第10話 魔力と精霊力
フォルディス家敷地内の庭の一角にはセリアの研究室があった。
騎士団長代理となってから、アルトがセリアの研究室を訪れるのは初めてだった。
扉の前で一度、足が止まる。
(俺はまだ、エレナを諦めていない)
新聞では、エレナ・セレディス王女は死亡したことになっている。
自分がそう報告した。王都では、その情報が事実として広がっている。
それなのにアルトは、エレナが生きていることを知っていた。そして今も探している。
(なら……また来るんじゃないのか)
灰岩峡路で自分を支配した、あの燃えるような熱。
兄へ剣を向けた時、身体の奥底から湧き上がった異常な力。
筋肉が強化される感覚。身体が軽くなり、兄の速度へ追いついていった感覚。その後の記憶はところどころ曖昧だった。
怖いのは、力そのものだけではない。
いつ来るのか分からないことだった。
眠っている時なのか。エレナのことを考えた時なのか。兄の名を聞いた時なのか。それとも、自分でも気づいていない何かに触れた時なのか。
(俺の中には、自分でも止められない何かがあるのか?)
エレナへの愛情。
兄への嫉妬。
劣等感。
自分では理性で抑えてきたつもりだった。
だが、本当にそうなのか。
ゼルヴァという力が、自分の感情から生まれているのなら。
怖いのはゼルヴァではない。それを生み出している自分自身なのかもしれない。
研究室へ来る前、アルトは何度も自分へ問いかけていた。
(俺はエレナを愛しているだけなのか?)
その答えなら、まだ受け入れられる。
好きだから探す。
失いたくないから焦る。
だが、兄が隣にいることを考えた時だけ、胸の奥に別の感情が生まれる。
(兄上がいなければ)
そう考えたことが一度もないと言えば嘘になる。
その考えが怖かった。
幼い頃から兄だった。
剣で勝てない相手。
比べられる相手。
それでも血のつながった兄。
なのにエレナのことが絡むと、兄という言葉より先に「邪魔」という感情が浮かぶ。
(それも俺なのか?)
ゼルヴァに操られていると言えれば楽だった。
だがセリアは、精神が根源かもしれないと言う。
なら、ゼルヴァは自分の中に最初からあった感情を大きくしているだけなのかもしれない。
アルトはそれを確かめるのが怖かった。
アルトは扉を叩いた。
「どうぞ」
中からセリアの声が返る。
扉を開ける。
研究室には本と紙が多かった。机には書き込みのある資料が積まれ、棚には薬瓶や乾燥させた植物、鉱石らしいものまで並んでいる。
セリアは机から顔を上げた。
「アルト」
「また来た」
「騎士団長代理になった人が、わざわざ私のところへ?」
「その話をしに来たんじゃない」
セリアはアルトの顔をしばらく見た。
「ゼルヴァ?」
アルトは答える代わりに扉を閉めた。
「ゼルヴァについて、知っていることを全部教えてくれ」
「全部?」
「ああ」
「以前より随分積極的ね」
「積極的になりたくて来たんじゃない」
アルトは自分の右手を見る。
「できるなら……俺はこれが何なのか、解明したい」
「使いたいの?」
「違う」
答えは早かった。
「理解したい。二度と、自分が何をしているのか分からなくなるのは嫌なんだ」
セリアはしばらくアルトを観察してから、机の脇へ手を伸ばした。
一冊の厚い本を取り出し、アルトの前へ置く。
見慣れない装丁だった。
「……ヴェルネシア?」
「よく読めたわね」
「国名くらいは知っている」
「なら話は早いわ」
セリアは本を開いた。
「ヴェルネシアは、世界でも最高水準の魔法科学研究を行っている国よ」
「魔法科学……」
「カルゼリアでは、精霊力や魔力など、魔法の知識はまだ伝承や個人の経験に依存している部分が多い。でもヴェルネシアは違う」
細かな図と文章が並ぶ頁をめくる。
