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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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12/35

第12話 もっと強くなるために

 山を下りきる頃には、ラヴィナの脚もようやくまともに動くようになっていた。


 少し前を歩くディルクの背中を追いながら、何度目か分からない疑問を転がす。


(ばあちゃん……こいつとどういう関係なんだ?)


 山奥の花畑を知り、祖母の名を知り、それどころか「リゼア様」と呼んだ。


「なあ。やっぱ今教えろよ」

「家に着けば分かる」

「さっきからそればっかだな」


 家へ着き、ラヴィナが戸を開ける。


「ばあちゃん、戻った」


 リゼアはまずラヴィナの顔と身体を見た。傷が増えていないことを確かめるようだった。


 やがてディルクへ目を向ける。その瞬間、ディルクの空気が変わった。大きな身体をわずかに低くし、丁寧に頭を下げる。


「リゼア様。ご無沙汰しております」


「ええ」


 リゼアも驚かなかった。


(やっぱり知り合いじゃねーか)


 ラヴィナは2人を軽くすねたように見た。


 すると、ディルクはすぐに表情を曇らせ、荷物を下ろした。


「リゼア様。今日は、ご連絡があります」


 新聞を取り出し、卓上へ広げる。


「エレナ王女殿下が亡くなられたと、王都から発表がありました」


 リゼアもラヴィナも驚かなかった。


「……ご存じでしたか?」

「ええ」

「知ってるよ」

「なぜ?」


 リゼアは椅子を勧めた。


「座ってください。少し長い話になります」


     ◇


 ディルクは口を挟まず、リゼアの話を聞いた。


 エレナが生きてシャルネへ来たこと。アランも一緒だったこと。アランは全身に傷を負っていたこと。


「私が診ました。本来なら一週間ほど安静にしてほしい状態でした」


「それで、こちらに?」

「ええ。二人ともしばらくこの家にいました」


 ディルクは部屋を見回した。


(やはり……)


「その後、この新聞が届きました。状況が変わり、二人は村を出ました」

「行き先は?」

「それは、私から申し上げることではありません」


 ディルクはそれ以上聞かなかった。十年後の決断や王都会議の票について、リゼアも話さない。


 しばらくして、ディルクが口を開いた。


「実は、その二人らしい男女に会いました」

「え?」


 ラヴィナが身を乗り出す。


「どこで?」

「ルベルだ。淡いプラチナブロンドの長い髪。青紫色の瞳をした若い女性だった」


 リゼアの表情が変わる。


「男の方は肩幅が広く、かなり鍛えていたように見えた。怪我を隠していたが、まだ完全には治っていなかった」

「アランだ」


 ラヴィナが即答する。


「二人は婚約者同士だと言っていた」

「それなら絶対そうだ」


 リゼアが小さく息を吐いた。


「そうですか……無事でしたか」

「元気だった?」

「少なくとも酒場で飯を選んで、二人で笑えるくらいにはな」

「飯?」

「そこが気になるのか?」

「元気だったか分かるだろ」


 ディルクが少し笑う。


「腹は減っていたみたいだぞ」

「じゃあ元気じゃん」


(よかった)


