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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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第1話 誕生日旅行に迫る影

 大陸暦八七二年、セレナ月五日。


 エレナ・セレディスは、十六歳になった。


 朝の光が、大きなアーチ窓から部屋へ差し込んでいる。


 エレナは窓辺に立ち、眼下に広がる王都ローディスを眺めていた。


 見慣れた景色だった。


 中央本館の高い場所にあるこの部屋からなら、王城を囲む街並みも、そのさらに向こうにそびえる城壁もよく見える。


 物心がついた頃から、何度となく眺めてきた景色。


 けれど今日だけは、いつもと違って見えた。


 エレナの視線は街並みではなく、その向こうへ向いていた。


 城壁。


 そして、そこに開かれた門。


 さらにその先。


 ここからでは見ることのできない世界へ。


「……海」


 小さく口にすると、不思議なくらい胸が弾んだ。


 海がどんなものなのかは知っている。


 本で読んだこともある。人から話を聞いたこともある。


 けれど、自分の目で見たことは一度もない。


 海だけではなかった。


 エレナは今日まで、王都ローディスの外へ出たことそのものがなかった。


 十六歳になる今日、初めて城壁の向こうへ行く。


 そう思うだけで、先ほどから落ち着かなかった。


 左手を上げる。


 手首には、月の紋章が刻まれたブレスレットがある。


 窓から差し込む光を受けて、その表面が静かに輝いた。


 そのとき、扉を叩く音がした。


「エレナ」


 聞き慣れた声に、彼女は振り返った。


「どうぞ」


 扉が開き、アラン・フォルディスが入ってくる。


 十歳年上の婚約者。


 そして、エレナにとってはそれだけではない、大切な恋人でもある。


「おはよう」


「おはよう、アラン」


 アランはエレナの前まで来ると、わずかに表情を和らげた。


「誕生日、おめでとう」


「ありがとう」


 答えながら、エレナは自然と笑っていた。


 けれど、その笑みを見たアランが何か言うより先に、エレナは尋ねた。


「ねえ。本当に今日なのよね?」


「何がだ?」


「出発」


 アランが一瞬黙った。


「……昨日も聞かなかったか?」


「聞いたわ」


「一昨日も」


「それも覚えてる」


「なら、どうしてまた聞くんだ」


 少し困ったようなアランを見て、エレナは窓の外へ視線を戻した。


「だって、まだ実感がないの」


 城壁の向こうを見つめる。


「ずっと、あの向こうに何があるんだろうって思ってたから」


「地図なら何度も見てるだろう」


「地図と、本当に見るのとは違うでしょう?」


「それはそうだな」


 エレナは振り返った。


「海って、本当にどこまで行っても水なの?」


 アランの眉がわずかに動いた。


「俺に聞くより、自分の目で確かめた方が早い」


「……それ、答えになってないわ」


「だから連れていくんだ」


 一瞬、エレナは言葉を失った。


 アランは何でもないことのように言ったが、それこそが彼からの贈り物だった。


 宝石でも、豪華な衣装でもない。


 エレナが以前から見たいと言っていたもの。


 海。


 そして、そこへたどり着くまでの旅そのもの。


「ありがとう、アラン」


「礼は海を見てからでいい」


「もし、想像していたより普通だったら?」


「そのときは俺の贈り物選びが失敗だったということになるな」


 エレナは思わず笑った。


「そんなことにはならないと思う」


「どうして?」


「だって――」


 言いかけて、やめた。


 海を見ることだけが楽しみなのではない。


 アランと一緒にそこへ向かうことも楽しみなのだ。


 けれど、それをそのまま口にするのは少し照れくさい。


「……秘密」


「そうか」


 アランもそれ以上は聞かなかった。


