第4話 偽りの報告
レイフォードの灯が見えた頃には、日はすっかり山の向こうへ沈んでいた。
西街道を進む馬の蹄が、乾いた音を一定の間隔で刻んでいる。
アルトは手綱を握ったまま、一度だけ後ろを振り返った。
護衛兵たちが続いている。
誰も口を開かなかった。
灰岩峡路で起きたことを考えれば、当然だった。
山賊の襲撃。
兄アランとの剣戟。
そして――あの少女。
ラヴィナ・ベルク。
突然現れ、小太刀一本で二人の間へ割って入った少女の姿が、妙に鮮明に残っている。
だが、それ以上にアルトの頭から離れないものがあった。
エレナだった。
最後に見た彼女の顔。
自分ではなく、兄を見ていた。
「……くそ」
小さく漏れた声に、前を行く護衛兵が振り返った。
「アルト様?」
「なんでもない」
「……もうすぐレイフォードです。今夜は休みましょう。皆、限界です」
「ああ」
アルトは短く答えた。
兵は前を向いた。
その背中を見ながら、アルトは胸元へ手を当てる。
まただ。
胸の奥が熱い。
いや、熱いという表現だけでは足りない。
何かが内側から身体を焼いている。
心臓を掴まれ、強く握り締められているような苦しさ。
息を吸う。
それでも足りない。
深く吸い込んでも、胸の奥まで空気が届かない。
――エレナ。
名前を思い浮かべただけで、熱が強くなった。
そして、その隣にアランの姿が浮かぶ。
さらに熱くなる。
アルトは奥歯を噛んだ。
◇
宿場町レイフォードは、すでに夜の顔へ変わっていた。
旅人向けの宿から暖かな灯が漏れ、食事処からは肉を焼く匂いが漂っている。
馬を預け、宿へ入った護衛兵たちは、ようやく緊張を解いた。
「明日はどうします?」
一人が尋ねた。
「朝5時にここを立ち、王都へ戻る」
アルトは即答した。
「ですが、アラン団長とエレナ殿下は――」
「今の人数で峡路へ戻ってどうする」
兵が黙る。
「山賊がまだ残っている可能性もある。王都へ戻り、増援を出す。それが先だ」
「……分かりました」
誰も反論しなかった。
食堂では簡単な食事が用意された。
だがアルトはほとんど口をつけなかった。
兵たちは疲労した声で話している。
「殿下はご無事だろうか」
「アラン団長が一緒だ。簡単にやられる人じゃない」
「あの女の子もいたじゃないか。すごかったな、あれ」
「ああ。何者なんだ?」
アルトの手が止まった。
「……黙って食え」
低い声に、兵たちが口を閉ざす。
一瞬だけ静寂が落ちた。
「失礼しました」
兵が頭を下げた。
アルトは返事をしなかった。
なぜ苛立ったのか、自分でも分からない。
ラヴィナの話が気に障ったわけではない。
アラン。
その名前だった。
兄上が一緒だから大丈夫。
皆がそう思っている。
いつだってそうだ。
兄上なら。
兄上だから。
アランなら。
胸の奥が、また熱くなった。
◇
その夜。
アルトは一人、宿の寝台に腰掛けていた。
眠れない。
窓の外には静かなレイフォードの街並みがある。
遠くから酔客の笑い声が聞こえた。
平和だった。
今日、自分たちが血を流していたことなど、この町には何の関係もない。
アルトは額を押さえた。
「……っ」
また胸が痛む。
この症状は、今日初めて起きたものではなかった。
ずっと前からあった。
ただ、以前はここまで酷くなかった。
エレナを見る。
胸が熱くなる。
エレナが笑う。
苦しくなる。
そして――エレナの隣に兄がいる。
その瞬間だけは、身体の内側に火を放り込まれたようだった。
病気なのではないか。
そう考えたこともある。
だから以前、一人の女を訪ねた。
アルトはその時のことを頭に中で思い出した。
◇
「身体が熱くなる?」
女はそう言って、アルトの胸に聴診器を当てていた。
彼女のの名はセリア・ヴェルネ。
四十二歳。
フォルディス公爵家に仕える研究者であり、かつては医師を志していた女性でもある。
「息を吸って」
アルトが息を吸う。
「もう一度」
従う。
セリアはしばらく音を聞いたあと、聴診器を外した。
「心臓そのものに、今すぐ問題があるようには思えない」
