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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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5/40

第5話 王女の知らない世界


 王都ローディスの王城の一室には、重い沈黙が落ちていた。


 机の上には、西方から届けられた報告書が何枚も広げられている。


 山賊による襲撃。


 護衛の被害。


 エレナ王女の消息不明。


 そして、騎士団長アラン・フォルディスもまた、現在まで所在が確認できていない。


 さらに、その日の朝。


 新たな報告がレイフォード方面から届いていた。


 **レイフォード近郊の街道で、多数の護衛兵が死亡しているのが発見された。**


 遺体の装備から、エレナ一行に同行していた護衛兵であることも確認されている。


 王女を守っていたはずの兵たちが、途中で死んでいた。


 生存者は確認されていない。


 報告を受けた王城では、最悪の事態を想定する声がさらに強くなっていた。


 だが、それでも。


 どの報告にも決定的なものが欠けていた。


 **エレナの遺体は発見されていない。**


 アランの遺体もない。


 だからこそ、王国として出すべき情報は決まっていた。


 ――行方不明。


 少なくとも、捜索が続いている現段階では。


 王城ではその方針で話が進められていた。


 エレナ・セレディスは、カルゼリア王国の王女だ。


 護衛兵が多数死亡していたからといって、憶測だけでその生死まで決めることはできない。


 捜索を継続する。


 西方各地へ情報を回す。


 街道、宿場町、周辺の村にも協力を求める。


 それが本来の流れだった。


 しかし。


 その日のうちに、**王城で決められた方針とは異なる文書**が用意されていた。


 紙の上部には、王国からの緊急通達であることを示す文言。


 その下に記された名前。


 エレナ・セレディス。


 そして――。


 **死亡。**


 その文書を前に、一人の男が静かに立っていた。


 クロイツ子爵家のユリウス。


 ユリウスは書面へ視線を落とした。


 何度も確認する必要はない。


 短い文章だった。


 地方の村人にまで伝える以上、複雑な内容である必要はなかった。


 重要なのは一つだけ。


 **エレナ王女は死んだ。**


 その情報が、王都の外へ出ること。


「これを」


 ユリウスが文書を差し出した。


 受け取った者が一礼する。


「緊急伝令で?」


「ああ」


 短い返答だった。


 それ以上の説明はない。


 やがて文書は筒へ収められた。


 同じ内容を記した通達も用意されている。


 王都から西へ。


 そして各地へ。


 情報を運ぶために。


 王城の外では、騎士たちが馬へ跨がっていた。


 革袋には紙の通達。


 必要最低限の荷。


 長距離を走るための装備。


 合図が出る。


 蹄が石畳を打った。


 一騎。


 また一騎。


 王都の大通りを抜け、城門へ向かっていく。


 人々はその姿を見ても、何が起きたのか知らない。


 ただ、緊急の伝令が出たことだけは分かる。


 やがて。


 彼らが運ぶ一枚の紙によって、王女の死を知ることになる。


 **王城がまだ「行方不明」として捜している王女の死を。**


 その王女が今も生きていることなど、誰も知らないまま。


     ◇


 王都で会議が開かれる 数日前エレナたちはシャルネの村を目指していた


「もう少しだ」


 ラヴィナが振り返った。


「この先」


 エレナは顔を上げた。


 木々の向こうに、人の暮らす気配が見え始めていた。


 王都ローディスとは、何もかもが違う。


 巨大な城壁もない。


 石造りの建物が幾重にも並んでいるわけでもない。


 大勢の人々が行き交う大通りもない。


 森と山に囲まれた土地に、人の住まいが点々と見える。


「ここが……」


「ああ」


 ラヴィナが答える。


「シャルネ村」


 エレナはゆっくり周囲を見回した。


 自分が知っている世界とは、あまりにも違う。


 王都を出てから初めて見るものばかりだった。


 レイフォードにも驚いた。


 だが、あそこは旅人や商人が行き交う宿場町だった。


 ここはもっと静かだ。


 人が生活している。


 ただ、そのためだけに存在しているような場所。


「……静かですね」


「そうか?」


「はい」


「俺には普通だけど」


 ラヴィナは何でもないことのように言って歩いていく。


 その背中を見ながら、エレナは少しだけ不思議な気持ちになった。


 ここがラヴィナの暮らしている場所。


 昨日まで名前さえ知らなかった少女の日常。


「エレナ」


 隣から声がした。


 アランだ。


「大丈夫?」


「私は大丈夫です。それよりアランが――」


「俺も大丈夫」


「それ、何回目ですか?」


「……三回くらい?」


「もっとです」


 エレナが眉を寄せる。


 アランは笑った。


 だが、その直後。


「っ……」


 小さく顔を歪めた。


「ほら!」


「いや、今のは」


「言い訳しないでください」


 前を歩いていたラヴィナが振り返る。


「だから言っただろ。そいつ全然大丈夫じゃないって」


「そいつって……」


 アランが苦笑する。


「名前、教えたよね?」


「覚えてるよ。アランだろ」


「なら名前で呼んでくれないかな」


「歩けるようになったらな」


「厳しいな……」


 エレナは思わず笑った。


 ほんの少しだけ。


 峡路での出来事が遠くなったような気がした。


 もちろん、忘れたわけではない。


 アルトのこと。


 山賊のこと。


 あの異様な力。


 何一つ解決していない。


 それでも今は、アランを休ませなければならない。


「ほら」


 ラヴィナが前方を指した。


「あそこ」


 一軒の家が見える。


 ラヴィナは迷うことなくそこへ向かった。