 それがかえって恥ずかしくなって、エレナは窓の方へ顔を戻す。


「そろそろ行こう」


 背後からアランが言った。


「アルトたちを待たせてる」


「ええ」


 エレナは最後にもう一度、自分の部屋から王都を眺めた。


 今朝までなら、窓の向こうに見えていたのはいつもの王都だった。


 今は違う。


 あの城壁の向こうに、海へ続く道がある。


 エレナは窓辺を離れた。


     ◇


 王都ローディスの正門が近づくにつれて、エレナは何度も馬車の窓から外を見た。


 王城から離れるにつれ、景色は少しずつ変わっていく。


 それでも、まだ知っている世界だった。


 人の多い通り。


 店先で声を張る商人。


 行き交う荷車。


 石造りの建物。


 そして遠くに見える、王都を囲む巨大な城壁。


 その城壁が、近づくほど高くなっていく。


「そんなに身を乗り出すと危ないぞ」


 向かいからアランに言われ、エレナは少しだけ姿勢を戻した。


「分かってるわ」


「本当に?」


「子供じゃないのよ。今日で十六歳なんだから」


「今日から急に変わるものでもないだろう」


「変わるわ」


「何が?」


「今日は王都の外へ出られるもの」


 アランが小さく息を吐く。


 呆れているようにも見えたが、口元には微かな笑みがあった。


 やがて馬車が速度を落とした。


 正門だった。


 巨大な門塔の下へ馬車が入る。


 それまで窓から差し込んでいた朝の光が途切れた。


 石造りの門洞。


 車輪の音と馬蹄の響きが、低い天井と壁に反響する。


 エレナは自然と口を閉じた。


 ほんの短い距離だった。


 それなのに、妙に長く感じる。


 やがて前方に光が見えた。


 それが少しずつ大きくなる。


 馬車が門を抜けた。


 一気に視界が明るくなる。


「……わあ」


 思わず声が漏れた。


 そこには、城壁がなかった。


 正確には、振り返れば巨大な城壁がある。


 けれど前にはない。


 街道がまっすぐ遠くへ延び、その左右には広い土地と空が広がっている。


 エレナは窓から振り返った。


     ◇


 巨大なローディスの城壁。


 その向こうに、自分が十六年間暮らしてきた王都がある。


「どうした?」


 アランが尋ねる。


「……本当に出たのね」


「だから何度もそう言っただろう」


「そうじゃなくて」


 エレナは前を向いた。


 風に揺れる草。


 遠くまで続く街道。


 そのさらに先に重なる丘。


「こんなに広かったのね」


 アランは答えなかった。


 ただ、外を見つめるエレナを静かに見ていた。


 ほどなく、一行のそばへ馬が一頭寄ってきた。


 騎乗していたのはアルトだった。


 アランの四歳下の弟。


「兄上」


「どうした?」


「護衛は全員、門を抜けました」


「分かった」


 短いやり取りの後、アルトの視線がエレナへ向く。


「王女殿下、初めての王都の外はいかがです?」


 エレナは窓の向こうへ目をやった。


 どこまでも続いているように見える道。


 その先にはレイフォードがあり、さらにその先には海がある。


「まだ門を出ただけよ」


「では、感想はセレヴィアまで取っておきますか?」


「無理だと思うわ」


「なぜです?」


「もう、見たいものが多すぎるもの」


 アルトはわずかに笑った。


「それは大変ですね。海へ着く頃には、感想だけで一晩かかりそうだ」


「アルト」


 アランが呼ぶ。


「はい?」


「余計なことを教えるな。本当に感想を一晩かけて言ってしまいそうだ」


「それは兄上が最後まで聞けばいいでしょう」


「なぜ俺が」


「贈ったのは兄上ですから」


 エレナは二人を見比べ、笑った。


「じゃあ決まりね」


「何がだ?」


「全部アランに話すわ」


「……アルト」


「私は何もしてませんよ」


 兄弟のやり取りを聞きながら、エレナはもう一度外へ目を向けた。


 王都が、少しずつ遠ざかっていく。


 不安がないわけではなかった。


 生まれて初めて、自分を守ってきた城壁の外にいる。


