第33話 心に届く旋律
朝のヴァレスタには、港からの掛け声が届いていた。
「アラン、今夜もラヴィナと一緒にごはんを食べたいのだけれど」
出勤の支度をしていたアランが振り返る。
「もちろん。せっかく遠くから来たんだ。俺も仕事が終わったら合流するよ」
「ありがとう。どんなお店がいいか、聞いてみるわ」
「高い店を選んだら相談してくれ」
「ふふっ。ラヴィナなら言いそうね」
笑い合ったあと、アランは扉の前で少し真剣な顔になった。
「何があるかわからないから、街では気をつけて」
「ええ。無理はしないわ」
エレナが手を振ると、アランは港へ向かった。
その背中を、通りの向こうからイリシア・フェルゼンが追っていた。前夜の戦闘を忘れたわけではない。だが今日は剣を抜く必要がない。調べるのはアランの日常と勤務先だ。
港では潮の匂いが濃くなり、荷車と作業員が行き交っていた。アランは数人に声をかけられ、自然に応じると荷運びの仕事に加わった。
(ここで働いているのね)
イリシアは距離を保って観察した。彼には仕事があり、街の人々との付き合いもある。ただし、それ以上のことを事実と決めつけてはいけない。
◇
エレナが家を出た頃、少し離れた通りではカイゼル・リューデンが待っていた。
王国法の知識、月のブレスレット、年齢。昨日得た情報はどれもエレナ王女を思わせる。そして昨夜、ラヴィナは彼女の名前一つ明かさなかった。
(正面から尋ねても無駄だ)
カイゼルは尾行を続けた。戦闘は終わったが、調査は終わらない。
「エレナ!」
通りの向こうからラヴィナが駆けてきた。
「おはよう、ラヴィナ」
「今日はどこ行く?」
「街のお店を見て回らない?」
「いいな。まだ知らないものばっかりだし」
二人は並んで歩き出した。ラヴィナは店先の品物を次々に覗き、エレナはそのたびに足を緩める。
やがて一軒の店の前で、ラヴィナが張り紙を指した。
「ピアノ演奏? 今日の夕方からだって。なあ、今夜ここで飯食おうぜ」
「素敵ね。でも、きっと高いと思うの」
「えっ、そうなのか?」
「ピアノそのものがとても高価なの。こういう演奏を聴けるお店も、気軽には入れないと思うわ」
ラヴィナはもう一度張り紙を見た。
「そっか。じゃあやめとく。アランにも無理させたくないしな」
「ごめんなさい」
「エレナが謝ることじゃないだろ。ほかにうまい店を探そうぜ」
笑い直したものの、ラヴィナの視線はまだピアノの文字に残っていた。
少し離れた場所で、カイゼルは立ち止まった。
(ピアノ……)
王城で育った王女は幼い頃から芸術も学ぶ。エレナ王女がピアノを習っていたことも資料にある。弾けるというだけでは証拠にならない。だが、教えた本人に会わせたらどうだろう。
◇
「アランは港で働いていたわ」
合流したイリシアが報告すると、カイゼルは演奏会の張り紙を示した。
「王女ならピアノを弾けるはずだ。確かめたい」
「ピアノを弾ける人はほかにもいるでしょう」
「もちろん。だから教師も呼ぶ。クラリッサ・ベルフォール。王女が十六歳まで教わっていた人物だ」
イリシアは考え込んだ。
「演奏と、教師の反応。二つが一致すれば有力な材料になるわね」
「問題はあの少女だ。昨日のことを忘れるはずがない」
「二人が別々に動く時を待ちましょう。私が注意を引く」
「戦うなよ」
「あなたに言われたくないわね」
イリシアは小さく笑った。
「今度は、戦わずに確かめるのよ」
◇
「……あっ」
ラヴィナが急に立ち止まった。
「どうしたの?」
「パンの匂いだ。焼きたてだぞ」
「朝ごはんを食べたばかりでしょう?」
「朝飯と焼きたてのパンは別なんだよ」
「そういうものなの?」
「そういうもの。ちょっと買ってくる」
