第1話 誕生日旅行に迫る影
大陸暦八七二年、セレナ月五日。
エレナ・セレディスは、十六歳になった。
朝の光が、大きなアーチ窓から部屋へ差し込んでいる。
エレナは窓辺に立ち、眼下に広がる王都ローディスを眺めていた。
見慣れた景色だった。
中央本館の高い場所にあるこの部屋からなら、王城を囲む街並みも、そのさらに向こうにそびえる城壁もよく見える。
物心がついた頃から、何度となく眺めてきた景色。
けれど今日だけは、いつもと違って見えた。
エレナの視線は街並みではなく、その向こうへ向いていた。
城壁。
そして、そこに開かれた門。
さらにその先。
ここからでは見ることのできない世界へ。
「……海」
小さく口にすると、不思議なくらい胸が弾んだ。
海がどんなものなのかは知っている。
本で読んだこともある。人から話を聞いたこともある。
けれど、自分の目で見たことは一度もない。
海だけではなかった。
エレナは今日まで、王都ローディスの外へ出たことそのものがなかった。
十六歳になる今日、初めて城壁の向こうへ行く。
そう思うだけで、先ほどから落ち着かなかった。
左手を上げる。
手首には、月の紋章が刻まれたブレスレットがある。
窓から差し込む光を受けて、その表面が静かに輝いた。
そのとき、扉を叩く音がした。
「エレナ」
聞き慣れた声に、彼女は振り返った。
「どうぞ」
扉が開き、アラン・フォルディスが入ってくる。
十歳年上の婚約者。
そして、エレナにとってはそれだけではない、大切な恋人でもある。
「おはよう」
「おはよう、アラン」
アランはエレナの前まで来ると、わずかに表情を和らげた。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
答えながら、エレナは自然と笑っていた。
けれど、その笑みを見たアランが何か言うより先に、エレナは尋ねた。
「ねえ。本当に今日なのよね?」
「何がだ?」
「出発」
アランが一瞬黙った。
「……昨日も聞かなかったか?」
「聞いたわ」
「一昨日も」
「それも覚えてる」
「なら、どうしてまた聞くんだ」
少し困ったようなアランを見て、エレナは窓の外へ視線を戻した。
「だって、まだ実感がないの」
城壁の向こうを見つめる。
「ずっと、あの向こうに何があるんだろうって思ってたから」
「地図なら何度も見てるだろう」
「地図と、本当に見るのとは違うでしょう?」
「それはそうだな」
エレナは振り返った。
「海って、本当にどこまで行っても水なの?」
アランの眉がわずかに動いた。
「俺に聞くより、自分の目で確かめた方が早い」
「……それ、答えになってないわ」
「だから連れていくんだ」
一瞬、エレナは言葉を失った。
アランは何でもないことのように言ったが、それこそが彼からの贈り物だった。
宝石でも、豪華な衣装でもない。
エレナが以前から見たいと言っていたもの。
海。
そして、そこへたどり着くまでの旅そのもの。
「ありがとう、アラン」
「礼は海を見てからでいい」
「もし、想像していたより普通だったら?」
「そのときは俺の贈り物選びが失敗だったということになるな」
エレナは思わず笑った。
「そんなことにはならないと思う」
「どうして?」
「だって――」
言いかけて、やめた。
海を見ることだけが楽しみなのではない。
アランと一緒にそこへ向かうことも楽しみなのだ。
けれど、それをそのまま口にするのは少し照れくさい。
「……秘密」
「そうか」
アランもそれ以上は聞かなかった。
それがかえって恥ずかしくなって、エレナは窓の方へ顔を戻す。
「そろそろ行こう」
背後からアランが言った。
「アルトたちを待たせてる」
「ええ」
エレナは最後にもう一度、自分の部屋から王都を眺めた。
今朝までなら、窓の向こうに見えていたのはいつもの王都だった。
今は違う。
あの城壁の向こうに、海へ続く道がある。
エレナは窓辺を離れた。
◇
王都ローディスの正門が近づくにつれて、エレナは何度も馬車の窓から外を見た。
王城から離れるにつれ、景色は少しずつ変わっていく。
それでも、まだ知っている世界だった。
人の多い通り。
店先で声を張る商人。
行き交う荷車。