 それでも胸にあるものは、不安よりずっと大きかった。


 ――この先には、何があるんだろう。


 街道の先を見つめる。


 まだ海は見えない。


 それでよかった。


 今は、その海へ向かう道さえ楽しかった。


 王都を離れてからしばらくすると、エレナはようやく一つのことに気づいた。


 窓の外を見るのに忙しすぎて、ほとんどアランと話していない。


「ねえ、アラン」


「今度は何を見つけた?」


「どうして、私が何か見つけた前提なの?」


「王都を出てからずっとそうだからだ」


 言われてみれば、その通りだった。


 畑で働く人を見つけては尋ね、荷馬車とすれ違っては振り返り、遠くに放牧された羊を見つければ窓に寄った。


 どれも本では知っていた。


 農村があり、畑があり、そこで作られたものが王都へ運ばれてくることも。


 けれど、知っていることと、見ることは違った。


 土の色も、風に揺れる穂の動きも、荷馬車が通り過ぎたあとの乾いた匂いも、本の頁にはなかった。


「……私、そんなに落ち着きがない?」


「今日は許す」


「今日だけ?」


「明日には慣れるだろう」


「慣れなかったら?」


「セレヴィアまで付き合う」


 エレナは小さく笑った。


「言ったわね」


「ああ」


 その返事が妙に嬉しくて、エレナはまた窓の外を向いた。


 昼を過ぎても、景色は飽きることなく変わり続けた。


 王都の城壁はもう見えない。


 街道の左右に広がっていた農地の間隔が少しずつ開き、代わりに草原や低い丘が増えていく。


 すれ違う人々の姿も変わった。


 王都へ荷を運ぶ商人。


 馬を引いて歩く旅人。


 荷台いっぱいに木箱を積んだ荷馬車。


 彼らは馬車と、その周囲を護衛する騎士たちを見ると道を譲った。


 深く頭を下げる者もいた。


 エレナはそのたびに、何となく姿勢を正した。


 王城では当たり前だったことが、今日は少し違って感じられる。


 彼らはどこから来て、どこへ行くのだろう。


 そんなことまで気になった。


 西の空が橙色を帯び始めた頃。


 街道の先に、まとまった建物の屋根が見えた。


「あれは?」


 エレナが身を乗り出す。


「レイフォードだ」


 アランの答えに、エレナは目を細めた。


「今日泊まる町?」


「ああ」


     ◇



 王都以外の町。


 その事実だけで、疲れていたはずの身体にもう一度力が戻った。


 近づくにつれて、町の姿がはっきりしてくる。


 ローディスのように巨大な石壁がそびえているわけではない。


 街道がそのまま町へと続いていた。


 そして、エレナたちだけではなかった。


 夕刻を迎え、あちらこちらから旅人や馬車がレイフォードへ集まっている。


 荷を積んだ馬車。


 馬に乗った商人。


 歩いて旅をしている者。


 皆が同じように、一日の終わりを求めて町へ入っていく。


「ずいぶん人が多いのね」


「宿場町だからな」


 アランが答える。


 馬車が町へ入った。


 最初にエレナの耳へ飛び込んできたのは、人の声だった。


 宿を探す旅人。


 荷物を下ろす商人。


 馬を厩舎へ連れていく御者。


 木箱を抱えて走る男。


 食事を勧める声。


 馬のいななき。


 車輪の軋む音。


 王都とは違う。


 人は多いのに、流れが違った。


 ここにいる人々の多くは、この町へ来ることそのものを目的としていない。


 一晩休み、またどこかへ向かう。


 だからなのだろうか。


 町全体が、大きな旅の途中にあるように感じられた。


 宿屋や食堂の軒先では、夕暮れとともにランタンが灯され始めていた。


 開いた扉から料理の匂いが流れてくる。


 肉を焼く匂い。


 香草。


 焼きたてのパン。


 思わずそちらを見ていると、


「エレナ」


「なに?」


「腹が減ったなら、そう言えばいい」


「見ていただけよ」


「ずいぶん真剣に?」


「初めて見るものだから」


「肉を焼いてるところが?」


 エレナは言葉に詰まった。


 後ろから、小さく笑う声がした。