 ラヴィナの肩から力が抜けた。新聞では死者と罪人のように扱われている二人が、どこかの酒場で飯を選び、笑っていた。


 それでも、生きている。二人で笑っていた。今はそれだけで十分だった。


     ◇


「で」


 ラヴィナが二人を交互に見る。


「今度こそ教えろよ」

「何を?」

「とぼけんな。何でおっさんが、ばあちゃんを『リゼア様』って呼ぶんだよ。ばあちゃんもこいつ知ってるだろ」


 ディルクがリゼアを見る。リゼアが小さく頷いた。


「俺は昔、ガルド様に剣を教わった」


 ラヴィナが止まる。


「……じいちゃんに?」

「ああ」

「弟子?」

「そうだ」

「じいちゃん、弟子なんていたのかよ」

「いましたよ」

「聞いてねーぞ」

「話す機会がなかったからね」

「八年もあっただろ」


 ラヴィナはディルクの大きな身体を見た。昨日、アルトの剣を三十秒、一度も受けずに凌いだ男。


「……じいちゃんって、そんなに強かったのか?」

「知らないのか?」

「剣が強かったのは知ってる。俺に教えたのもじいちゃんだし」


 ディルクはリゼアを見た。リゼアは止めない。


「ガルド・ベルク様は、かつてカルゼリア国王から『剣聖』の地位を与えられた剣士だ」

「……剣聖?」

「ああ」

「じいちゃんが?」

「そうだ」


 五歳の自分に剣を教えた祖父。構えが悪ければ直され、何度も走らされた。上手くできた時だけ、ほんの少し笑った。


 そんな祖父が、国家から剣聖と認められた人物だった。


「何で教えてくれなかったんだよ」

「あなたにとっては、おじいさんでしょう。それで十分だと思っていました」

「俺は全然十分じゃない」


 ディルクが少し懐かしそうに笑う。


「少なくとも、俺が知っている剣士の中では特別だった」

「それだけじゃない」

「まだあんの?」

「ガルド様は精霊使いだった」


 ラヴィナの表情が変わった。


「……じいちゃんも?」

「ああ」

「何の精霊?」

「雷だ。精霊花はライゼル」


 山奥の花畑でミレイが見つけた銀白色の花が浮かぶ。


(あの花……)


「じいちゃん、あれ使ってたのか?」

「ああ」


 剣聖。精霊使い。ライゼル。


 知っているはずの祖父が、急に知らない人間になっていく。


「何だよ、それ。じいちゃん、何にも教えてくれてねーじゃん」


 誰もすぐには答えなかった。


     ◇


「もう八年か」


 ディルクがぽつりと言った。


「ええ」


 リゼアの返事は短かった。


 師を失った男と、夫を失った女。ラヴィナは二人の沈黙を見ていた。


 そして、忘れようとしていた光景が戻る。


 赤。


 地面。


 血だらけで倒れている祖父。


 動かない身体。


(じいちゃん……)


