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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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11/43

第11話 30秒の賭け

 アルトの剣が、ゆっくりと持ち上がった。


 ラヴィナは地面へ片手をついたまま、その剣先を見上げていた。


 脚が動かない。腕も重い。フィレナは斬られ、小太刀は手の届かないところに転がっている。


(まずい……)


「団長代理! おやめください!」


「その者はもう武器を持っていません!」


 それでもアルトは剣を下ろさない。


(こいつ……本気で俺を斬る気か)


 その時だった。


「お待ちください!」


「ばあちゃん?」


 リゼアだった。


 村人たちの間から前へ出てくる。


「来るな!」


 だがリゼアは止まらない。アルトの剣が届くほど近くまでは行かず、それでもラヴィナを庇うように前へ立った。


 そして深く頭を下げる。


「この子が無礼を働いたのでしたら、私がお詫びいたします」


「この女は捜索を妨害しています」


「承知しております」


「兄上の行き先を知っている可能性がある。それを隠している」


「それでも」


 リゼアは顔を上げた。


「武器を失った十六歳の娘を斬る理由にはなりません」


「ばあちゃん、いいから下がってろ!」


「ラヴィナは黙っていなさい」


「でも――」


「あなたは今、立つこともできないでしょう」


 言い返せなかった。


「お願いです。どうか、もう剣を収めてください」


 アルトは答えない。


 そこへ別の声が飛んだ。


「ラヴィナ!」


 ミレイだった。


 地面へ手をつくラヴィナ。踏み潰されたフィレナ。離れた場所の小太刀。そして剣を持ったアルト。


 ミレイの顔から血の気が引いた。


「ラヴィナ……」


「ミレイまで来るな!」


 だがミレイはアルトの前まで進み、突然膝をついた。


「おい!」


 両手を地面につけ、そのまま頭を下げる。


「騎士様……どうか、お許しください」


「ミレイ、やめろ!」


「ラヴィナが失礼なことを言ったなら、私も謝ります」


「お前が謝ることじゃない!」


「だから……お願いです。ラヴィナを斬らないでください」


「やめろって!」


 ラヴィナは立とうとして、再び膝をつく。


(くそ……)


 自分のために祖母が頭を下げている。友人まで地面へ額をつけている。


 斬られること以上につらかった。


「団長代理」


 兵士の一人が前へ出た。


「我々からもお願いいたします。剣をお収めください」


「お前までか」


「この者はすでに戦闘能力を失っています」


「俺の命令が聞けないのか?」


「命令であっても、これ以上は――」


 アルトは周囲を見た。


 リゼア。ミレイ。ラヴィナ。村人たち。そして自分が連れてきた兵士。


 誰一人として、自分に従おうとしていない。


(どうして誰も)


 剣を握る手に力が入る。


(どうして、俺の邪魔をする)


 胸の奥が熱くなる。


 ゼルヴァが、その感情に呼応するように膨らんでいく。


 ラヴィナが顔を上げた。


(また……強くなった?)


 だが次の瞬間。


「……?」


 アルトも同時に振り返る。


 二人の視線が同じ方向へ向いた。


 何かが近づいてくる。


 強い。


 いや、大きい。


 ラヴィナがこれまで感じたことのないほど大きな精霊力。


(何だ……?)


 圧倒的なのに怖くない。


 澄んでいる。


 深い水の中にいるような静けさ。


 一方、アルトの顔には露骨な不快感が浮かんだ。


(何だ、これ)


 胸の内側でゼルヴァが拒絶している。


(精霊力……?)


 魔力と精霊力は相反する。


 ラヴィナから感じたものより遥かに強い。


 その時。


「その揉め事、俺が引き受けてもいいか?」


 全員が振り返る。


 非常に大柄な男が立っていた。


 ディルク・ハイゼン。


 ディルクは周囲を一度見渡した。


 剣を持つ騎士。地面に膝をついた少女。踏み潰された花。止めようとしている兵士。頭を下げる二人。


(こんな小さな田舎の村に……)


 アルトを見る。


(魔力を持った騎士)


 次にラヴィナ。


(それに、精霊使いの少女?)