「観察する。記録する。比較する。同じ現象がどういう条件で起きるかを調べる。そして理論にする。魔法を神秘として眺めるだけじゃなく、研究対象として扱っている」
「この本も?」
「取り寄せた専門書の一つ」
アルトが手を伸ばそうとすると、セリアが本を押さえた。
「先に言っておくけど、これを読んでもゼルヴァの正体が全部分かるわけじゃない」
「ヴェルネシアでも?」
「分からないことの方が多いわ。魔法科学の最先端だからって、世界の全部を知っているわけじゃない」
「それでもいい。分かっているところから教えてくれ」
セリアは頷いた。
「人間の中には、ごく少数だけど、普通の人間では出せない力を発現する人がいる」
「力?」
「筋力。速度。感覚。反応。身体能力。それだけじゃない。通常では説明できない特殊な現象を起こす例もある」
(あの時の俺だ)
兄の剣が見えた。
いや、見えたというより身体が追いついた。
それまで届かなかった兄へ、自分の剣が届くようになった。
「重要なのは、力そのものじゃない」
「どういう意味だ?」
「どれだけ速くなったか。どれだけ強くなったか。それは結果。ヴェルネシアの研究者が知ろうとしているのは、その力がどこから来るのか」
セリアは別の頁を開いた。
「人間の精神。感情。植物。大地。水。風。自然環境。生命」
「……随分ばらばらだな」
「そうね」
「そんなものを同じ理論で扱うのか?」
「だから、まだ仮説の段階なのよ。力は何もないところから突然生まれるわけじゃない。何かに宿っているものが、何らかの条件で人間と結びついて、通常以上の能力として現れる。大雑把に言えば、そういう考え方」
「大雑把すぎないか?」
「私も、この説明だけじゃ分かったような分からないような感じだけどね」
アルトは眉を寄せた。
「精神や感情も、その根源になり得る?」
「そう考えられている」
言いかけたアルトをセリアが止める。
「ゼルヴァのことを考えた?」
「ああ」
「まだそこまで急がない。もう一つ大事なことがある」
「何だ?」
「この力そのものに、善悪があるとは限らないらしい」
「どういう意味だ?」
「同じものでも、ある人には良い作用をして、別の人には破壊的に働くことがある。何を根源としているか。誰と結びつくか。どの感情に反応するか。どう使われるか。それで結果が変わる」
「魔力は悪い力じゃないのか?」
「そう単純に決めるのは危険ね」
「じゃあ精霊力は?」
「それも同じ。精霊力だから善、魔力だから悪、なんて分類は少なくともこの本にはない」
アルトは黙った。
力そのものに善悪がないのなら、結局問われるのは使う人間になる。
(俺自身か)
セリアが頁をめくる。
「ここから少し具体的になるわ。現在、大きく異なる二系統として扱われているものがある」
「何だ?」
「魔力と精霊力」
アルトの目が止まった。
「この二つは、ヴェルネシアの研究では相反する性質を持つと考えられている」
「相反する?」
「互いに近づけば、互いの存在を感じ取る」
「感じ取る?」
「単に違う力というだけじゃない。互いを忌避するの。自分とは違うものがそこにいるって、分かるみたいに」
「魔力を持っていれば、精霊力が分かる?」
「場合によってはね。逆もある。ただし、全員が同じように認識できるわけじゃない」
「知識がなくても?」
「不快感、違和感、警戒感。そういう形で認識する場合があるらしい」
アルトは何も言わなかった。
(そういえば……)
灰岩峡路。
小太刀の少女。
ラヴィナ。
あの時、胸元に花を挟んでいた。
花の名前すら知らなかった。
だが剣を交えた時、理由の分からない感覚があった。
自分の内側で燃えるものとは違う何か。
嫌だった。
近づきたくないような。
それなのに、逆に壊してしまいたくなるような。
(あれが……精霊力?)