ラヴィナは近くのパン屋を指した。
「私も行きましょうか」
「いいよ。すぐ戻るからそこで待ってて」
エレナは、実は演奏会の張り紙が気になっていた。
ピアノの演奏会。その文字を見つめていると、王城で過ごした日々が懐かしく思い出された。
幼い頃からクラリッサ先生に教わり、何度も繰り返した練習。思うように指が動かず、悔しい思いをしたこともあった。
けれど、ピアノを弾く時間は好きだった。
練習した曲を父や王城の人々に聴いてもらうこともあった。演奏を終えると拍手をもらい、嬉しくなって、また新しい曲を覚えようと夢中になったものだ。
(そういえば、もうずいぶん弾いていないわね……)
エレナは小さく微笑んだ。
王城を離れてからは、日々の暮らしや仕事に追われ、ピアノに触れる機会などなかった。
あの頃は当たり前のように身近にあった音色が、今では遠い思い出になっている。
もう一度、あの鍵盤に触れてみたい。
そんな気持ちが胸に浮かんだが、エレナは何も言わず、張り紙を眺めていた。
店の列に近づいたラヴィナは、通りの端に見覚えのある女を見つけた。
「……おまえ」
「昨日はどうも」
イリシアは穏やかに言った。
「何の用だ」
「そんなに怖い顔をしなくてもいいでしょう」
「誰のせいだよ」
ラヴィナは周囲を見た。客も通行人もいる。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
その時、空気の流れがかすかに変わった。イリシアの周囲に風の精霊力の気配が生じる。
「……またやる気か?」
「私は剣を抜いていないわ」
「だから何だ。昨日だってそうだったろ」
ラヴィナは背中に隠し持った白月へ手を伸ばせる位置に腕を置いた。だが抜かない。
「俺に何を聞きたい?」
「今日は何も聞かないわ」
「じゃあ、どけよ」
イリシアは道を空けた。それでも精霊力の気配は消えない。
「あなた、あの女性と仲いいのね?」
「……その話をするな」
「名前も聞いていないでしょう?」
「聞かせるつもりもない」
「分かったわ」
あっさりした返事がかえって不気味だった。
(何だよ、こいつ……)
エレナの待つ方を見たが、人混みで姿ははっきりしない。
「昨日の男はどこだ?」
「知らない」
「まあ、そういう回答だろな」
「私も、知らない。あなたのお友達と同様に!」
イリシアは近づかず、刃も向けない。ただラヴィナを見ている。
「俺は戻る。ついてくんなよ」
「どうぞ」
ラヴィナは警戒したまま後退し、パンを買うと足早にエレナのところへ向かった。
◇
イリシアとラヴィナが接触している間に、カイゼルはエレナに接触していた。
「先日は失礼しました」
エレナが振り向くと、酒の取引で話した青年が立っていた。
「あら。お話はもう済んだのではありませんか?」
「はい。ですが改めてお詫びをしたくて」
「お詫び?もう解決したことですので、私は何も気にしていませんが」
エレナは素直に微笑んだ。相手が不利になったことを喜ぶつもりはない。互いに納得できたなら、それでよかった。
「実は、今夜の演奏会の出演者と知り合いでして」
「演奏会?」
カイゼルは張り紙を指した。
「お詫びに招待券を用意しました。恋人の方とお二人でいかがですか」
差し出された二枚の券を見て、エレナは驚いた。
「まあ……でも、そんなにしていただくわけには」
「どうか受け取ってください。私の気持ちです」
エレナはラヴィナの残念そうな顔を思い出した。
「あの、もう一人、一緒に行きたい友人がいるのです」
「それなら、こちらも」
カイゼルは三枚目を取り出した。
「三人で楽しんでください」
「本当によろしいの?」
