば違う。
エレナ王女の捜索。
その名目で騎士団を動かせる。
そしてアランを発見すれば、王命に従って王都へ連行できる。
アルトは目を閉じた。
シャルネ村へ向かうエレナの姿を思い出す。
負傷したアランの隣を歩いていた。
自分には王都へ戻れと言った。
兄とは一緒に行った。
「……」
胸の奥が熱くなる。
あの時は。
自分にはどうすることもできなかった。
だが、今度は違う。
兄をエレナの隣から引き離せる。
しかも。
自分の嫉妬のためではない。
王命によって。
王国騎士団の任務として。
アルトはゆっくり目を開いた。
それがどれほど都合のいい考えなのか。
自分でも、もう考えようとはしなかった。
ただエレナを連れ戻したい。
アランには、王都で何があったのか説明してもらえばいい。
それだけだ。
そう思えば。
すべてが正しいことのように感じられた。
胸の奥で、また小さな熱が生まれる。
静かに。
だが確実に。
アルト自身にも気づかれないまま。
ゼルヴァは、彼が望む答えだけを少しずつ大きくしていた。
◇
ユリウスは自邸へ戻ると、一人で机へ向かった。
今日の会議で決まったことを確認する。
エレナ王女については、死亡を前提とした公的情報へ移行する。
捜索そのものは継続。
アランは発見時、王都への帰還を求める。拒否すれば立場が変わる。
騎士団はアルトを代理として動かす方向へ進む。
そして。
王妃を迎えるという選択肢が、初めて王都会議の中へ置かれた。
まだ決まってはいない。
それで十分だった。
人は、一度も考えたことのない選択肢を選ぶことはできない。
ならば最初に、選択肢として置けばいい。
ユリウスは静かに紙を閉じた。
エレナが本当に死んでいるかどうか。
今の彼にとって、それは最も重要な問題ではなかった。
生きていれば、生きていた時の使い方がある。
死んでいれば、死んでいた時の使い方がある。
アランも同じだ。
帰ってくれば説明を求める。
帰ってこなければ、その沈黙自体が疑いを育てる。
アルトには騎士団を与える。
力を持たせれば、エレナを探すだろう。
そして、自分からさらに深く進んでいく。
ユリウスは窓の外へ目を向けた。
王都の夕暮れ。
遠くで鐘が鳴っている。
その音の向こうで、騎馬急使が新しい通達を携え、各地へ向かっている。
一枚の紙が街へ届く。
掲示板へ貼られる。
人が読む。
隣の者へ話す。
その者がまた別の誰かへ話す。
やがて、国中の人間が同じことを知る。
――エレナ王女は死んだ。
事実かどうかではない。
人々がそう認識すれば、その情報は人を動かす。
「情報とは」
ユリウスが小さく呟く。
机の上には、アルトの証言書が置かれていた。
「真実を記すためだけにあるものではない」
指先で紙の端を押さえる。
山賊。
死んだ護衛。
一人で戻ったアルト。
消えたアラン。
死体のない王女。
まだ証明できないことは多い。
だからこそ、今は証明しない。
必要な時まで手元へ残す。
ユリウスは灯りのそばで、その報告書を静かに閉じた。
剣を抜く必要などなかった。
誰かを脅す必要もない。
ただ、事実を選び。
並べる順番を変え。
相手が最も欲しがる答えを、相手自身に選ばせる。
それだけで、人は動く。
王も。
貴族も。
騎士も。
そして、恋に囚われた青年も。
王都を発った騎馬急使の蹄音が、夜の街道へ消えていく。
その先には、まだ何も知らないエレナがいる。
生きている王女がいる。
だがカルゼリア王国では今、その少女の死が、少しずつ事実になろうとしていた。




