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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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第3話 小太刀の女剣士

 アルトの剣が、止まっていた。


 アランの頭上、あとわずか。


 その刃を受け止めているのは、見覚えのない一本の小太刀だった。


「……何?」


 アルトの目が見開かれる。


「誰だ?」


 答えはない。


 突然割って入った少女は、アルトの剣を受けたまま腰を落としていた。


 長剣と比べれば明らかに短い刃。


 華奢な身体。


 どう見ても、自分より年下の少女だった。


 それが今、アランとアルトの間にいる。


「……誰?」


 エレナの口からも、ほとんど同じ言葉が漏れた。


 知らない。


 護衛の一人でもない。


 レイフォードで見かけた覚えもない。


 なぜこんな場所にいるのか。


 なぜ戦いへ飛び込んできたのか。


 何一つ分からなかった。


 アランも呆然としていた。


「君は……?」


 少女がちらりと振り返る。


 その視線がアランを捉え、すぐに外れた。


 答える気はないらしい。


 アルトへ向き直る。


 剣と小太刀が触れたまま、二人の間で力がぶつかっている。


 少女の腕がわずかに震えた。


 アルトの筋力は、先ほどまでとは違う。


 それでも少女は押し潰されなかった。


 少しだけ首を傾げる。


 そして。


「ここで終わってくれると嬉しいんだけど」


 はにかむように笑った。


「……は?」


 アルトが眉を寄せる。


 あまりにも場違いな表情だった。


 命を奪い合っていた戦場へ突然飛び込んできた少女が、まるで道を譲ってほしいと頼むような口調で言っている。


「何者だ」


「それ、今いる?」


「答えろ」


「答えたらやめるのか?」


 アルトが黙った。


 少女の笑みが消える。


「やめないんだろ?」


 小太刀を傾けた。


 アルトの剣が横へ流れる。


 少女が半歩退いた。


 二人の刃が離れる。


 アルトはすぐに剣を構え直した。


「退け」


「嫌だね」


「女だからといって容赦はしない」


「別に頼んでない」


 即答だった。


 エレナが目を瞬く。


 アランも少女を見つめている。


 まるで緊張していない。


 いや。


 違う。


 緊張していないのではない。


 アルトから一度も目を切っていない。


 足の位置。


 剣先。


 肩。


 視線。


 相手のすべてを見ている。


「本当にやるんだな?」


 少女が聞いた。


「俺は、退けと言った」


「そうかよ」


 左手が動いた。


 身体に密着させていた淡い水色の花へ触れる。


 次の瞬間だった。


「え――」


 アランの声。


 少女の身体が回る。


 そして。


 アランの足へ蹴りを入れた。


「なっ……!」


 不意を突かれたアランがよろめく。


 一歩。


 二歩。


 後ろへ退く。


「何を――」


 言い終わる前に、少女はもうアランを見ていなかった。


 蹴りを放った足が地面へ着くとすぐに振り向くき、少女はアルトの方にすぐに向きを変え襲い掛かるように突っ込んだ。


 少女の狙いはアルトだった。


 小太刀は、アルトの剣を振り払った。


 金属音が響く。


「っ!」


 今度はアルトの身体がわずかに揺れた。


 だが。


「……へえ」


 少女の目が細くなる。


 倒れない。


 普通なら体勢を大きく崩してもおかしくない角度だった。


 それなのに、アルトは片足を半歩ずらしただけで踏みとどまっている。


「やっぱり妙だな」


「何がだ」


「こっちの話」


 少女が踏み込む。


 小太刀が下から走った。


 アルトが剣で受ける。


 少女は押さない。


 触れた瞬間には刃を滑らせ、アルトの剣の外側へ抜けていた。


 身体が沈む。


 アルトの脇へ回る。


 小太刀が返る。


「くっ!」


 アルトが反応した。


 剣を引き戻す。


 間に合う。


 再び刃がぶつかった。


 少女が離れる。


 アルトが追う。


 長剣が横薙ぎに走った。


 少女は低く沈んだ。


 頭上を剣が通り過ぎる。


 そのまま前へ。


 少女はアルトの懐へ入る。


「速い……!」


 アランが思わず呟いた。


 少女の小太刀がアルトの胴へ向かう。


 アルトは身体を引いた。