「では、何なんです?」
「それを調べているの」
セリアは淡々と言った。
机には医学書だけでなく、アルトには題名すら読めない古い書物が何冊も積まれていた。
「いつ起きる?」
「……いつ?」
「その症状。食事のあと? 運動した時? 眠る前?」
「そういうものではありません」
「なら、何をしている時?」
アルトは答えなかった。
セリアが顔を上げる。
「言わなければ診断できないわ」
「……人を考えている時です」
「誰?」
アルトはわずかに眉を寄せた。
「そこまで必要ですか」
「必要かどうかを決めるのは私よ」
迷った末、アルトは口を開いた。
「エレナです」
セリアの表情は変わらなかった。
「エレナ王女?」
「はい」
「彼女を考えると身体が熱くなる?」
「……胸も苦しくなります」
「なるほど」
セリアは何かを書き留めた。
「他には?」
「他?」
「エレナ王女だけ?」
アルトの沈黙が答えになったらしい。
セリアがペンを止めた。
「誰?」
「……兄上です」
「アラン・フォルディス」
「はい」
「兄を考えた時にも同じ症状が出る?」
「少し違います」
「どう違う?」
アルトは拳を握った。
言葉にしたくなかった。
それを口にすれば、自分の中にあるものまで認めることになる気がした。
「アルト」
セリアの声は穏やかだった。
「私は告解を聞いているんじゃない。症状を調べているの」
アルトは目を伏せた。
「……二人が一緒にいる時です」
「エレナ王女とアランが?」
「はい」
「その時が一番酷い?」
答えられなかった。
だが、否定もしなかった。
セリアはしばらくアルトを見つめていた。
やがて椅子から立ち上がり、部屋の奥にある棚へ向かった。
鍵を取り出す。
医学書が並ぶ棚とは別の、小さな戸棚だった。
「セリア?」
「少し待って」
鍵が回る。
中から一冊の古びた本を取り出した。
アルトは眉をひそめる。
「それは?」
「まだ、あなたには関係ないと思っていたもの」
机へ戻ったセリアは、本を開いた。
黄ばんだ紙を何枚かめくる。
その指が止まった。
そして、小さく呟いた。
「……ゼルヴァ」
アルトは顔を上げた。
「何です?」
「まだ断定はできない」
「何なんです、ゼルヴァとは」
セリアはすぐには答えなかった。
アルトを見る目が、医師のそれから変わっていた。
患者を見る目ではない。
何かを観察する目。
「人の感情が、ただ心の中だけで終わらないことがある」
「……どういう意味です?」
「感情が力へ変わることがある、という意味よ」
アルトは眉を寄せた。
「魔法の話ですか?」
「そう呼ぶこともできる」
「曖昧ですね」
「分かっていないことが多いの。だから研究している」
セリアは開いた頁へ視線を落とした。
「嫉妬。羨望。劣等感。対抗心」
一つずつ、言葉を置く。
アルトの顔から表情が消えていった。
「そういう感情と深く結びつく力がある」
「それが……ゼルヴァ?」
「可能性の話よ」
セリアは本を閉じた。
「あなたがそうだとは、まだ言っていない」
「では、どうすれば分かる?」
その質問に、セリアはわずかに目を細めた。
「調べるしかない」
「治せるんですか」
「治す?」
セリアが聞き返した。
「病気なんでしょう?」
「私は病気だとは言っていないわ」
アルトは黙った。
「あなたは知りたい?」
「何を」
「自分の中で、何が起きているのか」
迷う理由はなかった。
「知りたい」
「なら、私にも調べさせて」
「……私を?」
「ええ」
アルトはセリアを見つめた。
医師の顔ではない。
だが、敵意もない。
純粋な興味。
それがかえって不気味だった。
「あなたは自分を知りたい」
セリアが言う。
「私は、あなたに起きている現象を知りたい」
「利害が一致する、と?」
「そういうこと」
アルトはしばらく黙っていた。
そして、
「分かりました」
と答えた。
◇
――ゼルヴァ。
レイフォードの薄暗い部屋で、アルトはその言葉を思い出していた。
「……嫉妬」
誰に。
そんなことは分かっている。
兄だ。
アラン・フォルディス。