石造りの建物。
そして遠くに見える、王都を囲む巨大な城壁。
その城壁が、近づくほど高くなっていく。
「そんなに身を乗り出すと危ないぞ」
向かいからアランに言われ、エレナは少しだけ姿勢を戻した。
「分かってるわ」
「本当に?」
「子供じゃないのよ。今日で十六歳なんだから」
「今日から急に変わるものでもないだろう」
「変わるわ」
「何が?」
「今日は王都の外へ出られるもの」
アランが小さく息を吐く。
呆れているようにも見えたが、口元には微かな笑みがあった。
やがて馬車が速度を落とした。
正門だった。
巨大な門塔の下へ馬車が入る。
それまで窓から差し込んでいた朝の光が途切れた。
石造りの門洞。
車輪の音と馬蹄の響きが、低い天井と壁に反響する。
エレナは自然と口を閉じた。
ほんの短い距離だった。
それなのに、妙に長く感じる。
やがて前方に光が見えた。
それが少しずつ大きくなる。
馬車が門を抜けた。
一気に視界が明るくなる。
「……わあ」
思わず声が漏れた。
そこには、城壁がなかった。
正確には、振り返れば巨大な城壁がある。
けれど前にはない。
街道がまっすぐ遠くへ延び、その左右には広い土地と空が広がっている。
エレナは窓から振り返った。
◇
巨大なローディスの城壁。
その向こうに、自分が十六年間暮らしてきた王都がある。
「どうした?」
アランが尋ねる。
「……本当に出たのね」
「だから何度もそう言っただろう」
「そうじゃなくて」
エレナは前を向いた。
風に揺れる草。
遠くまで続く街道。
そのさらに先に重なる丘。
「こんなに広かったのね」
アランは答えなかった。
ただ、外を見つめるエレナを静かに見ていた。
ほどなく、一行のそばへ馬が一頭寄ってきた。
騎乗していたのはアルトだった。
アランの四歳下の弟。
「兄上」
「どうした?」
「護衛は全員、門を抜けました」
「分かった」
短いやり取りの後、アルトの視線がエレナへ向く。
「王女殿下、初めての王都の外はいかがです?」
エレナは窓の向こうへ目をやった。
どこまでも続いているように見える道。
その先にはレイフォードがあり、さらにその先には海がある。
「まだ門を出ただけよ」
「では、感想はセレヴィアまで取っておきますか?」
「無理だと思うわ」
「なぜです?」
「もう、見たいものが多すぎるもの」
アルトはわずかに笑った。
「それは大変ですね。海へ着く頃には、感想だけで一晩かかりそうだ」
「アルト」
アランが呼ぶ。
「はい?」
「余計なことを教えるな。本当に感想を一晩かけて言ってしまいそうだ」
「それは兄上が最後まで聞けばいいでしょう」
「なぜ俺が」
「贈ったのは兄上ですから」
エレナは二人を見比べ、笑った。
「じゃあ決まりね」
「何がだ?」
「全部アランに話すわ」
「……アルト」
「私は何もしてませんよ」
兄弟のやり取りを聞きながら、エレナはもう一度外へ目を向けた。
王都が、少しずつ遠ざかっていく。
不安がないわけではなかった。
生まれて初めて、自分を守ってきた城壁の外にいる。
それでも胸にあるものは、不安よりずっと大きかった。
――この先には、何があるんだろう。
街道の先を見つめる。
まだ海は見えない。
それでよかった。
今は、その海へ向かう道さえ楽しかった。
王都を離れてからしばらくすると、エレナはようやく一つのことに気づいた。
窓の外を見るのに忙しすぎて、ほとんどアランと話していない。
「ねえ、アラン」
「今度は何を見つけた?」
「どうして、私が何か見つけた前提なの?」
「王都を出てからずっとそうだからだ」
言われてみれば、その通りだった。
畑で働く人を見つけては尋ね、荷馬車とすれ違っては振り返り、遠くに放牧された羊を見つければ窓に寄った。
どれも本では知っていた。
農村があり、畑があり、そこで作られたものが王都へ運ばれてくることも。
けれど、知っていることと、見ることは違った。
土の色も、風に揺れる穂の動きも、荷馬車が通り過ぎたあとの乾いた匂いも、本の頁にはなかった。
「……私、そんなに落ち着きがない?」
「今日は許す」
「今日だけ?」
「明日には慣れるだろう」
「慣れなかったら?」
「セレヴィアまで付き合う」
