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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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第2話 嫉妬と裏切り

 最初に動いたのは、アランだった。


「エレナ、下がって!」


 鋭い声が灰岩峡路に響く。


 ほとんど同時に、金属と金属が激しくぶつかった。


 耳を刺すような音に、エレナの肩が跳ねる。


 目の前で、アランの剣が山賊の刃を受け止めていた。


「アラン!」


「俺から離れないで!」


 返事を待たず、アランは相手の剣を押し返した。


 男の身体がよろめく。


 その隙に一歩踏み込み、手首を返す。


 剣が閃いた。


「ぐっ!」


 山賊の手から武器が弾け飛ぶ。


 地面へ落ちた剣が二度、三度と跳ねた。


 だが、アランはそれを見届けてはいなかった。


「前を固めろ! 後ろにもいる!」


 怒声にも近い命令が飛ぶ。


「はっ!」


「殿下を中央へ!」


 護衛たちが即座に動いた。


 ほんの少し前まで、風と馬の蹄の音しかなかった峡路が、一瞬で戦場へ変わっていく。


 前方には街道を塞ぐ男たち。


 振り返れば、来た道にも山賊が姿を現している。


 右手の森林から枝葉を乱暴にかき分ける音がした。


「森側!」


 護衛の一人が叫ぶ。


 斜面を駆け下りてきた男が剣を振り上げた。


 別の護衛が前へ出る。


 刃と刃が激突した。


 火花が散る。


 馬が甲高くいなないた。


 狭い街道の中で馬同士が身体をぶつけ、隊列が乱れる。


「馬を落ち着かせろ! 道を塞がせるな!」


 アランの指示が飛ぶ。


 だが、動きたくても動けない。


 街道の片側には、灰色の岩壁が高くそそり立っている。


 反対側は、木々と低木に覆われた森林斜面。


 王都を出たばかりの頃に通った、どこまでも空の広がる街道とはまるで違った。


 人が横に並べる幅そのものが限られている。


 前方を守れば後方が薄くなる。


 後ろへ人を回せば、森林側から襲われる。


 護衛たちは訓練された動きで応戦している。それでも、一行全体を一つの壁のように守ることができない。


 エレナは息を呑みながら、その光景を見ていた。


 怖い。


 剣がぶつかるたび、身体が強張る。


 誰かの叫び声が聞こえるたび、胸の奥が縮む。


 それでも、目を閉じることはしなかった。


「エレナ!」


 アランの声。


 はっと顔を上げる。


 護衛の隙間を一人の男が抜けてきていた。


 こちらへ向かって走ってくる。


 剣が振り上げられる。


 足が動かない。


 その瞬間、横から別の刃が入った。


 激しい金属音。


「――っ!」


 山賊の剣が止まる。


 エレナの前に立っていたのは、アルトだった。


「アルト!」


「下がっていてください」


 振り返らない。


 山賊の剣を押し返し、そのまま一歩前へ出る。


 再び刃がぶつかる。


 アルトも戦っている。


 自分たちと同じ側で。


 その当たり前の光景に、エレナはわずかに安堵した。


 アランがいる。


 アルトもいる。


 護衛たちもいる。


 王都を出てからずっと一緒だった人たちが、自分を守ろうとしてくれている。


「兄上!」


 アルトが叫んだ。


 少し離れた場所で戦っていたアランが振り返る。


「前は俺が見ます!」


「無理をするな、アルト!」


「分かっています!」


 短いやり取りだった。


 いつもの兄弟に見えた。


 だからエレナは、その声を聞いて少しだけ息をつくことができた。


 アランが再び前を向く。


 正面から山賊が二人迫った。


 一人目の剣を受ける。


 真正面から力で押し返すのではない。


 刃の角度をずらし、横へ流す。


 相手の身体が傾いた。


 そこへ踏み込み、剣の腹で腕を打つ。


「ぐあっ!」


 武器が落ちる。


 二人目が横から斬りかかる。


 アランは半歩だけ後ろへ下がった。


 刃が胸元を通り過ぎる。


 その直後には、もう間合いを詰めていた。


 男の懐へ入り、肩をぶつける。


 体勢を崩した男が地面へ転がった。


 速い。


 エレナはアランが剣を振るう姿を何度も見たことがあった。


 けれど、それは訓練や演武だった。


 命を奪おうとしてくる相手との戦いではない。


 今のアランは、一人の剣士として戦っているだけではなかった。


「森側へ二人!」


「はい!」


「深追いするな! 殿下から離れすぎるな!」


 剣を振るいながら、周囲を見ている。


 護衛の位置。


 山賊の動き。


 馬。


 そしてエレナ。


 誰かが危険になれば、すぐに位置を変える。