「何か思い当たる?」
「いや」
アルトは答えなかった。
「じゃあ、ゼルヴァはどっちなんだ?」
セリアが少し黙る。そして本を閉じた。
「おそらく、魔力」
「おそらく?」
「断定できない」
「前はゼルヴァを魔力だと言っていたじゃないか」
「現象としてはそう考えている。でも、ゼルヴァというもの自体が研究上すべて体系化されているわけじゃない」
「じゃあ何を根拠に?」
「あなたが話した症状」
セリアは指を折る。
「嫉妬。羨望。劣等感。対抗心。それに執着。そういう精神状態と身体能力の異常な上昇が連動している。精神を根源とする魔力現象。その可能性が高いと私は考えている」
アルトの顔が強張る。
(やっぱり、俺の感情なのか)
セリアはもう一度専門書を開き、余白に記された注釈を見せた。
「ここ。ヴェルネシアの研究者も、感知についてはかなり慎重に書いている」
「何て?」
「相反する力を感じることと、その正体を理解することは別だって」
「つまり?」
「嫌な感じがするからといって、相手が何を使っているかまで分かるわけじゃない。あなたが精霊力を感じても、それが花なのか、水なのか、別の何かなのかは知識がなければ判断できない」
「なるほど」
「逆も同じ。精霊使いがあなたの魔力を感じても、それだけでゼルヴァの性質まで理解できるわけじゃない」
アルトは頷く。
「強くなれば、感知も強くなるのか?」
「可能性はある。でも、それを確かめるために魔力を強めようなんて考えないで」
「考えてない」
「本当に?」
「俺は消す方法を聞きに来たんだ」
「そうだったわね」
セリアはアルトの顔を見た。
「ただ、研究していると時々いるのよ」
「何が」
「怖がっていた現象を理解した途端、今度は利用したくなる人」
「俺は違う」
「ならいいわ」
その時のアルトは、本気でそう思っていた。
利用するつもりなどない。
あの力は怖い。
二度と兄へ剣を向けた時のような状態にはなりたくない。
だから知りたい。
それだけだった。
「消す方法は?」
「分からない」
「抑える方法は?」
「それも」
「それじゃ何も解決してないだろ」
「そうね」
「何のための研究だ」
「分からないから調べるんでしょ」
セリアは閉じた専門書へ手を置いた。
「ヴェルネシアですら完全には分かっていない。私も分からない。あなた自身も分からない。だから調べる」
「その間に、また俺が自分を失ったら?」
「だから、変化があったら来なさい」
「俺を研究材料にする気か?」
「研究対象ではあるわ」
「否定しないんだな」
「でも、あなたが自分を失いたくないと思っていることも知っている」
アルトは立ち上がった。
「アルト」
振り返る。
「怖いと思っているうちは、自分の変化を見ようとしている」
「何が言いたい?」
「その力を怖いと思わなくなった時の方が、私は怖い」
アルトは返事をしなかった。
研究室を出る。
(次に来たら、俺は抑えられるのか?)
答えはない。
ただ、一つだけ新しい知識を得た。
魔力と精霊力は相反する。
互いを感じ取る。
それだけだった。
アルトは扉へ手をかけたまま、もう一度振り返った。
「セリア」
「何?」
「もし、感情が根源なら……感情そのものを消せば、ゼルヴァも消えるのか?」
セリアはすぐには答えなかった。
「分からないわ」
「またそれか」
「分からないことを分かったふりする方が危険よ」
アルトは苛立ったように息を吐く。
「ただし、一つ言えるとすれば、感情を持たない人間になることを治療とは呼ばないでしょうね」
「治療……」
「嫉妬も劣等感も、人間なら持つことがある。問題は、それがどのように力と結びついているか」
アルトは黙った。
「兄を羨ましいと思ったことがあるから、あなたが異常な人間というわけではない」
「慰めているのか?」
「事実を言っているだけ」
「エレナを好きになったことも?」
「それ自体は感情でしょう」
「兄の婚約者でも?」
「誰を好きになるかまで法律で決められる?」
「……決められない」
「でも、その感情を理由に何をするかは別の話」
アルトの視線がわずかに落ちる。
山賊。
兄へ向けた剣。
虚偽の報告。
セリアはそのすべてを知らない。
だからこそ、その言葉がアルトには重かった。
(感情じゃない。問題は、俺が何をしたか……)
その事実から目を逸らしたくなる。
だがゼルヴァを解明したいなら、自分の中を見なければならない。
「魔力と精霊力が互いを感じるというのは、必ずなのか?」
「必ずとは書かれていない。強さ、距離、本人の感受性、経験。条件はいくつもあるみたい」
「魔力が強くなれば?」
「より明確になる可能性はある」
「相手の場所まで分かる?」
「そこまで具体的な記録は、この本にはないわ」
「じゃあ、何が分かる」
「存在。方向。違和感の強弱。少なくとも報告例としてはその程度」
アルトはラヴィナを思い出す。
前回は何かがあるとしか分からなかった。
もし次に会った時、自分の魔力が以前より強くなっていたら。
(もっと、はっきり分かるのか?)