幼い頃からではない。
少なくとも、昔からこんな感情だったわけではない。
だが今は違う。
エレナが兄を見る。
兄がエレナへ微笑む。
二人が並ぶ。
それだけで。
「……なぜだ」
アルトは胸元を掴んだ。
「なぜ、いつも……兄上なんだ」
熱い。
これまでとは違う。
「ぐっ……!」
身体を折る。
胸だけではなかった。
熱が血管を通って全身へ広がっていく。
腕。
脚。
背中。
頭。
「ぁ……っ、ぐ……!」
寝台から転げ落ちた。
床へ手をつく。
息ができない。
心臓が異常な速さで脈打っている。
痛い。
身体の奥から何かが這い上がってくる。
――兄上。
頭の中に声が響いた気がした。
いや。
声ではない。
自分自身の感情だった。
――兄上さえ。
「やめろ……」
アルトは頭を押さえた。
――いなければ。
「やめろ!」
叫ぶ。
だが消えない。
エレナの笑顔。
その隣のアラン。
エレナの手。
アランへ向けられる視線。
自分には向けられないもの。
「違う……」
何が違うのか。
分からなくなっていく。
苦しい。
怖い。
このまま何かが壊れる。
そう思った。
――はずだった。
「……?」
ふいに。
恐怖が消えた。
痛みはある。
身体も熱い。
それなのに、怖くない。
アルトはゆっくり顔を上げた。
床に落ちた水差しが割れている。
破片の一つで掌を切っていた。
血が流れている。
アルトはその傷を眺めた。
何も感じない。
いや、痛みは感じている。
ただ――それを恐れる理由が分からない。
呼吸が、ゆっくりと整っていく。
頭の中から余計な音が消えていく。
不思議なほど静かだった。
「兄上……」
アルトは呟いた。
その声には、先ほどまでの苦しさがなかった。
血の流れる手を握る。
傷口の縁が、わずかに閉じ始めていることに、この時のアルトはまだ気づかなかった。
ただ一つだけ。
はっきりしていた。
もう、怖くなかった。
◇
朝の光が、薄いカーテンの隙間から差し込んでいた。
アルトは寝台の端に腰掛け、自分の掌を見つめていた。
昨夜、割れた水差しの破片で切った傷。
確かに血は流れていた。
床にも、まだ乾いた血の跡が残っている。
だが――。
「……おかしい」
傷が浅い。
昨夜見た時よりも、明らかに塞がっている。
治っているわけではない。薄い傷痕も残っている。
それでも、早すぎた。
アルトは指で傷の周囲に触れた。
痛みはある。
だが、それだけだった。
昨夜の自分なら、この異常にもっと動揺していたはずだ。
セリアのところへ行かなければ。
何が起きたのか調べなければ。
そう考えたはずだった。
なのに今は、不思議なほど心が静かだった。
怖くない。
それどころか――。
身体が軽い。
アルトは立ち上がった。
全身に、今まで感じたことのない力が満ちている。
鏡の前に立つ。
そこにいるのは、いつもの自分だった。
顔も。
髪も。
瞳の色も。
何も変わっていない。
それなのに。
「ゼルヴァ……」
セリアの声が蘇る。
嫉妬。
羨望。
劣等感。
対抗心。
アルトは鏡の中の自分を見つめた。
その向こうに、兄の姿が浮かんだ。
アラン。
そして、その隣に立つエレナ。
胸の奥が熱を持つ。
だが昨夜のような苦痛はなかった。
むしろ、その熱が心地よかった。
力が湧いてくる。
「……そうか」
アルトの口元が、ごくわずかに動いた。
扉が叩かれた。
「アルト様」
護衛兵の声だった。
「起きておられますか?」
「ああ」
「朝食の準備ができています。本日は予定通りローディスへ?」
アルトは鏡から視線を外した。
「ああ。戻る」
「承知しました」
足音が遠ざかる。
アルトはもう一度、掌を見た。
そして静かに手袋をはめた。
◇
レイフォードを出たのは、朝の鐘が鳴って間もない頃だった。
街道にはすでに商人の荷馬車や旅人の姿がある。
アルトを先頭に、護衛兵たちが馬を進めていた。
空は晴れていた。
昨日の惨劇など嘘だったかのように、穏やかな朝だった。
「王都までは、このままなら今日中には着けます」
一人の兵が言った。
「そうか」