 エレナへ近づこうとする者がいれば、自分の相手よりそちらを優先する。


 騎士団長。


 幼い頃から何度も耳にしてきた肩書だった。


 けれど、その意味を目の前で見たのは、これが初めてだった。


 それでも――。


「多い……」


 思わず声が漏れた。


 一人倒しても、また別の男が現れる。


 森の奥からも人影が出てくる。


 けれど、人数以上に気になることがあった。


 エレナは周囲を見回した。


 山賊たちは、むやみにアランへ殺到していない。


 正面から騎士団長を倒そうとするのではなく、護衛を散らそうとしている。


 前後から圧力をかける。


 森林側から別の者が下りてくる。


 誰かが突破しそうになれば、別の者がエレナの方へ回る。


 まるで――。


「この場所を知っていた……?」


 呟いた声は剣戟に消えた。


 偶然、この峡路で自分たちを見つけたのだろうか。


 それなら、こんなに都合よく前後を塞げるのか。


 こちらの人数を見て、騎士が複数いると分かってなお襲ってくるだろうか。


 胸の奥に、戦いそのものとは別の冷たさが広がった。


 金品だけが目的ではない。


 そんな考えが浮かぶ。


「どうして……」


 視線を巡らせる。


 そのとき。


 アルトと目が合った。


 ほんの一瞬だった。


 彼はすぐに視線を外し、迫ってきた山賊へ向き直る。


 ただそれだけ。


 なのに。


 なぜか、その一瞬が心に残った。


     ◇


「前方、押し返します!」


 護衛の声が響く。


「追うな!」


 アランは即座に命じた。


「陣形を戻せ! 森側にも注意しろ!」


 息は上がっていた。


 だが、まだ十分に動ける。


 山賊の数は多い。


 それでも、こちらは訓練を積んだ者たちだ。


 最初の混乱を抜ければ立て直せる。


 問題は、この場所だった。


 アランは剣を構えたまま、素早く周囲へ視線を走らせる。


 岩壁。


 森林斜面。


 曲がった街道。


 狭い。


 馬車も護衛も自由に動けない。


 こちらの人数が、そのまま強みにならない。


 ――場所を選ばれたか。


 そう考えた瞬間だった。


「アラン!」


 エレナの声。


 振り返る。


 エレナの近くにアルトが立っている。


 足元には山賊が一人倒れていた。


「大丈夫か?」


「ええ。アルトが守ってくれたわ」


「そうか」


 アランは弟を見る。


「助かった」


 返事がない。


「アルト?」


「……兄上」


 妙に静かな声だった。


 戦場には似つかわしくないほど。


「どうした」


 アルトが剣を下げた。


 切っ先が地面へ向く。


 一瞬、戦いをやめたのかと思った。


 だが違う。


 アルトが見ているのは山賊ではなかった。


 兄を見ていた。


「もう、いいんじゃないですか」


「何がだ」


「戦うことです」


 アランの眉がわずかに寄る。


「何を言っている」


 アルトは答えなかった。


 周囲ではまだ戦闘が続いている。


 剣のぶつかる音。


 男たちの怒号。


 馬のいななき。


 その中で、兄弟の間だけ時間の流れが違っているようだった。


「アルト」


 アランが一歩近づく。


「エレナを連れて護衛の内側へ――」


「いつもそうだ」


 遮られた。


 アランの足が止まる。


 エレナもアルトを見る。


「何?」


 アランが聞く。


「いつも兄上が決める」


「今はそんな話をしている場合じゃない」


「今だからですよ」


 アルトが顔を上げた。


 エレナは、その表情に見覚えがなかった。


 怒っているようにも見える。


 苦しんでいるようにも。


「ここまで来たんですから」


「ここまで……?」


 エレナが繰り返す。


 アルトの視線がこちらへ向いた。


「エレナ様」


 いつもと同じ呼び方。


 なのに、なぜか違う人から呼ばれたように感じる。


「何?」


 アルトはしばらく黙っていた。


 周囲の喧騒だけが続く。


 やがて。


「ずっと、お慕いしていました」


 エレナは瞬きをした。


「……え?」


 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。


「あなたを」


 アルトは目を逸らさない。


「ずっと」


「アルト……」


 続く言葉が出てこない。


 隣でアランが小さく息を吐いた。


「やめろ」


「なぜです?」


「今、言うことじゃない」


「では、いつならよかったんです?」


「アルト」


「兄上と婚約している間ですか?」


 アルトの声が少しずつ強くなる。


「それとも――」


 金属音が鳴った。


 エレナは息を呑む。


 アランがアルトの剣を弾いていた。


 いつ動いたのか分からなかった。


