第34話 まだ見ぬ花のように
花は、売れる前から誰かの一日を支えている。
ミレイはこの頃、そんなことを考えるようになった。
ルベルの花屋では、朝の仕事が始まっていた。花びらに傷がないか確かめ、葉を整え、通りから見やすい場所へ籠を移す。シャルネの村で花を売っていた頃は、花を摘んで籠に入れれば準備ができた。店を構えると、それだけでは済まない。
「ミレイ、これどこに置く?」
ロイが籠を抱えて店の奥から出てきた。
「そっちの棚。あ、もう少し右ね」
「昨日は左だったぞ」
「昨日とは並べ方を変えたの」
「花って、そんなに場所が大事なのか?」
「小さな花が隠れてしまうでしょう?」
ロイは籠を置き、少し離れて眺めた。
「……そう言われると、違う気もするな」
「今、適当に返事したでしょう」
「してないって!」
ミレイは笑った。自分の店を持てたことは嬉しい。でも、毎日楽なわけではない。客が少ない日も、花が思うように売れない日もある。それでも、店に花の香りが満ちている朝には、ここが自分の夢だった場所なのだと実感する。
「そういや、ラヴィナは今日帰ってくるんだっけ?」
「そう言っていたわ。エレナに会えて、きっと喜んでいるでしょうね」
「出発前から落ち着かなかったもんな。向こうで何を食うかばっかり話してた」
「ふふっ、ラヴィナらしいわ」
ミレイが花を整えていると、ロイがふと尋ねた。
「なあ、エレナってどんなやつなんだ?」
「前にも話したじゃない」
「ラヴィナの話じゃ、優しくて、頭がよくて、でも頑固で……結局どんな人なのか分かんねえよ」
ミレイは手を止めた。シャルネで出会った少女の穏やかな笑顔を思い出す。知らないことを恥ずかしがらずに尋ね、誰かが困っていると、まず相手の話を聞こうとする人だった。
「そうね……ルミナンスの花みたいな人、かしら」
「ルミナンス?」
ロイは眉を寄せた。
「そんな花、見たことねえぞ」
「私も見たことないわ」
「……おい。それじゃ分かんねえだろ」
「でも、知っているでしょう? 日の当たりにくい場所でも育つ、とても珍しい精霊花なの」
「名前は聞いたことあるけどさ」
「暗いところでも、綺麗な花を咲かせるんですって」
ミレイは棚に並ぶ花へ目を向けた。
「ここにある花も、みんな綺麗よ。でも、明るい場所で咲く花だけが綺麗なわけじゃないでしょう。エレナと話していると、そう思うの」
「へえ……」
「つらいことがあっても、誰かを思いやる気持ちをなくさない人なの」
ロイは見たことのない花と、会ったことのない少女を頭の中で並べてみた。どちらも姿がはっきりしない。それでも、ミレイがその名を口にしたときの表情には、からかう余地がなかった。
「そんなにいいやつなら、会ってみたいな」
「会えば分かると思うわ」
「そのときはルミナンスに似てるか教えてやるよ」
「二人とも実物を見たことがないのに?」
「……それもそうだな」
二人は笑い合い、また仕事へ戻った。通りに人影が増えてきた。ミレイは扉を見て、最後の籠の向きを直した。
◇
「ミレイが花屋を開いたの?」
ヴァレスタの通りで、エレナは思わず足を止めた。
「そう! ルベルでな。ちゃんとした店だぜ」
ラヴィナは自分のことのように胸を張った。
「まあ……! すごい」
「だろ? 忙しい忙しいって言いながら、すげえ楽しそうなんだ」
エレナはシャルネで会ったミレイを思い出した。花を手に取るときの丁寧な指先。花の話をするときの弾んだ声。その夢が、今は店の扉や棚になり、毎日の仕事になっている。
「ロイも手伝ってる」
「ロイ?」
「ああ、俺たちの幼なじみ。今はミレイと一緒に働いてるんだ」
「そうなのね。会ったことはないけれど、一緒に働ける方がいたら頼もしそう」
「どうだかな。花の置き場所を覚えられなくて、しょっちゅう怒られてるらしいぞ」
「ふふっ。最初は覚えることが多いのでしょうね」
「俺なら一回で覚えるけどな」