「戻ったら、すぐ増援が出るでしょう」
別の兵が続ける。
「アラン団長なら殿下を守り切ってますよ」
「当然だ。あの人が負けるところなんて想像できない」
笑い声が起きた。
アルトは前を向いたまま聞いていた。
まただ。
兄上なら。
アラン団長なら。
誰もがそう言う。
「……アルト様?」
「何だ」
「いえ……」
兵が少し戸惑う。
「お身体は大丈夫ですか?」
「ああ」
「顔色が――」
「問題ない」
アルトはそれだけ答えた。
以前なら腹が立っただろう。
今は違う。
不思議なほど冷静だった。
彼らが何を言おうと構わない。
もうすぐ必要なくなる。
その考えが頭に浮かんでも、何の抵抗もなかった。
しばらく進むと、街道から人影が減っていった。
森が近い。
王都へ向かう主要街道とはいえ、常に人が行き交っているわけではない。
前にも後ろにも、旅人はいない。
アルトは馬を止めた。
「アルト様?」
護衛兵たちも次々と止まる。
「どうされました?」
「少し休む」
「ですが、まだレイフォードを出たばかりですが」
アルトは馬から降りた。
兵たちが顔を見合わせる。
「アルト様?」
アルトは腰の剣へ手を伸ばした。
鞘から刃が抜ける音がした。
「な――」
最初の一人が言葉を終えるより早く、アルトは動いた。
「アルト様!?」
驚愕の声が上がる。
アルトは何の躊躇もなく目の前の兵を切り捨てた。
誰も反応できていなかった。
兵士たちは敵だと思っていなかった。
昨日まで共にエレナを守っていた仲間。
フォルディス家の次男。
そのアルトが突然自分たちへ剣を向けるなど、誰が想像できただろう。
「何をなさっているんです!」
兵が剣を抜く。
アルトはその動きを見ていた。
遅い。
そう感じた。
以前なら違ったはずだ。
訓練を受けた護衛兵の剣。
だが今は、肩が動く。
腕が上がる。
剣が来る。
そのすべてが見える。
身体が勝手についていく。
「ぐっ……!」
一人。
「アルト様、やめ――!」
二人。
残った兵たちの顔に浮かんだものを、アルトは冷静に見ていた。
恐怖。
混乱。
そして、理解できないという表情。
「どうして……」
最後まで理由を求めていた。
アルトは何も答えず、目の前の兵士たちを無心になって切りつける。。
やがて街道から剣戟の音が消えた。
風が木々を揺らしている。
アルトだけが一人、そこに立っていた。
息は乱れていない。
剣を握る手も震えていない。
足元に倒れた者たちを見る。
昨日まで、自分を守っていた者たちだった。
名前を知っている者もいる。
食事をともにしたこともある。
何度も言葉を交わした。
それでも。
何も感じなかった。
「……そういうことか」
アルトは自分の手を見る。
恐怖がない。
罪悪感さえ、ひどく遠い。
頭のどこかでは分かっている。
自分は今、とんでもないことをした。
だが、その認識が感情につながらない。
まるで他人の行為を眺めているようだった。
アルトはゆっくり息を吐いた。
そして周囲を確認する。
このまま王都へ戻るわけにはいかない。
王女の護衛隊が襲われた。
その中で、自分だけが無傷で戻った。
そんな話を誰が信じる。
アルトは剣へ視線を落とした。
部下を全員切ったことに迷いはなかった。
◇
しばらくして。
アルトは王都への途中にある木の幹へ背を預けて休んだ。
衣服には血が染みている。
身体には、襲撃を受けた生存者に見えるだけの傷が刻まれていた。
呼吸を荒くする。
歩けないほどではない。
だが、遠目には相当な負傷に見える。
アルトは腕の傷を見た。
血が流れている。
それなのに。
「……まただ」
傷の周囲が、すでに落ち着き始めていた。
普通ではない。
アルトは昨夜の傷口を見つめる。
セリアなら、何と言うだろう。
喜ぶだろうか。
いや。
あの女なら――観察する。
自分を見るあの目を思い出した。
患者を見る目ではない。
未知の現象を見る目。
「……好きに調べればいい」
今ならそう思えた。
セリアが自分を利用する。
それで構わない。
自分もセリアを利用する。
知りたい。