 振り向くと、馬上のアルトが口元を緩めている。


「アルトまで笑わないで」


「失礼しました」


「絶対に反省してないでしょう」


「そんなことは」


「顔に出てるわ」


 そう言うと、今度はアランまで笑った。


「もう」


 少し頬を膨らませながらも、エレナ自身も笑ってしまった。


 初めての町。


 知らない人々。


 知らない匂い。


 知らない音。


 それなのに、不思議と怖くはなかった。


 むしろ、もっと歩いてみたいと思った。


 馬車が宿の前で止まった。


 護衛たちが周囲を確認し、馬から下りる。


 アランが先に降り、エレナへ手を差し出した。


 エレナはその手に自分の手を重ねる。


 地面へ降りた瞬間、足の裏に硬い石床ではない感触が伝わった。


 踏み固められた土。


 細かな小石。


 何台もの馬車が通った轍。


 そんなものまで珍しい。


「エレナ」


 アランがまだ手を離していなかった。


「……何?」


「下ばかり見てると転ぶぞ」


「だって、王都と違うのよ」


「地面まで見るのか」


「見るわ」


「そうか」


 アランは諦めたように笑った。



     ◇



 食事を終えた頃には、すっかり夜になっていた。


 窓の外には、まだいくつもの灯りが見える。


 昼間ほどではないが、レイフォードは眠っていなかった。


 宿の前を誰かが歩いていく。


 少し離れたところから笑い声が聞こえる。


 厩舎の方では馬が鼻を鳴らしていた。


 エレナは窓辺に立ち、その景色を眺めていた。


「まだ見てるのか」


 後ろからアランの声がする。


 エレナは振り返らなかった。


「王都の夜と違うから」


「どこが?」


「うまく言えないけど……」


 窓の外へ目を戻す。


 王都の夜なら知っている。


 王城から見下ろす無数の灯りも、夜遅くまで人の絶えない通りも。


 けれど、この町の灯りはどこか違った。


 明日になれば、ここに泊まっている旅人の多くがいなくなる。


 そしてまた別の誰かが来る。


「みんな、明日は別の場所へ行くのよね」


「ああ」


「どこへ行くのかしら」


「さあな」


「気にならない?」


「全員の行き先を気にしてたら眠れないぞ」


「アランは夢がないわね」


「明日も移動するんだ。睡眠の方が大事だ」


 エレナは振り返った。


「騎士団長らしい答え」


「褒め言葉として受け取っておく」


 少しの沈黙。


 エレナは再び町を見た。


「ねえ」


「ん?」


「連れてきてくれて、ありがとう」


「まだ海には着いてない」


「知ってる。でも――」


 今日一日だけでも、知らなかったものをたくさん見た。


 城門の外に広がる空。


 畑。


 草原。


 街道を行く人々。


 そして、この町。


「もう十分、嬉しいから」


 返事がない。


 不思議に思って振り返ると、アランがこちらを見ていた。


「どうしたの?」


「いや」


 アランの表情が、ほんの少し和らいだ。


「連れてきてよかったと思ってな」


 エレナは瞬きをした。


「まだ海も見てないのに?」


「その顔を見れば十分だ」


「……そういうこと、急に言わないで」


「何かおかしかったか?」


「おかしくないから困るの」


 頬が熱くなる。


 エレナは逃げるように窓の外へ顔を向けた。


 背後でアランが小さく笑った気がした。


 そのとき。


 廊下の向こうから足音が聞こえた。


 やがて、扉が軽く叩かれる。


「兄上」


 アルトの声だった。


 アランが扉へ向かう。


 開けると、そこにアルトが立っていた。


「どうした?」


「明日の出発について確認を」


 アルトはいつもと変わらない様子だった。


「護衛には伝えてあります。朝には出られます」


「分かった」


「では」


 アルトが立ち去ろうとする。


「アルト」


 エレナが呼び止めた。


 彼が振り返った。


「はい?」


「明日もよろしくね」


 一瞬。


 本当に一瞬だけ、アルトの返事が遅れたように思えた。