「ラヴィナはミレイに注意されたこと、ないの?」
「……あるけど」
「やっぱり」
「何で分かるんだよ!」
エレナは声を立てて笑った。
ラヴィナがヴァレスタに滞在するのも今日が最後だった。初めて海を見たときの驚きも、三人で食べた料理も、昨夜のピアノも、まだ近くにある。それでも、明日からは別々の暮らしに戻る。
「ミレイのお店、一度見てみたいわ」
「来いよ。絶対喜ぶぜ」
「どんな花が並んでいるのかしら」
「シャルネで摘んだ花もあるし、ルベルの客に合わせて並べ方も工夫してるんだ」
「そうなのね。きっと綺麗でしょうね」
ラヴィナは頷きながら、通りの先へ視線を走らせた。
その夜のことが、まだ頭から離れない。カイゼルとイリシア。二人はエレナのことを尋ね、答えなければ命を保証しないとまで言った。剣を交えても、その正体は分からなかった。
(あいつら、まだ何か企んでるんじゃねえだろうな)
自分はヴァレスタを離れる。エレナはここに残る。何も起こらないかもしれない。けれど、何もなかったことにはできなかった。
「ラヴィナ?」
「ん?」
「どうかした?」
「いや……なあ、エレナ」
ラヴィナは顔を上げた。
「ミレイの花屋で働いてみないか?」
「えっ?」
「花屋だよ。絶対、向いてると思うんだ」
エレナは驚いてラヴィナを見つめた。
「私が……花屋で?」
「そう。ミレイもいるし、俺もロイも手伝ってる。知らない人ばっかりの場所より、安心できるだろ?」
ラヴィナは言葉を選んだ。安全だと断言できるほど事情は分からない。それでも、事情を知る友人の近くにいれば、何かあったときに力になれる。
「それに、エレナは人と話すの得意じゃん。花を買いに来た人の話も、ちゃんと聞いてやれそうだし」
「……楽しそうね」
エレナはゆっくり答えた。花屋で働く自分など、今まで想像したことがなかった。けれど、ミレイの店で花を選び、客に手渡す姿を思い描くと、胸の奥が少し明るくなった。
「でも、今のお店も好きなのよ」
「知ってる」
「店主さんには、たくさん教えていただいたわ。最初は何もできなくて、何度もご迷惑をかけたの」
「今はちゃんと働けてるだろ?」
「少しずつね。でも、まだ失敗することもあるわ」
「じゃあ、花屋でも最初は失敗するかもな」
「もう。そこは励ましてくれないの?」
「だって本当だろ?」
二人は顔を見合わせて笑った。
食事処で初めて働いた日のことを、エレナは忘れていない。料理を運ぶ順番を間違え、客を待たせ、店主に注意された。丁寧にすればよいと思っていたが、忙しい客に必要なのは速さでもあった。
その後も失敗は続いた。それでも店主は、次にどうすればよいかを教えてくれた。少しずつ常連客の顔と好みを覚え、空いた手で何ができるか考えられるようになった。
あの店で働かなければ、知らないままだったことがたくさんある。
「だから、すぐには決められないわ」
「分かってるって。無理にとは言わねえよ」
ラヴィナはそう言って、にっと笑った。
「でも、来たら絶対楽しいぜ」
「ふふっ。それはよく伝わってくるわ」
◇
「ただ、一つ気になることがあるの」
「何だ?」
「ルベルは、ここから離れているでしょう?」
「ああ」
「私が向こうで働いたら、アランと過ごす時間が少なくなってしまう」
声に出すと、それが自分にとってどれほど大切なことか、改めて分かった。
王城を離れ、ヴァレスタで二人の暮らしを始めた。朝はそれぞれ仕事に出て、夕方には同じ部屋へ帰る。疲れていても、今日あったことを話せる相手がいる。アランの顔を見ると、それだけで肩の力が抜ける日もあった。
「そんなに心配しなくていいって」
ラヴィナはあっさり答えた。
「ヴァレスタとルベルには定期の馬車があるんだ。朝こっちを出れば昼前には着くし、午後の便で帰れば夕方には戻れる」
「毎日、帰ってこられるの?」
「そうだよ。向こうに住まなきゃいけないわけじゃねえ」