この力が何なのか。
どこまで使えるのか。
そして――。
アルトは目を閉じた。
エレナの顔が浮かぶ。
その隣には、やはりアランがいた。
胸が熱くなる。
アルトは目を開けた。
「兄上……」
今度は苦しくなかった。
そして、アルトは怪しいほほ笑みを浮かべ、一つの決断をする。
再び立ち上がって王都に向かう。
◇
王都ローディスの城壁が見えたのは、日が傾き始めた頃だった。
アルトは街道の途中で馬を止めた。
そして剣を抜くと、自分の腕と脇腹に刃を走らせた。
「……っ」
血が流れ出す。
その血を服になすりつけ、襲撃から辛うじて生き延びたように見えるよう整える。
アルトは剣を収めた。
ここから先は、馬に乗って帰るべきではない。
馬を降り、手綱を引く。
傷口から流れる血をそのままにして、わざと足を引きずりながら歩いた。
やがて、巨大な城壁と、その中央に開かれたローディスの正門が近づいてくる。
門を守っていた衛兵の一人が、こちらに気づいた。
「おい……」
兵が目を細める。
次の瞬間、顔色が変わった。
「アルト様!?」
声が響いた。
周囲の人々が振り返る。
「フォルディス家の……?」
「血だ……」
「王女殿下と一緒だった方じゃないのか?」
ざわめきが広がっていく。
アルトは何も答えず、歩いた。
「アルト様!」
衛兵が駆け寄ってくる。
「何があったのです! エレナ殿下は!? アラン団長は!?」
「……城へ」
「え?」
「陛下に……直接、報告する」
それだけ言う。
兵たちが顔を見合わせた。
「医師を!」
「馬車を用意しろ!」
声が飛び交う。
アルトは支えようとした兵の腕を掴んだ。
「歩ける」
「ですが――」
「歩けると言っただろ」
少し苛立ちを見せながら兵を振り払った。
アルトは再び歩き出す。
大通りへ入る。
人々が道を開けていく。
誰もがアルトを見る。
血に染まった服。
傷ついた身体。
そして――。
一人。
王女も。
騎士団長も。
護衛兵たちもいない。
その事実だけで、人々の間に不安が広がっていった。
「何があったんだ……?」
「殿下は?」
「まさか……」
囁きが次の囁きを呼ぶ。
アルトが王城へ着く頃には、噂はすでに彼の後ろを走り始めていた。
◇
「アルト様!」
王城でも騒ぎになった。
侍従。
騎士。
衛兵。
次々と人が集まってくる。
「すぐに治療を!」
「その前に陛下へ」
「しかし、その傷では――」
「陛下へ」
アルトが繰り返した。
その声に、周囲が黙った。
やがて一人の侍従が頷く。
「……お知らせしてまいります」
待っている間、アルトは壁へ手をついた。
身体はまだ動く。
本当なら、もっと普通に歩ける。
だが、ここでは弱って見せなければならない。
やがて侍従が戻った。
「陛下がお会いになります」
重い扉が開く。
アルトは中へ入った。
部屋の奥に、国王レオルド・セレディスがいた。
そして――エレナの父。
「アルト」
レオルドが立ち上がる。
普段の穏やかな表情は消えていた。
「その傷はどうした」
アルトは答えない。
レオルドの視線が、扉の向こうへ動く。
誰も来ない。
「……エレナは?」
アルトは俯いた。
「アランはどこだ」
沈黙。
「アルト」
レオルドの声が低くなる。
「何があった」
アルトはゆっくり顔を上げた。
ここまで来る途中、何度も考えた言葉だった。
それでも、口にする直前。
胸の奥で何かがわずかに揺れた。
本来の自分が、まだどこかに残っているのかもしれない。
だが――。
その小さな声は、すぐに熱の中へ沈んだ。
「陛下」
アルトは息を整えた。
「一行は……山賊の襲撃を受けました」
レオルドの顔から血の気が引いていく。
「エレナは」
アルトは一度、目を伏せた。
そして言った。
「エレナ殿下は――」
ほんの一瞬だけ、沈黙する。
「亡くなられました」
時間が止まったようだった。
レオルドは動かなかった。
声も出さなかった。
ただ、アルトを見ている。
理解できない言葉を聞いたような顔だった。
「……何を」
ようやく、それだけが漏れた。
「申し訳……ございません」