 切っ先が鎧の表面をかすめた。


 すぐにアルトが剣を振り下ろす。


 少女は小太刀を合わせた。


 激しい音。


 今度は少女の足が地面を滑った。


「……重っ」


 小さく漏らす。


 アルトが押す。


 筋力では明らかにアルトが上だった。


 少女の小太刀が少しずつ下がる。


「どうした」


 アルトが力を込める。


「さっきまでの威勢は」


「別に」


 少女が口元だけで笑った。


「力比べするなんて言ってないだろ」


 ふっと力を抜いた。


「な――」


 押していたアルトの身体が前へ流れる。


 少女はすでに横へ抜けていた。


 小太刀が走る。


 アルトが反応する。


 ぎりぎりで剣を戻す。


 火花。


 互いに離れる。


 一瞬の静止。


 そして同時に地面を蹴った。


 剣と小太刀がぶつかる。


 一撃。


 離れる。


 二撃。


 アルトが押す。


 少女が流す。


 三撃。


 少女が懐へ入る。


 アルトが追随する。


 速い。


 二人とも。


 エレナには、刃の軌道を追うだけで精いっぱいだった。


 さっきまでアランを追い詰めていたアルト。


 そのアルトと、名も知らない少女が互角に剣を交えている。


「……何者なんだ」


 アランが呟いた。


 蹴られた足を一度見てから、再び少女へ視線を戻す。


 なぜ蹴られたのか。


 今なら分かる。


 自分をアルトの間合いから外したのだ。


 声をかけるより速く。


 腕を引くより確実に。


 あの瞬間に必要なことを判断して、即座に実行した。


 しかも。


「小太刀で、あそこまで……」


 アランの目が鋭くなる。


 速いだけではない。


 少女の動きには無駄がなかった。


 短い刃で長剣と正面から間合いを争わない。


 アルトが振る前に動く。


 剣先の外側へ抜ける。


 近づく。


 離れる。


 受け止めずに流す。


 相手の力が強いほど、正面から付き合わない。


 剣士として高い技量を持つからこそ、その異常さが分かる。


 少女の年齢は、エレナと大きく違うようには見えない。


 それなのに。


「強い……」


 アランは素直にそう呟いた。


     ◇


「ちっ!」


 アルトの剣が地面を叩いた。


 少女はすでにそこにいない。


 横。


 気づいた瞬間、小太刀が来る。


 受ける。


 金属音。


 押し返す。


 少女が下がる。


 アルトは追った。


 逃がさない。


 距離を取らせない。


 踏み込む。


 少女も動いた。


「……!」


 追いつく。


 先ほどまでアランに対してそうだったように。


 離れようとする相手へ身体が反応する。


 剣が届く。


 だが少女は身体をひねり、紙一重でかわした。


「危なっ」


 そう言いながら、声には余裕が残っている。


「ふざけるな!」


「ふざけてないって」


 少女が地面を蹴る。


 姿がぶれる。


 アルトが反応する。


 剣を合わせる。


 重い金属音。


 少女の小太刀を力で押し返す。


 だが次の瞬間には、もう別の角度から刃が来る。


 右。


 左。


 低い。


 高い。


 同じ場所に留まらない。


 アルトの力が一撃ごとに重いのに対し、少女は水が岩の間を抜けるように位置を変えていく。


 少女が速い。


 アルトは追いつく。


 アルトが力で押す。


 少女は流す。


 決定打が入らない。


 互いの刃が交差した。


 鍔迫り合い。


 アルトが押す。


 少女の腕が震える。


 それでも足は崩れない。


「……やっぱり」


 少女が呟く。


「何だ」


「普通じゃないな、おまえ」


 アルトの目が鋭くなる。


「何を知っている」


「さあな」


「答えろ!」


 さらに力が加わる。


 少女が一歩下がる。


 だが、それ以上は下がらなかった。


 左手は小太刀へ添えない。


 身体に密着したフィレナへ触れている。


 アルトには、その意味が分からない。


 少女が小さく息を吐いた。


 そのとき。


 周囲が妙に静かなことに気づいた。


「……?」


 エレナも周囲を見る。


 完全に戦闘が終わったわけではない。


 だが、先ほどまで聞こえていた激しい剣戟が明らかに減っている。


 護衛たちが。


 そして山賊たちが。


 二人の戦いを見ていた。


 あまりに速い。


 迂闊に近づけば巻き込まれる。


 それだけではない。


 山賊の何人かの表情が変わっていた。


「おい……」


 一人が呟く。


「まさか」