「……もちろんです」


 穏やかな返事だった。


 エレナは特に気にも留めなかった。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい、王女殿下」


 扉が閉まる。


 その夜、エレナは初めて王都以外の場所で眠った。


 窓の向こうから聞こえる知らない町の音を、しばらく聞きながら。



     ◇



 翌朝。


 レイフォードは、夕方とはまるで違う顔を見せていた。


 昨日は一日の旅を終えた人々が町へ集まっていた。


 今朝は、その人々が一斉に外へ向かっている。


 宿から荷物が運び出される。


 馬が厩舎から引き出される。


 御者が車輪を確かめる。


 商人たちが荷台を確認し、旅人たちはそれぞれの道へ散っていく。


「昨日と逆ね」


 馬車へ向かいながら、エレナが言った。


「逆?」


「昨日はみんな、この町に入ってきたでしょう? 今日はみんな出ていく」


 アランは辺りを見回した。


「そういう町だからな」


「面白い」


「何が?」


「毎日、人が入れ替わるのに、町はずっとここにあるのね」


 アランが少しだけ考えてから、


「そうだな」


 と答えた。


 エレナは昨日泊まった宿を振り返る。


 たった一晩。


 それでも、自分にとっては忘れられない場所になっていた。


 人生で初めて訪れた、王都以外の町。


「また来られるかしら」


「帰り道で通ることになるかもしれない」


「そうね」


 エレナは笑った。


 当然のように。


 セレヴィアで海を見て。


 またこの道を通って。


 王都へ帰る。


 その未来を、少しも疑っていなかった。


「出発します」


 護衛の声が響く。


 アランが馬車へ乗り込むエレナへ手を貸した。


 馬車が動き出す。


 車輪が土を踏み、ゆっくりとレイフォードの町並みが後ろへ流れていく。


 エレナは窓から町を見続けた。


 宿屋。


 厩舎。


 旅支度をする人々。


 街道沿いの建物。


 それらが次第に小さくなっていく。


 やがて、町そのものが見えなくなった。


 前方には、昨日とはまた違う景色が広がっていた。


 街道はさらに西へ続いている。


 遠くには丘が重なり、その向こうに山の稜線が見えた。


 エレナは前へ身を乗り出す。


「海は、あの向こう?」


「まだ見えない」


 アランが答える。


「それは見れば分かるわ」


「なら聞くな」


「近づいてるか聞いてるの」


「昨日よりはな」


「ずいぶん曖昧ね」


「着いたときの楽しみに取っておけ」


 エレナは不満そうに唇を尖らせたが、すぐに笑った。


 街道には、まだ旅人の姿があった。


 レイフォードを発った荷馬車。


 王都方面へ向かう商人。


 馬に乗った旅人。


 すれ違うたびに、エレナは目で追った。


 けれど、時間が経つにつれて、その数は少しずつ減っていった。


 畑が減る。


 家が減る。


 開けた草地が増え、その先には低い丘が続く。



     ◇



 さらに進むと、点々としていた木々が少しずつまとまり始めた。


「昨日より静かね」


 エレナが言った。


「ああ」


 アランは窓の外へ目を向けている。


「王都から離れたから?」


「それもある」


 返事をしながら、アランの視線はエレナではなく街道の先へ向けられていた。


 エレナはその横顔を見た。


「どうしたの?」


「何が?」


「さっきから外ばかり見てる」


「道が変わってきた。周りを見てるだけだ」


 確かに、街道は昨日までより狭く感じられた。


 遠くの山も、いつの間にかずいぶん大きくなっている。


「心配?」


「警戒するのは仕事だ」


「旅行中でも?」


「旅行中だからって騎士団長じゃなくなるわけじゃない」


「大変ね」


「誰かが外ばかり見てるからな」


「それ、私のこと?」


 アランは答えなかった。


 エレナが抗議しようとした、そのときだった。


 馬車の横を走っていたアルトが、前方へ顔を向けた。


 ほんの一瞬。