「何者だ?」


「ディルク・ハイゼン」


「何をしに来た」


「それは後でいい」


 ディルクはラヴィナを一度見て、アルトへ視線を戻した。


「騎士様。そこの娘が何をしたかは知らない」


「なら口を出すな」


「そうもいかない。素手の少女を王国の騎士が斬れば、立場が悪くなるのは騎士様の方じゃないか?」


「俺を脅しているのか?」


「逆だ。止めてる」


 ディルクは周囲を顎で示した。


「見てる奴が多すぎる」


 アルトは黙った。


「だから何だ」


「一つ、賭けをしないか?」


「賭け?」


「三十秒」


 ディルクは両手を軽く広げる。武器は持っていない。


「俺は素手で、騎士様の剣を三十秒避ける。その三十秒、俺を本気で斬っていい」


 周囲がざわついた。


「おっさん、何言ってんだ?」


「俺が三十秒防ぎ切ったら、今回のことはなかったことにしてほしい」


「俺が勝ったら?」


「俺が斬られる」


「いやいや、斬られたら終わりだろ」


「そうだな」


「そうだな、じゃねーよ!」


 ディルクはアルトだけを見ていた。


「どうする?」


 アルトは男の体格を見る。


 鍛えている。


 だが素手。


 こちらには剣があり、今の自分にはゼルヴァがある。


(素手で三十秒?)


「いいだろう」


「ただし、もう一つ条件がある」


「何だ」


「人前ではやらない」


「なぜだ」


「俺が斬られた時、王国騎士団が大勢で一人の男を囲んで殺した、なんて噂が立ったら騎士様も困るだろ」


 アルトの表情がわずかに変わる。


「騎士様と俺。それから見届け人を一人」


「誰だ」


 ディルクがラヴィナを指した。


「そこの娘」


「俺?」


「お前が一番、この勝負の結果を見届ける理由がある」


 ラヴィナは黙った。


「場所は?」


 ディルクは山を見る。


「山奥を少し登ったところに花畑がある。そこにしよう」


 ラヴィナの顔が変わった。


「……何でおっさんが、あそこ知ってんだ?」


「そこでいい」


「質問に答えろよ」


「行けば分かる」


「何が分かるんだよ」


「少なくとも、ここより人はいない」


「そういう意味じゃねーよ」


 アルトは山を見る。


「そこへ行く」


 兵士たちが不安そうにする。


「お前たちはここで待て。これは俺が受けた賭けだ」


     ◇


 三人が山へ向かおうとした時。


 ディルクの足が一瞬だけ止まった。


 リゼアと目が合った。


 ほんの一瞬。


 リゼアの表情が変わったように、ラヴィナには見えた。


「……?」


 ディルクも何も言わない。


 リゼアも言わない。


「ばあちゃん?」


「……気をつけて行ってきなさい」


「うん」


 ラヴィナは二人の後を追った。


     ◇


 山道を三人で歩く。


 先頭はディルク。その後ろにアルト。最後をラヴィナが歩いていた。


 フィレナを失った反動はまだ残っている。


 ディルクが少し歩調を落とした。


「気遣わなくていい」


「そうか」


「普通に歩ける」


「なら普通に歩く」


「……変なおっさん」


 アルトは別のことを考えていた。


(やっぱり、この男からだ)


 近づくほど分かる。


 巨大な精霊力。


 胸の奥のゼルヴァがざわつく。


(忌々しい)


 一方、ラヴィナもディルクを見ていた。


(何だろ、この感じ)


 大きい。


 強い。


 だがアルトの魔力のような不快感はない。


 むしろ澄み切っている。


(このおっさんも精霊使いなのか?)


「なあ、おっさん」


「何だ」


「本当に何であの花畑知ってんだ?」


「昔、来たことがある」


「いつ?」


「昔だ」


「答えになってない」


「昔は昔だ」


「やっぱ変なおっさん」


 ディルクはわずかに笑った。


     ◇


 やがて木々が開けた。


 山奥の花畑。


 色とりどりの花が風に揺れている。


 少し前、エレナとミレイと三人でここへ来た。


(エレナ……)


 今どこにいるのか。


 アルトには絶対に教えない。


「ここでいい」


 ディルクが荷物を置いた。


 武器は出さない。


 完全な素手。


 アルトが剣を抜く。


「今ならやめてもいいぞ」


「騎士様こそ」


「後悔するなよ」


「三十秒だ」


 ディルクは大きく構えない。


 足を肩幅ほどに開いただけ。


 腕も自然に下ろしている。


(何だ、この立ち方)


 無防備に見える。


 なのに隙がない。


 アルトには、それ以上に精霊力が気持ち悪かった。


 ラヴィナには正反対だった。


(すげえ……)


 大きな力なのに濁りがない。


「ラヴィナ」


「何だよ」


「お前が合図しろ」


「分かった」


 ラヴィナは二人を見る。


(本当に大丈夫なのか?)