「もちろんです」
エレナの顔が明るくなった。
「ありがとうございます。友人もきっと喜びます」
カイゼルは名前も身分も尋ねず、一礼して立ち去った。
ほどなくしてラヴィナが戻ってくる。
「エレナ!」
「お帰りなさい。見て、これ」
「何だ、それ」
「演奏会の招待券。三枚いただいたの」
「……誰に?」
「昨日、お酒のことでお話しした方よ」
ラヴィナの笑顔が消えた。
「あいつか」
昨夜の出来事と、さっきのイリシアの精霊力が頭をよぎる。ラヴィナはエレナに心配をかけたくない気持ちで多くは語らなかった。
「変なやつだから、気をつけろよ」
「でも、昨日のことはもう終わったのよ。今日は親切にしてくださったわ」
「……アランも一緒なんだよな」
「ええ。三人で」
エレナが楽しみにしていることは、見れば分かる。
「じゃあ行く。でも、俺は周りを見てるからな」
「ふふっ。ありがとう」
エレナは微笑みながら、ラヴィナの顔を見つめた。
「なんだか、小さな護衛さんみたいね」
「……は?」
「だって、いつも私のことを気にかけてくれるでしょう? とても頼もしいわ」
思いがけない言葉に、ラヴィナは目をぱちくりさせた。
「べ、別に、そんなんじゃねえよ。ただ、あいつらが何するか分かんねえから……」
「ええ。分かっているわ。本当にありがとう、ラヴィナ」
エレナが嬉しそうに微笑むと、ラヴィナはますます困ったような顔になった。
「……だから、そんな大げさに礼を言うなって」
そう言って顔を背ける。その頬がわずかに赤くなっていることに気づき、エレナは思わず笑みを深めた。
「ふふっ。頼りにしているわね」
「……お、おう。任せとけ」
ラヴィナは照れ隠しのように胸を張ったものの、すぐに視線を逸らした。
その様子がなんとも可愛らしくて、エレナはまた小さく笑った。
けれど、頼もしいと思ったのは本当だった。
自分より小柄な友人が、こうして守ろうとしてくれている。その気持ちが嬉しくて、エレナの胸は温かくなった。
そして、ラヴィナはパンをかじった。焼きたてのはずなのに、さっきほど味がしなかった。
◇
午後、カイゼルとイリシアはクラリッサ・ベルフォールを訪ねた。
「クロイツ家の者です」
カイゼルは声を落とし、ポケットから銀製の紋章指輪を取り出した。普段は人前で身につけない、クロイツ家の幹部の証だった。
クラリッサは指輪を確かめ、二人の顔を見比べる。
「……私に、何のご用でしょう」
「大切なお話があります。ほかの方には聞かせないでください」
イリシアが静かに言った。
「エレナ王女殿下は、生きていらっしゃいます」
クラリッサの指先が止まった。
「……何と、おっしゃいました?」
「王国では亡くなられたと報告されています。しかし、生存している王女殿下を確認しています」
「そんな……本当に?」
教師はすぐに返事ができなかった。もう二度と会えないと思っていた教え子の名前が、生きている人の名前として語られている。
「それは、本当ですか?」
「今夜、先生のピアノ演奏会へお越しになります」
「……エレナが?」
クラリッサは口元を押さえた。喜びが先に込み上げたが、続いて疑問が浮かぶ。
「それなら、なぜ王国は……」
「そこが難しい問題なのです」
イリシアは言葉を慎重に選んだ。
「王国は死亡を公表しています。生存が広まれば、王国の発表と現実が食い違い、国への信頼を損なう恐れがあります。ですから、会場では王女殿下の身分を決して口になさらないでください」
クラリッサは深くうなずいた。
「分かりました。私が軽率に話してよいことではありませんね」
「もう一つお願いします」
カイゼルが続けた。