 隣の男が少女を見る。


 顔から先ほどまでの勢いが消えていく。


「なんであいつが……」


 エレナはその声を聞いた。


 少女も聞いていた。


 アルトと剣を合わせたまま、視線だけを山賊へ向ける。


「……ん?」


 山賊が一歩下がった。


 少女の口元が上がる。


 知り合いに会ったような親しげな笑みではない。


 相手が自分を知っていることを、当然のように受け入れた顔だった。


「なんだ」


 少女が言う。


「おまえらも混ざるか?」


「あ、いえ私たちは遠慮させてもらいますわ」


 山賊の中の一人が言った。


 誰も前へ出ない。


 むしろ一人が、また半歩下がった。


 エレナは少女を見る。


 次に山賊を見る。


 意味が分からない。


 さっきまで騎士たちへ襲いかかっていた男たちが。


 どうして。


 この少女一人を見て、こんな顔をするのか。


 アランも同じ疑問を抱いていた。


「……知り合いか?」


 誰に聞いたわけでもない言葉が漏れる。


 少女は答えない。


 山賊たちを見たまま、小さく鼻で笑った。


「なら、そこで見てろ」


 誰も動かなかった。


 ほんの一瞬。


 少女の意識がアルトから外れた。


 その瞬間を。


 アルトだけは見逃さなかった。


 剣を押し込んでいた腕から、突然力を抜く。


 少女の小太刀との接触が外れる。


「――!」


 少女が振り向く。


 もう遅い。


 アルトは大きく踏み込んでいた。


「よそ見をするな!」


 アルトは殺気を込め仕留める気で、少女へ剣を向け、風を切るように走らせた。


 速い。


 しかも、近い。


 完全に隙を突いた。


 アルトには確信があった。


 避けられない。


 少女が振り向く。


 剣はもう目前まで迫っている。


「危ない!」


 エレナが叫んだ。


 だが。


 少女の表情は変わらなかった。


「――逆波、一分咲き」


 小さく呟く。


 小太刀が動いた。


 アルトの剣を正面から受け止めない。


 斜めに触れる。


 刃と刃が擦れ、鋭い音が鳴った。


 少女の身体が後ろへ下がる。


 一歩。


 二歩。


「逃がすか!」


 アルトがさらに踏み込んだ。


 押し切れる。


 少女の小太刀が押されている。


 あと少し。


 そう思った瞬間。


 少女の足運びが変わった。


 後ろへ逃げていたはずの身体が、アルトの剣に沿うように横へ滑る。


「なっ――」


 小太刀が円を描いた。


 アルトの剣がその軌道へ巻き込まれる。


 押していたはずの力が、行き場を失った。


 違う。


 失ったのではない。


 自分の力が、そのまま別の方向へ導かれている。


 止められない。


「くっ!」


 アルトの身体が前へ流れた。


 少女は逆らわない。


 アルトが強く押せば押すほど、その力を受け流していく。


 小太刀が剣の側面を滑る。


 手首が外へ開いた。


「しまっ――」


 少女の身体が反転した。


 水が岩にぶつかり、その形に沿って流れを変えるように。


 アルト自身の勢いを乗せたまま、小太刀が跳ね上がる。


 甲高い金属音。


 アルトの右手から、剣が消えた。


「……!」


 長剣が高く宙を舞う。


 陽光を受けた刃が一度、二度と回転した。


 アルトが目で追う。


 それが失敗だった。


「上じゃない」


 少女の声。


 アルトが視線を戻す。


 目の前にいた。


「俺を見ろよ」


 少女の蹴りが腹へ入った。


「ぐっ――!」


 息が詰まる。


 身体が折れる。


 アルトの足が地面から離れた。


 そのまま背中から土の上へ倒れる。


「がっ……!」


 肺から空気が押し出された。


 視界が揺れる。


 身体を起こそうとする。


 その前に。


 少女が踏み込んだ。


 アルトの胸元近くへ片足を置く。


 小太刀を返す。


 切っ先が下を向いた。


 アルトの喉へ。


 止まる。


 わずか数寸。


「……終わり」


 少女が言った。


 静かだった。


 勝ち誇った様子もない。


 息は少し上がっている。


 額には薄く汗が滲んでいた。


 それでも小太刀の切っ先は揺れない。


 アルトが動けば届く。


 誰の目にも分かった。


 決着だった。


 山賊たちも。


 護衛たちも。


 アランも。


 エレナも。


 誰もすぐには声を出せなかった。


 アランは地面へ落ちたアルトの剣を見る。


 次に少女を見る。


 力で弾いたのではない。


 アルトが強ければ強いほど。