 その視線が、街道の先で止まる。


 エレナもつられて同じ方向を見た。


 けれど、そこにあるのは道と木々だけだった。


「アルト?」


 呼ばれた彼がこちらを見る。


「どうしました?」


「いえ……」


 エレナは首を横に振った。


「何でもないわ」


 アルトは軽く会釈すると、再び前を向いた。


 馬車は進む。


 人の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。


 聞こえるのは馬蹄と車輪。


 風に揺れる葉。


 遠くで鳴く鳥。


 それだけだった。


 エレナは窓から顔を出し、前方を見る。


 街道の両側で木々が増えている。


 昨日までどこまでも広く見えていた空も、枝葉に少しずつ切り取られ始めていた。


 その先には山がある。


 そして、そのさらに向こうには――。


「海、楽しみ」


 エレナが呟いた。


「ああ」


 アランが答えた。


けれど、その言葉に重なるように、アランの視線が鋭くなった。


 エレナは気づかない。


 窓の外を流れていく景色に、すっかり心を奪われていた。


 丘陵の間を縫っていた街道は、進むほどに山の懐へ入り込んでいく。


 左右に増えていた木々は、いつしか深い森になっていた。


 夏の終わりを迎えてなお葉は濃く、幾重にも重なった枝が空を覆っている。


 陽光が遮られ、馬車の中まで少し暗くなった。


 窓から入り込む風も変わっていた。


 開けた平原を渡ってきた乾いた風ではない。


 湿った土と、草木の匂いを含んだ冷たい風。


 エレナは小さく息を吸った。


「森って、こんな匂いがするのね」


 アランがちらりと彼女を見る。


「王都にも木はあるだろう」


「そういう意味じゃないわ」


 エレナは窓の外へ手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。


「どこを見ても木しかないの。王城の庭とは全然違う」


「比べるものじゃないだろう」


「分かってる。でも――」


 言葉を切って、耳を澄ませる。


 風が梢を揺らしている。


 枝葉が擦れ合う音。


 鳥の声。


 車輪が小石を踏む音。


 馬の蹄。


 それらが重なり合っていた。


「面白い」


「何が?」


「音まで違うから」


 アランは何も言わなかった。


 ただ、その目は再び前方へ向いた。


 馬車の速度が少し落ちた。



     ◇



 エレナの身体がわずかに前へ揺れる。


「あら?」


 街道が狭くなっていた。


 それまで二台の馬車が余裕をもって行き交えそうだった道幅が、山へ入ってから少しずつ細くなっている。


 地面にはところどころ岩が露出し、車輪がそのたびに小さく跳ねた。


 右手には森林に覆われた斜面。


 左手には、灰色の岩肌が目立ち始めている。


 護衛たちも自然と隊列を詰めていた。


 エレナは窓越しにそれを眺める。


「この辺りは、ずっとこんな道なの?」


「場所による」


 アランの答えは短かった。


「さっきから返事が短くない?」


「そうか?」


「そうよ」


「気のせいだ」


「気のせいじゃないわ」


 アランは少し困った顔をした。


 それから声を落とす。


「道が狭くなってきた。こういう場所では、少し周りを見ておいた方がいい」


「危ないの?」


「そういう意味じゃない」


 アランはすぐに続けた。


「何かあってから気をつけるんじゃ遅い。それだけだ」


 エレナは少し考えてから頷いた。


「騎士団長って、いつもそんなことを考えてるのね」


「考えるのが仕事だからな」


「疲れそう」


「慣れてる」


「じゃあ私は景色を見る係にするわ」


「そんな係はない」


「今作ったの」


 アランが呆れたように息を吐いた。


 その様子がおかしくて、エレナは笑う。


 まだ旅は楽しかった。


 森が深くなったことも。


 道が狭くなったことも。


 何もかもが初めてだった。


 だから、そこに潜む意味を考えようとはしなかった。


 馬車がさらに進む。