「ばあちゃん!」


 家の前まで来るなり、大きな声を出す。


「いるかー?」


「ラヴィナ」


 エレナが少し驚く。


「そんなに大きな声を出さなくても……」


「聞こえないかもしれないだろ」


「でも」


 中から物音がした。


「聞こえてるよ!」


 年老いた女性の声。


 ラヴィナが笑う。


「ほら」


「聞こえてるじゃないですか」


「結果的にはな」


「結果的にではなく……」


 扉が開いた。


「帰ってくるなり騒がしいね、お前は」


 一人の老女が姿を見せた。


 リゼア・ベルク。


 六十二歳。


 ラヴィナの祖母であり、育ての親。


「ただいま」


「ああ、おかえり」


 リゼアはラヴィナを見る。


 いつもと変わらない。


 少し汚れている。


 また森を走り回っていたのだろう。


 腰には小太刀。


 そこまでは、いつものラヴィナだった。


 問題は。


「……ラヴィナ」


「何?」


「後ろの方々は?」


「ああ」


 ラヴィナが振り返る。


「連れてきた」


「それは見れば分かるよ」


 リゼアの視線がエレナへ向く。


 一瞬。


 ほんの一瞬だった。


 だが、その目が変わったことをエレナは感じた。


 頭から足元まで値踏みするように見るわけではない。


 服だけを見るわけでもない。


 立ち方。


 姿勢。


 言葉を発する前のわずかな仕草。


 リゼアはそれだけで、目の前の少女がこの村の人間ではないことを察した。


 いや。


 それ以上だった。


 普通の裕福な商人の娘でもない。


 長く忘れていた世界の匂いがする。


 高貴な家に生まれ、幼い頃からその身分にふさわしい振る舞いを教え込まれた者。


 その隣にいる男も同じだ。


 傷だらけになってはいるが、姿勢も目も普通の旅人ではない。


 腰にある剣。


 身体の使い方。


 明らかに騎士。


 しかも相当な立場にいる。


「初めまして」


 エレナが先に頭を下げた。


「突然お邪魔してしまい、申し訳ありません」


「……」


 リゼアは答える前に、エレナの左腕へ視線を移した。


 そこで止まった。


「……!」


 ほんのわずか。


 リゼアの目が見開かれた。


 だが、すぐに元へ戻る。


「ばあちゃん?」


「……いや」


 リゼアはエレナの顔をもう一度見た。


 間違いない。


 だが。


 なぜ。


 こんな場所に。


 しかも。


 リゼアの視線がアランへ移る。


 服に残る血。


 傷。


 立っているだけでも辛そうな様子。


 再びラヴィナを見る。


 腰の小太刀。


 服の汚れ。


 戦った痕跡。


 沈黙。


「……ラヴィナ」


「ん?」


「ちょっとこっちに来な」


「なんだよ」


「いいから」


 声が低い。


 ラヴィナが怪訝そうな顔をする。


「今帰ってきたばっかりなんだけど」


「分かってる」


「客もいるし」


「その客のことで話があるんだよ」


「?」


 リゼアはエレナへ向き直った。


 そして深く頭を下げる。


「申し訳ございません」


「え?」


 今度はエレナが驚いた。


「何がですか?」


「この子が何か、とんでもないことをしたようで」


「は?」


 ラヴィナの顔が固まる。


「ちょっと待て、ばあちゃん」


「黙ってなさい」


「なんでだよ!」


 リゼアはアランの傷を見る。


 そしてラヴィナの小太刀を見る。


「まったく……」


「違うって!」


「何が違うんだい」


「全部!」


「じゃあ説明してもらおうじゃないか」


 リゼアはラヴィナの腕を掴んだ。


「ちょ、ばあちゃん!」


「来なさい」


「だから俺は何も――」


「いいから来る!」


「痛いって!」


 そのまま家の奥へ連れていく。


 エレナとアランだけが残された。


「……」


「……」


 二人は顔を見合わせた。


 奥から声が聞こえる。


「王女様に何したんだ!」


「何もしてないって!」


 エレナの目が大きくなる。


 アランも驚いて奥を見る。


 そして。


「え?」


 今度はラヴィナの声。


「ばあちゃん、エレナが王女ってわかるのか?」


     ◇


「声が大きい!」


 リゼアがラヴィナの頭を軽く叩いた。


「痛っ」


「こんなところで王女様王女様って叫ぶんじゃないよ」


「先に言ったのばあちゃんだろ!」


「口答えするんじゃない」


「理不尽だな!」


 ラヴィナは頭を押さえた。


 それでも気になる。


「で、なんで分かったんだ?」


「何が」


「エレナだよ」


「見れば分かる」


「分かんないだろ」


「私は分かった」


「だから、なんで?」


 リゼアはラヴィナを見た。


 少しだけ間を置く。


「長く生きてりゃ、それくらい分かるようになるんだよ」


「絶対嘘だろ」


「何が嘘なんだい」


「俺、十六年生きてるけど分かんなかったぞ」


「お前は人を見る前に剣を見るからだ」


「そんなことない」


「ある」


 即答された。


 ラヴィナが口を尖らせる。


「それより」


 リゼアの表情が再び厳しくなる。


「あの男の傷は何だい」


「アラン?」


「名前なんて今はどうでもいい」


「本人が聞いたら悲しむぞ」


「お前がやったのか?」


「だから違うって!」


 ラヴィナが声を上げる。


「なんで俺が連れてきた怪我人を俺が斬ったことになるんだよ!」


「お前ならあり得る」


「ばあちゃん、俺のこと何だと思ってるんだ?」


「小さい頃から何度叱っても剣を振り回してた孫」


「……」


「違うかい?」


「今その話関係ないだろ」


 そのとき。


「あの」


 二人が振り向く。


 入口にエレナが立っていた。


「エレナ様」


 リゼアが姿勢を正す。


 ラヴィナが小声で呟く。


「ほら、また王女って顔してる」


「黙ってな」


「はいはい」


 エレナは少し困ったように笑った。


「誤解です」


「誤解?」


「はい」


 エレナはラヴィナを見る。