「私たちがクロイツ家の者であることも、殿下には伏せてください。今夜の招待を私たつが手配したこともです。ご一緒の方々にも、お話しにならないように」
「それは……なぜ?」
「久しぶりの再会を、純粋に楽しんでいただきたいのです。私たちが関わったと知れば、余計な心配をおかけするかもしれません」
クラリッサは二人を見た。銀の指輪は、クロイツ家とのつながりを示している。国家の事情があると言われれば、軽々しく問い詰めるわけにもいかない。
「実は一つ、お願いがあります」
「お願い?私にしてほしいこととは?」
「王女殿下のピアノを聴きたいのです」
カイゼルは穏やかに答えた。
「王城で長く学ばれたと聞いております。今夜、もしご本人が望まれるなら、先生から演奏を勧めていただけませんか」
「……演奏を?」
「はい。純粋に、聴いてみたいのです」
クラリッサは少しだけ笑った。
「そういうことなら、あの子が嫌がらなければ。けれど、私の教え子は、褒めれば何でも弾く子ではありませんよ」
「もちろん、無理強いはいたしません」
カイゼルは頭を下げた。
クラリッサの視線は、もう二人の顔から離れていた。かつて鍵盤の前で一生懸命に指を動かしていた少女が、今夜、本当に目の前に現れる。
(生きていたのね……)
その思いが、胸の奥で何度も繰り返された。
カイゼルとイリシアはそれ以上、調査の話をしなかった。クラリッサが知っているのは、クロイツ家の者が王女の生存を告げ、再会と演奏を望んでいるということだけだった。
◇
夕方、港から戻ったアランは、エレナに三枚の招待券を見せられた。
「……昨日の青年から?」
「ええ。お詫びにと」
「そうか」
アランは券を受け取り、しばらく眺めた。
「気になる?」
「少しな。昨日、揉めたばかりの相手だから」
「でも、問題は解決したでしょう?」
「そうだな。ただ、招待された理由は覚えておこう」
エレナはうなずいた。アランが心配していることも分かる。ラヴィナは横から口を挟んだ。
「俺もそいつらは信用してない。だから今日は俺もいる」
「二人とも心配してくれてありがとう。でも、せっかくの演奏会ですもの。楽しみたいわ」
アランはエレナの表情を見た。
「分かった。三人で行こう。ピアノの演奏会なんか久しぶりだな」
ラヴィナは小さく肩をすくめた。
「何かあったら、すぐ出るからな」
「ええ。それでいいわ」
三人は夕暮れの通りを歩いた。昼の喧騒が少しずつ落ち着き、店々の窓には明かりが灯り始めている。
演奏会の店へ入ると、ラヴィナは思わず足を止めた。
「うわ……」
磨かれたピアノが、店内の一角に置かれていた。食事を楽しむ客たちの声が穏やかに重なり、窓の外の通りとは違う空気が流れている。
「これがピアノか。思ってたよりでかいな」
「鍵盤がたくさんあるでしょう?」
「どれ押しても音が出るのか?」
「ええ。違う高さの音がね」
「じゃあ適当に押したら、ものすごい音になるな」
エレナが笑った。
「そうね。弾き方によっては」
アランは二人のやり取りを聞きながら、周囲を確かめた。入り口、客席、奥へ続く通路。いつもの習慣で視線が動く。それでも、エレナが楽しそうにしているのを見ると、肩の力が少し抜けた。
三人は席につき、夕食を注文した。
「なあ、エレナ。おまえはピアノ、弾いたことあるのか?」
「ええ。小さい頃から習っていたわ」
「えっ!」
ラヴィナは思わず身を乗り出した。
「何で先に言わねえんだよ!」
「聞かれなかったもの」
「そりゃそうだけどさ!」
アランが笑いをこらえる。
「ラヴィナ、エレナは王城でいろいろ学んでいたんだ」
「知ってるよ。法律とか礼儀とか。でもピアノまでとは思わなかった」
「最近は弾いていないから、昔のようにはいかないと思うけれど」