その考えが浮かんだ瞬間、自分で嫌になった。
何を期待している。
ゼルヴァを恐れてここへ来たはずだ。
「顔が変わったわね」
「何でもない」
「アルト」
「何だ」
「知識は、使い方によっては安心材料にも武器にもなる」
「……」
「あなたは今、安心するために聞きに来た。そこを忘れないで」
「分かってる」
本当に分かっているのか。
アルト自身にも確信はなかった。
◇
数日後。
レイフォードの街道沿いで、アルトは何度目か分からない同じ質問をしていた。
「シャルネという村を知らないか?」
旅人は首を傾げる。
「知らないな」
「山側にある小さな村だ」
「聞いたこともない」
「そうか」
旅人が去る。
アルトは苛立ちを押し殺した。
騎士団長代理として数名の兵士を連れている。
公的な目的は、行方不明となった騎士団長アラン・フォルディスの捜索。
だがアルトには、もう一つの目的があった。
エレナ。
灰岩峡路で別れた時、エレナは負傷したアランとともにシャルネ村へ向かうと言った。
だからシャルネへ辿り着けば、何かが分かる。
問題は、その村が王立国土図にないことだった。
(こんな場所、地図だけで見つかるわけがない)
何人目だったか。
ヴァレスタ方面から来たらしい年配の旅人が、ようやく反応した。
「シャルネ?」
アルトが顔を上げる。
「知っているのか?」
「ああ……あの山の方にある小さな村か?」
「場所を教えてくれ」
声が強くなった。
「レイフォードからヴァレスタへ向かう街道があるだろ。その途中だ」
「地図には道がない」
「そりゃ、あんな道じゃな」
「どういう意味だ?」
「山側へ細い道が一本分かれてる。普通に馬車で走ってりゃ見落とすよ。馬車なんてほとんど入らないし、人も滅多に通らん」
「そこを進めばシャルネか?」
「ずっと行けばな。ただ、騎馬で入るなら気をつけろ。狭いところもある」
アルトは兵士を見る。
「行くぞ」
◇
街道から山側へ。
教えられた場所は、本当に分かりにくかった。
一度入口を通り過ぎ、引き返してようやく木々の間へ続く細い道を見つける。
案内人でもいなければ普通に迷ってしまうような道だった。
「これが道ですか?」
「らしい」
主要街道とは比べものにならない。
両側から木々が迫り、ところどころ枝が道へ張り出している。地面には轍もほとんどない。
馬を進める速度も自然と落ちた。
(こんなところに村があるのか)
しばらく進むと、さらに道が細くなった。
馬を降りなければならない場所もある。
兵士の一人が呟く。
「普通にヴァレスタへ向かっていたら、絶対に気づきませんね」
「ああ」
やがて木々の隙間から空が広がる。
その先に家々が見えた。
小さな集落。
「……シャルネ」
アルトは馬を止めた。
ようやく見つけた。
同時に別の疑問が浮かぶ。
(なぜ、この村が王立国土図にない?)