 しばらくすると、一行は大きな岩壁の続く区間へ入った。


 灰色の岩肌が街道の左側へ迫っている。


 ところどころに亀裂が走り、その隙間には苔や小さな草が根を張っていた。


 反対側には森。


 太い幹。


 絡み合う枝。


 その向こうは薄暗く、奥まで見通すことができない。


 先ほどまで聞こえていた鳥の声が、少なくなっていた。


 エレナは窓枠に手を置いた。


 ふと、違和感を覚える。


「……ねえ」


「どうした?」


「さっきから、誰ともすれ違わないわね」


 アランはすぐには答えなかった。


 前を走る護衛。


 後方の護衛。


 森林。


 岩壁。


 順に目を走らせる。


「王都近郊と同じようにはいかない」


「そういうもの?」


「ああ」


 エレナは納得したように頷いた。


 それ以上は気にしなかった。


 代わりに、前方を走るアルトの姿を見る。


 アルトもまた、街道の先を見ていた。


 先ほどから何度目だろう。


 けれどアランも同じように周囲を確認している。


 だから、それを不自然だとは思わなかった。


 馬車が揺れた。


「きゃっ」


 エレナが身体を傾ける。


 アランがすぐに腕を伸ばし、肩を支えた。


「大丈夫か?」


「ええ。ちょっと驚いただけ」


 車輪が大きめの石を踏んだらしい。


 エレナは姿勢を戻した。


「ありがとう」


「あまり窓に寄りすぎるな」


「さっきも言われた気がする」


「言わせてるのは誰だ」


「……私ね」


「分かってるならいい」


 アランが手を離す。


 その何気ないやり取りに、エレナは微笑んだ。


 そして再び窓の外を見る。


 森の向こうに、山の稜線が重なっていた。


 この山を越えて。


 さらにその先へ行けば。


「アラン」


「今度は何だ?」


「海に着いたら、一番最初に何をすればいいと思う?」


「何をするって?」


「せっかく初めて見るんだもの。ただ見るだけじゃもったいないでしょう?」


「海は見るものじゃないのか?」


「それはそうだけど」


 エレナは真剣に考え始めた。


「触ってみたい」


「好きにすればいい」


「冷たいのかしら」


「季節にもよるだろう」


「舐めたら、本当に塩辛い?」


「……試すつもりか?」


「少しくらいなら」


「腹を壊しても知らないぞ」


「海の水を少し舐めただけで?」


「俺に聞くな」


「さっきから、そればっかり」


 エレナが笑う。


 アランも小さく笑った。


 その会話を、馬車の外にいるアルトが聞いていたのかどうか。


 エレナには分からなかった。


 アルトは前を向いたままだった。


 ただ一度だけ。


 彼の手が手綱を握り直した。


 道は、さらに狭くなった。


 街道の左側を占めていた岩壁が高くなる。


 灰色の岩が陽光を遮り、森側から伸びた枝葉とともに、道の上へ大きな影を落としていた。


 先頭を進んでいた護衛の一人が速度を落とした。


 それに合わせ、一行全体の進みも緩やかになる。


 アランが身を起こした。


 先ほどまでの穏やかな表情が消えている。


 エレナはそれを見逃さなかった。


「アラン?」


 返事はない。


 彼は窓の外へ顔を向けていた。


「どうしたの?」


「……静かすぎる」


「え?」


 言われて、エレナも耳を澄ませた。


 馬蹄。


 車輪。


 馬車の軋み。


 風。


 それだけだった。


 さっきまで時折聞こえていた鳥の声がしない。


 虫の音さえ、妙に遠い。


 それまで心地よく感じていた森の静けさが、急に別のものに思えた。


 アランが窓を開ける。


「止まれ」


 低い声だった。


 御者が手綱を引いた。


 馬が足を止める。


 続いて護衛たちも停止した。


 突然、車輪の音が消えた。


 静寂が落ちる。


 エレナは無意識に背筋を伸ばした。


「何かあるの?」


「まだ分からない」


 アランはそう答えながら、腰の剣へ手を伸ばしていた。


 鞘からは抜かない。


 ただ、柄に手を置く。