エレナは小さく笑った。
「言ったわね」
「ああ」
その返事が妙に嬉しくて、エレナはまた窓の外を向いた。
昼を過ぎても、景色は飽きることなく変わり続けた。
王都の城壁はもう見えない。
街道の左右に広がっていた農地の間隔が少しずつ開き、代わりに草原や低い丘が増えていく。
すれ違う人々の姿も変わった。
王都へ荷を運ぶ商人。
馬を引いて歩く旅人。
荷台いっぱいに木箱を積んだ荷馬車。
彼らは馬車と、その周囲を護衛する騎士たちを見ると道を譲った。
深く頭を下げる者もいた。
エレナはそのたびに、何となく姿勢を正した。
王城では当たり前だったことが、今日は少し違って感じられる。
彼らはどこから来て、どこへ行くのだろう。
そんなことまで気になった。
西の空が橙色を帯び始めた頃。
街道の先に、まとまった建物の屋根が見えた。
「あれは?」
エレナが身を乗り出す。
「レイフォードだ」
アランの答えに、エレナは目を細めた。
「今日泊まる町?」
「ああ」
◇
王都以外の町。
その事実だけで、疲れていたはずの身体にもう一度力が戻った。
近づくにつれて、町の姿がはっきりしてくる。
ローディスのように巨大な石壁がそびえているわけではない。
街道がそのまま町へと続いていた。
そして、エレナたちだけではなかった。
夕刻を迎え、あちらこちらから旅人や馬車がレイフォードへ集まっている。
荷を積んだ馬車。
馬に乗った商人。
歩いて旅をしている者。
皆が同じように、一日の終わりを求めて町へ入っていく。
「ずいぶん人が多いのね」
「宿場町だからな」
アランが答える。
馬車が町へ入った。
最初にエレナの耳へ飛び込んできたのは、人の声だった。
宿を探す旅人。
荷物を下ろす商人。
馬を厩舎へ連れていく御者。
木箱を抱えて走る男。
食事を勧める声。
馬のいななき。
車輪の軋む音。
王都とは違う。
人は多いのに、流れが違った。
ここにいる人々の多くは、この町へ来ることそのものを目的としていない。
一晩休み、またどこかへ向かう。
だからなのだろうか。
町全体が、大きな旅の途中にあるように感じられた。
宿屋や食堂の軒先では、夕暮れとともにランタンが灯され始めていた。
開いた扉から料理の匂いが流れてくる。
肉を焼く匂い。
香草。
焼きたてのパン。
思わずそちらを見ていると、
「エレナ」
「なに?」
「腹が減ったなら、そう言えばいい」
「見ていただけよ」
「ずいぶん真剣に?」
「初めて見るものだから」
「肉を焼いてるところが?」
エレナは言葉に詰まった。
後ろから、小さく笑う声がした。
振り向くと、馬上のアルトが口元を緩めている。
「アルトまで笑わないで」
「失礼しました」
「絶対に反省してないでしょう」
「そんなことは」
「顔に出てるわ」
そう言うと、今度はアランまで笑った。
「もう」
少し頬を膨らませながらも、エレナ自身も笑ってしまった。
初めての町。
知らない人々。
知らない匂い。
知らない音。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
むしろ、もっと歩いてみたいと思った。
馬車が宿の前で止まった。
護衛たちが周囲を確認し、馬から下りる。
アランが先に降り、エレナへ手を差し出した。
エレナはその手に自分の手を重ねる。
地面へ降りた瞬間、足の裏に硬い石床ではない感触が伝わった。
踏み固められた土。
細かな小石。
何台もの馬車が通った轍。
そんなものまで珍しい。
「エレナ」
アランがまだ手を離していなかった。
「……何?」
「下ばかり見てると転ぶぞ」
「だって、王都と違うのよ」
「地面まで見るのか」
「見るわ」
「そうか」
アランは諦めたように笑った。
◇
食事を終えた頃には、すっかり夜になっていた。
窓の外には、まだいくつもの灯りが見える。
昼間ほどではないが、レイフォードは眠っていなかった。
宿の前を誰かが歩いていく。
少し離れたところから笑い声が聞こえる。
厩舎の方では馬が鼻を鳴らしていた。
エレナは窓辺に立ち、その景色を眺めていた。
「まだ見てるのか」
後ろからアランの声がする。
エレナは振り返らなかった。
「王都の夜と違うから」
「どこが?」