「へえ……聴いてみたいな」
ラヴィナはピアノを見つめた。自分には縁のなかったものが、親しい友人にとっては幼い頃からの習い事だった。その違いが不思議で、少し面白かった。
店内の離れた場所にはカイゼルとイリシアもいた。二人はエレナの席へ近づかなかった。
「三人とも来たわね」
「ああ。あとは教師がどう動くかだ」
カイゼルは視線を短く移した。
ラヴィナも一度、客席を見回した。見覚えのある二人を見つけ、眉を寄せる。
(やっぱりいるじゃねえか)
だが二人は近づいてこない。短剣を抜く様子もない。何を狙っているのか分からないまま、演奏会の時間が近づいていった。
◇
演奏の準備が始まった頃、一人の女性が客席へ目を向けた。
クラリッサ・ベルフォールだった。
彼女の視線が、エレナのところで止まる。
最初は、何かを見間違えたように立ち尽くした。それから、ゆっくり歩き出した。
「……エレナ?」
聞き覚えのある声に、エレナが振り向いた。
「……クラリッサ先生?」
椅子から立ち上がったエレナの顔が、一瞬で明るくなる。
「先生! 本当に先生なの?」
「ええ……ええ、そうよ」
クラリッサは目の前の少女を見つめた。顔立ちも、声も、驚いた時に少し息を飲む癖も、記憶の中の教え子につながっていた。
「よかった……本当によかった」
言葉が途中で途切れる。クラリッサは唇を結び、ようやく笑った。
「先生……」
エレナの声も揺れた。
「もうお会いできないと思っていました」
「私もよ」
二人はしばらく見つめ合った。人目のある場所だということを、クラリッサは忘れなかった。『王女殿下』という言葉は口にしない。
「元気だった?」
「はい。先生もお元気そうで……」
「あなたは、少し大人びたわね」
「先生は変わりません」
「それは褒め言葉として受け取っておくわ」
エレナが笑う。クラリッサも笑った。
ラヴィナは二人を交互に見た。
「知り合いどころじゃなさそうだな」
「王城でピアノを教えてくださった先生なの」
「へえ! すごい偶然だな!」
◇
少し離れた席で、カイゼルとイリシアはその一部始終を見ていた。
二人は言葉を交わさず、クラリッサとエレナの様子を注意深く観察していた。
エレナが立ち上がった瞬間の表情。クラリッサが声を詰まらせ、涙をこらえながら微笑んだ姿。そして、互いに再会を喜ぶ自然なやり取り。
どちらにも、相手を初めて見た者の戸惑いはなかった。
イリシアが、隣のカイゼルにだけ聞こえる声で呟いた。
「……元セレディス家専属ピアノ教師、クラリッサ・ベルフォール。目の前にいるのは、十六歳の少女」
彼女は一度言葉を切り、再び二人へ目を向けた。
「亡くなったと聞かされていた教え子との再会を、あれほど喜んでいる……」
「ああ」
カイゼルは静かに頷いた。
王国法を熟知した十代の少女。左手に着けられたルナリウム製の月のブレスレット。そして今、王家に仕えていた教師との再会。
それぞれが別々の手掛かりだったものが、一つにつながった。
「……間違いないな」
カイゼルの声に、もはや迷いはなかった。
「ええ。私もそう思うわ」
二人は短く視線を交わした。
ラヴィナから聞き出す必要も、本人が自ら名乗る必要はなかった。
長年教え子を見てきた教師が、あれほど自然に再会を喜ぶ。その光景は、二人にとって何より雄弁だった。
イリシアは小さく息をついた。
「そして、となりにいるのが、アランフォルディス。まさか、こんなところで見つかるなんてね」
「……ああ、それも間違いない」
カイゼルは再びエレナへ視線を戻した。
彼女は何も知らず、友人と笑い合っている。
二人はそれ以上言葉を交わさなかった。