 踏み込みが速ければ速いほど。


 押す力が大きければ大きいほど。


 その勢いを利用して、剣を持つ手そのものを崩した。


 剣士だから分かる。


 簡単な技ではない。


 一歩間違えば、アルトの剣をまともに受ける。


 相手の力の方向。


 踏み込み。


 重心。


 剣の角度。


 それらを一瞬で読み切らなければ成立しない。


「……すごい」


 エレナが小さく呟いた。


 だが。


 少女の小太刀はまだアルトの喉元にある。


 少女の目が細くなった。


 アルトは倒れたまま睨み返す。


「……どけ」


「まだ言うのかよ」


「どけ……!」


 起き上がろうとする。


 小太刀がほんのわずかに下がった。


 切っ先と喉の距離が縮まる。


「動くな」


「……っ」


「次は止められないぞ」


 アルトの目に、まだ怒りが残っている。


 少女も退かない。


 その目を見た瞬間。


 エレナの胸に恐怖が走った。


 この少女は脅しているのではない。


 本当に必要だと判断すれば。


 斬る。


 そう感じた。


「やめてください!」


 声が響いた。


 少女の動きが止まる。


 エレナは自分でも驚くほど強い声を出していた。


「……」


 少女が振り返る。


 初めて、二人の視線が正面から重なった。


 エレナは息を整えながら、一歩前へ出る。


「もう……十分です」


 少女は何も言わない。


「アルトは、もう戦えません」


「……」


「だから」


 エレナはアルトを見る。


 自分たちを襲わせた。


 アランを殺そうとした。


 自分の言葉も届かなかった。


 それでも。


 目の前で喉を斬られるところを、黙って見ていることはできなかった。


「お願いします」


 少女の目がエレナを見ている。


 探るような視線だった。


 沈黙が続く。


 風が峡路を抜ける。


 少女の髪が揺れた。


 やがて。


「……あんたがそう言うなら」


 小太刀が離れた。


 エレナが小さく息を吐く。


 その直後だった。


「アルト?」


 倒れていたアルトの身体から力が抜けた。


 頭が横へ落ちる。


「アルト!」


 エレナが駆け寄ろうとする。


「待て」


 少女が手を出して止めた。


「え?」


「今は近づくな」


 先ほどまでの軽い調子が消えていた。


 少女はアルトを見下ろしている。


 何かを確かめるように。


 アランも近づく。


「どうした?」


「……消えた」


「何が?」


 少女はすぐには答えなかった。


 アルトを見つめる。


 先ほどまで確かに感じていた。


 身体の内側から溢れていた、異質な力。


 それが急速に薄れていく。


 そして。


 消えた。


「おい」


 アランがもう一度聞く。


「何が消えたんだ?」


 少女はアランを見る。


「……別に」


「別にって」


「今はいいだろ」


 それ以上は話さなかった。


 アランは納得していない顔をした。


 だが、問い詰める余裕もなかった。


 アルトが動いた。


「……う」


 エレナが振り返る。


「アルト?」


 瞼がゆっくり開く。


 ぼんやりと空を見る。


 次に顔を動かした。


 岩壁。


 木々。


 護衛たち。


 山賊。


 そして。


 自分を見下ろしている見知らぬ少女。


「……?」


 アルトの眉が寄る。


 身体を起こそうとする。


「無理に動かないで」


 エレナが言った。


 アルトの視線が向く。


「エレナ……様?」


 声に先ほどまでの激しさがない。


「俺は……」


 周囲を見る。


「何を……?」


 アランの表情が険しくなる。


「アルト」


「兄上……?」


「覚えてないのか」


「何をです?」


 アランは答えなかった。


 アルトの顔を見つめる。


 嘘をついているようには見えない。


「お前は、俺と戦っていた」


「俺が?」


 アルトが目を見開く。


 自分の手を見る。


 剣がない。


 少し離れた地面に、自分の剣が落ちている。


「どうして……」


 記憶を探すように目を閉じる。


「俺は……」


 言葉が途切れた。


 少女が黙ってその様子を見ている。


「どこまで覚えてる?」


 突然聞いた。


 アルトが少女を見る。


「……誰だ、お前」


「それは後でいい」


「何?」


「どこまで覚えてるんだ?」


 アルトは眉を寄せる。


「俺は……兄上と……」


 頭へ手を当てる。


「戦って……」


 そこで止まった。


「その後は?」