 その動作だけで、エレナの胸に初めて小さな不安が生まれた。


 外では護衛たちが周囲を確認している。


「前方、異常ありません」


 声が飛ぶ。


「後方も問題ありません」


 別の護衛が答えた。


 アランは眉を寄せた。


 異常がない。


 それなのに、警戒を解かない。


 エレナは窓から前方を見た。


 灰色の巨岩が、岩壁から街道へ張り出している。


 その先で道は緩やかに曲がり、見えなくなっていた。


 反対側には一本の大きな古木。


 太い枝が道の上へ伸びている。


 その奥は深い森。


 人の姿はない。


 何もない。


 ただの山道に見える。


「兄上」


 アルトが馬を寄せてきた。


「どうします?」


 アランは前方を見たまま答えた。


「少し待つ」


「何か?」


「分からん」


 アルトも街道の先を見る。


 エレナは二人の横顔を交互に見た。


 アランは明らかに警戒している。


 アルトは――。


 いつもと変わらない。


 そう見えた。


 風が吹いた。


 古木の葉が一斉に揺れる。


 ざわざわ、と森が鳴った。


 エレナは胸元へ手を置いた。


 どうしてだろう。


 先ほどまで、同じ音を綺麗だと思っていたのに。


 今は少しだけ怖い。


「アラン……」


「大丈夫だ」


 すぐに返事が来た。


 アランがエレナを見る。


「俺がいる」


 短い言葉だった。


 けれど、それだけで張り詰めていたものが少し緩んだ。


「……うん」


 エレナは頷いた。


 アランが外へ向き直る。


「進む。ただし間隔を詰めろ。前後をよく見ろ」


「はっ」


 護衛たちが応じた。


 一行が再び動き始める。


 今度はゆっくりだった。


 馬車の車輪が回る。


 ごとり。


 小石を踏む。


 また、ごとり。


 エレナは窓の外を見ていた。


 もう景色を楽しむ余裕はなかった。


 岩壁。


 森。


 古木。


 影。


 何も変わらない。


 それなのに、先ほどとはまるで違って見える。


 灰色の巨岩が近づいてくる。


 その向こうは見えない。


 一行の先頭が、巨岩の横を通過した。


 何も起こらない。


 二人目。


 何もない。


 エレナは小さく息を吐いた。


 ――やっぱり、気にしすぎだったのかもしれない。


 そう思った、その瞬間。


 前方の護衛が突然、馬を止めた。


「止まれ!」


 鋭い声が峡路に響いた。


 馬がいななく。


 馬車が急停止し、エレナの身体が前へ投げ出される。


「きゃっ――!」


 アランが片腕で受け止めた。


 同時に、剣が鞘から抜かれる。


 澄んだ金属音。


 エレナは顔を上げた。


「アラン?」


 彼は答えなかった。


 その目は、馬車の前方だけを見ている。


 エレナもそちらへ目を向ける。


 街道の曲がり角。


 巨岩の向こう。


 そこから、一人の男が姿を現した。



     ◇



 粗末な革鎧。


 手には剣。


 顔には、旅人には似つかわしくない笑み。


 続いて、もう一人。


 さらに、その後ろから二人。


 森の中で枝が鳴った。


 右側。


 エレナが振り向く。


 木々の間から、別の男たちが出てくる。


 背後からも馬の荒い鼻息と、複数の足音が聞こえた。


 前だけではない。


 囲まれている。


 護衛たちが一斉に剣を抜いた。


 アランがエレナを背にかばう。


「下がってろ」


 低い声。


 エレナの喉が動いた。


 さっきまで話していた海のことが、一瞬で頭から消えた。


 前方の男が剣を肩へ担ぐ。


 そして、口元を歪めた。


「――王女様御一行で間違いねえな」


 エレナの息が止まった。


 まだ誰も、自分の名を告げていない。


 なぜ――。


 アランの剣先が、男へ向いた。


 森の奥から、さらに人影が現れる。


 山賊たちは、最初から彼女たちを待っていた。



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