「うまく言えないけど……」
窓の外へ目を戻す。
王都の夜なら知っている。
王城から見下ろす無数の灯りも、夜遅くまで人の絶えない通りも。
けれど、この町の灯りはどこか違った。
明日になれば、ここに泊まっている旅人の多くがいなくなる。
そしてまた別の誰かが来る。
「みんな、明日は別の場所へ行くのよね」
「ああ」
「どこへ行くのかしら」
「さあな」
「気にならない?」
「全員の行き先を気にしてたら眠れないぞ」
「アランは夢がないわね」
「明日も移動するんだ。睡眠の方が大事だ」
エレナは振り返った。
「騎士団長らしい答え」
「褒め言葉として受け取っておく」
少しの沈黙。
エレナは再び町を見た。
「ねえ」
「ん?」
「連れてきてくれて、ありがとう」
「まだ海には着いてない」
「知ってる。でも――」
今日一日だけでも、知らなかったものをたくさん見た。
城門の外に広がる空。
畑。
草原。
街道を行く人々。
そして、この町。
「もう十分、嬉しいから」
返事がない。
不思議に思って振り返ると、アランがこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「いや」
アランの表情が、ほんの少し和らいだ。
「連れてきてよかったと思ってな」
エレナは瞬きをした。
「まだ海も見てないのに?」
「その顔を見れば十分だ」
「……そういうこと、急に言わないで」
「何かおかしかったか?」
「おかしくないから困るの」
頬が熱くなる。
エレナは逃げるように窓の外へ顔を向けた。
背後でアランが小さく笑った気がした。
そのとき。
廊下の向こうから足音が聞こえた。
やがて、扉が軽く叩かれる。
「兄上」
アルトの声だった。
アランが扉へ向かう。
開けると、そこにアルトが立っていた。
「どうした?」
「明日の出発について確認を」
アルトはいつもと変わらない様子だった。
「護衛には伝えてあります。朝には出られます」
「分かった」
「では」
アルトが立ち去ろうとする。
「アルト」
エレナが呼び止めた。
彼が振り返った。
「はい?」
「明日もよろしくね」
一瞬。
本当に一瞬だけ、アルトの返事が遅れたように思えた。
「……もちろんです」
穏やかな返事だった。
エレナは特に気にも留めなかった。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、王女殿下」
扉が閉まる。
その夜、エレナは初めて王都以外の場所で眠った。
窓の向こうから聞こえる知らない町の音を、しばらく聞きながら。
◇
翌朝。
レイフォードは、夕方とはまるで違う顔を見せていた。
昨日は一日の旅を終えた人々が町へ集まっていた。
今朝は、その人々が一斉に外へ向かっている。
宿から荷物が運び出される。
馬が厩舎から引き出される。
御者が車輪を確かめる。
商人たちが荷台を確認し、旅人たちはそれぞれの道へ散っていく。
「昨日と逆ね」
馬車へ向かいながら、エレナが言った。
「逆?」
「昨日はみんな、この町に入ってきたでしょう? 今日はみんな出ていく」
アランは辺りを見回した。
「そういう町だからな」
「面白い」
「何が?」
「毎日、人が入れ替わるのに、町はずっとここにあるのね」
アランが少しだけ考えてから、
「そうだな」
と答えた。
エレナは昨日泊まった宿を振り返る。
たった一晩。
それでも、自分にとっては忘れられない場所になっていた。
人生で初めて訪れた、王都以外の町。
「また来られるかしら」
「帰り道で通ることになるかもしれない」
「そうね」
エレナは笑った。
当然のように。
セレヴィアで海を見て。
またこの道を通って。
王都へ帰る。
その未来を、少しも疑っていなかった。
「出発します」
護衛の声が響く。
アランが馬車へ乗り込むエレナへ手を貸した。
馬車が動き出す。
車輪が土を踏み、ゆっくりとレイフォードの町並みが後ろへ流れていく。
エレナは窓から町を見続けた。
宿屋。
厩舎。
旅支度をする人々。
街道沿いの建物。
それらが次第に小さくなっていく。
やがて、町そのものが見えなくなった。
前方には、昨日とはまた違う景色が広がっていた。