 八歳だった。何が起きたのか分からなかった。何度も思い出し、そのたびに考えるのをやめた。


「なあ」


 二人がラヴィナを見る。


「あの日、何があったんだ?」


 空気が止まった。


「じいちゃん、普通に死んだんじゃないだろ」


 リゼアの表情から柔らかさが消える。


「……昔のことです」

「答えになってない」

「ラヴィナ」

「俺、もう十六だぞ」

「年齢の問題ではありません」

「じゃあ何の問題だよ」


 リゼアは答えない。


 ラヴィナはディルクへ向き直った。


「おっさんは?」


 ディルクもすぐには答えなかった。


「俺から話すことじゃない」

「知ってるんだな」

「……」

「二人とも何か知ってるじゃん」


 返事はない。


 ラヴィナは唇を噛んだ。問い詰めても、今は話さない。それだけは分かった。


「……分かったよ」


 納得したわけではない。


 ラヴィナは強引に話題を変えた。


「じゃあ、もう一個」

「まだあるのか?」

「ある」


 ディルクを見る。


「おっさんの、あれ何なんだ?」

「何が?」

「とぼけんな。アルトと戦ってた時のやつ」


 巨大な精霊力。そして、アルトの剣が一度も当たらなかった三十秒。


「俺にも教えてくれ」

「何を?」

「その精霊力の使い方」


 ディルクの目が少し細くなる。


「なぜだ」


 ラヴィナは黙った。


 アルトとの戦いが蘇る。


 前回は勝った。今回は完全に負けた。フィレナを斬られ、小太刀を弾かれ、最後は立つことすらできず、祖母とミレイが自分のために頭を下げた。


 そしてディルクは、そのアルトの剣を素手で三十秒間凌ぎ切った。


「何のために、教える?」


 しかし、答えはすぐには出なかった。


 山賊を倒すため。自分を守るため。誰かを守るため。


 エレナの顔も浮かんだ。


「……負けたくない」

「誰に?」

「誰にも」

「それは無理だ」

「じゃあ、負けても何もできなくなるのは嫌だ」


 ディルクは黙って聞いている。


「俺に教えてくれ」

「断る」

「早っ!」

「教える理由がない」

「じいちゃんの弟子だったんだろ?」

「だから何だ」

「だったら孫にも教えろよ」

「話が飛びすぎだ」

「ちょっとくらいいいだろ」

「よくない」

「ケチ」

「何とでも言え」

「一回だけでも――」


「ラヴィナ」


 リゼアの声だった。


「何?」

「もう剣はやめなさい」


 ラヴィナが目を瞬く。


「……急に何だよ」

「今日のことを見たでしょう」


 その一言で黙った。


「あなたが剣を持って帰ってくるのを、私は何度も見てきました。山賊と戦った日も、怪我をした日も」

「でも今まで何も――」

「今日までは」


 リゼアの声は静かだった。


「今日は、あなたが本当に死ぬかもしれないと思いました」


 ラヴィナは祖母の顔を見られなかった。


「いつかは剣を置いて、普通に生きてほしいと思っています」

「普通って何だよ」

「少なくとも、毎日のように命を賭ける暮らしではありません」

「俺は――」


 反論しかける。


 だが、アルトの前で頭を下げた祖母の姿が浮かんだ。ミレイの土下座も。


「……分かったよ」


 珍しく、それ以上言い返さなかった。


 ディルクも何も言わない。


 その日の話は、そこで終わった。


 ただ。


 ラヴィナの中では、何一つ終わっていなかった。


     ◇


 翌朝。


 ディルクは荷物を背負った。


「リゼア様。それでは」

「お気をつけて」


 ラヴィナの姿はない。


 ディルクは特に尋ねず、シャルネ村を出た。


 朝の山道をしばらく歩く。


 その先。


 道の真ん中に一人の少女が立っていた。


 腰には一本の小太刀。


 ディルクが足を止める。


「何してる」

「待ってた」

「昨日断っただろ」

「知ってる」

「リゼア様にも剣をやめろと言われた」

「それも知ってる」

「なら帰れ」

「嫌だ」


 ディルクがため息をつく。


「一回だけ」

「何が」


 ラヴィナが小太刀の柄へ手を置いた。


「賭けしようぜ」


 ディルクの表情が少し変わる。


「昨日の真似か」

「そう」

「何を賭ける」

「三十秒」


 ラヴィナはディルクを真っ直ぐ見る。


「今度は俺が攻める」

「条件は?」

「三十秒以内に一発でも俺の小太刀が当たったら、おっさんの精霊力の秘密を教えろ」

「俺が三十秒避け切ったら?」


 ラヴィナは少しだけ黙った。


 腰の小太刀へ視線を落とす。