「私たちは、ラヴィナに助けてもらったんです」


 リゼアの目がラヴィナへ向く。


「……お前が?」


「だから最初から言ってるだろ」


「ちゃんとは言ってない」


「言おうとしたら引っ張ってきたんだろ!」


 エレナは今度こそ笑った。


「山賊に襲われました」


 その一言で、リゼアの表情が変わる。


「山賊?」


「はい」


 エレナの笑みが消える。


「アランは、その時に傷を負いました」


「……」


「ラヴィナが来てくれなければ、もっと大変なことになっていたと思います」


 リゼアはしばらく黙っていた。


 そしてラヴィナを見る。


「そうなのかい?」


「そうだよ」


「……」


「なんだよ、その顔」


「珍しいこともあるもんだと思ってね」


「俺、普段から人助けしてるんだけど?」


「報酬目当てでね」


「仕事なんだから当たり前だろ」


 エレナが瞬きをする。


「報酬……」


 ラヴィナが振り向いた。


「あ」


 目が合う。


「そういえば」


「ラヴィナ」


 リゼアの低い声。


「今その話をするんじゃない」


「でも大事な――」


「後」


「……はい」


 ラヴィナが渋々引き下がる。


 リゼアは小さく息を吐いた。


「まずは、そのアランという方を見せてもらいましょう」


     ◇


 アランは椅子へ座らされていた。


「上着を」


「はい」


 リゼアに言われ、アランが傷の状態を見せる。


 ラヴィナは少し離れた場所から眺めていた。


 エレナはアランのすぐそばにいる。


 リゼアの指が傷の周囲へ触れる。


「痛みますか?」


「少し」


「少し、ね」


 リゼアがアランを見る。


「この子と同じことを言いますね」


「え?」


「さっきまで『大丈夫』って言ってた」


 ラヴィナが口を挟む。


「余計なこと言わなくていいよ」


 アランが苦笑する。


 リゼアは傷を確認していく。


 エレナは黙ってその様子を見ていた。


「どうでしょうか」


 やがて聞く。


 リゼアはすぐには答えなかった。


 傷。


 打撲。


 身体の状態。


 それらを一つずつ確かめていく。


 やがてリゼアは手を離した。


「すぐにどうこうなる傷ではありません」


 エレナの表情がわずかに緩む。


「本当ですか?」


「ええ。ただし」


 リゼアはアランを見た。


「しばらく安静です」


「しばらくというと?」


「そうですね……きちんと休めば、一週間ほどでしょう。」


「一週間……」


 エレナが繰り返す。


 アランは傷へ視線を落とした。


「そんなにかかりますか」


「そんなに、ではありません」


 リゼアの声が少し厳しくなる。


「その身体で無理をして、さらに長引かせたいなら別ですが」


「……いえ」


「なら休むことです。」


「はい」


 素直に答えるアランを見て、ラヴィナが笑った。


「おまえもばあちゃんには勝てないな」


「ラヴィナ、今は診療中だ。向こう行ってな。」


 エレナが口元へ手を添える。


 笑いを堪えている。


「エレナまで笑わないでくれ」


「すみません。でも……」


 少しだけ肩が揺れた。


 アランは困ったように笑う。


 峡路で血を流していた時には、こんな時間が来るとは思わなかった。


 エレナは改めてリゼアへ頭を下げた。


「ありがとうございます」


「いいえ」


 エレナは眠っているアランへ目を向けた。


 傷が癒えるまで、およそ一週間。


 海を見るために始まった旅は、もう続けられない。


「それでは……。申し訳ないですが、アランの傷が治るまでの一週間、こちらに置いていただいてもよろしいでしょうか?お金なら後で必ず」


 リゼアは少し驚いた顔をした。


 だが、すぐに穏やかに首を横へ振る。


「もちろんです。怪我人を追い出すほど、この村は冷たくありませんよ。それにお金は必要ありません」


「でも、そこまで。一週間もご迷惑を……」


「今はアラン様の傷を治すことだけ考えてください」


 エレナは一瞬、言葉を失った。


 王女としてではなく。


 何かを要求されるわけでもなく。


 ただ怪我人の連れとして、そう言われた。


「……はい」


 エレナは微笑んだ。


「お世話になります」


 リゼアも静かに頷く。


「ゆっくりしていってください」


「俺もいるけどな」


 ラヴィナが横から言った。


「ここ俺の家でもあるし」


「お前は少し黙ってなさい」


「また?」


「王女様と騎士様を連れて帰ってきて、最初にする話が報酬じゃないだろう」


「まだしてないだろ」


「しようとしてただろう」


「……まあ」


 ラヴィナは否定しなかった。


 エレナがまた小さく笑う。


 その笑顔を見て、リゼアの表情もわずかに和らいだ。


 けれど。


 ほんの一瞬だけ。


 リゼアの視線が、再びエレナの左腕へ落ちた。


 すぐに逸らす。


 エレナは気づかなかった。


 ラヴィナも。


 リゼアは何も言わなかった。


 ただ、目の前にいる王女と、その隣にいる孫娘を静かに見つめた。


 外では風が木々を揺らしている。


 王都から遠く離れた、小さなシャルネ村。


 ここでしばらく身体を休めればいい。


 エレナは、まだそう思っていた。


 しかし、王都では今。


 自分の死を告げる紙が、すでに各地へ向かっていることなど知らずに。


 シャルネ村での最初の夕食は、エレナにとって少し不思議なものだった。


 王城の食卓とは、何もかもが違う。


 広い食堂もなければ、長い卓上を埋めるほどの料理もない。


 給仕が控えているわけでもない。


 湯気の立つ料理をリゼアが運び、それをラヴィナが受け取って並べていく。


「ラヴィナ、それも持っていきな」


「これ?」


「そっちじゃない。隣」


「最初から言ってくれよ」


「見れば分かるだろう」


「分かんないから聞いたんだけど」


「口より先に手を動かす」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 エレナは二人のやり取りを黙って見ていた。