「……」


「覚えてない?」


 アルトは答えなかった。


 それが答えだった。


 少女の表情が少しだけ険しくなる。


 だが、何も説明しない。


「そうか」


 それだけ言った。


     ◇


「おい!」


 山賊の声が響いた。


 全員がそちらを見る。


 数人の山賊が後退していた。


 先ほどまでの勢いはない。


 中心にいたアルトは倒された。


 そして何より。


 彼らの視線は、少女へ向いていた。


「……帰るぞ」


 一人が言った。


「何?」


 別の男が振り返る。


「もういい! 引くぞ!」


「でも――」


「いいから来い!」


 声に焦りがある。


 少女が立ち上がった。


「帰るのか?」


 山賊たちの身体が強張る。


「……」


「だったら早く帰れよ」


 小太刀を肩へ乗せる。


「俺も疲れた」


 その言葉とは裏腹に、山賊たちはさらに警戒した。


 一人。


 また一人。


 後ろへ下がる。


 護衛たちは剣を構えたまま、アランを見る。


「団長」


 追いますか。


 そう問う視線だった。


 アランは山賊を見る。


 こちらにも負傷者がいる。


 アルトもこの状態だ。


 そしてエレナをこれ以上危険に晒すわけにはいかない。


「追うな」


 アランが命じた。


「ですが」


「負傷者を優先する。深追いする必要はない」


「……はっ」


 護衛が剣を下げる。


 山賊たちはそれを見て、さらに距離を取った。


 だが。


 誰も少女へ背中を向けようとしない。


 何度も振り返りながら下がっていく。


 エレナはその様子を見ていた。


 おかしい。


 明らかに。


 少女が強いからだけではない。


 山賊たちは最初から彼女を知っていた。


「なんで……」


 小さく呟く。


 少女が振り向いた。


「ん?」


「いえ……」


 エレナは言葉を止めた。


 今聞いていいことなのか分からない。


 それより。


 少女の名前さえ知らない。


 山賊の一人が森へ入る。


 続いて二人。


 三人。


 やがて残っていた男たちも森林斜面の奥へ消えていった。


 騒がしかった峡路に、静けさが戻ってくる。


 剣を構えていた護衛たちが、ようやく肩から力を抜いた。


 馬の荒い呼吸。


 負傷者の呻き声。


 風に揺れる葉の音。


 それだけが残った。


「……終わった」


 エレナが呟いた。


 長かった。


 実際には、どれほどの時間だったのだろう。


 王都を出た時には想像もしなかった。


 海を見るための旅行だった。


 アランとアルトと。


 護衛たちと。


 初めて見る世界を楽しむはずだった。


 それが。


 エレナは地面に座るアルトを見る。


 胸が痛んだ。


 怒りより先に、悲しさが込み上げる。


 どうして。


 何度考えても、その言葉へ戻ってしまう。


 どうして、こんなことになったのだろう。


「……痛っ」


 小さな声。


 エレナが振り向く。


 アランだった。


 岩壁へ片手をついている。


「アラン?」


「大丈夫」


 すぐに笑おうとした。


 だが、その笑顔が途中で歪む。


 エレナの顔色が変わった。


「大丈夫じゃないでしょう!」


「いや、本当に――」


「動かないで!」


 エレナが駆け寄る。


 少女もアランを見る。


 さっきまでとは違う目だった。


「……おい」


 アランが少女を見る。


「何?」


「いや、君じゃなくて――」


 少女はもう近づいていた。


 アランの傷を見る。


「結構やられてるじゃん。痛むか?」


「まあ……少し」


「少し?」


 少女が呆れた顔をする。


「その状態でよく言うな」


 エレナも傷を見て、表情を曇らせる。


 少女はしゃがみ込み、しばらくアランの様子を見た。


 そして顔を上げる。


「この近くに村がある」


「村?」


 エレナが聞き返す。


「ああ」


 少女は森の向こうを顎で示した。


「シャルネって村だ」


「シャルネ……」


 エレナは聞き慣れない村の名を繰り返した。


「ああ。ここからなら、そんなに遠くない」


 少女は答えながら、もう一度アランの傷へ目を向けた。


 腕。


 脇腹。


 衣服の裂けたところには血が滲んでいる。


 それだけではない。


 先ほど岩壁へ叩きつけられたせいか、アランは呼吸をするたび、わずかに顔をしかめていた。


「歩けるか?」


「問題ない」


「そういうのいいから」


「……」


「歩けるのかって聞いてる」