「待て」
レオルドが一歩、前へ出た。
「今、何と言った」
アルトは答えた。
「エレナ殿下は、亡くなられました」
レオルドの唇が、わずかに開いた。
だが言葉にならない。
長い沈黙のあと、もう一つだけ尋ねた。
「……アランは?」
アルトは静かに答えた。
「行方が分かりません」
レオルドは、その場に立ち尽くした。
国王ではなく、ただ一人の父親として。
誰も声をかけられなかった。
部屋の空気そのものが凍りついたようだった。
レオルドの青紫の瞳はアルトへ向けられている。だが、その姿を見ているのかさえ分からない。
「……遺体は」
やがて、掠れた声が落ちた。
アルトは目を伏せる。
「確認できておりません」
「では、なぜ死んだと分かる」
先ほどまでとは違う声だった。
弱々しいのではない。
何かに縋ろうとしている。
「お前は……エレナが死んだところを見たのか」
アルトは一瞬だけ黙った。
「襲撃は激しく……私も負傷しました。混乱の中で殿下をお守りすることができず――」
「聞いているのはそこではない」
レオルドが遮った。
「エレナの死を、お前自身が確認したのか」
「……はい」
嘘だった。
その一言を口にしても、胸は痛まなかった。
レオルドは目を閉じた。
長い沈黙。
「そうか」
それだけだった。
怒鳴らない。
泣き崩れない。
「アランは?」
「襲撃の混乱以降、確認できておりません」
「生きている可能性は」
「分かりません」
レオルドはしばらく俯いていた。
やがて顔を上げる。
その表情にはまだ衝撃が残っている。
それでも、声だけは国王のものへ戻ろうとしていた。
「……捜索隊を出せ」
側に控えていた侍従が頭を下げる。
「エレナを探せ。遺体が見つかっていないのなら、見つけるまでだ」
「はっ」
「アランもだ。生死を問わず所在を確認しろ」
「承知いたしました」
「同行していた者たちも全員だ。一人残らず確認しろ」
そこでレオルドはアルトを見た。
「お前は治療を受けろ」
「しかし――」
「命令だ」
「……はい」
「話はあとで、もう一度聞く」
アルトは頭を下げた。
踵を返す。
扉へ向かう。
その背中へ、声が届いた。
「アルト」
足を止める。
「……エレナは」
レオルドの言葉が途切れた。
国王として何を尋ねようとしたのか。
父親として何を聞きたかったのか。
結局、続きはなかった。
「いや……もういい」
アルトは振り返らず、部屋を出た。
扉が閉じる。
廊下を数歩進んだところで、アルトは胸へ手を当てた。
熱い。
だが、苦しくはない。
◇
王城を走る足音が増えていった。
命令が次の命令を呼ぶ。
騎士が呼ばれ、侍従が走り、各部署へ使者が飛ぶ。
王女エレナ・セレディス。
死亡。
カルゼリア軍騎士団長アラン・フォルディス。
行方不明。
最初は王城のごく一部しか知らなかった二つの情報が、時間とともに広がっていく。
そして、その意味を理解した者から顔色を変えた。
カルゼリア王家には、公に認められた王族が二人しかいない。
国王レオルド。
その娘の王女エレナ。
その一人が失われた。
次代へ続くはずだった王女が。
◇
緊急の王都会議が招集されたのは、それから間もなくのことだった。
長い会議卓の最奥に、レオルドが座っている。
いつもの彼を知る者なら、違いはすぐに分かった。
背筋は伸びている。
衣服にも乱れはない。
国王としての姿を崩してはいない。
だが、顔から普段の柔らかさが消えていた。
左右には、王国運営に深く関わる貴族たちが並ぶ。
軍事と国防を担うフォルディス公爵家。
法務と司法を担うヴァルディア侯爵家。
財政を担うレグナート伯爵家。
地方統治を担うグランツ侯爵家。
外交と対外交易を担うベルフォード伯爵家。
王都行政と情報管理を担うクロイツ子爵家。
誰もが、すでに報告の概要を聞いている。
最初に口を開いたのは、クラウス・ヴァルディアだった。
「まず確認させていただきたい」
低く、よく通る声だった。
「エレナ王女殿下の御遺体は、まだ発見されていない。それで間違いありませんか」