街道はさらに西へ続いている。
遠くには丘が重なり、その向こうに山の稜線が見えた。
エレナは前へ身を乗り出す。
「海は、あの向こう?」
「まだ見えない」
アランが答える。
「それは見れば分かるわ」
「なら聞くな」
「近づいてるか聞いてるの」
「昨日よりはな」
「ずいぶん曖昧ね」
「着いたときの楽しみに取っておけ」
エレナは不満そうに唇を尖らせたが、すぐに笑った。
街道には、まだ旅人の姿があった。
レイフォードを発った荷馬車。
王都方面へ向かう商人。
馬に乗った旅人。
すれ違うたびに、エレナは目で追った。
けれど、時間が経つにつれて、その数は少しずつ減っていった。
畑が減る。
家が減る。
開けた草地が増え、その先には低い丘が続く。
◇
さらに進むと、点々としていた木々が少しずつまとまり始めた。
「昨日より静かね」
エレナが言った。
「ああ」
アランは窓の外へ目を向けている。
「王都から離れたから?」
「それもある」
返事をしながら、アランの視線はエレナではなく街道の先へ向けられていた。
エレナはその横顔を見た。
「どうしたの?」
「何が?」
「さっきから外ばかり見てる」
「道が変わってきた。周りを見てるだけだ」
確かに、街道は昨日までより狭く感じられた。
遠くの山も、いつの間にかずいぶん大きくなっている。
「心配?」
「警戒するのは仕事だ」
「旅行中でも?」
「旅行中だからって騎士団長じゃなくなるわけじゃない」
「大変ね」
「誰かが外ばかり見てるからな」
「それ、私のこと?」
アランは答えなかった。
エレナが抗議しようとした、そのときだった。
馬車の横を走っていたアルトが、前方へ顔を向けた。
ほんの一瞬。
その視線が、街道の先で止まる。
エレナもつられて同じ方向を見た。
けれど、そこにあるのは道と木々だけだった。
「アルト?」
呼ばれた彼がこちらを見る。
「どうしました?」
「いえ……」
エレナは首を横に振った。
「何でもないわ」
アルトは軽く会釈すると、再び前を向いた。
馬車は進む。
人の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
聞こえるのは馬蹄と車輪。
風に揺れる葉。
遠くで鳴く鳥。
それだけだった。
エレナは窓から顔を出し、前方を見る。
街道の両側で木々が増えている。
昨日までどこまでも広く見えていた空も、枝葉に少しずつ切り取られ始めていた。
その先には山がある。
そして、そのさらに向こうには――。
「海、楽しみ」
エレナが呟いた。
「ああ」
アランが答えた。
けれど、その言葉に重なるように、アランの視線が鋭くなった。
エレナは気づかない。
窓の外を流れていく景色に、すっかり心を奪われていた。
丘陵の間を縫っていた街道は、進むほどに山の懐へ入り込んでいく。
左右に増えていた木々は、いつしか深い森になっていた。
夏の終わりを迎えてなお葉は濃く、幾重にも重なった枝が空を覆っている。
陽光が遮られ、馬車の中まで少し暗くなった。
窓から入り込む風も変わっていた。
開けた平原を渡ってきた乾いた風ではない。
湿った土と、草木の匂いを含んだ冷たい風。
エレナは小さく息を吸った。
「森って、こんな匂いがするのね」
アランがちらりと彼女を見る。
「王都にも木はあるだろう」
「そういう意味じゃないわ」
エレナは窓の外へ手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。
「どこを見ても木しかないの。王城の庭とは全然違う」
「比べるものじゃないだろう」
「分かってる。でも――」
言葉を切って、耳を澄ませる。
風が梢を揺らしている。
枝葉が擦れ合う音。
鳥の声。
車輪が小石を踏む音。
馬の蹄。
それらが重なり合っていた。
「面白い」
「何が?」
「音まで違うから」
アランは何も言わなかった。
ただ、その目は再び前方へ向いた。
馬車の速度が少し落ちた。
◇
エレナの身体がわずかに前へ揺れる。
「あら?」
街道が狭くなっていた。
それまで二台の馬車が余裕をもって行き交えそうだった道幅が、山へ入ってから少しずつ細くなっている。
地面にはところどころ岩が露出し、車輪がそのたびに小さく跳ねた。