 アランが少し困ったように笑った。


「ゆっくりなら」


「じゃあ問題あるじゃん」


 少女は呆れたように言った。


 エレナはそのやり取りを見て、張り詰めていたものがほんの少しだけ緩むのを感じた。


 不思議な少女だった。


 突然現れた。


 アルトと互角に戦った。


 見たこともない小太刀の技で剣を弾き飛ばした。


 山賊たちは、なぜか彼女を知っていた。


 そして今は、まるで最初から一緒に旅をしていたかのようにアランの傷を心配している。


「あの」


 エレナが声をかけた。


「ん?」


 少女が振り向く。


 改めて正面から見る。


 自分と同じくらいの年齢だろうか。


 少なくとも、アランやアルトよりずっと近い。


 けれど、その目には妙な強さがあった。


 エレナは姿勢を正した。


「助けてくださって、ありがとうございました」


 深く頭を下げる。


「え?」


 少女が目を丸くした。


「あなたが来てくださらなければ、アランは……」


 その先は言えなかった。


 振り下ろされるアルトの剣。


 アランの背中。


 あの光景が頭に蘇る。


「本当に、ありがとうございます」


「いや……」


 少女が困ったように頬を掻いた。


 さっきまでアルトへ小太刀を突きつけていた人物とは思えない。


「そんなちゃんと礼を言われると、なんか……」


 視線を逸らす。


 少し照れているようにも見えた。


 エレナは思わず小さく笑った。


 その横で、アランも頭を下げる。


「俺からも礼を言わせてくれ」


「怪我人は動くなって」


「これくらいはさせてくれ」


 アランは少女を見る。


「君が来てくれなければ、俺は斬られていた。エレナまで危険に晒していたかもしれない」


「……まあ」


「助かった。本当にありがとう」


 少女はしばらくアランを見ていた。


 それから、また頬を掻く。


「……どういたしまして」


 ぼそり。


 声が小さい。


 エレナはもう一度笑いそうになった。


 強い。


 乱暴な口調。


 それなのに、礼を言われるのには慣れていないらしい。


「ところで」


 少女の声が急に変わった。


「はい?」


「さっきから気になってたんだけど」


 エレナを見る。


 頭の先から足元まで。


 服。


 装飾品。


 護衛。


 そして、もう一度顔。


「もしかして、あんたら」


「?」


「どっかの貴族?」


 エレナが瞬きをする。


 アランも少女を見る。


「……はい」


「やっぱり」


 少女の目がわずかに輝いた。


 そして、エレナは少し微笑んだ。


「私は、カルゼリア国王レオルド・セレディスの娘、エレナ・セレディスです」


「エレナ……」


 少女が名前を繰り返す。


 ほんの一瞬。


 何かを考えるようにエレナの顔を見た。


 だが、すぐに表情が変わった。


「じゃあさ」


「はい」


「報酬、出る?」


「……え?」


 今度はエレナが目を丸くした。


 アランも固まる。


「報酬?」


「うん」


 少女は平然と頷いた。


「王女を助けたんだろ、俺」


「え、ええ」


「しかもそっちの騎士も助けた」


 アランを指差す。


「……確かに」


「山賊も追い払った」


「それも……そうですね」


 少女が満足そうに頷く。


「じゃあ結構もらえるよな?」


 沈黙。


 エレナは少女を見る。


 少女もエレナを見る。


 冗談ではない。


 本気だ。


「あの……」


「ん?」


「お名前を伺ってもよろしいですか?」


「名前?」


「はい。私はまだ、あなたのお名前すら……」


「ああ」


 今さら気づいたようだった。


「ラヴィナだ」


「ラヴィナ……」


 その名を、エレナは心の中でもう一度繰り返した。


 ラヴィナ。


「ラヴィナさん?」


「さんはいらない」


「では……ラヴィナ」


「うん」


 ラヴィナが頷く。


 エレナも微笑んだ。


「王城へ戻りましたら、父にも話します。私にできる範囲で、きちんとお礼を――」


「本当?」


 急に距離が縮まった。


「え?」


「王女の約束だよな?」


「は、はい」


「よし」


 ラヴィナが満足そうに笑った。


 エレナは少し戸惑いながらも、つられて笑う。


 アランだけが苦笑していた。


「君、最初からそれが目的だったのか?」


「違うって」


「本当か?」


「最初は違う」


「最初は?」


「途中から」


「……正直だな」


「嘘ついてもしょうがないだろ」


 ラヴィナは悪びれない。