 気づいたときには、アルトの剣先がアランの胸から逸らされていた。


「……何のつもりだ」


 アランの声が低くなる。


 アルトは弾かれた剣をゆっくりと戻した。


「分かるでしょう」


「分からないから聞いている」


「本当に?」


 アルトが一歩踏み出す。


 アランはエレナを庇う位置へ動いた。


 兄弟の間に、数歩の距離ができる。


 その光景を見た瞬間。


 エレナの中で、それまで別々だったものが繋がった。


 灰岩峡路。


 前後を塞いだ山賊。


 こちらの動きを知っているような襲撃。


 そして。


 アルトの「ここまで来た」という言葉。


「まさか……」


 自分の声が震えた。


 アルトがこちらを見る。


 その目を見た瞬間、聞きたくないと思った。


 それでも聞かなければならない。


「この人たちを……」


 喉が乾く。


「あなたが?」


 アルトは答えなかった。


 ほんの短い沈黙。


 けれど、エレナにはそれだけで十分だった。


「アルト」


 アランの声が落ちる。


「答えろ」


 アルトがゆっくり息を吐いた。


「……そうです」


 エレナの指先から、すっと血の気が引いていく。


「俺が彼らを雇いました」


 その言葉だけが、戦場の騒音から切り離されたようにはっきり聞こえた。


 さっきまで、自分を守っていた。


 剣を受け止めてくれた。


 王都から同じ道を旅してきた。


 レイフォードでも一緒だった。


 何気ない言葉を交わした。


 アランの弟だからというだけではない。


 エレナにとってアルトは、昨日まで確かに「身近な人間」だった。


 なのに。


「どうして……?」


 それしか言えなかった。


「どうして、こんなことを……」


 アルトの唇がわずかに動いた。


 だが、言葉になる前にアランが前へ出る。


「山賊を下がらせろ」


「兄上」


「今すぐだ」


「命令ですか?」


「そうだ」


 アランは剣を下ろさない。


「理由は後で聞く。まず襲撃を止めろ」


 アルトが小さく笑った。


「やっぱり、兄上らしい」


「アルト」


「いつだってそうだ」


「何の話だ」


「兄上はいつだって正しい」


 アルトの剣を握る手に力が入る。


「剣も」


 一歩。


「立場も」


 もう一歩。


 そして視線が、アランの肩越しにエレナへ向いた。


「欲しいものまで」


 アランの表情が変わる。


「アルト」


「俺がどれだけ――」


 言葉が途切れた。


 アルトは一度目を伏せる。


 そして。


「……いや」


 顔を上げた。


「もういい」


 剣先が上がる。


 今度ははっきりと。


 山賊ではなく。


 アランへ向けて。


 エレナの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


「アルト!」


 エレナの声が飛んだ。


 けれど、アルトの剣先は下がらない。


 アランも動かなかった。


 弟から向けられた刃を見つめたまま、静かに口を開く。


「……本気なのか」


「今さら聞くんですか」


「聞いている」


「なら、本気です」


 短い返答だった。


 アランの眉間に深い皺が刻まれる。


「山賊を雇って、エレナを危険に晒して、それで最後は俺と斬り合うのか」


「兄上が邪魔をしなければ、こんなことにはならなかった」


「俺が?」


「そうですよ」


 アルトの視線が鋭くなる。


「いつだって兄上だった」


「……」


「剣を握れば兄上が褒められる。家の名を背負うのも兄上。騎士団長になったのも兄上。そして――」


 視線がエレナへ移る。


 それだけで、続く言葉は分かった。


「アルト」


 エレナは静かに名を呼んだ。


「私を見て」


 アルトの目が向く。


 エレナは逃げなかった。


 怖くないわけではない。


 目の前にいるのは、つい先ほどまで同じ旅をしていた人だ。


 その人が今、アランへ剣を向けている。


 そして自分への想いが、その理由の一つだという。


 だからこそ、言わなければならない。


「あなたが私を想ってくれていたことを、私は知らなかったわ」


 アルトの唇がわずかに動く。


「気づけなかったことを責めるなら、私は何も言えない」


「責めてなど――」


「でも」


 エレナは遮った。


 大声ではない。


 それでもアルトの言葉を止めるには十分だった。


「だからといって、こんなことをしていい理由にはならないわ」


 アルトが黙る。


「山賊を雇って、皆を危険に晒して、アランに剣を向けて……それで私にどうしてほしいの?」


「それは……」


「アランを倒せば、私があなたを選ぶと思ったの?」


 アルトの表情が固まった。


「私は物ではないわ」


 アランがわずかに振り返る。