エレナは少し考えた。昼前に着くのなら、朝から働くミレイたちとは仕事の時間が違う。馬車代もかかる。天候や道の様子で帰りが遅くなることもあるだろう。
それでも、離れた町へ働きに行くことの大変さとを考えた。ただ、アランと別々に暮らすことではないと思ったらどこか安心した。
「そうなのね……」
「俺とロイが朝の花摘みをやるだろ? ミレイが店を開ける準備をして、エレナが着いたら一緒に仕事すりゃいい。簡単だろ」
「簡単かしら?」
「簡単簡単」
「でも、私が着く頃には、もう準備が終わっているかもしれないわ」
「じゃあ、残ってる仕事をやればいいじゃん」
「それに、ミレイにまだ何も聞いていないのでしょう?」
「大丈夫」
「ラヴィナ」
「絶対喜ぶって!」
自信満々の返事に、エレナはとうとう吹き出した。
「もう。ミレイの店なのに、ラヴィナが全部決めてしまうのね」
「だって、いい考えだろ?」
「ええ。とても素敵な考えだと思うわ。でも、ミレイにも都合があるでしょう?」
「そりゃそうだけどさ」
「私にも、今のお店のことがあるもの」
「分かってる。ちゃんと話してから決めればいい」
ラヴィナは少し照れくさそうに鼻をこすった。
「……エレナが来たら、ミレイも嬉しいだろうなって思っただけだよ」
エレナはその横顔を見つめた。いつも思いついたことをすぐ口にする友人だが、その言葉の奥には、自分を気にかける気持ちがある。
「ありがとう、ラヴィナ」
「また礼かよ」
「だって、嬉しいんですもの」
「……そっか」
ラヴィナは少しだけ顔を背けた。
エレナは、花屋で自分にできる仕事を考えてみた。注文を聞くこと、花を包む手伝い、帳面に数を書き留めること。王城で習った読み書きも、食事処で覚えた接客も、少しは役立つかもしれない。
けれど、花の名前も、手入れの仕方も、知らないことばかりだ。売れ残った花をどう扱うか、何をどれだけ仕入れるか。きっとミレイには、自分が想像もしていない苦労がある。
(また、一から覚えることになるのね)
そう考えると、少し怖い。それでも不思議と、嫌だとは思わなかった。
「なあ、エレナ。花は好きか?」
「ええ。好きよ」
「じゃあ、いいじゃん」
「好きなだけでお仕事ができるわけではないでしょう?」
「まあ、そうだけど。嫌いな仕事より、好きな仕事の方が覚えたいって思えるだろ」
エレナは返事をする前に、ラヴィナの顔を見た。
その言葉は、驚くほどまっすぐ胸に届いた。
王城にいた頃、エレナには学ぶべきことがたくさんあった。国の制度、礼儀、歴史、言葉。王女として必要だから学ぶことに疑問を持ったことはない。けれど、今は違う。自分が何をして働くかを、自分で考えられる。
「……そうね」
「だろ?」
「覚えたいと思えることは、とても大切ね」
ラヴィナは得意そうに笑った。
「俺、たまにはいいこと言うだろ」
「たまに、なの?」
「そこは毎回って言えよ!」
二人の笑い声が、通りのざわめきに混じった。
◇
しばらく歩いたところで、エレナは通りの店先に飾られた小さな花へ目を留めた。
色も形も珍しいものではなかった。けれど、行き交う人の足元にあるだけで、道の一角が少し柔らかく見える。
エレナは、アランと初めて部屋を借りた日のことを思い出した。
家具もほとんどなく、必要なものを数えるだけで手いっぱいだった。食卓が欲しい、暮らしに使うものを少しずつ揃えたい。そんな話をしていたとき、いつか花を飾れたら、とも思った。
あの頃は、花を買う余裕ができる日を遠く感じていた。
(今度は、私が誰かに花を届ける側になるのかもしれない)
胸の中で、その考えがゆっくり広がった。
王城にいた頃、花はいつの間にか飾られていた。季節が変われば、部屋の景色も変わる。綺麗だと思うことはあっても、誰が摘み、運び、傷まないように世話をしたのか、考えることは少なかった。
花屋で働けば、その一つひとつを知ることになる。
花を買う人が、どんな気持ちで選ぶのかも。
「何見てんだ?」
「お花よ」