 五歳から握ってきた。


 八歳で祖父を失っても、毎晩振った。


 やらないと落ち着かなかった。


 剣を振ることは、もう生活の一部だった。


 ラヴィナは顔を上げる。


「剣を捨てる」


 ディルクから軽さが消えた。


「意味、分かって言ってるのか?」

「分かってる」

「昨日のお前は、あの騎士に負けた」

「ああ」

「俺には一撃も当てられないかもしれない」

「分かってる」

「負けたら本当に剣を捨てるんだな?」

「捨てる」


 迷わなかった。


 ディルクはラヴィナを見る。


「五歳から続けてきた剣でも?」


 今度は、ほんの少しだけ間が空いた。


 小さかった自分の手。


 祖父が直してくれた構え。


 八歳から一人で続けた夜の稽古。


 全部が小太刀につながっている。


「それでもだ」

「なぜそこまで賭ける」

「今のままじゃ駄目だって、昨日分かった」


 ラヴィナは柄を握った。


「フィレナを斬られた。小太刀を飛ばされた。最後は何もできなかった」

「……」

「今の俺じゃ、もっと強い奴が来たら何もできない」


 昨日のアルト。剣先。動かなかった脚。自分のために頭を下げた二人。


「だから、今より上に行けないなら――」


 ラヴィナの指に力が入る。


「その時は、剣を捨てる」


 ディルクは長い間、何も言わなかった。


 朝の風が二人の間を抜ける。


「一つ訂正しろ」

「何を?」

「俺に一撃入れたら、弟子にしろとは言ってないな?」

「言ってない」

「精霊力の秘密を教えろ。それだけだな?」

「ああ」

「それを聞いた後、どうするかもお前次第だ」

「分かってる」


 ディルクはもう一度ラヴィナを見る。


 やがて荷物を肩から下ろした。


「分かった」


 ラヴィナの目が輝く。


「やるのか?」

「ああ」

「よし!」

「ただし」

「まだあんの?」

「昨日と同じ三十秒だ」

「望むところだ」


 ディルクは荷物を道端へ置いた。


 武器は持たない。


 昨日と同じだ。


 ラヴィナは腰から一本の小太刀を抜いた。


 鞘から刃が抜ける音が、朝の静かな道に響く。


 ディルクの視線がラヴィナの胸元へ移った。


「フィレナは?」


 ラヴィナは一瞬だけ黙った。


 昨日、アルトに斬られた花。


 それがなければ、自分の速度は大きく落ちる。


 けれど今は、その問いに答えなかった。


 ディルクも追及しない。


「三十秒以内に一撃でも俺へ入れれば、お前の勝ち」

「ああ」

「俺が三十秒避け切れば?」


 ラヴィナは小太刀を握り直した。


「俺は剣を捨てる」


 風が吹いた。


 草が揺れる。


 ラヴィナは深く腰を落とした。


 昨日までの軽い笑みはない。


 アルトを挑発した時の余裕もない。


 目の前の男に、一撃を入れる。


 それだけを考える。


 ディルクも、もうラヴィナを子供を見るような目では見ていなかった。


「じゃあ、始めるか」


 ラヴィナは小太刀の切っ先をわずかに下げた。


「今度は俺が、おっさんに当てる番だ」


     ◇


 朝の山道に、冷たい風が抜けていった。


 ディルクは道端へ荷物を下ろした。


 ラヴィナは腰から一本の小太刀を抜く。胸元にはフィレナがある。だが、まだ触れない。


「準備はいいか?」


「いつでも」


 ディルクは構えらしい構えを取らない。両腕を自然に下ろし、ただ立っている。


 三十秒以内に一撃。


 できなければ、剣を捨てる。


 五歳から握り続けてきた剣を。


「行くぞ」


「ああ」


 ラヴィナは木立の間を抜け、一気に間合いを詰めた。


 最初から手加減はしない。


 小太刀を上段から振り下ろす。


 ディルクは動かない。


(もらった――)


 刃が肩へ届く、その直前。


 身体がほんの少し横へずれた。


「っ!」


 刃は服のすぐ脇を通過する。


 ラヴィナは止まらない。着地と同時に腰を捻り、横薙ぎへつなげる。


 半歩。


 ディルクが下がる。


 また届かない。


 今度は胸へ突く。


 身体をわずかに斜めへ向けられ、切っ先が空を突き抜けた。


(速い……)


 ラヴィナは距離を取る。


 いや。


 違う。


 ディルクが常に高速で動いているわけではない。


 むしろ、ほとんど動かない。


 刃が届く寸前まで待ち、必要な距離だけを瞬間的に動く。


 肩一つ。


 半歩。


 身体を少し傾けるだけ。


 動き始める瞬間が異常なほど正確だった。


(だったら)