 エレナはアルトから視線を外さなかった。


「誰かが勝ったから、その人のものになるわけじゃない」


「……分かっています」


「なら、剣を下ろして」


「エレナ様」


「お願い」


 一歩だけ前へ出る。


 すぐにアランの腕が横へ伸びた。


「エレナ、それ以上は」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない」


「でも、話さなければ」


 エレナはアランを見る。


「このまま二人が戦う方が嫌」


「……」


「アランも剣を収めて」


 アランは答えなかった。


 アルトから目を離さずに言う。


「アルトが下ろすなら、俺も下ろす」


「兄上はいつもそうですね」


 アルトが呟いた。


「何がだ」


「余裕がある」


 アランの目が細くなる。


「俺が剣を向けても、まだ自分が負けるとは思っていない」


「そういう話をしているんじゃない」


「俺にはそう聞こえる」


「アルト」


 エレナが呼ぶ。


「もうやめましょう」


「……」


「あなたまで失いたくない」


 アルトの目が揺れた。


 エレナはそれを見た。


 言葉が届いた。


 そう思った。


「王都へ戻ってからでも話せるわ。何があったのか、どうしてこんなことをしたのか。私も聞く。アランにも聞いてもらう」


 アランが何も言わず頷く。


「だから今は――」


「エレナ様」


 アルトの声が重なる。


 エレナは口を閉じた。


「それ以上、優しくしないでください」


「……アルト?」


「そんなことを言われたら」


 剣を握る手に力が入る。


「今まで俺が何をしてきたのか、分からなくなる」


 エレナには、その言葉のすべては理解できなかった。


 けれど一つだけ分かる。


 アルトはまだ迷っている。


「だったら――」


「でも」


 アルトが顔を上げる。


「もう遅い」


「遅くない」


 今度はアランだった。


「まだ誰も、お前にここで死ねなんて言ってない」


「兄上……」


「剣を下ろせ」


 アランは自分の剣先を少し下げた。


「山賊を止めろ。それから話す」


「話して何になる」


「分からない」


 アルトが目を見開く。


 アランは続けた。


「分からないから話すんだ」


「……」


「俺は、お前が何を考えていたのか知らなかった」


 アランの声は静かだった。


「エレナへの気持ちも。俺に何を思っていたのかも」


「今さら知ってどうするんです」


「聞く」


「それだけ?」


「ああ」


「俺が兄上を嫌っていたと言っても?」


「聞く」


「エレナ様をずっと好きだったと言っても?」


 一瞬の沈黙。


「聞く」


 アランは同じ言葉を返した。


「だから、もう終わりにしろ」


 アルトが俯く。


 剣先が、ほんのわずかに下がった。


 エレナは息を止めた。


 あと少し。


 もう少しだけ言葉が届けば。


「アルト」


 アランが弟の名を呼ぶ。


 その瞬間。


 アルトの剣先が止まった。


「……どうして」


「何?」


「どうして、そんな言い方ができるんです」


 顔を上げる。


 目に宿っていた迷いが、別の感情に塗り替えられていく。


「兄上はいつもそうだ」


「アルト」


「何も知らなかったと言えば、それで済むんですか」


「そんなことは言ってない」


「俺が何を思っていたのかも知らずに、全部持っていったくせに!」


 アルトが地面を蹴った。


 アルトの剣は躊躇なくアランに向けられた。


「アルト!」


 アランの剣が上がる。


 刃と刃が激突した。


 金属音が峡路へ響き渡る。


     ◇


 アルトが続けざまに剣を振るった。


 右。


 アランが受ける。


 返す。


 左。


 刃がぶつかる。


 アルトはさらに踏み込んだ。


 上段から振り下ろす。


 アランは剣を斜めに当てた。


 真正面から受け止めない。


 刃同士を滑らせるように力を横へ逃がす。


「っ!」


 アルトの身体が前へ流れた。


 アランはその横を抜ける。


 剣先がアルトの肩口へ向かった。


 だが、寸前で止まる。


「やめろ」


 アルトが振り向きざまに剣を払った。


 アランは下がる。


「まだそんなことを!」


 アルトが追う。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 アランはすべて受け流した。


 速い。


 アルトの剣も決して遅くはない。


 それでも、アランには届かない。


 アルトが攻めるほど、その差が浮き彫りになっていく。


 エレナにも分かった。


 アランは反撃できる。


 何度も。


 それでも致命的な一撃を入れない。


「アラン……」


 アルトの剣が横薙ぎに走る。