 だが、次の瞬間には再びアランの傷へ目を向けた。


「それより、先に治療した方がいい。近くに俺の住んでる村がある。案内するよ」


 声が少し真面目になる。


「血も出てるし、さっき岩にぶつかってただろ」


「見てたのか」


「上からな」


「上?」


「崖の上」


 アランが崖を見上げる。


「そこから降りてきたのか?」


「そう」


「……よく間に合ったな」


「走ったから」


 あまりにも簡単に言う。


 アランは何か聞きたそうだった。


 だが、ラヴィナはそれ以上説明しなかった。


「シャルネなら休める。傷も見てもらえる。それにうちのばあちゃんは元医者だからな」


 エレナはアランを見る。


「行きましょう」


「エレナ」


「その傷で旅行を続けるつもり?」


 アランが黙った。


「でも」


 視線が一瞬、西へ向く。


 その先。


 本来なら、海へ向かうはずだった道。


「……ごめん」


 アランが言った。


「何が?」


「旅行」


 エレナの胸が少しだけ痛んだ。


 海をずっと見たかった。


 王城から出たことすらなかった自分が、初めて遠くへ行く。


 アランがくれた誕生日の贈り物。


 レイフォードで眠る前も、明日はどんな景色が見られるのだろうと考えていた。


 その旅は、ここで終わる。


「……そうね」


 エレナは西の道を見る。


 悲しくないと言えば嘘になる。


 海を見たかった。


 アランと一緒に。


 けれど。


 隣に立つアランの服には血が滲んでいる。


 周囲には傷ついた護衛たちがいる。


 少し離れた場所にはアルトが座っている。


 何より。


 もう、何事もなかったように旅行を続けることなどできなかった。


 エレナはゆっくり息を吐いた。


「セレヴィアには行きません」


「エレナ」


「旅行はここで終わりにしましょう」


 アランが申し訳なさそうに目を伏せる。


「ごめん」


「謝らないで」


 エレナは首を横に振った。


「海は逃げないでしょう?」


 少しだけ笑う。


「また、いつか見に行けばいいわ」


「……ああ」


 アランも笑った。


「その時は、今度こそ」


「ええ」


 二人のやり取りを、アルトは少し離れた場所から見ていた。


 何も言わずに。


     ◇


「負傷者を確認しろ」


 アランの指示で、護衛たちが互いの状態を確認していく。


 幸い、動ける者もいる。


 だが傷の深い者もいた。


 このままセレヴィアへ進む理由はない。


 かといって、全員でシャルネ村へ向かう必要もない。


 エレナはしばらく考えた。


 そしてアルトを見る。


「アルト」


 呼ばれたアルトが顔を上げる。


「……はい」


 声が弱い。


 先ほどまでの姿が嘘のようだった。


 エレナはその顔を見つめる。


 怒りたい。


 責めたい。


 どうしてこんなことをしたのか、問い詰めたい。


 でも。


 今は何を言えばいいのか分からなかった。


 アルト自身、先ほどのことを覚えていないと言う。


 それが本当なのか。


 何が起きたのか。


 分からないことが多すぎる。


「あなたは……」


 声が止まる。


 アルトが待っている。


 エレナは一度目を伏せた。


 そして。


「負傷した皆さんと一緒に、王都へ戻ってください」


「……俺が?」


「ええ」


 アルトの顔が固まる。


「では、エレナ様は」


「私はアランと一緒にシャルネ村へ行きます」


 沈黙。


 アルトの目が、アランへ向いた。


 すぐにエレナへ戻る。


「兄上と?」


「アランは治療が必要です」


「なら俺も――」


「いいえ」


 エレナは静かに遮った。


 アルトが黙る。


「あなたも休んだ方がいいわ」


「俺は大丈夫です」


「大丈夫ではないでしょう」


 エレナの声は優しかった。


 だからこそ。


 アルトには、その言葉が遠く感じられた。


「さっき何が起きたのか、あなた自身も分かっていない」


「……」


「それに、負傷した皆さんを王都まで無事に戻す人が必要です」


 合理的な判断だった。


 責めているわけではない。


 見捨てているわけでもない。


 それでも。


「俺ではなく」


 アルトが呟いた。


「え?」


「いえ」


 俯く。


「分かりました」


 エレナはその表情を見た。


 胸が痛む。


「アルト」


「はい」


「王都へ戻ったら、父に今日のことを伝えてください」


 アルトが顔を上げる。


「今日のことを?」


「山賊に襲われたこと。負傷者が出たこと。そして、私とアランは治療のためシャルネ村へ向かったと」