 アルトの剣は、ゼルヴァが発現してから別物になった。


 それを三十秒。


 素手。


 ラヴィナは息を吸った。


「……始め!」


 アルトが地面を蹴った。


 最初から容赦はなかった。


 アルトの剣がディルクの左肩へ走る。


 速い。


 ラヴィナは思わず息を呑んだ。


 さっき自分を追い詰めた時と同じ速度。


 いや。


 ディルクから感じる精霊力に反応しているせいか、魔力はさらに強くなっているように感じる。


 だが。


 ディルクがほんの少しだけ身体を傾けた。


 剣が肩の横を通過する。


「っ!」


 アルトはそのまま剣を返す。


 二撃目。


 ディルクが半歩下がる。


 空振り。


 三撃目。


 首。


 ディルクは顎をわずかに引いただけだった。


 剣先が目の前を通る。


(何だよ……)


 ラヴィナの目が大きくなる。


 避けている。


 間違いなく避けている。


 しかも大きく動いていない。


 剣先が届く直前。


 ほんの少しだけ。


 肩を引く。


 身体を捻る。


 頭を傾ける。


 半歩だけ位置を変える。


(紙一重……)


 アルトが突く。


 ディルクは身体を横へずらした。


 剣が脇を抜ける。


 ラヴィナには、ディルクがアルトの剣の流れを完全に読んでいるように見えた。


(来る場所が全部分かってんのか?)


 一方。


 アルトには、まったく違って見えていた。


(何でだ?)


 確かに肩を狙った。


 届く距離だった。


 なのに、剣先がディルクへ触れる直前でわずかに外れた。


(違う)


 もう一度斬る。


(俺はそこを狙った)


 剣が外れる。


 ディルクは大きく避けていない。


 それなのに届かない。


「どうした?」


 ディルクが静かに言う。


「まだ始まったばかりだぞ」


「言われなくても!」


 アルトが踏み込む。


 横薙ぎ。


 返す。


 突く。


 斜めに振り下ろす。


 連撃。


 ディルクは素手のまま。


 一度も剣へ触れていない。


 それでも一撃も入らない。


(おかしい)


 アルトの焦りが増す。


(避けてるだけじゃない)


 自分の手首は真っ直ぐ動いている。


 狙いも正しい。


 なのに最後だけ。


 剣の軌道がわずかにずれる。


(何をしてる?)


 ディルクの周囲。


 そこに何かがある。


 アルトの魔力が、それを嫌悪している。


 剣を振るたび、見えない何かに触れているような感覚。


「まだ十秒くらいだぞ」


 ラヴィナが言った。


「数えてるのか?」


「見届け人だからな!」


「ならちゃんと見てろ!」


「見てるよ!」


 アルトがさらに速度を上げる。


 ゼルヴァの熱が身体を巡る。


(当てる)


 目の前の男へ。


(絶対に当てる)


 ディルクが強ければ強いほど。


 自分の剣が届かないほど。


 対抗心が膨らむ。


 ゼルヴァがそれを力へ変える。


 踏み込みが速くなる。


 剣圧が増す。


 ラヴィナの表情が変わる。


(また上がった)


 さっきの自分との戦いより速い。


 アルトは右から斬る。


 ディルクが肩を引く。


 左。


 身体をわずかに沈める。


 突き。


 半身になる。


 剣先が服のすぐ横を抜ける。


(すげえ……)


 ラヴィナには、まるで剣とディルクが最初から打ち合わせているように見えた。


 アルトの剣が来る。


 ディルクが必要な分だけ動く。


 余分な動きが一つもない。


 自分の「流す」剣とも似ている。


 だが違う。


 ラヴィナは相手の力を小太刀で受け、流し、方向を変える。


 ディルクは剣にすら触れていない。


(剣の流れそのものを読んでる……?)


 アルトには、もっと異様だった。


(まただ)


 首を狙った。


 ディルクはほとんど動いていない。


 なのに剣先が首の横へ流れる。


(俺の剣が逸れてる)


 次。


 胸。


 外れる。


 脇腹。


 外れる。


 脚。


 外れる。


(違う。避けられてるんじゃない)


 そう思った。


(軌道を変えられてる)


 だが、ディルクは剣へ触れていない。


 どうやって。


 アルトには分からない。


 理解できないことが、さらに苛立ちを増幅させる。


「あと十秒!」


 ラヴィナの声。


(もう?)