「見りゃ分かるって」
「ふふっ。綺麗だなと思って」
ラヴィナも同じ方を見た。
「ミレイの店なら、もっといっぱい、珍しいものがあるぜ」
「そうでしょうね」
「でも、全部の花を覚えようとしたら大変だろうな。俺もよく間違えるし」
「やっぱり間違えるのね」
「……今のは聞かなかったことにしろ」
「無理よ」
エレナは笑いながら、もう一度花を見た。
花を買って帰る人が、誰かのために選んだ一輪かもしれない。部屋に飾って、一日の疲れを少し忘れるためのものかもしれない。花の仕事は、ただ物を売ることではないのだろう。
「ミレイは、きっといろんな人の話を聞いているのね」
「そうだな。あいつ、人の話聞くの好きだし」
「私も、そういうお仕事ができたら嬉しいわ」
口にしたあとで、エレナは少し驚いた。
まだ何も決めていない。それなのに、もう働くことを想像している。
ラヴィナはその変化に気づいたらしく、にっと笑った。
「ほらな。向いてるって言ったろ」
「まだ分からないわ」
「俺はに分かる」
「どうして?」
「エレナは誰かが困ってると放っておけねえだろ。花を選ぶ人が迷ってたら、一緒に考えてやるんじゃねえか?」
エレナはすぐには答えられなかった。
これまで、誰かを助けたいと思っても、思うようにいかないことがあった。善意だけでは足りないと知った。それでも、相手の話を聞くことから始めるのは、自分にもできる。
「……そうね。できることがあれば、そうしたいわね」
「だったら、なおさらだ」
ラヴィナは、まるで話が決まったかのように頷いた。
「だから、まだ決まっていないでしょう?」
「分かってるって!」
◇
別れの時間が近づくと、二人の歩く速さは少しだけ遅くなった。
ヴァレスタで一緒に過ごした日々は楽しかった。海を見て、食べて、笑って、ときには心配もした。いつまでも続くように思えた時間にも、終わりは来る。
「なあ、エレナ」
「なあに?」
「またシャルネに遊びに来いよ。みんなで遊ぼうぜ」
ラヴィナは明るく言った。
「ミレイもいるし、ロイもいるし。それにばあちゃんも喜ぶと思う」
「ええ。ぜひ行きたいわ」
「約束な」
「約束よ」
エレナが微笑むと、ラヴィナは満足そうに頷いた。
「それから、これ」
ラヴィナは持っていた紙を取り出した。何度か折りたたんだ跡があり、広げると道と町の位置が描かれている。
「手書きだけど、ルベルまでの道と、ミレイの店の場所。迷わないようにと思って」
「ラヴィナが描いてくれたの?」
「ああ。細かいところは分かりにくいかもしれないけれど、馬車でルベルまで行けば、あとはこれで分かるはずだ」
エレナは紙を両手で受け取った。丁寧に引かれた線もあれば、少し曲がっている線もある。文字の大きさも揃っていない。それでも、友人が自分のために時間をかけて描いてくれたことは、すぐに分かった。
「ありがとう。大切にするわ」
「そんな大げさなもんじゃねえよ」
「でも、嬉しい」
エレナは地図をそっと折りたたんだ。
「私、まだ行くと決めたわけではないけれど……この地図を見ていると、なんか行ってみたくなる」
「じゃあ、来いよ」
「ふふっ。だから、まだ……」
「分かってる、分かってる!」
ラヴィナは笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ。来るかどうかは、自分で決めろよ。俺が勝手に言い出したことだし」
エレナは友人を見つめた。
「ええ。アランにも相談するわ。今のお店の店主さんにも、きちんとお話ししなければならないもの」
「そうだな」
「ミレイの気持ちも聞かなくちゃ」
「そこは絶対大丈夫だって!」
「もう……」
二人はまた笑った。
ラヴィナが別れ際に手を振る。
「じゃあな、エレナ! 俺もミレイも、いつでも待ってるから!」
「ええ。気をつけて帰ってね!」
人々の行き交う道で、ラヴィナの姿が少しずつ遠ざかっていく。