今夜の演奏を確かめれば、ユリウスへ届ける報告はさらに確かなものになる。
カイゼルは静かに椅子へ背を預け、これから始まる演奏を待った。
◇
アランはエレナの表情を見守っていた。彼女が王城の記憶を懐かしみながら、こんなふうに心から喜ぶ姿を見るのは久しぶりだった。
クラリッサはピアノへ目を向けた。
「ねえ、エレナ。久しぶりにあなたの演奏を聴かせてもらえないかしら」
「えっ、ここで?」
「ええ。もちろん、嫌なら無理には言わないわ」
エレナは客席を見渡した。知らない人たちがいる。王城では弾き慣れていたピアノも、今は長い間触れていない。
「もう、ずいぶん弾いていませんから……」
「指が忘れているかもしれないわね」
「先生、そんなにすぐ言わなくても」
クラリッサの少し厳しい口調が懐かしくて、エレナは思わず笑ってしまった。
「でも、あなたの音をもう一度聴きたいの」
ラヴィナが身を乗り出した。
「俺も! エレナが弾くところ、見てみたい!」
「ラヴィナまで……」
アランは静かにうなずいた。
「君が弾きたいなら、俺も聴きたい」
エレナは三人の顔を見た。無理に勧められているわけではない。それぞれが、本当に聴きたいと思ってくれている。
「……それなら、少しだけ」
クラリッサの目元が和らいだ。
「ええ。楽しみにしているわ」
◇
ピアノの前に座ると、エレナはしばらく鍵盤を見つめた。
白と黒の鍵盤。手を伸ばせば届く距離にあるのに、ずっと遠い場所のもののようにも思えた。
王城の部屋。窓から差し込む光。何度も同じところを弾き直し、クラリッサに指の運びを注意された時間。
(懐かしい……)
鍵盤へそっと指を置く。冷たく滑らかな感触が、記憶を引き寄せた。
最初の音が、店内に響いた。
ラヴィナは思わず背筋を伸ばした。たった一つの音なのに、いつも聞いている店の物音とはまるで違う。
エレナは静かに演奏を始めた。
はじめは慎重だった。右手が旋律をたどり、左手がそれを支える。指先の感覚を確かめるような音が、少しずつ流れになっていく。
隣の席で話していた客が、声を落とした。食器を置く音が止み、店の奥からもピアノへ視線が集まる。
エレナはそのことにまだ気づかなかった。
思い出していたのは、幼い頃の練習だった。速く弾こうとして音を乱し、クラリッサに「急がなくていいから、最後まで聴きなさい」と注意されたこと。褒められたくて難しいところばかり練習し、簡単な部分をおろそかにして叱られたこと。
(先生、今も覚えていらっしゃるかしら)
音が高くなる。指が鍵盤の上を移動する。
少しずつ、ためらいが消えていった。
ラヴィナは口を開きかけて、閉じた。何か言えば、今聴いている音を邪魔してしまう気がしたからだ。
エレナが弾く姿は、街を歩く時とも、法律について落ち着いて話す時とも違っていた。けれど、どこか同じだった。急がず、音の一つ一つを確かめながら進んでいく。
アランはそんな彼女を見守っていた。王城での時間を自分は知っている。だが、今ここで鍵盤に向かうエレナは、過去に戻ったわけではない。あの頃の教養を、今の彼女自身の意思で奏でている。
クラリッサは客席の近くに立ち、耳を傾けた。
途中、速い音の並びで、わずかに指がもつれた。エレナの眉がほんの少し動く。それでも演奏は止まらない。
(そこよ。落ち着いて)
彼女は声に出さなかった。
終盤、音はゆっくりと静けさへ向かっていった。エレナは最後の響きが消えるまで、指を鍵盤から離さなかった。
やがて手を膝に戻す。
店内は一瞬、静まり返った。
次の瞬間、拍手が起こった。