 アルトの焦りが一気に強くなる。


「まだだ!」


 剣を両手で握る。


 真正面。


 最短距離。


 ディルクの胸へ突きを放つ。


 これまでで最速。


 ディルクの身体がわずかに横へ動いた。


 同時に。


 アルトは自分の剣先が、何かに押されたように感じた。


「なっ……」


 突きがディルクの脇へ抜ける。


 ディルクはアルトの腕へ触れてすらいない。


(何だ今の)


 アルトはすぐ剣を引く。


 もう一度。


 今度は肩から腰へ。


 強烈な斬撃。


 空を切る。


「五!」


 ラヴィナが数え始めた。


「四!」


 アルトの顔から余裕が消える。


「三!」


 剣を振る。


 届かない。


「二!」


 もう一度。


 ディルクがほんの少し首を傾ける。


 剣先が頬の横を通る。


「一!」


 アルトは最後の一撃を振り下ろした。


 ディルクの頭上へ。


 確実に届く。


 そう見えた。


 ラヴィナには、ディルクがほんの半歩だけ横へ移動したように見えた。


 アルトには、自分の剣がディルクの直前で横へ滑ったように感じた。


 剣が地面へ振り下ろされる。


「……三十秒」


 ラヴィナの声が花畑に響いた。


 静寂。


 アルトの剣先は地面を向いている。


 ディルクは立っていた。


 傷一つない。


 服にも切れ目一つない。


 呼吸すらほとんど乱れていなかった。


 アルトは荒い息を吐く。


「……」


 信じられない。


 自分は本気だった。


 手加減はしていない。


 ゼルヴァも発現していた。


 ラヴィナの速度に追いついた力。


 その剣が。


 一度も届かなかった。


 ディルクは勝ち誇らない。


「終わりだ」


 それだけだった。


 アルトはしばらく動かなかった。


 剣を握ったまま、ディルクを見る。


(避けられた?)


 違う。


(俺の剣が……逸らされた?)


 分からない。


 だが結果だけは明確だった。


 三十秒。


 一撃も入らなかった。


 アルトは剣を持ち上げた。


 ラヴィナが一瞬警戒する。


 しかしアルトは、その剣を鞘へ戻した。


「……俺の負けだ」


 ラヴィナが少し驚いた。


 ディルクは頷くだけ。


「約束は?」


 アルトはラヴィナを見る。


 先ほどまで殺そうとしていた少女。


 ラヴィナも黙って見返す。


「今日のことは……なかったことにする」


「アランのことも?」


 ラヴィナがすぐに聞く。


「お前から行き先を聞き出すのはやめる」


「それだけ?」


「兄上の捜索までやめるとは言っていない」


 ラヴィナは顔をしかめる。


 だが、賭けの条件は今回の件を不問にすること。


 アラン捜索そのものをやめさせる約束ではない。


「分かった」


 ディルクが言った。


 アルトはディルクを見る。


「一つだけ聞かせろ」


「何だ?」


「お前……何者なんだ?」


 ディルクは少し考えた。


「港で働いてる男だ」


「そんなわけがあるか」


「嘘は言ってない」


「港の人間が、今の剣を全部避けるのか?」


「港にも色んな奴がいる」


「ふざけているのか」


「別に」


 アルトは睨んだ。


 だが賭けには負けた。


 ここでさらに剣を抜けば、自分で交わした約束まで破ることになる。


「……ディルク・ハイゼン」


「何だ」


「覚えておく」


「好きにしろ」


 アルトは踵を返した。


「帰るのか?」


 ラヴィナが聞く。


「約束は守る」


 それだけ言い残し、山道へ入っていった。


     ◇


 山を下りながら、アルトは一言も話さなかった。


 胸の奥にはまだゼルヴァの熱が残っている。


 それ以上に、ディルクから感じた精霊力が頭から離れない。


(あいつも精霊使いなのか?)


 ラヴィナのフィレナとは違った。


 もっと大きい。


 もっと深い。


 そして何より、自分の魔力が強く拒絶した。


(何をされた)


 剣は確かに狙った。


 ディルクの動きだけなら、届いていたはずの攻撃もあった。


 それなのに最後の瞬間だけ軌道がずれた。


(精霊力で……俺の剣を?)