エレナはすぐには歩き出さなかった。寂しさはある。けれど、以前のように、別れがただ不安を残すものではなくなっていた。
また会える。
その約束が、次の日々を楽しみにさせてくれる。
エレナは手元の地図を見つめた。
(ルベルの花屋……)
まだ見たことのない店。まだ覚えていない花の名前。まだ出会っていない客たち。
何もかもが、これからだった。
◇
帰り道、エレナは何度も折りたたんだ地図に手を触れた。
今の食事処で働き始めたとき、自分がこんなふうに別の仕事を考える日が来るとは思わなかった。あの頃は、一日を無事に終えるだけで精いっぱいだった。注文を聞き違えないこと。皿を落とさないこと。客を待たせないこと。小さな失敗が続くたび、自分には働くことが向いていないのではないかと考えた。
けれど、翌日も店に立った。店主の言葉を聞き、客の様子を見て、昨日できなかったことを一つずつ覚えていった。
その積み重ねがあったから、今は新しい仕事を考えられる。
(もし、ミレイのお店で働けたら……)
花の名前を覚えるところから始まるのだろう。花を傷つけない持ち方も、客に見せる順番も、ミレイに教わることになる。自分よりよく知っている友人から学ぶのは、きっと楽しい。
けれど、楽しいだけでは仕事にならない。
ミレイは自分の夢を叶えたばかりだ。店を続けるために、毎日どれほど考え、働いているのだろう。そこへ自分が加わるなら、ただ友達だからという理由で甘えるわけにはいかない。
給金のこともある。馬車に乗れば運賃がかかる。働く時間が短ければ、今より収入が減るかもしれない。花屋で必要な人数や仕事の量も、まだ何も聞いていない。
エレナは地図を握る手を緩めた。
(ちゃんと考えなくてはいけないわね)
それでも、考えなければならないことが多いからといって、最初から諦めたいとは思わなかった。
以前の自分なら、花屋に勤めるなどという話は、誰かが用意したものを受け入れるかどうかという問題だったかもしれない。今は違う。どこで働くか、誰と働くか、どんな暮らしを続けたいか。自分の意思で選ぶことができる。
その自由には、責任もある。
エレナは王城で学んだことを思い出した。決断には、いつも選ばなかった道が残る。今の仕事を離れれば、店主や常連客と過ごす時間は変わる。ルベルへ通えば、アランと過ごす朝の時間も変わるだろう。
だからこそ、誰にも相談せず決めてはいけない。
そう思う一方で、心の中にはもう、小さな花屋の景色が生まれていた。
ミレイが花を選び、ロイが籠を運び、ラヴィナが勢いよく手伝っては注意される。そこへ自分も加わって、客を迎える。
実際の店がどんな姿をしているかは分からない。けれど、想像の中の四人は楽しそうに笑っていた。
エレナも、つられて微笑んだ。
通りの先には、今日も働く人々がいる。荷物を運ぶ者、店を片づける者、家へ帰る者。自分もその中の一人になったのだと、最近は自然に思えるようになった。
王城を出たばかりの頃は、ただ暮らしていくことさえ難しかった。今は、明日の仕事を考え、その先の仕事まで想像している。
その変化が、少しだけ誇らしかった。
ふと、アランの顔が浮かぶ。
(帰ったら、話してみよう)
花屋のこと。ミレイが夢を叶えたこと。ラヴィナが何もかも決めてしまいそうになったこと。
きっとアランは、まず最後まで話を聞いてくれる。賛成してくれるかどうかは分からない。それでも、自分が何を楽しみにしているのかは、きちんと伝えたい。
エレナは足を速めた。
花を飾る食卓が欲しいと、二人で話したことがあった。今はまだ、何もかも思いどおりに揃った暮らしではない。けれど、もし自分で選んだ花を持って帰れたなら、あの部屋はどんなふうに見えるだろう。
誰かに用意してもらう花ではなく、自分の手で選んだ花。
その一輪を、アランと一緒に眺める日を想像した。
(素敵ね……)
答えを出すには、まだ早い。
けれど、胸の奥で芽生えた期待を、なかったことにはできなかった。