 再び踏み込む。


 斜めから肩。


 かわされる。


 刃を返して脇腹。


 身体を引かれる。


 重心を落とし、下から斬り上げる。


 ディルクは首を傾けただけだった。


「くそっ」


 間合いを変える。


 正面から行くと見せ、直前で左へ。


 背後へ回り込んで小太刀を走らせる。


 ディルクは振り返りもしない。


 一歩だけ前へ出た。


 また空振り。


(何だよ、これ)


 届きそうなのに届かない。


 あと指一本。


 あと半歩。


 それだけの距離を毎回正確に外される。


 フィレナを使っていない今のラヴィナは、昨日ゼルヴァを発現させたアルトより明らかに遅い。


 そのアルトですら、ディルクには一撃も入れられなかった。


(だからって、このまま終われるかよ)


 突き。


 横薙ぎ。


 脚への斬撃。


 すべて空を切る。


「そのままだと、三十秒終わるぞ」


 ディルクの声には息切れ一つない。


「まだ終わってねーだろ!」


「そうだな」


 口元がわずかに緩んだ。


「余裕ぶってんじゃねーよ」


「余裕がないように見えるか?」


「今からなくしてやる」


 ラヴィナは大きく距離を取った。


 左手が胸元へ伸びる。


「フィレナ」


 青白い花から精霊力が身体へ流れ込んだ。


 脚。


 腕。


 背中。


 全身が一気に軽くなる。


 踏み込みも、跳躍も、反応も、速度も跳ね上がった。


 地面を蹴る。


 一瞬で間合いへ入る。


 小太刀が走る。


 だが。


 ディルクの表情は変わらない。


 刃が届く直前、わずかに肩を引く。


 外れる。


 次。


 さらに速く。


 それもかわされた。


(やっぱりな)


 ラヴィナは驚かなかった。


 フィレナを使えば勝てる。


 そんな単純な話ではない。


 むしろフィレナを使った瞬間から、ディルクの反応はさらに正確になったように見えた。


 ラヴィナは右へ跳ぶ。


 ディルクの視線が追う。


 左。


 また追う。


 前。


 右。


 左。


 木の幹を蹴って角度を変えても、顔は常にラヴィナのいる方向を捉えている。


(こいつ……俺の動きじゃない)


 もう一度右へ跳ぶ。


(精霊力を追ってる?)


 フィレナを使う前より、自分の位置を正確に把握されている。


 なら。


(これ、使えるんじゃねーか?)


 ラヴィナの目が細くなった。


 右。


 左。


 また右。


 両脚で細かく地面を蹴り、木立も使って一定の軌道を作らない。


「そんな子供騙しで、俺に一撃入れられると思うのか?」


「さあな!」


 右側から一気に踏み込む。


 身体を小さく畳む。


 重心を低く。


 小太刀も下げる。


 狙いはディルクの脚。


 そう見える形を作った。


 ディルクには見えている。


 小太刀も。


 フィレナも。


 ラヴィナ自身も。


(ここだ)


 間合いへ入る直前。


 ラヴィナの左手が胸元へ伸びた。


 フィレナを掴む。


 そして――捨てた。


 青白い花が宙へ舞う。


 同時に右手の小太刀を逆手へ持ち替えた。


 ディルクへ向かっていた刃を、地面へ。


 ザッ、と土へ突き刺す。


 フィレナ。


 精霊力。


 小太刀。


 それまでディルクへ向かっていたものが、一瞬で攻撃線から消えた。


 ディルクの目がわずかに動く。


 その一瞬。


 ラヴィナは地面へ刺した小太刀を支点に、右腕で身体を支えた。


 前へ進んでいた勢いを殺さない。


 低く沈めた身体を回転させる。


 左脚が大きく跳ね上がった。


 ディルクの目が見開かれる。


 間に合わない。


 ドンッ!