「どうかしましたか?」


 リゼアに声をかけられ、我に返る。


「いえ」


 エレナは慌てて首を横に振った。


「少し……新鮮で」


「新鮮?」


「はい」


 どう説明すればいいのだろう。


 王城で食事をすれば、すべてが整った状態で運ばれてくる。


 誰が作ったのかを知らない料理さえ珍しくない。


 けれど、ここでは違う。


 料理を作った人が目の前にいる。


 皿を運ぶ人もいる。


 その二人が言い合いながら準備をしている。


 それだけのことが、エレナには珍しかった。


「手伝いましょうか?」


 そう言って立ち上がろうとする。


 リゼアの手が止まった。


「エレナ様が?」


「はい」


「いやいや」


 ラヴィナが割って入る。


「あんた、何すればいいか分かるのか?」


「それくらい分かります」


「本当に?」


「お皿を運ぶくらいできます」


「へえ」


 妙に感心した顔をされる。


「なんですか、その顔は」


「王女も皿運ぶんだなって」


「私を何だと思っているんですか?」


「王女」


「それはそうですけど」


 アランが吹き出した。


「アラン?」


「ごめん」


「笑うところではありません」


「いや、でも……」


 また笑う。


 エレナは頬を膨らませた。


 ラヴィナがその顔を見る。


「王女もそんな顔するんだな」


「します」


「へえ」


「だから、その『へえ』は何なんですか」


「別に」


 ラヴィナは笑いながら皿を置いた。


 峡路で小太刀を握っていた時とは、まるで別人だった。


 エレナはそれを不思議に思った。


 いや。


 きっと、こちらが普段のラヴィナなのだ。


 自分が最初に見たのが、たまたま剣を握っている姿だっただけ。


 そんな当たり前のことに、今さら気づいた。


     ◇


 食事が始まってからも、エレナには珍しいことばかりだった。


 ラヴィナは遠慮がない。


 リゼアにも。


 アランにも。


 そして、エレナにも。


「それ取って」


「これですか?」


「うん」


「どうぞ」


「ありがと」


 王女に物を取らせて、それで終わり。


 アランが横で少し困った顔をしている。


「ラヴィナ」


「何?」


「一応、エレナは王女だから」


「知ってる」


「もう少し、その……」


「何?」


「いや……」


 言葉を探している。


 エレナが先に口を開いた。


「私は構いません」


「エレナ」


「むしろ」


 ラヴィナを見る。


「少し楽です」


「楽?」


「はい」


 王城では、どこへ行っても王女だった。


 礼をされる。


 道を空けられる。


 言葉を選ばれる。


 自分が何も言わなくても、周囲が先回りする。


 それが普通だった。


 ラヴィナには、それがない。


 王女だと分かった後も、ほとんど変わらない。


「変な王女だな」


「ラヴィナ!」


 リゼアの声が飛ぶ。


「え?」


「何度言わせるんだい」


「本人がいいって言ってるだろ」


「そういう問題じゃない」


「じゃあどういう問題なんだよ」


「礼儀の問題だよ!」


 また始まった。


 エレナは思わず笑った。


 今度は声を出して。


「ふふっ……」


 三人の視線が集まる。


 エレナは口元を押さえた。


「すみません」


「エレナまで笑ってるぞ」


「お前のせいだよ」


 リゼアが呆れたように息を吐いた。


 アランはそんなエレナを見て、少しだけ安心したように微笑んでいた。


     ◇


 その夜。


「え?」


 エレナは部屋へ入って、足を止めた。


 寝台が二つ。


 ラヴィナはもう自分の方へ荷物を放り出している。


「どうした?」


「いえ……」


 エレナは室内を見る。


「私も、ここで?」


「そうだけど」


「ラヴィナと?」


「嫌?」


「嫌ではありません」


 ただ。


 誰かと同じ部屋で眠る。


 しかも、出会ったばかりの同年代の少女と。


 そんな経験がなかった。


「アランは?」


「別の部屋。ばあちゃんが寝かせた」


「そうですか」


「怪我人だからな」


 ラヴィナはそう言うと、何の迷いもなく腰の小太刀を外した。


 壁際へ置く。


 エレナの目が自然とそこへ向いた。


 峡路でアルトの剣を弾き飛ばした小太刀。


「気になる?」


 ラヴィナが聞いた。


「……少し」


「剣が?」


「剣も」


「も?」


 エレナはラヴィナを見る。


「ラヴィナ自身も」


「俺?」


「はい」


「なんで?」


「だって……」


 言葉に詰まる。


 なぜと言われても困る。


 突然現れた。


 強かった。


 山賊が知っていた。


 不思議な花を使った。


 祖母は一目で自分が王女だと見抜いた。


 分からないことばかりだ。


「いろいろです」


「何だそれ」


 ラヴィナが笑う。


「それよりさ」


「はい?」


「報酬」


「……」


「忘れてないよな?」


 エレナは数秒黙った。


「忘れていません」


「よかった」


「この状況で、よくそれを覚えていますね」


「大事だろ」


「大事ですけど……」


「王女助けたんだぞ?」


「分かっています」


「アランも」


「はい」


「山賊も追い払った」


「それも聞きました」


「だったら――」


「きちんとお礼します」


 エレナが先に言った。


「王都へ戻ったら」


 ラヴィナの顔が明るくなる。


「本当だな?」


「約束します」


「王女の約束?」


「王女の約束です」


「よし」


 満足したらしい。


 ラヴィナは寝台へ倒れ込んだ。


「じゃあ寝よう」


「……それだけですか?」


「何が?」


「いえ」