 アランは半歩下がってかわした。


 そのまま踏み込む。


 アルトの手首へ剣の腹を当てる。


「ぐっ!」


 剣先が下がった。


 アランの肩がアルトの胸元へ入る。


 押す。


 アルトが数歩よろめいた。


「もう分かっただろう」


 アランは追わない。


「剣を下ろせ」


「……」


「俺はお前を斬りたくない」


「だから何だっていうんです」


「アルト」


「手加減しているつもりですか」


「そういう言い方をするな」


「しているでしょう!」


 アルトが再び踏み込む。


 今度は突き。


 アランは身体をずらした。


 刃が脇を抜ける。


 そのままアルトの剣を上から押さえる。


 足を一歩入れる。


 アルトの体勢が崩れた。


 アランの剣先が喉元へ伸びる。


 止まる。


 あとわずか。


 アルトが少しでも前へ動けば触れる距離だった。


「終わりだ」


 アランの呼吸はまだ大きく乱れていない。


 アルトの肩だけが上下していた。


「立て直す前に、剣を捨てろ」


 アルトは喉元の刃を見た。


 そしてアランを見る。


「……殺さないんですか」


「何?」


「俺を」


「馬鹿を言うな」


「俺は兄上を殺そうとしている」


「だから俺もお前を殺すのか?」


「……」


「そんなことをするために剣を握ってるんじゃない」


 アランが剣を少し引いた。


「アルト。もういい」


「……」


「山賊を下がらせろ」


 アランは空いている手を差し出した。


「戻ってこい」


 エレナは、その手を見つめた。


 アルトも見ている。


 長い沈黙。


 周囲ではまだ山賊と護衛が争っている。


 それなのに、その瞬間だけ音が遠く感じられた。


 アルトの手が動く。


 わずかに。


 アランの手へ伸びる。


「そうだ」


 アランが言う。


「もう終わりにしよう」


 指先同士の距離が縮まる。


 エレナの胸に、ようやく息が戻った。


 終わる。


 そう思った。


 だが。


 アルトの手が止まった。


「……兄上」


「何だ」


「一つだけ教えてください」


「ああ」


「俺がエレナ様を好きだと、もし昔から知っていたら」


 アランの表情がわずかに変わる。


「何か変わりましたか」


「……」


「兄上は、エレナ様との婚約をやめましたか」


 アランは答えなかった。


 アルトが笑う。


「ほら」


「アルト、それは――」


「何も変わらない」


 伸ばしかけた手を引く。


「結局、何も」


 アランも手を下ろした。


「それはエレナの気持ちを無視している」


「またそれだ」


「事実だ」


「兄上は正しい」


 アルトが剣を握り直す。


「いつも正しい」


「アルト」


「だから――」


 剣が上がる。


「一度くらい、俺が勝ってもいいでしょう」


 地面を蹴った。


 アランの目が鋭くなる。


 再び、剣がぶつかる。


 今度はアランも下がらなかった。


 アルトが振る。


 アランが受ける。


 返す。


 アルトが辛うじて防ぐ。


 もう一撃。


 アルトが後退する。


 さらに一撃。


「くっ!」


 アルトの腕が弾かれた。


 アランが踏み込む。


 アルトの胸元へ剣先が走る。


 直前で軌道を変え、肩口を打つ。


 アルトがよろめいた。


「まだやるのか!」


「まだだ!」


 アルトが振り返りざまに斬る。


 アランは受け流す。


 懐へ入る。


 足をかける。


 アルトの身体が地面へ倒れた。


 土埃が上がる。


 その手から剣が離れかける。


 アランはすぐに剣先を向けた。


「もう終わりだ」


 アルトが荒い息を吐く。


「……」


「これ以上は本当に怪我では済まなくなる」


 エレナが二人へ近づこうとする。


「アルト」


 呼びかける。


「お願い。もう――」


「来ないでください」


 アルトが低く言った。


 エレナの足が止まる。


「アルト?」


 地面に手をつく。


 ゆっくりと立ち上がる。


 アランは剣を向けたまま動かなかった。


「まだやるつもりか」


「……」


「剣術ではお前は俺に勝てない」


 その言葉が落ちた瞬間。


 アルトの表情が変わった。


 アラン自身も気づいた。


 言い方を間違えた。


「違う。俺は――」


「分かっていますよ」


 アルトが遮る。


 声は不思議なほど静かだった。


「分かっていました」


「アルト」


「ずっと」


 足元に落ちかけていた剣を握り直す。


「剣でも」


 一歩。


「何でも」


 もう一歩。


「兄上の方が上だって」


「そんなことを言っているんじゃない」


「同じですよ」


「違う!」


「何が違うんです?」


 アルトが顔を上げた。