実際に村は存在する。
人も住んでいる。
なのに王家が所有する国土図には記載がない。
理由は分からない。
今はそれを調べる時ではなかった。
「聞き込みをする」
兵士たちへ命じる。
「兄上の情報を最優先しろ」
◇
シャルネ村へ王国兵が入れば、目立たないはずがなかった。
アルトは兵士を分け、村人へアランの特徴を伝えて聞き込みを始めた。
「二十六歳。長身で身体を鍛えている。負傷していた可能性がある。王国騎士団長アラン・フォルディスだ」
だが返事はどれも同じだった。
「知らないねえ」 「見てないよ」
(そんなはずがない)
エレナは確かに、アランとシャルネへ向かうと言った。
「本当に知らないのか?」
声が強くなった、その時。
「何やってんだ?」
アルトが振り返る。
腰に小太刀を差した少女。
ラヴィナだった。
「……またお前か」
(いた)
この少女がいるなら、二人がここへ来た可能性は高い。
アルトはすぐに近づいた。
「兄上はどこだ」
「知らない」
「兄上がここへ来たことは分かっている。どこへ行った」
「知らない」
「いつ出ていった」
「知らない」
「誰と一緒だった」
「知らない」
「ふざけるな」
「知らないって言ってるだろ」
アルトの苛立ちが増す。
「これは騎士団長代理としての質問だ」
「だから何だよ」
「アラン・フォルディスには身柄確保命令が出ている」
「知ってる」
「なら居場所を隠すことがどういう意味か分かっているのか?」
「脅してんのか?」
「質問に答えろ」
「知らないって答えてる」
兵士たちが互いを見る。
団長代理の声には、すでに私情が混じっていた。
「アランを捕まえてどうする?」
「王都へ連れ戻す」
「何のために?」
「事情を確認するためだ」
「だったらアランだけ探してればいいだろ」
「エレナだって見つけなければならない!」
言った瞬間、アルト自身が気づいた。
沈黙。
兵士たちもアルトを見る。
ラヴィナの目が細くなった。
「……今、何て言った?」
「……」
「エレナは死んだことになってるんだろ?」
アルトは答えない。
「なのに、なんでお前が探してる?」
「黙れ」
「死んだ王女をどうやって見つけるんだ?」
「黙れと言っている」
「お前、エレナが生きてるって知ってるのか?」
答えられない。
兵士たちの前で認めるわけにはいかなかった。
「変だと思ったたんだよ。エレナは死んだ。アランは身柄確保。お前は団長代理。それなのに、お前だけは生きてるエレナを探してる」
「黙れ!」
アルトの手が剣の柄へ伸びる。
「団長代理?」
「何だ。図星か?」
剣が抜かれた。
「アルト様!」
「団長代理、おやめください!」
ラヴィナはまだ何もしていない。
それでもアルトは剣先を向けた。
「……やる気か」
すると、ラヴィナの小太刀が抜かれる。
「その者は民間人です!」
「下がっていろ」
「しかし――」
「下がれ!」
ラヴィナは構えた。
「懲りないな、お前。また返り討ちにしてやるよ」
前回の敗北が蘇る。
剣を弾かれ、蹴りで倒され、喉元へ小太刀を突きつけられた。
エレナの前で。
兄の前で。
ラヴィナは鞄から青白い花を取り出し、胸元へ挟む。
「フィレナ」
アルトの胸の奥がざわついた。
(これ……)
セリアの言葉が蘇る。
魔力と精霊力は相反する。互いを感じ取る。
(あれが精霊力なのか?)
ラヴィナが踏み込む。
速い。
小太刀が横から来る。受ける。次の瞬間には逆側。
二撃、三撃。
アルトの剣が空を切る。
(やっぱり、あの時の力がない)
ラヴィナには分かった。
今のアルトには、灰岩峡路で見た異常な速度も剣圧もない。
「どうした? 前の方がまだ速かったぞ」
「黙れ」
「兄貴探して、エレナ探して、今度は俺に八つ当たり?」
「黙れ!」
剣が振り下ろされる。
ラヴィナは横へ流れる。
「いつまでも、手の届かないものを女々しく引きずってんじゃねーよ」
アルトの動きが止まった。
「エレナの婚約者は、お前の兄なんだよ」
胸の奥で何かが弾けた。
兄。
アラン。
自分より剣が強く、自分より先に騎士団長になり、自分が欲しかった人まで手に入れた兄。
(違う)
何が違うのか、自分でも分からない。
身体の奥が熱い。
(来た)
恐怖が先に来るはずだった。
だが。
(何だ……これ)
苦しくない。痛くない。
むしろ、心地いい。
熱が胸から腕へ、背中へ、脚へ、指先へ広がる。
身体が軽い。
視界が澄む。
剣まで軽い。
(届く)
ラヴィナが踏み込む。
(今度は、届く)
アルトも踏み込んだ。
剣と小太刀がぶつかる。
ガンッ!
(何だ? この感覚は?)
ラヴィナの腕へ衝撃が走る。
すぐに距離を取った。
(前より……強い?)
考える暇はない。
アルトが来る。
速い。
受ければ重い。
ラヴィナは流して横へ抜ける。
だが追ってくる。
(速くなってる)
さらに速度を上げる。
それでも離れない。
(嘘だろ……)
一合ごとに、一歩ごとに、アルトの反応が近づいてくる。
(俺に……追いついてきてる?)