「間違いない」
レオルドが答える。
「では、死亡の確認はアルト・フォルディスの証言のみ」
その言葉に、ヴァルター・フォルディスの眉が動いた。
アランとアルトの父。
そして軍事を預かるフォルディス公爵家の当主。
「クラウス」
「事実を確認しているだけです、公爵」
「息子が虚偽を述べているとでも?」
「そのようなことは言っていない」
クラウスは表情を変えなかった。
「国王陛下の御息女が亡くなられたのだ。確認できている事実と、証言による情報は分けるべきだと言っている」
「……それには同意する」
レオルドが言った。
「エレナの捜索は続ける」
一瞬、会議室が静まった。
レオルドは続ける。
「私は、遺体を見るまで娘の死を完全には受け入れない」
父親としての言葉だった。
しかし次の瞬間には、国王へ戻る。
「だが、国として最悪の場合に備えないわけにもいかない」
「その通りです」
オズワルド・レグナートが静かに頷いた。
「捜索隊の増員、街道封鎖、周辺地域への照会。相応の費用が必要となります。国葬についても、準備だけは開始すべきでしょう」
レオルドの目が僅かに揺れた。
「……国葬」
「準備です。実施ではありません」
オズワルドは淡々としていた。
「殿下の生存が確認されれば、すべて取りやめればよい。しかし、本当に亡くなられていた場合、王国として何も準備していなかったでは済みません」
正論だった。
だからこそ、レオルドには残酷だった。
「地方への情報は、まだ絞るべきでしょう」
今度はエドガル・グランツが口を開いた。
「王女殿下死亡の報が確定情報として地方へ流れれば、混乱します」
「すでに王都では噂になり始めています」
ユリウス・クロイツが言う。
「アルト卿が血まみれで市街を通っています。目撃者が多すぎる。完全な情報封鎖は不可能です」
「ならば余計に、王家から正式な情報を出すべきでは?」
セドリック・ベルフォードが言った。
「国外へ誤った形で伝わる方が危険です。カルゼリア王家に何か起きたと知られれば、周辺国は当然反応する」
「まだ死亡を正式発表する段階ではない」
レオルドの声が少し強くなった。
セドリックはすぐに頭を下げた。
「承知しております、陛下。ですが、国外への説明は必要になるという意味です」
娘の死。
その言葉が、少しずつ別のものへ変わっていく。
捜索。
予算。
地方統治。
情報管理。
外交。
国葬。
レオルドは黙って聞いていた。
つい先ほどまで、エレナは娘だった。
それが今は、王国を揺らす政治問題になっている。
「もう一つあります」
クラウス・ヴァルディアが言った。
会議室の空気が変わった。
「アラン・フォルディス騎士団長についてです」
ヴァルターの視線が鋭くなる。
「何が言いたい」
「王女殿下の護衛責任についてです」
「山賊の襲撃だぞ」
「だから責任がないと?」
クラウスはヴァルターを真っ直ぐ見た。
「アラン卿はカルゼリア軍騎士団長。そして王女殿下の婚約者。今回の旅において、誰よりも殿下を守る責任を負っていた人物ではありませんか」
「息子も襲撃を受けた被害者だ」
「その息子が、今どこにいるのです」
ヴァルターが立ち上がりかけた。
「クラウス!」
「やめろ」
レオルドの一言で止まった。
二人が国王を見る。
「ここは責任を押しつける場ではない」
「承知しております」
クラウスが頭を下げる。
しかし、言葉は止めなかった。
「だからこそ、アラン卿を発見する必要があります」
「当然だ」
「生存しているのであれば、何が起きたのか本人から事情を聞かなければならない」
「それも当然だ」
「では、捜索対象として明確に指定すべきです」
レオルドは答えなかった。
代わりにグランツが口を開いた。
「私は少し急ぎすぎだと思いますな」
クラウスが見る。
「アラン卿が王女殿下を守るため、今もどこかで負傷している可能性もある。まず救助対象として探すべきでしょう」
「救助と事情確認は両立する」
「言葉の問題ではない」
エドガルは椅子へ深く座った。