「エレナ様も兄上を選んだ」


 エレナが息を呑む。


「剣でも勝てない」


 アルトは自嘲するように口元を歪めた。


「だったら俺には、何が残るんです?」


「勝ち負けの話じゃない!」


「兄上にはそうでしょうね」


 アランが一歩近づく。


「アルト。聞け」


「もう聞きました」


「まだ話は――」


「十分です。...う」


 そう言うと、アルトは胸を押さえ一瞬苦しそうな表情を見せた。


 すると、アルトの周囲で、何かが変わった。


 最初に気づいたのは、アランだった。


「……?」


 風ではない。


 アルトが動いたわけでもない。


 それなのに。


 肌を撫でる空気が、先ほどまでとは違う。


 アランは気分を落ち着かせ、さっきまでの苦しそうな表情から一転して無表情になり、無意識に剣を構え直した。


「アルト」


 アルトにはアランの問いかけは聞こえない。


 アルトは俯いいたままだった。


「何をするつもりだ」


 返事はない。


 エレナも異変を感じ取ったのか、腕を抱くようにして二人を見ていた。


「アルト?」


 アルトがゆっくり顔を上げる。


 その目は、もう迷っていなかった。


「兄上」


「……何だ」


「剣では勝てない」


 静かな声。


「それは認めます」


 アランの胸に嫌な感覚が走る。


「だから何だ」


 アルトが剣を構えた。


「なら――」


 アランは剣を握る手に力を込めた。


 アルトは、自分の剣を見つめていた。


 剣では勝てない。


 その言葉が、頭の中から離れない。


 分かっていた。


 昔から。


 兄の方が強い。


 剣を握れば、いつだって先を行く。


 追いついたと思えば、また遠ざかる。


 騎士団長になった。


 王女の婚約者になった。


 そしてエレナが選んだのも――。


「……兄上」


 アルトが顔を上げる。


「何だ」


「どうして」


 声が低い。


「どうして、いつもあなたなんだ」


 アランの眉が寄った。


「アルト」


「剣も」


 アルトの指が柄を強く握る。


「地位も」


 指先が白くなる。


「エレナ様も」


「……」


「どうして全部、兄上なんだ!」


 叫んだ瞬間だった。


 胸の奥で何かが弾けた。


 熱い。


 血が沸騰したのかと思うほどの熱が、一気に全身へ広がっていく。


「っ……!」


 アルトが息を詰めた。


 肩が震える。


 剣を握った腕。


 背。


 脚。


 全身の筋肉が、ごくわずかに張った。


 外見が別人になったわけではない。


 身体が大きく膨れ上がったわけでもない。


 それでもアランは違和感を覚えた。


「アルト……?」


 エレナも同じだった。


 何が変わったのかは分からない。


 ただ。


 さっきまでそこに立っていたアルトとは、何かが違う。


 そんな感覚だけがあった。


 アルト自身も、自分の中で何が起きているのかを理解しているようには見えなかった。


 荒かった呼吸が、一度だけ深くなる。


 息を吐く。


 剣を構える。


「兄上」


「……」


「もう一度です」


 アランは答えず、剣先をアルトへ向けた。


 何かがおかしい。


 理由は分からない。


 だが、剣士としての感覚が警告している。


 先ほどまでと同じつもりで向かうな。


「来い」


 短く言った。


 アルトが地面を蹴る。


「――!」


 速い。


 アランの目が見開かれた。


 さっきまでとは踏み込みが違う。


 剣が迫る。


 アランは反射的に受けた。


 激突。


「ぐっ!」


 腕へ衝撃が走った。


 重い。


 アルトの剣を受けたとは思えない。


 アランの身体が一歩後ろへ押された。


 エレナが息を呑む。


「アラン……?」


 アルト自身も、一瞬だけ自分の剣を見た。


 だが、その驚きはすぐに消えた。


 再び兄を見る。


「まだです」


 踏み込む。


 今度はアランも構えていた。


 横薙ぎ。


 受け流す。


 そのつもりだった。


 だが、完全には流れない。


 剣を通して重い衝撃が肩まで響く。


 アランは身体をひねり、どうにか力を逃がした。


 すぐに反撃する。


 アルトの肩口へ剣を走らせる。


 先ほどなら届いた。


 だが。


 アルトが反応した。


 身体を引く。


 刃が衣服の寸前を通過する。


「……!」


 アランの表情が変わった。


 アルトが攻める。


 一撃。


 受ける。


 二撃。


 かわす。


 三撃目。


 アランは剣を合わせた。


 アルトの動きを見る。


 剣筋。


 構え。


 踏み込み方。


 癖。


 知っている。


 すべて弟のままだ。


 別の剣術を使っているわけではない。


 技が突然洗練されたわけでもない。