右手には森林に覆われた斜面。
左手には、灰色の岩肌が目立ち始めている。
護衛たちも自然と隊列を詰めていた。
エレナは窓越しにそれを眺める。
「この辺りは、ずっとこんな道なの?」
「場所による」
アランの答えは短かった。
「さっきから返事が短くない?」
「そうか?」
「そうよ」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないわ」
アランは少し困った顔をした。
それから声を落とす。
「道が狭くなってきた。こういう場所では、少し周りを見ておいた方がいい」
「危ないの?」
「そういう意味じゃない」
アランはすぐに続けた。
「何かあってから気をつけるんじゃ遅い。それだけだ」
エレナは少し考えてから頷いた。
「騎士団長って、いつもそんなことを考えてるのね」
「考えるのが仕事だからな」
「疲れそう」
「慣れてる」
「じゃあ私は景色を見る係にするわ」
「そんな係はない」
「今作ったの」
アランが呆れたように息を吐いた。
その様子がおかしくて、エレナは笑う。
まだ旅は楽しかった。
森が深くなったことも。
道が狭くなったことも。
何もかもが初めてだった。
だから、そこに潜む意味を考えようとはしなかった。
馬車がさらに進む。
しばらくすると、一行は大きな岩壁の続く区間へ入った。
灰色の岩肌が街道の左側へ迫っている。
ところどころに亀裂が走り、その隙間には苔や小さな草が根を張っていた。
反対側には森。
太い幹。
絡み合う枝。
その向こうは薄暗く、奥まで見通すことができない。
先ほどまで聞こえていた鳥の声が、少なくなっていた。
エレナは窓枠に手を置いた。
ふと、違和感を覚える。
「……ねえ」
「どうした?」
「さっきから、誰ともすれ違わないわね」
アランはすぐには答えなかった。
前を走る護衛。
後方の護衛。
森林。
岩壁。
順に目を走らせる。
「王都近郊と同じようにはいかない」
「そういうもの?」
「ああ」
エレナは納得したように頷いた。
それ以上は気にしなかった。
代わりに、前方を走るアルトの姿を見る。
アルトもまた、街道の先を見ていた。
先ほどから何度目だろう。
けれどアランも同じように周囲を確認している。
だから、それを不自然だとは思わなかった。
馬車が揺れた。
「きゃっ」
エレナが身体を傾ける。
アランがすぐに腕を伸ばし、肩を支えた。
「大丈夫か?」
「ええ。ちょっと驚いただけ」
車輪が大きめの石を踏んだらしい。
エレナは姿勢を戻した。
「ありがとう」
「あまり窓に寄りすぎるな」
「さっきも言われた気がする」
「言わせてるのは誰だ」
「……私ね」
「分かってるならいい」
アランが手を離す。
その何気ないやり取りに、エレナは微笑んだ。
そして再び窓の外を見る。
森の向こうに、山の稜線が重なっていた。
この山を越えて。
さらにその先へ行けば。
「アラン」
「今度は何だ?」
「海に着いたら、一番最初に何をすればいいと思う?」
「何をするって?」
「せっかく初めて見るんだもの。ただ見るだけじゃもったいないでしょう?」
「海は見るものじゃないのか?」
「それはそうだけど」
エレナは真剣に考え始めた。
「触ってみたい」
「好きにすればいい」
「冷たいのかしら」
「季節にもよるだろう」
「舐めたら、本当に塩辛い?」
「……試すつもりか?」
「少しくらいなら」
「腹を壊しても知らないぞ」
「海の水を少し舐めただけで?」
「俺に聞くな」
「さっきから、そればっかり」
エレナが笑う。
アランも小さく笑った。
その会話を、馬車の外にいるアルトが聞いていたのかどうか。
エレナには分からなかった。
アルトは前を向いたままだった。
ただ一度だけ。
彼の手が手綱を握り直した。
道は、さらに狭くなった。
街道の左側を占めていた岩壁が高くなる。
灰色の岩が陽光を遮り、森側から伸びた枝葉とともに、道の上へ大きな影を落としていた。
先頭を進んでいた護衛の一人が速度を落とした。
それに合わせ、一行全体の進みも緩やかになる。
アランが身を起こした。
先ほどまでの穏やかな表情が消えている。
エレナはそれを見逃さなかった。
「アラン?」