近くの客が立ち上がり、ほかの客も次々と手をたたく。エレナは驚いて振り返った。見知らぬ人たちが、自分の演奏に笑顔を向けている。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げると、拍手がもう一度大きくなった。
頬が熱くなる。王城で演奏した時とは違う。ここにいる人々は、王女だから聴いてくれたのではない。誰の演奏かも知らずに、ただ音楽を聴いてくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
「エレナ!」
席へ戻るなり、ラヴィナが立ち上がった。
「すっげえ! 何だよ、あれ! あんなに弾けるなら先に言ってくれよ!」
「ふふっ。ありがとう」
「俺、途中から飯のこと忘れてた。音がどんどん変わってさ、どこ見ていいか分かんなくなった」
「ピアノは見なくてもいいのよ。聴いてくれれば」
「そうなのか? でも指がすごかったぞ」
アランも微笑んだ。
「よかったよ、エレナ。久しぶりとは思えなかった」
「ありがとう。最初は手が震えそうだったわ」
「全然そんなふうに見えなかったけどな」
ラヴィナが言うと、背後から声がした。
「最初の部分は、ずいぶん慎重だったわね」
クラリッサだった。
「先生……」
「中盤の速いところ、少し急いだでしょう。指が追いつかなくなっていたわ。それから終わりの音も、もう少し丁寧に扱えたはずよ」
エレナは思わず背筋を伸ばした。
「……はい」
「昔から、難しいところをうまく弾こうとすると急ぐのよね」
「先生、まだ覚えていらっしゃるの?」
「教師が教え子の癖を忘れてどうするの」
ラヴィナは二人を交互に見た。
「ちょっと待って。間違ってたのか?」
「少しだけね」
「どこが? 俺、全然分かんなかったぞ!」
クラリッサは初めて声を立てて笑った。
「それなら、楽しんで聴いてくれたということね」
「いや、そりゃ楽しかったけど……間違いって言われても、俺には全部すごかった」
エレナも笑った。教師の厳しさも、ラヴィナの率直さも、どちらも嬉しかった。
クラリッサは少し表情を改めた。
「でもね、エレナ。とてもよい演奏だったわ」
「……本当ですか?」
「ええ。指の正確さは練習すれば取り戻せる。でも、あなたの音には、昔から人の話を最後まで聴くような優しさがあった。今日はそれが、前よりずっと自然だったわ」
エレナはすぐには答えられなかった。
王城で学んだ音楽は、王女として身につけるべき教養の一つだった。けれど今は、目の前にいる人たちのために弾いた。誰かに認められるためではなく、聴きたいと言ってくれた人のために。
「先生にそう言っていただけるなんて……嬉しいです」
「ただし、次に弾く時は練習してからにしなさい」
「はい」
「えっ、あれでまだ練習が必要なのか?」
ラヴィナの驚いた声に、エレナとクラリッサはまた笑った。
アランは二人の師弟のやり取りを邪魔せず、静かに見守った。警戒すべきことが消えたわけではない。それでも、エレナがこれほど幸せそうに笑っている時間まで、疑いで塗りつぶしたくはなかった。
ラヴィナも、いつしか肩の力を抜いていた。
今夜は誰も刃を向けてこない。誰もエレナの名前を問い詰めない。目の前には食事があり、友人の笑い声がある。
(……何だったんだよ、あいつら)
答えは出ない。それでも、今はエレナの笑顔を見ていたかった。
◇
客席から離れたところで、カイゼルとイリシアは視線を交わした。
「聞いたな」
「ええ」
「演奏だけじゃない。クラリッサの反応も」
イリシアは静かにうなずいた。
王城で長年教えていた教師が、目の前の女性を教え子として認めた。演奏には、教師だけが気づく癖もあった。月のブレスレット、王国法の知識、年齢に、さらに重要な材料が加わった。