 エレナは少し呆れた。


 自分のことを知りたいとは思わないのだろうか。


 王女が突然家へ来た。


 普通なら、いろいろ聞きたいのではないか。


 だがラヴィナは報酬の確認が済むと、それで満足したらしい。


「おやすみ」


「……おやすみなさい」


 灯りが消える。


 静かになった。


 エレナは横になり、暗い天井を見つめた。


 慣れない寝台。


 慣れない部屋。


 知らない村。


 隣には、昨日まで存在すら知らなかった少女が眠っている。


 奇妙な一日だった。


 目を閉じる。


 頭に浮かんだのはアルトだった。


 剣を向けた顔。


 倒れた後の、何も覚えていないような顔。


 あれは何だったのだろう。


 そして。


 王都へ戻ったら。


 自分はアルトと、どんな顔をして会えばいいのだろう。


 答えは出なかった。


 疲れの方が勝った。


 いつの間にか、エレナは眠っていた。


     ◇


 どれくらい眠ったのだろう。


 エレナはふと目を覚ました。


 暗い。


 窓から差し込む月明かりだけが、部屋を薄く照らしている。


 しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


 王城ではない。


 そう思い出す。


 シャルネ村。


 ラヴィナの家。


 身体を起こす。


「……ラヴィナ?」


 返事がない。


 隣を見る。


 寝台が空いていた。


「?」


 エレナは目を凝らす。


 いない。


 手洗いだろうか。


 そう思った時。


 微かに音が聞こえた。


 外から。


 風の音とは違う。


 短く。


 鋭い。


 何かが空気を切るような音。


 少し間があって。


 また。


 エレナは寝台から降りた。


 静かに部屋を出る。


 家の中は暗い。


 リゼアを起こさないように歩く。


 外へ出た。


 夜の空気が肌に触れる。


 冷たい。


 空には月が浮かんでいた。


 その光の下。


 一人の少女がいた。


 ラヴィナ。


 小太刀を握っている。


 エレナは声をかけなかった。


 ただ見た。


 ラヴィナが構える。


 動かない。


 昼間の彼女からは想像できないほど静かだった。


 そして。


 一歩。


 小太刀が走る。


 月明かりが刃をなぞった。


 斬る。


 止める。


 戻す。


 足を運ぶ。


 もう一度。


 同じ動き。


 また。


 同じ。


 速さを競っているようには見えなかった。


 一つ一つを確かめている。


 足の位置。


 身体の向き。


 刃の角度。


 呼吸。


 少しでも納得できないところがあると、最初からやり直す。


 何度も。


 何度も。


 エレナは見入っていた。


 峡路で見たラヴィナは、あまりにも速かった。


 考えるより先に身体が動いているように見えた。


 けれど。


 違った。


 あの一瞬のために。


 誰も見ていない夜に、こうして同じ動きを繰り返している。


 ラヴィナが止まった。


「……いつまで見てるんだ?」


「え?」


 エレナが固まる。


 ラヴィナが振り返った。


「起きてたのか」


「気づいていたんですか?」


「途中から」


「なら声をかけてください」


「見てたのそっちだろ」


「それは……」


 言い返せない。


 ラヴィナが小太刀を下ろす。


「眠れない?」


「いえ。目が覚めたらラヴィナがいなかったので」


「探しに来た?」


「……はい」


「なんで?」


 まただ。


 この少女は、エレナが何か言うたびに「なんで?」と聞く。


「同じ部屋で寝ていた人が突然いなくなったら、気になるでしょう?」


「そういうもん?」


「そういうものです」


「へえ」


「またそれ」


「何が?」


「『へえ』です」


 ラヴィナが笑った。


 エレナも少し笑う。


 そして小太刀を見る。


「毎晩しているんですか?」


「何を?」


「剣の練習です」


「ああ」


 ラヴィナは小太刀を軽く振った。


「まあな」


「どうして?」


「どうしてって……」


 今度はラヴィナが困った顔をする。


「弱くなりたくないから?」


「疑問形なんですね」


「改めて聞かれると分かんないんだよ」


 ラヴィナは少し考えた。


「やらないと落ち着かないし」


「ずっと?」


「ずっと」


「子供の頃から?」


「そうだな。五歳くらいから」


 エレナは少し驚いた。


「五歳?」


「じいちゃんに教わったんだ。最初は自分の身を守るためにな」


「お祖父様が?」


「ああ」


 ラヴィナは手の中の小太刀へ目を落とした。


「八歳の時に死んだけど」


「……」


 あまりにもさらりと言ったので、エレナはすぐに言葉を返せなかった。


「それからは?」


「一人でやってる」


「ずっと?」


「うん」


 五歳から剣を握り、八歳で師を失った。


 それから八年間。


 誰かに命じられたわけでもなく、一人で剣を振り続けてきた。


 昨夜、峡路で見たあの剣技が、急に違って見えた。


「だから、あんなに……」


「ん?」


「いえ」


 エレナは小さく首を振った。


 少し間を置いてから、もう一つ気になっていたことを思い出す。


「そういえば、ラヴィナ」


「何?」


「峡路にいた山賊たち……あなたを知っていましたよね?」


「ああ」


 あっさり認めた。


「やはり、そうだったんですか?「どうして?」


「仕事でよく会うから」


「……山賊と?」


 エレナの声がわずかに硬くなった。


 ラヴィナがそれに気づき、笑う。


「違う違う。仲間じゃないって」


「では、どういう……」