「……分かりました」


 エレナは頷いた。


 だが、それで話を終わらせなかった。


 周囲へ目を向ける。


 傷を負いながらも立っている護衛たち。


 彼らもまた、先ほど起きたことをすべて見ている。


「皆さんにも、お願いがあります」


 突然声をかけられ、護衛たちがエレナを見る。


 エレナは一人一人へ視線を向けた。


「今日、ここでアランとアルトが剣を交えたことは、誰にも話さないでください」


 護衛たちの表情が変わる。


 アルトもエレナを見た。


「エレナ様……」


「王都へ戻ってからもです」


 静かな声だった。


 けれど、頼んでいるのではない。


 王女としての命令だった。


「酒場でも、家族にも、他の騎士にも。私か父上から許可があるまでは、今日見たことを口外しないでください」


 護衛たちは互いを見る。


 やがて、一人が姿勢を正した。


「承知いたしました」


 それに続いて、他の者たちも頭を下げる。


「承知いたしました」


 エレナは小さく息を吐いた。


 そして、アルトを見る。


 怒りではなかった。


 その目にあったのは、アルトにはむしろ耐え難いものだった。


 悲しみ。


「アルト」


「……はい」


「どうしてこんなことをしたのか」


 アルトの目が揺れる。


「今は聞きません」


「……」


「でも、いつか聞かせてください」


 アルトは答えなかった。


 エレナは少し悲しそうに微笑んだ。


「あなたの言葉で」


 アルトの唇がわずかに動く。


 声にはならなかった。


     ◇


 出発の準備が整った。


 道は二つに分かれる。


 来た道を戻ればレイフォード。


 そこからさらに東へ進めば王都ローディス。


 そして森林側へ入れば、シャルネ村へ続く。


「こっち」


 ラヴィナが先に歩き出す。


 エレナが続く。


 アランもゆっくり歩き始めた。


「本当に大丈夫?」


 エレナがすぐ隣へ寄る。


「歩けるよ」


「さっきもそう言ったでしょう」


「今度は本当」


「信用できません」


「ひどいな」


「誰のせいですか」


「……俺です」


 ラヴィナが振り返る。


「仲いいな、あんたら」


 エレナが少し頬を赤くする。


 アランは苦笑した。


「婚約者だからね」


「へえ」


 ラヴィナはエレナを見る。


 次にアランを見る。


「なるほど」


「何が?」


「別に」


 また前を向く。


 エレナは首を傾げた。


 少し歩いてから、ふと振り返る。


 アルトたちがいる。


 負傷した護衛。


 馬。


 そしてアルト。


「アルト」


 エレナが呼んだ。


 アルトが顔を上げる。


「気をつけて」


 それだけ。


 アルトはしばらく動かなかった。


 やがて。


「……エレナ様も」


 エレナは頷いた。


 前を向く。


 アランの隣へ戻る。


 三人が歩き始める。


 ラヴィナ。


 エレナ。


 アラン。


 森林の向こうへ。


 その姿を、アルトは黙って見ていた。


 エレナがアランへ何か言う。


 アランが答える。


 エレナが笑った。


 ほんの小さな笑顔だった。


 それでも。


 アルトには、はっきり見えた。


 胸の奥で。


 何かが動いた。


「……」


 手を握る。


 何も起こらない。


 筋肉も変わらない。


 あの異様な力も戻ってこない。


 ただ。


 胸の奥だけが熱い。


 どうして。


 また。


 兄上なんだ。


「アルト様?」


 護衛の一人が声をかける。


「……何だ」


「我々もレイフォードへ戻りましょう。日が落ちる前に着かなければ」


「ああ」


 アルトは答えた。


 もう一度だけ振り返る。


 エレナの姿は、木々の向こうへ消えかけていた。


 最後まで。


 その隣にはアランがいた。


 アルトは前を向く。


「行こう」


 護衛たちとともに、来た道を歩き始める。


 レイフォードへ。


 その先の王都へ。


 誰も気づかなかった。


 アルト自身さえも。


 一度は消えたはずのものが。


 胸の奥深く。


 理性の届かない場所で。


 静かに。


 ほんのわずかに。


 再び膨らみ始めていることに。


 灰岩峡路から、二つの一行が離れていく。


 一方は、シャルネ村へ。


 もう一方は、レイフォードへ。


 同じ場所から別れた。

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