 なのに。


 速い。


 反応が違う。


 そして、重い。


「剣が……」


 アランが呟く。


 アルトの剣を受け流しながら、ようやく理解する。


「上手くなったわけじゃない」


「何?」


「お前自身が……」


 言葉を最後まで続ける余裕がなかった。


 アルトが踏み込む。


 速い。


 アランは後退した。


 剣先が胸元をかすめる。


 さらに追ってくる。


 今までなら、アランが間合いを外せばアルトは一度体勢を整えなければならなかった。


 今は違う。


 離れれば追いつく。


 横へ回れば反応する。


 アランが作った距離を、アルトがすぐに埋める。


 まるで――。


 追いつこうとしている。


 何が何でも。


 自分に。


「兄上!」


 アルトの剣が振り下ろされた。


 アランが受ける。


 衝撃。


 靴底が土を削った。


「っ……!」


 押される。


 エレナの顔から血の気が引いた。


 ほんの少し前まで、反対だった。


 アルトがどれだけ攻めても、アランは余裕を失わなかった。


 今は違う。


「どうして……」


 エレナには何が起きているのか分からない。


 アルトの身体が少し大きくなったようにも見えた。


 けれど、見間違いと言われればそう思える程度だった。


 何より違うのは動きだった。


「アラン!」


「来るな!」


 アランが叫ぶ。


 アルトの剣を弾き、距離を取る。


 呼吸を整える。


 まだ戦える。


 技術では負けていない。


 なら、相手の変化に合わせればいい。


 アルトが来る。


 アランはぎりぎりまで待った。


 振り下ろされた剣を斜めに受ける。


 力を横へ逃がす。


 アルトの身体がわずかに流れた。


 今だ。


 アランが懐へ入る。


 剣の柄を握る手元を狙う。


 だがアルトが反応した。


 腕を引く。


 かわす。


 そのまま剣を返した。


「くっ!」


 アランが大きく下がる。


 今の反応速度。


 先ほどまでのアルトにはなかった。


 剣術の差を、別の何かが埋め始めている。


     ◇


 そんな光景を他人事のように崖上から一人の少女が眺めていた。


 彼女の名はラヴィナ。片膝を立て、岩の上に座っている。


 下では山賊と騎士たちが入り乱れていた。


 剣戟。


 怒号。


 馬のいななき。


 ここまで音が届いてくる。


「国の騎士団を襲うとか最近の山賊は命知らずだな」


 呆れたように呟く。


 装備を見れば、ただの旅人ではないことくらい分かる。


 しかも中央で戦っている男は明らかに強い。


 山賊が簡単に勝てる相手には見えなかった。


 ラヴィナにとって、それ以上の興味はなかった。


 騎士と山賊。


 どちらが勝とうと自分には関係ない。


 勝手に始めた戦いなら、勝手に終わればいい。


 そう思っていた。


 途中から仲間同士らしい男二人が剣を交え始めたのには少し呆れたが、それも他人事だった。


「今度は仲間割れかよ。」


 年上の男の方が強い。


 遠目にも分かる。


 若い男が攻めても、ほとんど届かない。


 勝負は長くない。


 そう判断していた。


 だが。


「……ん?」


 ラヴィナの表情が変わった。


 肌を撫でる感覚。


 風ではない。


 もっと奥。


 身体ではなく、その内側で感じる。


 眼下を見る。


 若い男。


 さっきまで押されていた方。


 そこから何かが溢れている。


 ラヴィナは立ち上がった。


 目を細める。


 間違いない。


「……魔力?」


 その一言で、他人事だった戦いが変わった。


 ラヴィナの視線がアルトから離れなくなる。


     ◇


 崖下ではアルトの剣がアランを押し込む。


 右。


 左。


 正面。


 アランは防ぐ。


 だが一撃ごとに後退していた。


「どうしたんです、兄上!」


「……っ」


「さっきまでの余裕は!」


 剣がぶつかる。


 アランの腕が外へ弾かれた。


 アルトが踏み込む。


 アランは身をひねってかわした。


 剣が胸元をかすめる。


 アルトがすぐに追ってくる。


 速い。


 距離を作れない。


 それでもアランは冷静に剣筋を見る。


 変わっていない。


 アルトの剣だ。


 だから読める。


 だが。


 読めても身体が間に合わなくなり始めている。


 剣が交差する。


 アルトが押す。


 アランの足が滑る。


「アラン!」


 エレナの声。


 一瞬だけ意識が向いた。


 その隙をアルトは逃さなかった。


 踏み込む。


 剣が走る。


「っ!」


 アランは辛うじて受けた。


 衝撃。


 身体が後方へ弾かれる。


 岩壁へ背中がぶつかった。


「ぐっ……!」


「アラン!」