「街道で山賊に襲われてるやつを助けるのが俺の仕事」


 エレナが瞬きをする。


「助ける?」


「旅人とか商人とか。たまに貴族もいるな」


「それが仕事なんですか?」


「そう。助けて、報酬をもらう」


「……なるほど」


 エレナは妙に納得した。


 出会った直後から報酬の話ばかりしていた理由も、少し分かった気がする。


 ラヴィナにとっては、あれが特別なことではなかったのだ。


「じゃあ、山賊たちは……」


「俺のこと知ってるやつが多いだろな」


 ラヴィナは少し笑った。


「向こうからしたら、いい迷惑だろうな。獲物を襲ってたら俺が来て、邪魔して、報酬まで持ってくんだから」


「それで、あの時逃げたんですね」


「まあ、半分はそれだと思う」


「半分?」


「同業者……?」


「変な顔するなよ」


「だって、ラヴィナは山賊ではないでしょう?」


「当たり前だろ」


「でしたら同業者ではありません」


「細かいな」


「大事なところです」


 ラヴィナが笑った。


「まあ、山賊が出るところにあいつらがいて、俺もいるって意味だよ」


「それなら分かります」


「でも」


 ラヴィナの表情から、少しだけ笑みが消えた。


「昨日のは変だったな」


「変?」


「あいつら、旅人とか商人を狙うことはあるけど」


 ラヴィナはエレナを見る。


「国の騎士団に喧嘩売ってるのは、初めて見た」


 エレナは黙った。


「だから最初、崖の上から見てて思ったんだよ」


 ラヴィナが肩をすくめる。


「最近の山賊は命知らずだなって」


「……普段から、ああいう山賊と戦っているのですか?」


「まあな」


「危険ではありませんか?」


「危険じゃなかったら金にならないだろ」


 あまりにも当然のように返されて、エレナは言葉に詰まった。


「……お金のために?」


「そりゃそうだよ。助けたら商人なんかは礼をくれるし、荷物を取り返せば上乗せしてくれる奴もいる」


 ラヴィナは指を折りながら数える。


「旅人はあんまり持ってないけど、それでも飯代くらいにはなる。金がなきゃ、ばあちゃんと暮らしていけないしな」


「そう……なのですね」


「山賊が出れば困る奴がいる。俺が助ける。そいつが礼をくれる」


 そこでラヴィナは、何でもないことのように笑った。


「だから、まあ。山賊がいるおかげで俺の仕事もあるってことだな」


 エレナの表情が、わずかに曇った。


「……おかげで」


「ん?」


「いえ」


 エレナは小さく首を振った。


 ラヴィナに悪意がないことは分かっている。


 むしろ逆だった。


 襲われている人を助け、その対価を受け取る。


 ラヴィナにとっては、それが生活の一部なのだ。


 けれど。


「本来なら……」


 思わず声が漏れた。


「何だ?」


「そういう人たちを守るのは、王国の騎士団の役目なのではありませんか?」


 ラヴィナは一度瞬きをした。


 それから、あっさり答えた。


「そうなんじゃないか?」


「……そうなんじゃないか、って」


「俺、騎士団がどこまで面倒見るのか知らないし」


 ラヴィナは気にした様子もなく続ける。


「街道全部に騎士を置けるわけじゃないだろ。山賊だって、騎士が来るって分かってるところには出ないし」


「それは……」


「だから、騎士が来る前に襲われる奴がいる。そこに俺がいたら助ける。それだけ」


 そして少し考えてから、


「まあ、全部騎士団が片づけるようになったら、俺は別の仕事探さないといけないけどな」


 ラヴィナは笑った。


 冗談のつもりなのだろう。


 エレナも笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


 王城にいた頃、騎士団は王国を守るものだと教えられてきた。


 街を守り。


 道を守り。


 民を守る。


 それが当然なのだと思っていた。


 けれど、王都から遠く離れた場所では。


 騎士が来るより先に、剣を持った十六歳の少女が山賊と戦っている。


 そして、その報酬で祖母との暮らしを支えている。


 それが特別なことだとさえ思わずに。


「どうした?」


 ラヴィナがエレナの顔を覗き込んだ。


「……何でもありません」


「また変な顔してるぞ」


「していません」


「してるって」


「していません」


 エレナはそう答えながら、ほんの少しだけ視線を落とした。


 王城の外へ出てから。


 自分の知らないことばかりだった。


 海を見るために始まった旅で。


 エレナはまだ、海すら見ていない。


 それなのに。


 自分がこれまで見ていた王国が、ほんの一部分に過ぎなかったことだけは、少しずつ分かり始めていた。


 昨日。


 狭い峡路。


 自分たちの進路を塞いでいた山賊。


 地形を利用した襲撃。


 そして、アルト。


 ただの山賊による襲撃ではなかった。


 それを知っている今だからこそ、エレナにとってはラヴィナの言葉が別の重さを持つ。


「ラヴィナ」


「ん?」


「あなたは、あの山賊たちを以前から知っていたんですね」


「全員じゃないけどな。見たことある顔はいた」


「そうですか……」


 エレナは考え込んだ。


 ラヴィナはそんなエレナを見たものの、深く追及しなかった。


「まあ、逃げてくれて助かったよ」


「助かった?」


「俺だって疲れるんだぞ」


 ラヴィナは当然のように言った。


「アルトだけでも面倒だったのに、山賊まで全員来たら報酬を上乗せしてもらわないと割に合わない」


「……結局そこなんですね」


「大事だろ?」


 エレナは呆れたように息を吐いた。


 けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。


「そういえば、最後に見せた技」


「逆波?」


「はい」


「それが?」