 答えは出ない。


 セリアなら何か分かるだろうか。


 そう考えた瞬間、別の言葉まで思い出した。


 その力を怖いと思わなくなった時の方が、私は怖い。


 アルトは右手を見る。


 さっきまで。


 自分はゼルヴァを使うことを、怖いと思っていなかった。


 むしろ。


(気持ちよかった)


 認めたくない事実。


 ラヴィナへ追いついた時。


 吹き飛ばした時。


 フィレナを斬った時。


 そしてディルクへ本気で剣を振るった時。


 力が増すほど、自分は高揚していた。


(俺は……)


 アルトは思考を止めた。


 今は考えたくなかった。


     ◇


 花畑には、ディルクとラヴィナが残っていた。


 しばらく沈黙。


 ラヴィナはアルトが消えた山道を見ていた。


 完全に姿が見えなくなってから、ようやく息を吐く。


「……助かった」


 そのまま地面へ座り込んだ。


「大丈夫か?」


「大丈夫に見える?」


「見えないな」


「じゃあ聞くなよ」


 ディルクが少し笑う。


 ラヴィナはその顔を見上げた。


 そして頭から足まで見る。


 一度。


 もう一度。


「何だ?」


「……おっさん、すげーな」


「そうか?」


「そうか? じゃねーよ」


 ラヴィナは呆れた。


「あいつ、さっき俺を吹っ飛ばしたんだぞ」


「見てた」


「しかも、そいつが本気で三十秒斬りかかって、一回も当たらないって何なんだよ」


「三十秒だからな」


「三十秒でもおかしいだろ!」


「そうか?」


「そうだよ!」


 ラヴィナは少し考え、目を細くした。


「何者だ?」


 ディルクは答えない。


「港で働いてるとか言うなよ」


「働いてるぞ」


「それはさっき聞いた」


「なら答えは知ってるだろ」


「絶対それだけじゃない」


 ディルクは荷物を持ち上げる。


「帰るぞ」


「待て待て」


 ラヴィナも立とうとする。


「っ……」


 脚に力が入りきらない。


 ディルクが手を差し出した。


 ラヴィナはその手を見る。


「いらない」


「そうか」


 あっさり引っ込める。


「……ちょっとくらい粘れよ」


「いらないんだろ?」


「そうだけど」


 ラヴィナは自力で立ち上がった。


 身体はまだ重い。


 だが先ほどよりはましだった。


「なあ」


「何だ」


「ばあちゃんと知り合いなのか?」


 ディルクがラヴィナを見る。


「何でそう思う」


「さっき目合ってただろ」


「よく見てるな」


「それに、この花畑も知ってる」


 ディルクは少し黙った。


 ラヴィナは待つ。


 今度は誤魔化させるつもりはなかった。


「お前」


「何だよ」


ディルクはラヴィナの顔を改めて見た。


「お前……リゼア・ベルク様のお孫さんか?」


 それまでとは違う言葉遣いに、ラヴィナの表情が変わった。


「……ばあちゃんを知ってんのか?」


「ああ」


 短い返事だった。


 だが、その声には先ほどまでとは違う響きがあった。


「何で?」


 ディルクはすぐには答えなかった。


 山の下――シャルネ村がある方角へ目を向ける。


「俺は、リゼア様にお会いするためにここへ来た」


「ばあちゃんに?」


 ラヴィナはそこで言葉を止めた。


「……リゼア様?」


 妙だった。


 ディルクほどの男が、村で暮らす祖母を当然のように「様」付けで呼んでいる。


 しかも、ただ礼儀正しいだけには聞こえなかった。


 そこには明らかな敬意があった。


「おっさん……ばあちゃんとどういう関係なんだ?」


 ディルクはラヴィナを見る。


 だが、その問いには答えなかった。


「まず、リゼア様に会ってからだ」


「いや、だから何で『様』なんだよ」


「何者なんだよ」


 ディルクはわずかに笑った。


「港の労働者だ」


「だから、それは何度も聞いた」


 ディルクは歩き始める。


「おい!」


 ラヴィナはその大きな背中を追った。


(ばあちゃん……こいつとどういう関係なんだ?)


 花畑を風が抜けていく。


 地面には、先ほどの戦いで踏まれた草が残っていた。


 ラヴィナはもう一度ディルクの背中を見る。


 エレナとアランが村を去ったばかりだというのに。


 今度は、祖母の過去を知っているかもしれない男が現れた。


 シャルネの村へ戻れば、何かが分かる。


 ラヴィナは期待に胸を膨らませて興味深々だった。


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