 ラヴィナの左足が、ディルクの顔面を捉えた。


     ◇


 反動でラヴィナの身体が回る。


 着地。


 一歩。


 二歩。


 体勢を整え、すぐに振り返る。


 ディルクは――。


「……は?」


 立っていた。


 顔が少し横を向いている。


 それだけ。


 倒れていない。


 よろめいてすらいない。


「嘘だろ」


 ディルクがゆっくり顔を戻し、頬へ手をやった。


「……入ったな」


「結構、勢いつけて入ったぞ?」


「ああ」


「何で立ってんだよ」


「知らん」


「知らんって何だよ!」


 ラヴィナは自分の左足を見る。


 手応えはあった。


 間違いなく顔面へ入った。


 むしろ自分の脚の方が少し痛い。


「顔、石でできてんのか?」


「人の顔を何だと思ってる」


「蹴られて平然としてる奴に言われたくねーよ」


 ディルクは頬を軽く擦った。


 その様子を見ていたラヴィナの口元が、ゆっくり上がる。


「でも」


 地面へ刺した小太刀を引き抜いた。


「俺の勝ちだな」


 ディルクの手が止まる。


「……何?」


 ラヴィナは自分の左足を少し持ち上げて見せる。


「一撃、入った」


「……」


「剣を当てろとは言ってないだろ」


 ディルクが黙る。


「条件は『三十秒以内に一撃でも当てる』だった」


「……確かにな」


「蹴りだって一撃だ」


 ラヴィナは勝ち誇ったように笑った。


 ディルクは何も返さず、先ほどの一瞬を思い返す。


 フィレナを使ったラヴィナの位置は、使う前より遥かに明確だった。


 右。


 左。


 接近。


 低い姿勢。


 小太刀。


 すべて捉えていた。


 だからこそ。


 フィレナが身体から離れた瞬間、精霊力の中心を追った。


 さらに小太刀まで地面へ向かった。


 自分へ向かっていた精霊力と刃が同時に消えた。


 ほんの一瞬。


 攻撃が終わったと判断した。


 その瞬間に、ラヴィナ自身の左脚が来た。


(精霊力を追いすぎたか)


 反応が一瞬遅れた。


 そして、その一瞬を作ったのはラヴィナだった。


「最初から、それを狙ってたのか?」


「途中から」


「最初からじゃないのか」


「そんなの無理だろ。おっさんがどう避けるかも知らなかったんだから」


「じゃあ、いつ気づいた」


「フィレナ使ってから」


 ラヴィナは小太刀を鞘へ戻した。


「使う前より、おっさんの方が俺の位置分かってる感じしたから」


「それだけで?」


「右行っても左行っても、ずっと見てただろ」


「目で追ってただけかもしれない」


「だったらフィレナ捨てても同じだったはずだろ」


 ディルクは返さなかった。


 ラヴィナが鼻で笑う。


「当たりじゃん」


「……なるほどな」


「だから試した。フィレナを捨てて、小太刀も攻撃から外した」


「それで最後が蹴りか」


「剣ばっか見てるからだよ」


「昨日、お前も剣を飛ばされてただろ」


「昨日の話すんな」


「都合がいいな」


「勝った奴が偉いんだよ」


「そういう決まりだったか?」


「今決めた」


 ディルクはしばらくラヴィナを見つめた。


 速さだけではない。


 力でもない。


 戦いの最中に相手を見て、気づき、試し、相手の強みそのものを利用した。


 その姿に、昔の記憶が重なる。


 自分が尊敬した剣士。


 ガルド。


 その孫が、目の前で得意そうに笑っている。


「やられた」


「だろ?」


「完敗だ」


 ラヴィナは満足そうに笑った。


 だが、すぐに眉を寄せる。


「何で嬉しそうなんだよ」


「そう見えるか?」


「見える」


 ディルクは答えなかった。


 ただラヴィナを見る。


 悔しさはなかった。


 むしろ、胸の奥には温かいものがあった。


 ガルドの孫が、自分で考え、自分で答えを見つけ、自分から一撃を奪った。


 ディルクの口元が、ほんの少しだけ緩む。


「ほら、やっぱ笑ってんじゃん」


「うるさい」


 ラヴィナは勝ち誇ったように笑った。


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