ラヴィナの余裕が消えた。
アルト自身も、変化に気づいていた。
前回は違った。
熱が上がるほど、自分が遠くなった。
身体だけが勝手に動くような感覚。
何をしたのか、後から思い出せない部分さえあった。
今は違う。
ラヴィナの表情が見える。
兵士たちの声も聞こえる。
自分が剣を握っていることも分かる。
フィレナを狙ったのも自分の判断だ。
(俺が使ってる)
その認識があった。
ゼルヴァに使われているのではない。
少なくとも今のアルトには、そう思えた。
(使える)
恐怖が薄れる。
(この力は、使える)
その瞬間、研究室でセリアに聞いた「善悪」の話まで、自分に都合よく意味を変え始める。
魔力そのものに善悪はない。
なら、使うこと自体が悪いわけではない。
(俺が制御すればいい)
そう考えると、身体を満たす熱はさらに心地よくなった。
自分を脅かす未知の力だったものが、自分の武器へ変わる。
その境界を、アルトは今まさに越えようとしていた。
アルトにはそれが見えた。
(見えてる)
前回、自分を倒した少女が今は自分を警戒している。
胸の熱がさらに増す。
もっと欲しい。
もっと速く。
もっと強く。
最初の一合で、ラヴィナは腕に痺れを感じた。
(何だこれ)
同じ剣。
同じアルト。
なのに衝撃だけが別人だった。
ラヴィナは正面で受けることをやめる。
右から来る剣を小太刀で触れると、軌道を外す。
そのままアルトの横へ抜ける。
いつもなら、それで終わる。
相手が振り返るより早く背後を取れる。
だが。
「っ!」
アルトの剣が背後から来た。
ラヴィナは頭を下げる。
髪の上を刃が通過する。
(もう振り向いた?)
距離を取る。
アルトが追う。
ラヴィナはさらに加速する。
フィレナの精霊力で脚力が増す。
地面を蹴る。
景色が後ろへ飛ぶ。
木の幹を利用して方向を変える。
右。
左。
さらに右。
アルトの視線を切るための動き。
それでも。
剣が来る。
(何でだよ)
アルトはラヴィナの剣技を真似ているわけではない。
足運びも違う。
身体の使い方も荒い。
それなのに、反応だけが追いついてくる。
ラヴィナが速くなれば、アルトも速くなる。
(気持ち悪い)
魔力。
前回感じたものより濃い。
身体の表面ではなく、もっと内側へまとわりついてくるような不快感。
ラヴィナは奥歯を噛んだ。
(だったら、一気に終わらせる)
小太刀を低く構える。
アルトの正面へ戻る。
真正面から見れば無謀。
だが直前で身体を沈め、アルトの剣の下へ潜る。
右手で小太刀を跳ね上げる。
アルトが反応した。
剣を下げる。
鋭い金属音が響く。
そして、ラヴィナは左へ回る。
小太刀が脇腹へ向かう。
アルトの身体が捻れる。
避けた。
(これも?)
ラヴィナの目が鋭くなる。
さらに一撃。
さらに一撃。
連続して角度を変える。
アルトは完全には防げない。
服が切れる。
頬に薄い傷が走る。
それでも致命的な一撃だけは届かない。
そして、一合ごとにアルトの剣が近づく。
ラヴィナの速度へ。
確実に。
(追随……してるのか?)