返事はない。
彼は窓の外へ顔を向けていた。
「どうしたの?」
「……静かすぎる」
「え?」
言われて、エレナも耳を澄ませた。
馬蹄。
車輪。
馬車の軋み。
風。
それだけだった。
さっきまで時折聞こえていた鳥の声がしない。
虫の音さえ、妙に遠い。
それまで心地よく感じていた森の静けさが、急に別のものに思えた。
アランが窓を開ける。
「止まれ」
低い声だった。
御者が手綱を引いた。
馬が足を止める。
続いて護衛たちも停止した。
突然、車輪の音が消えた。
静寂が落ちる。
エレナは無意識に背筋を伸ばした。
「何かあるの?」
「まだ分からない」
アランはそう答えながら、腰の剣へ手を伸ばしていた。
鞘からは抜かない。
ただ、柄に手を置く。
その動作だけで、エレナの胸に初めて小さな不安が生まれた。
外では護衛たちが周囲を確認している。
「前方、異常ありません」
声が飛ぶ。
「後方も問題ありません」
別の護衛が答えた。
アランは眉を寄せた。
異常がない。
それなのに、警戒を解かない。
エレナは窓から前方を見た。
灰色の巨岩が、岩壁から街道へ張り出している。
その先で道は緩やかに曲がり、見えなくなっていた。
反対側には一本の大きな古木。
太い枝が道の上へ伸びている。
その奥は深い森。
人の姿はない。
何もない。
ただの山道に見える。
「兄上」
アルトが馬を寄せてきた。
「どうします?」
アランは前方を見たまま答えた。
「少し待つ」
「何か?」
「分からん」
アルトも街道の先を見る。
エレナは二人の横顔を交互に見た。
アランは明らかに警戒している。
アルトは――。
いつもと変わらない。
そう見えた。
風が吹いた。
古木の葉が一斉に揺れる。
ざわざわ、と森が鳴った。
エレナは胸元へ手を置いた。
どうしてだろう。
先ほどまで、同じ音を綺麗だと思っていたのに。
今は少しだけ怖い。
「アラン……」
「大丈夫だ」
すぐに返事が来た。
アランがエレナを見る。
「俺がいる」
短い言葉だった。
けれど、それだけで張り詰めていたものが少し緩んだ。
「……うん」
エレナは頷いた。
アランが外へ向き直る。
「進む。ただし間隔を詰めろ。前後をよく見ろ」
「はっ」
護衛たちが応じた。
一行が再び動き始める。
今度はゆっくりだった。
馬車の車輪が回る。
ごとり。
小石を踏む。
また、ごとり。
エレナは窓の外を見ていた。
もう景色を楽しむ余裕はなかった。
岩壁。
森。
古木。
影。
何も変わらない。
それなのに、先ほどとはまるで違って見える。
灰色の巨岩が近づいてくる。
その向こうは見えない。
一行の先頭が、巨岩の横を通過した。
何も起こらない。
二人目。
何もない。
エレナは小さく息を吐いた。
――やっぱり、気にしすぎだったのかもしれない。
そう思った、その瞬間。
前方の護衛が突然、馬を止めた。
「止まれ!」
鋭い声が峡路に響いた。
馬がいななく。
馬車が急停止し、エレナの身体が前へ投げ出される。
「きゃっ――!」
アランが片腕で受け止めた。
同時に、剣が鞘から抜かれる。
澄んだ金属音。
エレナは顔を上げた。
「アラン?」
彼は答えなかった。
その目は、馬車の前方だけを見ている。
エレナもそちらへ目を向ける。
街道の曲がり角。
巨岩の向こう。
そこから、一人の男が姿を現した。
◇
粗末な革鎧。
手には剣。
顔には、旅人には似つかわしくない笑み。
続いて、もう一人。
さらに、その後ろから二人。
森の中で枝が鳴った。
右側。
エレナが振り向く。
木々の間から、別の男たちが出てくる。
背後からも馬の荒い鼻息と、複数の足音が聞こえた。
前だけではない。
囲まれている。
護衛たちが一斉に剣を抜いた。
アランがエレナを背にかばう。
「下がってろ」
低い声。
エレナの喉が動いた。
さっきまで話していた海のことが、一瞬で頭から消えた。
前方の男が剣を肩へ担ぐ。
そして、口元を歪めた。
「――王女様御一行で間違いねえな」
エレナの息が止まった。
まだ誰も、自分の名を告げていない。
なぜ――。
アランの剣先が、男へ向いた。
森の奥から、さらに人影が現れる。
山賊たちは、最初から彼女たちを待っていた。