「とても綺麗でした」


「綺麗?」


 ラヴィナが変な顔をする。


「剣だぞ?」


「分かっています」


「人を斬るためのものだけど」


「それでもです」


 エレナは思い出す。


 アルトの強烈な一撃。


 ラヴィナはそれを力で止めなかった。


 流して。


 導いて。


 最後にはアルト自身の力によって剣を弾いた。


「水みたいでした」


 ラヴィナの表情が少し変わる。


「……水?」


「はい。ぶつかるのではなくて、流れていくような」


「よく見てるな」


「剣のことは分かりません。でも、そう見えました」


「そっか」


 ラヴィナは小太刀を見る。


 少しだけ嬉しそうだった。


 だが、それも一瞬。


「でも、まだ駄目だな」


「駄目?」


「あいつ」


「アルト?」


「うん」


 ラヴィナは小太刀を握り直した。


「思ったより速かった」


 エレナの表情が曇る。


「……私も、そう思いました」


 剣術のことは分からない。


 それでも、途中からアルトの動きが明らかに変わったことは覚えている。


 そして。


 もう一つ。


 エレナはラヴィナへ目を向けた。


「ラヴィナ」


「ん?」


「あの時、花に触れていましたよね?」


 ラヴィナの動きが止まった。


「花?」


「水色の花です」


 エレナは自分の身体へ手を添え、あの時のラヴィナの動きを真似る。


「アルトと戦う前にも触れていました。崖から降りてきた時も、たしか……」


「よく見てるな」


「気になったんです」


 エレナはラヴィナを見る。


「フィレナ?、と言いましたよね?」


 今度はラヴィナが黙った。


「その花と、ラヴィナのあの速さには何か関係があるんですか?」


「……」


 答えはない。


 ラヴィナはエレナから視線を外した。


「ラヴィナ?」


「それは」


 一度だけ口を開く。


 だが、続けなかった。


「……今はいいだろ」


 それだけだった。


 エレナは少し首を傾げる。


 明らかに話題を避けている。


 けれど、無理に聞こうとはしなかった。


「分かりました」


「聞かないのか?」


「話したくないのでしょう?」


「まあ……」


「でしたら、今は聞きません」


 ラヴィナは少し意外そうにエレナを見る。


「変なやつ」


「またそれですか?」


「普通、気になったらもっと聞くだろ」


「気にはなっています」


「じゃあ聞けばいいのに」


「いつか話してくれるのでしょう?」


 ラヴィナは答えなかった。


 代わりに、小さく肩をすくめた。


 エレナもそれ以上は聞かなかった。


 しばらくして。


 ラヴィナがぽつりと言った。


「……あの花さ」


「はい?」


「戦いが終わったあと、枯れたよ」


 エレナが目を瞬く。


「フィレナが?」


「うん」


「どうして……」


「さあな」


 ラヴィナはそれ以上答えなかった。


 けれど今度は、いつもの軽い笑みもなかった。


 エレナの頭に、峡路での光景が蘇る。


 ラヴィナが花へ触れたこと。


 その直後、目で追うのも難しいほど速く動いたこと。


 そして。


 戦いが終わったあと、その花は枯れていた。


 偶然なのか。


 それとも。


 エレナはそれ以上は聞かなかった。


 今はまだ。


 ただ、その淡い水色の花の名前だけは、はっきりと覚えていた。


 フィレナ、それはローディスで見たこともない花の一つでもあった。


 そして、ラヴィナは開き直ったように言った。


「でも、俺もまだ駄目だな」


「駄目?」


「昼間の、あいつ」


「アルト?」


「ああ」


 ラヴィナは小太刀を握り直した。


「思ったより速かった」


 エレナの表情が曇る。


「あれは……」


「分かってる」


 ラヴィナが言った。


「普通じゃなかった」


「何だったんですか?」


 エレナはすぐに聞いた。


 ラヴィナがエレナを見る。


「峡路でも、何かが消えたって言いましたよね」


「言ったっけ?」


「言いました」


「よく覚えてるな」


「気になりますから」


「……」


「ラヴィナは、何か知っているんですか?」


 少しの沈黙。


 ラヴィナは小太刀を鞘へ戻した。


「今は、うまく説明できない」


「今は?」


「俺も全部知ってるわけじゃないし」


 エレナはそれ以上聞かなかった。


 ラヴィナが話したくないのではない。


 本当に、まだ言葉にできないのだろう。


 そう感じた。


「分かりました」


「聞かないのか?」


「ラヴィナが分からないことを聞いても仕方ありませんから」


「……変なやつ」


「またですか?」


「だって普通もっと聞くだろ」


「聞きたいですよ」


「じゃあ聞けばいいのに」


「いつか教えてください」


 ラヴィナが少し目を丸くする。


「分かった時に」


「……覚えてたらな」


「覚えていてください」


「はいはい」


「返事は一回です」


 ラヴィナが固まる。


 次の瞬間。


「……ばあちゃんみたいなこと言うなよ」


 ラヴィナが露骨に嫌そうな顔をした。


 エレナは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「ふふっ……」


「笑うなって」


「すみません。でも、リゼアさんも同じことを言っていましたね」


「毎日言われてる」


「では、直した方がいいのでは?」


「エレナまで説教するのか?」


「説教ではありません」


「同じだよ」


 ラヴィナは小太刀を腰へ戻した。


 もう稽古を続ける気はないらしい。


 エレナはその横顔を見ながら、少しだけ考える。


 不思議だった。


 出会って、まだほとんど時間が経っていない。


 王城で暮らしていれば、おそらく出会うことすらなかった少女だ。