言葉として能力を知っているわけではない。
だが現象は分かった。
自分が速度を上げるほど、相手も上がる。
なら長引かせるほど不利になる。
そう判断した時には、すでに遅かった。
二人の刃が真正面から触れた。
(重っ――)
凄まじい剣圧。
受け流せない。
ラヴィナの身体が浮き、後方の木立へ吹き飛ばされた。
枝が折れ、葉が舞う。
「ぐっ……」
(何だよ、これ……)
アルトは追撃を急がない。
剣を下げたまま、ゆっくり近づく。
(これなら勝てる)
前回より強い。
前回より自分の意思がある。
何より、気持ちがいい。
セリアの言葉が一瞬だけ蘇った。
その力を怖いと思わなくなった時の方が、私は怖い。
だが、すぐに消えた。
ラヴィナは立ち上がる。
(まだだ)
フィレナはある。
精霊力もある。
先に仕掛ける。
アルトは片手で剣を振った。
甲高い金属音。
「なっ――」
小太刀が手から弾き飛ばされた。
「……ヤバい」
一歩下がる。
アルトが一歩近づく。
「団長代理! もうおやめください!」
アルトは聞かない。
ラヴィナは素手。
剣が上がる。
狙いは左肩から胸元。
(避けられない)
風が鳴った。
(死ぬ――)
一瞬、本気で死を覚悟した。
だが痛みがない。
代わりに青白い花弁が宙へ舞った。
「……え?」
胸元を見る。
フィレナがない。
根元から断ち切られ、地面へ落ちている。
「っ……!」
膝から力が抜けた。
(何だ……?)
腕が重い。
脚も。
呼吸まで一気に苦しくなる。
それまで身体を満たしていたものが突然消えていた。
(フィレナが……)
アルトは地面に落ちた花を見た。
「……やっぱり、こいつが原因か」
しゃがみ、切断されたフィレナを拾い上げる。
「これか」
そしてラヴィナを見る。
「これが、お前の精霊力の源だったってことか?」
ラヴィナは答えない。
アルトはフィレナを眺めた。
「前にお前と剣を交えた時から、不思議だった」
声は静かだった。
「お前が速かったからじゃない」
ラヴィナの眉が動く。
「確かに、身体は追いつかなかった。目でも追い切れなかった」
フィレナを指先で転がす。
「なのに――分かるんだ」
「……何が」
「お前が、どこにいるのか」
ラヴィナの表情が変わった。
「剣がどこから来るのかじゃない。次にどこへ動くのかでもない」
アルトは自分の胸へ手を当てる。
「ここが、勝手にお前を捉える」
ラヴィナは息を呑む。
「前は意味が分からなかった。お前の身体には追いつけないのに、お前の中にある何かだけは、ずっと感じていた」
一歩近づく。
「近づけば近づくほど、不快だった」
もう一歩。
「消したくなるくらいにな」
(まさか……)
さっきの斬撃を思い返す。
自分は斬られると思った。
違う。
(こいつ……俺じゃなくて、フィレナを狙ったのか?)
背筋に冷たいものが走った。
アルトがフィレナを拾った時、ラヴィナは最初、偶然だと思った。
自分を斬ろうとして、たまたま胸元の花に刃が当たった。
そうであってほしかった。
だがアルトの視線は違った。
花を見つけた人間の目ではない。
最初から探していたものを確認する目。
(まさか)
ラヴィナの呼吸が一瞬止まる。
前回の戦闘で、アルトはフィレナの存在に気づいていなかった。
少なくとも、そう見えた。
なら今回は何が違う。
答えは一つしかない。
魔力が強くなった。
それによって、精霊力を感じ取れるようになった。
そしてアルトは、感じたものを頼りに花を狙った。
(そんな戦い方、ありかよ)
目で見る。
音を聞く。
気配を読む。
剣士なら、それらを使って相手を捉える。
アルトは違う。
精霊力そのものを目印にした。
ラヴィナがどれだけ速くても、フィレナの力を使う限り、そこに精霊力がある。
速さそのものが、自分の位置を教える目印になっていたのだとしたら。
(最悪だ)
ラヴィナは初めて、自分とフィレナの関係そのものが弱点になる可能性を知った。
アルトはその表情を見て、薄く笑った。
「やっと分かったか」
「……お前」
「解せない顔だな」
指を開く。
切断されたフィレナが地面へ落ちる。
「死ぬ前に、一つ教えてやるよ」
ラヴィナの目が細くなる。
「魔力と精霊力は、相反する力らしい」
「……相反する?」
「互いに拒み合う。だから――感じる」