◇
数日後。
ユリウス・クロイツは、届いた書簡を机の上に置いた。
騎馬急使が運んできた報告は、ヴァレスタで調査を続けるカイゼルとイリシアからのものだった。先に届いた情報に続き、今回の書簡には、さらに具体的な観察が記されている。
十六歳前後の少女。王国法への深い理解。左手にある、ルナリウム製の月のブレスレット。そして、王城で教えていた元ピアノ教師クラリッサ・ベルフォールとの再会。
ユリウスは最後の項目をもう一度読んだ。
師が教え子を認める。その場に居合わせた者たちの反応まで記録されている。演奏を聴いただけで本人と断定できるわけではないが、長く教えた教師との自然な再会は、単なる偶然では片づけにくい。
(ヴァレスタか)
書簡を読んでいる間、ユリウスの表情はほとんど変わらなかった。
王国に伝えられたのは、王女の死亡とアランの行方不明。その報告に疑問は抱いていた。だが、疑問と事実は別物だ。人を動かすなら、何を確かめ、何をまだ確かめていないのかを分けなければならない。
カイゼルとイリシアは、観察した事実と自分たちの判断を区別していた。その慎重さを、ユリウスは評価した。
しかし、彼自身の中では、もう答えはほとんど出ていた。
(エレナ王女……生きておられたか)
アルトの報告が誤りだったのか。それとも、まだ別の事情が隠されているのか。書簡はそこまでは教えてくれない。アランが何を考え、なぜ王都へ戻らないのかも、分からないままだ。
ユリウスは指先で紙の端を押さえた。
重要なのは、情報を得た瞬間に誰かへ知らせることではない。
誰に、どこまで、どの順番で伝えるか。その違いが、同じ事実の意味を変える。
王女が生きているという情報は、国王にとっては娘の生死に関わるものだ。王国にとっては継承問題に関わり、貴族たちにとっては今後の判断を変える材料になる。
だが、相手がその事実をどう受け止めるかは、同じではない。
ユリウスは以前の王都会議を思い出した。王妃候補をめぐる議論。レオルドが示した、あまりにも明確な期限。そして、王女の国葬を行わないという方針。
あのときは、国王の判断に何か理由があるのだろうと考えた。それ以上の確証はなかった。
今は、新しい情報が手元にある。
(陛下は、どこまでご存じなのだろう)
問いは浮かんだが、答えはまだない。
ユリウスは書簡を丁寧に揃えた。今すぐ何かを公にする必要はない。かといって、手に入れた情報を無価値なまま置いておくつもりもなかった。
情報は、知っているだけでは力にならない。
誰に渡すか。どこまで渡すか。そして、いつ渡すか。
それを見誤れば、味方になるはずの者を遠ざけることもある。
ユリウスは窓の向こうへ目を向けた。王都では今日も、人々がそれぞれの仕事をしている。王女の生存を知らないまま、昨日と同じ日を過ごしている者がほとんどだろう。
その平穏を変える情報が、今、自分の手元にある。
彼は書簡をしまい、しばらく考え込んだ。
まだ、誰にも何も告げなかった。
◇
ヴァレスタの夕暮れ。
エレナは部屋へ帰る道を歩いていた。手元には、ラヴィナから受け取った地図がある。
花屋で働くと決めたわけではない。ミレイの承諾も、アランとの相談も、今の店主への説明も、これからだ。
それでも、地図の折り目を指でなぞると、まだ見ぬ店の扉が目の前にあるような気がした。
花を選ぶ自分。初めての客に挨拶する自分。慣れない仕事に戸惑い、ミレイに教わりながら少しずつ覚えていく自分。
想像の中では、失敗もするだろう。
けれど、その先には、今日より少しだけ仕事を覚えた明日がある。
(私にも、できるかしら)
エレナは小さく笑った。
答えは、まだ分からない。
分からないことが、今は少し楽しみだった。
遠くで人の声がする。夕食の支度をする家々の間を、穏やかな風が通り抜けた。
エレナは地図を大切にしまい、アランの待つ部屋へ歩き出した。
まだ見ぬ花のことを考えながら。