 言葉遣いも違う。


 育った場所も違う。


 考え方も違う。


 自分が王女だと知っても態度をほとんど変えない。


 それなのに。


 なぜか、もう少し話してみたいと思った。


「ラヴィナ」


「ん?」


「剣は好きですか?」


「好きだよ」


 今度は即答だった。


「迷わないんですね」


「これは迷わない」


「どうして好きなんですか?」


「また『どうして』か」


「駄目ですか?」


「駄目じゃないけど」


 ラヴィナは少し考えた。


 夜空を見上げる。


「できなかったことが、できるようになるからかな」


「できなかったこと?」


「最初は全然できなかった動きが、何回もやってるとできるようになるだろ」


 ラヴィナは右手を軽く動かした。


「昨日より速く振れるとか。前より足が動くとか。今まで避けられなかった攻撃を避けられるとか」


「……はい」


「そういうの、分かりやすいから好き」


 エレナは静かに聞いていた。


「強くなった分だけ、自分で分かるし」


 ラヴィナはそこで言葉を切った。


「それに」


「それに?」


「強ければ、できることが増える」


 エレナはラヴィナを見る。


 だが、ラヴィナはそれ以上説明しなかった。


 誰かを守れる。


 何かを手に入れられる。


 自分の道を選べる。


 その言葉が何を意味するのか、エレナにはまだ分からない。


「だから毎晩?」


「毎晩じゃない」


「そうなんですか?」


「疲れてたら寝る」


「……急に普通ですね」


「当たり前だろ」


 二人とも笑った。


 静かな夜だった。


 虫の声。


 木々を抜ける風。


 遠くから聞こえる水の音。


 王都の夜とはまるで違う。


 エレナは空を見上げた。


「星がよく見えますね」


「王都じゃ見えないのか?」


「見えます。でも、こんなに空を見上げることはありませんでした」


「なんで?」


「……どうしてでしょう」


 今度はエレナが答えられなかった。


 空なら、王城にもあった。


 月も。


 星も。


 それなのに、こうしてゆっくり見上げた記憶がほとんどない。


「変なの」


 ラヴィナが言う。


「そうですね」


 エレナも否定しなかった。


 少しの沈黙。


 居心地の悪い沈黙ではなかった。


 ラヴィナが先に歩き出す。


「戻ろう」


「もういいんですか?」


「うん。明日もやるし」


「明日も?」


「だから毎日じゃないって」


「でも明日はするんですね」


「細かいな、エレナ」


 エレナ。


 その呼び方に、エレナは一瞬だけ足を止めた。


 王女様でも。


 エレナ様でもない。


 ただ、エレナ。


 ラヴィナは気づかず歩いている。


「どうした?」


「……いいえ」


 エレナはその後を追った。


「何でもありません」


     ◇


 部屋へ戻ると、ラヴィナは小太刀を元の場所へ置いた。


 そして寝台へ入る。


「今度こそ、おやすみ」


「はい。おやすみなさい」


 エレナも横になる。


 今度は先ほどより少しだけ、この部屋が知らない場所ではなくなっていた。


「……あ」


 暗闇の中でラヴィナが声を出した。


「どうしました?」


「大事なこと忘れてた」


「何ですか?」


 少しの間。


「報酬」


「……」


 エレナは目を閉じたまま黙った。


「エレナ?」


「聞こえています」


「ならいいけど」


「王都へ戻ったら、きちんとお礼すると約束しました」


「金額は?」


「そこまで今決めるんですか?」


「大事だろ」


「ラヴィナ」


「何?」


「私は今、少しだけあなたのことを見直していたんです」


「なんで?」


「剣の練習を見て」


「ああ」


「努力家なんだと思って」


「うん」


「もう少し格好いい人なのかもしれないと思って」


「うん?」


「訂正します」


「なんでだよ!」


 エレナは布団の中で笑った。


「お金の話ばかりするからです」


「大事なんだって!」


「分かりました。分かりましたから、もう寝ましょう」


「忘れるなよ」


「忘れません」


「王女の約束だぞ」


「はい」


「絶対だからな」


「ラヴィナ」


「何?」


「おやすみなさい」


「……はい」


 ようやく静かになった。


 少しして。


「返事、一回だっただろ」


 暗闇からラヴィナの声がした。


 エレナはまた笑った。


 昨日まで。


 エレナにとってラヴィナは、名前すら知らない少女だった。


 突然戦場へ飛び込み。


 小太刀一本でアルトと戦い。


 自分たちを救った少女。


 それだけだった。


 今は少し違う。


 剣が好きで。


 誰も見ていない夜にも稽古をして。


 祖母には頭が上がらなくて。


 礼を言われれば照れるくせに。


 報酬の話だけは何度でもする。


 まだ分からないことの方が多い。


 だからこそ。


 エレナは、もう少し知りたいと思った。


 一方。


 隣の寝台では。


「……いくらくらいもらえるかな」


 ラヴィナが小さく呟いていた。


「聞こえていますよ」


「起きてたのかよ」


「今のは聞こえます」


「じゃあ、どれくらい――」


「寝てください」


「はい」


 今度こそ会話が終わる。


 シャルネ村の静かな夜が更けていった。


 この小さな村の外で、自分の名を記した通達が近づいていることを、エレナはまだ知らない。


 王都を発った騎馬の伝令は、確実に西へ進んでいた。


 その紙には。


 今、ラヴィナの隣で眠っている少女の名と。


 その死が記されていた。

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