 エレナが駆け出そうとする。


「来るな!」


 アランはすぐに身体を起こした。


 剣を握る。


 腕が痺れている。


 それでも構える。


 アルトがゆっくり近づいてくる。


「まだやるんですか」


「当たり前だ」


「もう分かったでしょう」


「何がだ」


「俺が勝つ」


「……違うな」


 アランは息を整えながら言った。


「何?」


「お前の剣が俺を超えたわけじゃない」


 アルトの顔が歪む。


「まだそんなことを!」


「事実だ!」


 アランの声が響いた。


「何が起きてるかは分からない。だが、お前の剣はお前のままだ!」


「黙れ!」


 アルトが地面を蹴った。


     ◇


「まずいな」


 ラヴィナが呟いた。


 先ほどまで強かった男が押されている。


 理由は明らかだった。


 魔力をまとった方の動きが変わった。


 ラヴィナは腰元へ手をやる。


 身体に密着させているフィレナへ触れた。


 まだ戦闘地点までは距離がある。


 崖上から直接飛び降りることはできない。


 森林斜面へ回る。


 そう判断するまでに時間はかからなかった。


「フィレナ」


 小さく唱える。


 身体の内側で力の流れが変わった。


 新しい力が生まれたわけではない。


 自分の中にある力が、脚へ、身体へ、一気に集まっていく。


 ラヴィナが地面を蹴った。


 岩場から森林側へ移る。


 着地。


 そのまま走った。


 木々の間を抜ける。


 低い枝をかわす。


 露出した根を踏み越える。


 斜面を一気に下っていく。


 呼吸が速くなる。


 脚へ負担がかかる。


 それでも速度を落とさない。


 街道から剣戟が聞こえる。


「間に合えよ……!」


     ◇


 アランの剣が大きく弾かれた。


 握ったまま。


 だが腕が開く。


 無防備になる。


 アルトの剣が迫った。


 アランは後ろへ跳ぶ。


 切っ先が目の前を通過する。


 着地。


 体勢を整える前にアルトが来る。


「兄上!」


 速い。


 受ける。


 重い。


 もう一撃。


 アランが下がる。


 さらに一撃。


 剣と剣が激突した。


 指が痺れる。


 握力が落ちている。


 アルトの剣が返る。


 アランは受けた。


 その瞬間。


 アランの剣が手から弾かれ、アルトの剣はアランの右手を擦った。


「あっ――」


 銀色の刃が宙を回る。


 数歩離れた地面へ落ちた。


 乾いた音が響く。


「アラン!」


 エレナは恐怖を感じながら叫ぶ。


 アランは剣を見る。


 遠い。


 拾う時間はない。


 すると、アルトはエレナにゆっくりと近づこうとする。


 アランは素手のままエレナの前へ立った。


 アルトは余裕を感じさせる表情になっていた。


「終わりです」


 アルトは、怪しいほほ笑みを浮かべ、アランとエレナを見た。


「まだだ」


「剣もないのに?」


「だから何だ」


 アルトが剣を持ち上げる。


「アラン、逃げて!」


「逃げられるか」


「どうして!」


 アランは答えなかった。


 さっき、アルトに切られた右手から流れる血がよりエレナの不安と恐怖を煽る。


「アルト!!」


 エレナが叫ぶ。


「もうやめて!」


 アルトの目が揺れる。


「そこをどいてください、兄上」


「嫌だ」


「どいてくれ!」


「断る」


 アルトの剣が上がる。


 エレナが走り出した。


「エレナ!」


「やめて、アルト!」


 アルトの顔に一瞬戸惑いが浮かぶ。


 それでも。


 振り上げられた剣は止まらない。


 アランがエレナを庇うように前へ出る。


 アルトの剣が振り下ろされた。


     ◇


 木々の間から街道が見えた。


 ラヴィナは走る。


 男が一人、剣を失っている。


 もう一人が剣を振り上げている。


 その背後には少女。


「くそっ」


 距離がある。


 このままでは間に合わない。


 ラヴィナはフィレナへ触れた。


 残っている力を脚へ集中させる。


「フィレナ!」


 地面を蹴った。


 一歩。


 身体が前へ飛ぶ。


 二歩。


 斜面を駆け下りる。


 大きく露出した木の根を踏む。


 跳んだ。


 枝葉が頬をかすめる。


 視界が開ける。


 アルトの剣が落ち始めていた。


 アランには避ける様子がない。


 背後のエレナを庇っている。


「間に合え!」


 ラヴィナが最後の一歩を蹴った。


 小太刀を抜く。


 アルトの剣がアランへ届く。


 その直前――。


 横から一つの影が飛び込んだ。


 ラヴィナの小太刀がアルトの剣を捉えた。



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