「私たちの中では確定だけど、それでも、正式な本人確認でなく事実だけを連絡するのよ」
「分かっている。見たことと、推測は分けて書く。本当の情報はあの方が決める」
カイゼルはもう一度、エレナの席を見た。
クラリッサが何かを言い、ラヴィナが驚いた顔をする。エレナが笑い、アランもその様子を見ている。
彼らにとっては、ただの楽しい夕食なのだろう。
だが、二人がこの夜に得たものは違う。
「行きましょう」
「ああ」
カイゼルとイリシアは、エレナたちへ近づくことなく席を立った。
ラヴィナは店を出ていく人影を一度だけ見た。追いかけるべきか迷ったが、今夜、相手は何もしていない。何を狙っているのか分からないまま、扉が閉じた。
その頃エレナは、クラリッサから昔の練習の話を聞かされていた。
「先生、その話はラヴィナの前では……」
「どうして? とても頑張っていた頃の話でしょう」
「へえ。もっと聞きたい!」
「ラヴィナまで……」
アランの笑い声が重なる。
エレナは困ったように眉を下げたが、やがて自分も笑った。
今夜の再会が誰かに仕組まれたものだとは、少しも思っていなかった。
◇
夜のヴァレスタで、カイゼルは報告書の内容を確かめていた。
左手首の月のブレスレット。王国法、とりわけ貴族身分法への理解。年齢。ピアノ演奏。そして、クラリッサ・ベルフォールが王城時代の教え子として認識したこと。
確認した事実を一つずつ並べる。推測は推測として区別する。自分たちの判断を、確証のように書き換えることはしなかった。
「騎士団は、ここまでつかんでいないでしょうね」
イリシアが言った。
「少なくとも、俺たちが得たこの証言は別系統だ」
カイゼルは報告書を閉じた。
「ユリウス様へ送ろう」
クロイツ家の伝令所から、騎馬急使が夜道へ走り出した。
前夜の第一報とは別の、二度目の知らせだった。
馬蹄の音が、夜の街道の向こうへ遠ざかっていく。
カイゼルとイリシアの中では、あの少女がエレナ王女本人であることに、もはや疑いはなかった。
王国法に精通した十六歳の少女。王族の証である月のブレスレット。そして、かつてのピアノ教師クラリッサ・ベルフォールとの再会。
それらの情報が、一つの答えを導き出していた。
だが、二人はその確信を、報告書に記す事実と混同しなかった。
情報は、扱い方一つで価値を変える。
同じ事実であっても、誰が知り、誰に伝え、どの時点で明かすかによって、人を救うこともあれば、追い詰めることもある。
クロイツ家は、代々その力を武器としてきた。
剣を抜かずとも、人を動かすことはできる。敵の弱みを知り、味方の望みを知り、相手がまだ知らない事実を握る。それだけで、時には幾百の兵を動かすより大きな影響を与えられる。
だからこそ、二人は情報の恐ろしさを誰よりも理解していた。
今回の報告がユリウスの手に渡ったとき、どのような判断が下されるのか。それがさらに誰へ伝わり、何を引き起こすのか。
すべてを見通すことはできない。
ただ、情報を届けるところまでが自分たちの役目だった。
イリシアは馬蹄の音が消えた方角を、しばらく見つめていた。
「……あの子、楽しそうだったわね」
「ああ」
カイゼルは短く答えた。
演奏を終え、友人たちに囲まれて笑っていた少女の姿が思い出される。
彼女は知らない。
懐かしい恩師との再会も、久しぶりに奏でたピアノの音色も、すべてが自分の身元を裏付ける情報になっていたことを。
そして、その情報が今、王都へ向かっていることを。
カイゼルは静かに視線を戻した。
剣を抜く必要など、なかった。
今夜、二人が手に入れたものは、刃よりもはるかに遠くへ届く。
夜の街道には、もう馬蹄の音は聞こえなかった。