「王国が騎士団長を疑っているという噂が流れれば、今度は軍が揺れる」
ヴァルターが僅かに目を細めた。
意外だった。
旧来の立場で言えば、グランツ家とフォルディス家は同じ側ではない。
それでもエドガルはフォルディス家を擁護した。
少なくとも、そう見える発言だった。
「私も現段階で罪を論じるのは早いと考えます」
ユリウス・クロイツが言った。
「情報が少なすぎます」
「少ないからこそ探すのだ」
クラウスが返す。
「そこには異論ありません」
ユリウスは淡々と続けた。
「問題は、何のために探すのかです」
会議室に沈黙が落ちる。
「救助するためか」
ユリウスが指を一本立てる。
「事情を聞くためか」
二本目。
「それとも――容疑者として捕らえるためか」
「容疑者だと?」
ヴァルターの声が低くなった。
「私はそう言っていません」
「今、言ったではないか」
「可能性を区別しただけです」
ヴァルターの拳が卓上で固く握られる。
息子が一人、血まみれで戻った。
もう一人は消えた。
そのうえ王女は死亡したという。
父親である彼自身も、まだ何が起きたのか理解できていない。
それでも公爵家当主として、ここに座らなければならない。
「アランは逃げるような男ではない」
ヴァルターが言った。
「それは私も知っている」
レオルドだった。
ヴァルターが国王を見る。
「陛下……」
「私はアランを疑ってはいない」
はっきりと言った。
「エレナが誰より信頼していた男だ。私も騎士団長として信頼している」
クラウスが口を開きかける。
「だが」
レオルドが先に続けた。
「国王として、何も聞かずに済ませることもできない」
ヴァルターは目を伏せた。
「……はい」
「アランを探す」
レオルドは会議卓を見渡した。
「救助を最優先とする。同時に、発見した場合は必ず王都へ連れ帰れ。何があったのか、本人から聞く」
誰も異論を唱えなかった。
「エレナについても捜索を継続する。生死を決めつけるな」
「国葬の準備は?」
オズワルドが尋ねる。
レオルドは数秒、答えなかった。
「……準備だけ進めろ」
「承知しました」
「民への正式発表は待て」
「では国外への通達も?」
セドリックが尋ねる。
「同じだ。現時点では『王女一行が襲撃を受け、安否確認中』までに留める」
「承知いたしました」
レオルドは息を吐いた。
これで終わりではない。
何一つ終わっていない。
娘は見つかっていない。
アランもいない。
襲撃した山賊の全容も分からない。
それなのに王国は、すでに次の判断を要求してくる。
「陛下」
クラウスが最後に言った。
「アラン卿が一定期間見つからなかった場合は、改めて彼の責任について協議する必要があります」
ヴァルターが睨む。
だが今度は何も言わなかった。
レオルドもすぐには答えなかった。
「……見つけてからだ」
「承知しました」
その一言で、会議はひとまず終わった。
◇
夜。
王都ローディスの各門から、騎士たちが次々と出発していった。
西街道。
レイフォード。
灰岩峡路。
その周辺の村々。
二人を探す命令が広がっていく。
**エレナ・セレディス。**
**アラン・フォルディス。**
一人は王女。
一人は騎士団長。
この時点では、二人とも捜索対象だった。
まだアランを罪人と呼ぶ者はいない。
だが王都会議で生まれた小さな疑念は、確かに残った。
王女を守るはずだった男は、なぜ戻らないのか。
その問いだけ、アランへの不信感を高めていった。
◇
王城の一室。
アルトは窓から、王都を出ていく騎士たちの灯を見ていた。
兄を探す灯。
エレナを探す灯。
自分のついた嘘によって動き始めた光だった。
背後では、治療に使われた布が置かれている。
身体の傷は、すでに痛みをほとんど失っていた。
早すぎる。
明らかに。
アルトは腕に巻かれた包帯へ指を這わせた。
――セリアなら。
この身体を見て、何と言うだろう。
そして、アルトは何か止められない期待を感じていた。
窓の外へ視線を戻す。
王都はまだ眠らない。
城ではエレナの国葬準備が静かに行われていた。