アルトの身体から魔力が膨れ上がる。
ラヴィナの肌が粟立った。
「俺の魔力が強くなるほど、お前の中にある精霊力も、はっきり分かる」
剣を持ち上げる。
「さっきまでのお前は速すぎた。身体を追うだけなら、まだ面倒だった」
剣先がラヴィナへ向く。
「だから、身体を追うのをやめた」
「…………!」
「お前の中で一番強く感じるものを斬った」
ラヴィナの視線が地面のフィレナへ落ちる。
(そんな……)
速さで負けたわけではない。
剣術を完全に見切られたわけでもない。
精霊力そのものを標的にされた。
これまで一度も経験したことのない戦いだった。
アルトがゆっくり近づく。
「便利な力だな」
ラヴィナは歯を食いしばり、立ち上がろうとする。
だが脚に力が入らない。
「その代わり――」
アルトは地面に落ちたフィレナを踏みつけた。
「なくなった途端、随分つらそうだ」
「……っ」
花弁が靴の下で潰れる。
(ヤバい)
小太刀は遠い。
フィレナもない。
身体は重い。
そして目の前にいるアルトは、前回とは比較にならない。
(こいつ、もう自分の魔力を怖がってない)
ラヴィナは立とうとして、もう一度膝をついた。
精霊力が消えたから弱くなった。
それだけではない。
フィレナを使って走った。
跳んだ。
何度も方向を変えた。
アルトの速度が上がるたび、こちらもさらに身体能力を引き上げた。
その代償が、今まとめて押し寄せている。
(こんな時に……)
太腿が震える。
指先まで重い。
小太刀までの距離は、ほんの数歩。
普段なら一瞬。
今は、その数歩が遠い。
アルトが一歩進む。
ラヴィナは後ろへ下がろうとする。
足が土を擦るだけだった。
(動け)
命じる。
(動けよ)
身体は応えない。
ラヴィナは初めて、自分の速さを完全に奪われた。
剣術はある。
技もある。
だが剣がない。
精霊力もない。
相手は魔力によって強化されている。
状況を一つずつ並べるほど、勝ち筋が消えていく。
それでもラヴィナはアルトから目を逸らさなかった。
怖い。
だが背中を向ければ終わる。
「……ずいぶん余裕じゃん」
息を整えながら言う。
アルトが止まる。
「何?」
「前は俺に剣飛ばされてたくせに」
「まだ言うのか」
「事実だろ」
時間を稼ぐ。
呼吸を戻す。
指を動かす。
少しでも身体が戻れば。
だがアルトは笑った。
「前と同じだと思っているなら、もう一度試してみろ」
(無理だって分かって言ってるだろ)
ラヴィナは歯を食いしばる。
アルトの余裕。
それ自体が以前との違いだった。
アルトが剣を構える。
今度は花を狙った攻撃ではない。
ラヴィナ本人を斬るための剣。
「団長代理! おやめください!」
「その者はもう武器を持っていません!」
だがアルトは振り返らない。
兵士たちはついに一歩前へ出た。
「団長代理」
先ほどより強い声。
「これ以上は、命令でも従えません」
アルトの目だけが兵士へ向く。
「何?」
「我々はアラン団長の捜索に来たはずです」
「そうだ」
「この少女を処刑しに来たのではありません」
「処刑?」
「武器を失った相手へ剣を向けています」
アルトは自分の剣を見る。
そしてラヴィナを見る。
理屈は理解できた。
だが、剣を下ろそうとは思わなかった。
「こいつは捜索を妨害している」
「だからといって――」
「下がれ」
「団長代理」
「命令だ」
兵士は動かなかった。
アルトの中で苛立ちが増す。
自分は騎士団長代理だ。
兄がいない今、騎士団を動かす立場。
なのに目の前の少女も、後ろの兵士も、自分の言うことを聞かない。
(どうして誰も)
胸の熱がまた強くなる。
(どうして、俺の邪魔をする)
その感情さえ、ゼルヴァには燃料だった。
ラヴィナは地面へ片手をつきながら顔を上げる。
(こいつ……本気で俺を斬る気か)
脚が重い。
腕にも力が入らない。
呼吸も乱れている。
(まずい……身体が動かねえ)
アルトはゆっくりと剣を上げた。
その表情には、もう研究室で見せた恐怖は残っていなかった。
あるのは、自分の中に生まれた力への確信と、目の前の相手を圧倒しているという静かな高揚だけだった。
ラヴィナは剣先を見上げた。
逃げる足は動かない。
小太刀には届かない。
フィレナもない。
そして、アルトの剣が振り下ろされようとしていた。




